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折々の記 2005 A

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】04/27〜        【 02 】05/01〜
【 03 】05/08〜        【 04 】05/22〜
【 05 】05/28〜        【 06 】06/20〜
【 07 】06/29〜        【 08 】07/15〜
【 09 】08/03〜        【 10 】08/10〜


【 4 】05/22〜

  05 22 シャクヤク
  05 23 松井石根と南京事件
  05 25 小泉さん、馬鹿じゃなかろか!
  05 26 クリンソウ<喬木村の花>
  05 27 ロージドリーム;君子蘭◆海軍記念日

05 22(日) シャクヤク

シャクヤクの花が見事になった。鮮やかな紅色だ。

http://www.engeinavi.jp/<エンゲイナビ植物図鑑> で‘シャクヤク’を開くと次のような簡単な解説を見ることができる。


 シャクヤク   学名:Paeonia lactiflora 科名:ボタン科

ボタンと近縁の植物ですが、シャクヤクは草性です。歴史の古い花でもあり、世界各地で育種が行われ、品種は極めてたくさんあります。特に、花形の変化は、ボタンよりも多彩で、一重、八重、半八重などあり、その形は、金しべ咲き、おきな咲き、てまり咲き、冠咲き、バラ咲きなどの分類がされています。花色は紅、桃、紫紅、白、黄などでです。


さらに‘シャクヤク’をクリックすると、学名、特長、管理方法など知ることができる。

先日家内が同級生からミニのシャクヤクを頂いてきた。これもシャクヤクか、と驚いたが、種苗屋さんでみるとこのミニシャクヤクがあった。値段は700円というからこれまた驚きであった。専門に品種改良をしている人たちがいるのである。

立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花…と小さいときから耳にしていた。美人の姿を形容する言葉だとは知っていた。庭先のシャクヤクは植え替えもせず四五十年はたっている。スラリとした姿を連想するとすれば、ミニシャクヤクのほうが言い当てて妙であると思う。

05 23(月) 松井石根と南京事件

この部落の鎮守の杜、韓郷神社の石の鳥居右側に「韓郷神社」の銘を刻んだ高さ4メートル位の立派な石碑が建てられている。銘の左に陸軍大将松井石根謹書としてあり、左側面には二千六百年記念と彫られている。

どういう経緯で松井石根大将がこられたのか、知っている人は少ないと思う。いまでは原秋美さんに聞くしかない。わかったら追記する。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/7154/<松井石根> を検索してみると、概要として次のように記されている。


  松井石根

[1878―1948]
明治・大正・昭和時代の軍人。明治11年7月27日、名古屋に生まれる。1897年(明治30)陸軍士官学校卒業。陸軍大学校在学中、日露戦争に従軍。1906年(明治39)から19年まで参謀本部員、その間中国に駐在すること前後2回8か年に及び、国民党の袁世凱(えんせいがい)打倒に協力した(軍部内の「南方派」の1人)。18年(大正7)大佐、23年少将、27年(昭和2)中将、33年大将に昇進し、35年予備役となる。その間、歩兵第29連隊長、浦塩(ウラジオ)派遣軍参謀、ハルビン特務機関長、第35旅団長、参謀本部第二部長、第11師団長、ジュネーブ一般軍縮会議全権委員、台湾軍司令官、軍参議官を歴任した。37年日中戦争が起こり現役に復帰、8月上海(シャンハイ)派遣軍司令官、10月中支那(しな)方面軍司令官となり、首都南京(ナンキン)を攻略し、翌年3月復員。年来大アジア主義を主張し、晩年は熱海(あたみ)伊豆山に隠棲(いんせい)して、観音堂戒壇を建立し日中両国の犠牲兵を合祀(ごうし)した。敗戦後、極東国際軍事裁判において南京占領時の大残虐事件の責を負い死刑を宣告され、昭和23年12月23日処刑された。
[洞 富雄]

■横山健堂著『松井大将伝』(1938・八紘社) 
■松井七夫著『兄松井石根を語る』(1938・富士書房) 
■田中正明著『“南京虐殺”の虚構(松井大将の日記をめぐって)』(1984・日本教文社)


彼は戦後の東京裁判において、A級戦犯として“南京事件”の責任を負い昭和23(1948)年12月23日、処刑された人である。

「熱海・伊豆山興亜観音」のホーム・ページを見ると、日本側の考えにたった南京事件の貴重なデータとして読み取ることができる。

神社誌ではこのことについては細かくふれていない。

そのために、ここでは個人的な見解になるとは思うが、南京事件を歴史事実として少し立ち入って調べようと思う。

南京事件についてはどういう史料がよいのか。いろいろと見解の相違もあるし、データを拾ってみることにした。

Google で検索してみると、 <南京事件資料集> ある!ある!

