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折々の記 2005 A

【心に浮かぶよしなしごと】

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【 6 】06/20〜

  06 21 喬木村の教育をどうしていくのか
  06 27 一乗谷朝倉氏遺跡・丸岡城訪問

06 20(月) 喬木村の教育をどうしていくのか

「人づくり」とは村会議員の選挙のときによく耳にした言葉であるが、言葉が言葉として抽象化されて理解され、しばらくして考えてみても「人づくり」は何をするのか、ボヤーッとしている。

机上の空論や理論をぶっつけあう、いわゆる議論だけでは意味をなさない。

国がやってくれるなどと考えているのは勿論筋違いである。「喬木村の教育をどうしていくのか」その具体策がもっとも大事な課題なのである。

子供の教育は親が自分でやらなくてはならない。それが本義であった。憲法では教育の権利と義務について次のように定めている。誰が教育するかについては規定はない。


〔教育を受ける権利と受けさせる義務〕
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。


子供の教育は親がになうのが本義であった
   いまで思う私の欠落

いまは、現在の教育環境の中で子供の教育を考えているのだが、もともと今のような制度ができる前までは親が子供の教育の担い手であった。その根幹がどこかへすっ飛んでしまっていた。教育問題を考えていくうえで一番だいじな「親が子を育てる」このことに無感覚になっていたところに、いまの教育問題の端を発している。

教育制度が子供を育てるのではなかった。

子供に手をかけずにおれば、オオカミに育てられたアマラとカマラのように育つのが当然となってしまう。

「親が子を育てる」このことこそ教育の本義であると言わざるを得なかった。

子供に手をかけて教育した例をみると、親が願ったような子供に育てることができた。

そうした具体例で本として残っているものでは、第一に「カール・ヴィッテの教育」

 http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.63.html

であろう。これに続いたのはストーナー夫人である。

ヴィッテの発想が再び具体例として本になって出てきたのが、ジツコ・スセディック(館林実子)の「胎児はみんな天才」

 http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.14.html

である。スセディック夫妻の実践の前までにはハーバード大学の先生方の具体的実践があるのだが、その詳細についてはデータを入手していないが、ヴィッテの流れをくんでいたことには間違いない。

子供に手をかけて教育すれば、障害をもっている子供ですらそれを乗り越えることができることを実証した、グレン・ドーマンの「ドーマンメソッド」

 http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.82.html

の流れである。

私が幼児教育に没入することになった最初の出会いの七田さんにしても、三石由起子さんにしても、世界中の教育の大きな流れになっている「ドーマンメソッド」の手法を取り入れた教育システムでした。

親が子供を育てる世界の大きな二つの流れは、「ヴィッテメソッド」と「ドーマンメソッド」であり、私たちは親としてその内容を熟知していなければならなかったのです。


 子供が大きくなる、子供はどのようにして大きくなるかと言えば、
 そのすべてが真似ることにあるのです。
 見てまね、聞いてまね、読んでまねて大きくなるのです。
 よい教育をしようとするならば、
 大人自身・親自身が、見られてもよい、聞いてもらってもよい、読んでもらってもよい、
 というものを自らすることだったのです。
 ( http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.49.html<日記と随筆5 … はじめに …>)



 「親の愛情とは、わが子のしあわせを願って、何かを、してやることである」

  ( http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.17.html <私製本「0歳教育」の概要 … はじめに>)


今にして己の過ちにきづく。

●教育のなかで大きく欠けているものがあった。
   躾がされずに自己中心の我儘がめだつ

私がそうなんだが、「人のあり方の躾」が親として欠けていた。

人の養育では理屈ではなく「後姿を見て真似る」ことが大事である、という考え方が間違いないと思ってきた。

それには違いないのだが、親からの「家訓」らしいものに気付かなかったし、系統立てたそうしたものはなかった。私もそうした原則を持っていなかった。
子供に対して申し訳ないという思いがこの歳になっていよいよ重く感ずるようになった。

私が子供の頃には家庭でも学校でも儒教的なものがあちあちにあって、それとは知らずに身についたものもあった。

家庭でも学校でも積極的な儒教的倫理教育はなかった。

だが、萩の松下村塾や高遠の進徳館など、藩校や私塾の中には儒教を基にした教育が行なわれてきたし、仏教の中にも人のあり方をもとめ世の中に貢献した人たちが多く輩出されてきた。


  身をけずり 人につくさん すりこぎの その味しれる 人ぞ尊し


故人の教えはいろいろとある。人の智恵は言葉としてもいろいろと残っている。歳を経てより深く情意の大切さをしみじみ感ずるようになる。人にとって倫理はことのほか大切であると思う。

幼いときから積極的な倫理教育をすすめたほうがいい。

新聞紙上生命や金銭にまつわる不祥事は後を絶たない。新聞紙上の情報は結果として噴出したものであり、根底に於いて倫理教育をほったらかしにしてきた結果であると思う。

親がしっかりすべきであった。親が倫理教育の有無による因果を知り、系統的に計画的に人倫に基づいた養育をすべきであった。

近江聖人といっても、年配者以外は知っている人は少ない。話を聞かなければどんな人なのか知る術もない。大塩平八郎といっても、どんな考えで何をした人なのか、話を聞かなければ知る術がない。命をかけて人のためになることをするということは、ただ事では真似はできない。