検索結果は約1,390,000件とあるではないか。私が寸見でジャンプしたのは始めの20件である。コメントに目を通していくと分かるように、史実を明らかにしようとする立場のページと、否定的な立場のページとがある。

いろいろの意見やデータによると、中国の政治家による世論操作の事実もありそうであり、道義を柱にしていた儒教という日中の共通観念は薄れてしまったのだろうか。

それはそれとして、中身に目を移していこう。

まず最初のページ南京事件資料集の「問題別資料」トップの‘虐殺命令’を開いてみると、ウーン!スゴイ、凄い!


福田治夫(1915年10月生まれ)
  第16師団歩兵第9連隊 第2大隊

 一週間ほどして南京からいくらか離れた南西方向の裕渓口に駐屯しました。聯隊で下がりました。そこは夜でもうっかり寝てることできませんのやで。子どもとか年いったお婆さんまで、抗日排日の教育で手榴弾かくして持って、宿舎に入ってきたのが子どもですやろ、こっちは油断しますわな。寝てる所に放り込まれるのが再々あってね。「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」と聯隊長の命令がでました。二人とか三人とかの百姓を捕まえてきて、「そこらに兵隊はおるかおらんのか」などの尋問して地形を聞いて、後は殺してしまうんです。クリークの縁に連れ出して、そこに座らせました。将校は、めったに刀で首切りなんてできへんのやから、軍刀持ってるさかいに試し切りをするんです。私ら兵隊は突き殺しました。鉄砲の弾できるだけ使うなと言われてました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P173


自分の親や兄弟あるいは自分の子供が殺されたとしたら、ハラワタが煮えくりかえす憤怒で堪えられないのが当然の感情である。殺人である。

戦争という概念は、国際間にあっては殺人を認めた概念であり許してはならないことである。

南京事件は、ムゴイ、忌まわしい過去の事実である。

南京事件の全体像は掌握しようとしてもできないのかもしれない。何人の人たちが虐殺されたのか、その実数は明らかではない。

参考資料は
  『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』松岡環(編著)、社会評論社
              (2002年8月15日初版第1刷発行)

とあるから、証言を直接読むことはできる。

同様に「問題別資料」の‘強姦’を開いてみると、聞くに堪えないことが証言されている。


東京裁判 マギー証言(1) 状況

●サトン検察官 それでは日本軍が、南京を占領しました後に、日本軍の婦人及び子供に対する行為はどんなものでありましたか。

●マギー証人 それは先程申しましたと同じ話であります。即ち殆ど信じれないい程恐るべき状態であったのであります。強姦は到る処に於て行はれ多数の婦人及び子供が殺されたのであります。若し婦人が拒絶するとか或は反抗する場合こは、それは突殺されたのであります。私はさう云ふ写真及び活動写真を撮ったのであります。即ちそれに依りますると、婦人が首の所を切られ、若しくは全身に亙って突刺されて居ったのであります。若し其の婦人の夫が妻を助けようとすれば其の夫も亦殺されたのであります。

『日中戦争史資料8』P91


私たちは人の感情を無視してはいけない。平和ボケした多くの人たちは、過去の事実に対して「そんなことは昔のこと」として現実のこととしては受け止めようとしない、そんな人が多いのだろうか。過去のことは過去の人の責任とは言いきれまい。

だが、人間の煩悩には忌(イ)まわしい、言葉には出すのも忌まわしく穢(ケガ)れた部分を持ち合わせていることを知らなければならない。

忌まわしい穢れた部分は、ある状況とか極限にあるときとかそうしたとき、集団の雰囲気の中で、他人の人格とか生命など微塵も考えないような忌まわしい部分が頭をもたげることがある。

口には出せないような部分を持っていることを誰しも事実として認めなくてはならない。

それだからこそ、私たちは人間をどう理解するのかという最高の課題を絶えず求め続けなくてはならない。そこに、哲学とか宗教とか道義観とか倫理観とか、形而上のだいじなことを求める意味が生じてくる。

05 25(水) 小泉さん、馬鹿じゃなかろか!

今朝、新聞を見ると中国の呉儀副首相が二十三日、小泉純一郎首相との会談を急遽(きゅうきょ)取りやめて帰国したことが報道されていた。パソコンでは<(産経新聞)5月25日2時41分更新>のみ載っていた。

   http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050525-00000000-san-pol

たとえ形式上だとはいえ、戦争の責任者として軍事法廷で裁かれた人を、国のために命を捨てた人たちとして祀る靖国神社に、一緒に祀るというのはそもそもも筋の通らないことであった。

日本の政治家すべてではないのだが、戦争認識の中身を見ると、歴史上の戦争の位置づけとか意味をとらえる認識と戦争そのものの意味をとらえる認識の二通りある。

前者の立場から見ると、戦争の原因(遠因、近因)、経過(起承転結)、結果(結末方法、影響)などの、あったことそのものを検証するという認識方法である。

後者の立場から見ると、戦争そのものの意味を、建造物など遺産の破壊、人間の感情撹乱、「死の商人」のような利益の追求、なによりも生命殺戮と家庭親子の破壊、そうした人間否定の上にたった戦争犯罪だという認識である。

政治家の一部には、死んだ人は誰も同じとして等しく祀る、という論理を打ち出している。それはその通りといえようが、自分の親を殺した殺人者を、自分の親と同じ墓に祀る人はどこにあるというのだろうか。

責任者を靖国神社に合祀すること自体おかしいのであって、アジア諸国の感情からすれば、なしくずしの日本の主張は、理解のしようがないのは当然である。

A級戦犯の処刑後直ぐに靖国神社へ祀り、一国の首相が毎年靖国神社へ参拝したら、アジア諸国の人たちはどんな気持ちになったであろうか。

今だって同じことではないか。

小泉さんの戦争認識は大きなズレがあり、日本の国民感情からは相容れないものである。

馬鹿じゃなかろか。

一個人の認識ではなく、国の宰相としての認識なのに、その主張や様子には子供じみた自己本位の姿としか私には映らない。

くりかえしの言葉になるが“戦争は人の心の中ではじまるものであるから、心の中に平和の砦を築かなければならない”このことが戦争認識の根底になければならない。

05 26(木) クリンソウ<喬木村の花>

きのうはチャレンジデーというので妻に誘われて‘JAアスティたかぎ’へいってマレットゴルフをし、その後九十九谷の「クリンソウ」を観にいってきた。

村のHPをみると次のように出ている。


九十九谷森林公園には、平成8年に村花に指定された九輪草が約2万株植栽されており、毎年5月中旬から6月上旬には赤やピンク・白色の花が一斉に咲き誇ります。 
◆九輪草祭り 開催中 ◆
  期間    5月14日〜5月29日
  時間    午前9時〜午後4時まで
  入園料   無料


見ごたえがあった。年々整備されクリンソウも立派になっている。

九十九谷の「クリンソウ」は誰がはじめたのか宣伝もないし聞いたことがない。それだけに心から感心し感謝する。

よく会合の折に来賓祝辞などで、敬意と感謝をもうしあげます、など言葉を飾った言い方を耳にするが、こんな言葉をやすやす使わないでほしいと常々思っていた。

ところが、九十九谷の「クリンソウ」にはホトホト感心する。

自然そのままに九十九谷に「クリンソウ」が咲き誇っている。ここで敬意と感謝などという言葉が出てくると自然が壊されてしまう。そうした人くささがないだけに、それだからいい。