この小川にしても裃騒動は古文書解読の域にとどまり、筆頭者が死をもってその責をおっていることをみるとき、簡単には真似はできない。

ノート一冊盗んでそれが見つかって問い詰められたときに、盗んだ子供は友達だってマンビキをしているよと応える感覚は、儒教の空気のなかでは考えられないことであった。他人のものを盗むことは、泥棒なのであり、親は恥ずかしくて世間に顔向けできなかった。昔の人のほうが、素敵な道義心をもっていたのである。

世の中の乱れは、人の心根の乱れであり、命をかけて愛していく子供たちに「盗むこと」は受け継いでもらいたくないことである。

窃盗ばかりでなく殺傷についても、価値判断の基準がずれてきてしまっている気がしてならない。よい躾がほったらかしにされた結果だと考えざるを得ない。

●教育行政をどうしたらいいのか。
   文殊の智恵…広く会議を興し万機公論に決すべし

個人として考えていきたいことと並行して、複数社会のあり方をどうしていったらいいのかも考えなくてはならない。

地方分権という過渡期を迎えているから、教育においても村独自の考え方をすすめるいいチャンスがきたと思う。それというのも教育の国家統制は「大きい甕の水と小さい甕の水」(大きい甕の水は濁りにくいし澄みにくく、小さい甕の水は濁りやすいし澄みやすい)の例えのように、一旦間違っている方向に進めると、なおすことが大変だからである。

ギリシャのポリスの例に見るように、アテネのように学芸文化の盛んなポリスがあるかと思うとスパルタのようなポリスになるところもある。勿論二つのポリスの状況の違いによるのだが「甕の水」のように直しやすいといえば直しやすい。

喬木は独自の教育行政を作ったほうがいい。

知情意にまたがる前述のような二つの教育の基本的な考えができたら、教育行政という具体化へ進まなくてはならない。三番目のこの項では、文部省や長野県の動向や指示に頼ることなく、発案するようにしたほうがいい。村立の学校なのだから喬木村としての教育方針を小中学校でもたなくてはならない。

知育・徳育を正面に取り上げ、その達成に向かった特色ある運営を目指したい。

その中心になるバックボーンは「真理を身につける」ことにある。「本当のことを身につける」それが中核であってよい。「本当のことを求める」それは人の生涯においても最大の課題であり、それが人の幸せにも直結していると考えるからである。

今までこのことに関して考えを表記したことは次のようなものであった。

  http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.73.html
 <拝啓・教育委員長殿 (柔軟性をうしなっている教育制度)

  http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.74.html
 <現代の課題<いじめ> (いじめの要因は根深い)

  http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.76.html
 <行政改革によせて (柔軟性をうしなっている教育制度)

教育行政について全方向からの考え方を打ち出すには、再度検討しなければならないと思っています。それというのも、日本中の教育に対するいろいろの取り組みや考え方がインターネット上からも新聞紙上からも提起され続けているからです。

たとえば

 ‘アサヒコム <アサヒコム>教育>(http://www.asahi.com/edu/)

ここを開いただけでも、教育に関するデータは大変に多い。


  asahi.comトップ > 教育

  【教育サイトマップ】
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      IT教育
    A子育て応援エッセー
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    Cわくわくネット大阪発
    DAsahiWeekly
    E大学情報キャンパス・アサヒコム
    F朝日新聞大学入試研究所
    G大学ランキング2006

  わくわくネット大阪発http://www.asahi.com/kansai/wakuwaku/


文部科学省には2003年国際学力調査の結果が資料として公示されています。

  国際学力調査の結果分析
 平成16年度臨時全国都道府県・指定都市教育委員会指導主事会議の資料

学力問題にしてもデータの詳細まで調べていると膨大な量になってしまいます。詳細でなくても問題の実状や近因とか遠因など偏見にとらわれることなく推察しなければなりません。全国の状況にしてもあちこちジャンプしながら、アウトラインは掌握できますから、それらの主張の背景にある意図はこれまた偏見にとらわれることなく推察しなければなりません。

教育行政の項は多岐にわたるけれども、具体策を出しながら順次全体のしくみを作るつもりですすめることが、方便としてはいいと思います。

今日のところは以上までにする。

06 27(月) 一乗谷朝倉氏遺跡・丸岡城訪問

25日26日、北陸の旅に出かけた。丸岡城は去年からの希望があった。朝倉氏遺跡については詳しく調べてあったし、下平守さんから那谷寺と瀧谷寺の推薦もなんなく旅行計画へ取り入れることができた。仏御前の里は地図を見ていて計画の中へ取り入れた。斎藤実盛の実盛塚と首洗池も取り入れた。

天気は上々で体温まで上がったところまであった。今年は空梅雨なのである。

詳しくは「旅の記録」へ“北陸の旅”として載せるのでそれを見ればよい。

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