寄付金などと目立つことなく、心づけを入れる入れ物が手作りでちょこんとおいてあり、しかもお金が入っているのを見ると‘すてきだなぁ’と思わざるを得なかった。

人づてではいけないから一度はきちんと聞いておきたいと思っている。

05 27(金) ロージドリーム<君子蘭>

毎年、正木屋の一也さんから美しい花を一鉢貸し出してくれます。有難いことで感謝しております。

ただ正規の名前がどうなのかはっきりとは分からないのだが、「月下美人」が‘サボテン科クジャクサボテン属’となっているので‘クジャクサボテン属’だろうと思っている。

名札は‘ロージドリーム’と書かれているからいろいろと交配して名前をつけてあるのだろうと思う。それで参考のために次のページを開くと「月下美人」に関係した学名や栽培管理の方法がのっている。

   http://www9.plala.or.jp/mosimosi/green/gekkab.htm

『ロージドリーム』 5月27日撮影












ことに「月下美人の育て方」を見ると、置き場 水やり 植え替え 冬を越えた春の月下美人 肥料 冬の管理方法 シュート さし木 病気や害虫など の項目にわたり親切な手引きをしていてくれます。

観葉植物の水やり 植え替え 冬の管理 挿し木 などについては、ジャンプして詳しい説明がついている。

次の画像は「クンシラン」です。

『君子蘭』 5月27日撮影


 二三年前になるが、これも一也さんから頂いたものだと思う。

 手入れの仕方を知らずにほっぽらかしておいたので、冬のあいだに寒さのため葉っぱがおかしくなったんだろう。

 鉢ものの管理は家内に任せっきりで、というよりも私は何も知らないので、枯れてしまった状態でいた。ところがこの春になって芯から花芽のずいが伸びてきて「花かが咲きそうだ」と驚いた。そして今日シャッターを切ったというわけである。

 花の撮影には背景がいろいろあって花がはっきりしなかったから、キング堂からラシャ紙を210円で買ってきて手製の巻物式のバックを作った。それを使って撮影したものである。「撮っておきたいなぁ」と思ってとったわけではない。


きょうは日本海海戦の日である。

長野図書館で見た洋書にのっていた東郷平八郎のすてきな顔が思い出される。沈着冷静な男の顔であった。顔立ちのすききらいは別にして、眼差し-頬の筋肉の按配-口もと-全体からその人の意思とか心構えがうかがえると思う。八卦師のみたてを昔から「当たるも八卦、当たらぬも八卦」といったのは、でたらめという意味ではなく当を得ていると思う。

午後は神稲の「しゃくやく園」と「あいりす園」へいってきた。

『しゃくやく園の景観』 5月27日撮影

 神稲の「シャクヤク園」は林原にあった。

 喬木の九十九谷のクリンソウ園はボランテア運営のため入園料はただであったが、ここは300園だった。

 150種類もの品種がそろっているのだが、区別はつかない。その中で「ミスアメリカ」という品種は鮮やかな緑の葉に純白の豊かな花が咲いて素敵であった。




「あいりす園」は山田部落にあり、個人で経営していた。家内は私の希望で白い花が咲く「ウインターオリンピクス」と、ややピンクがかった花が咲く「プレシャスモーメント」という苗の鉢を買った。

◆今日は海軍記念日でした。いまでは今日は何の日と聞いても、この答は殆んど出てこないでしょう。昔ものには陸軍記念日とともに日にちを忘れることはない。

参考のために幾つか載せることにした。

●日本海海戦(海軍記念日)  <http://www3.ocn.ne.jp/~gonavy/527special.html>

特別企画
5月27日は海軍記念日です。

 時は明治38年(1905年)。日露戦争が終局に向かっていた5月27日、戦局の打開を目指し旅順港を封鎖されて身動きのとれないロシア大平洋艦隊を救出するために派遣された当時最強と言われたロジェストウェンスキ−提督率いるロシアバルチック艦隊と我が日本海軍が対馬沖の日本海でついに遭遇。
 2日間に亘る壮絶な砲雷撃戦の末、旗艦「三笠」に座乗する東郷平八郎元帥率いる帝国海軍連合艦隊が3隻を残しすべて撃沈。残る3隻もすべて捕獲するという前代未聞の大戦果を挙げました。この結果、ロシア海軍は事実上崩壊し日露戦争は一気に終結に向かったのです。
 日本を含むアジアに対する欧米列強の侵略に歯止めをかけ、また日本の将来に明るい光を与えたこの大勝利を記念して海軍記念日は制定されました。

「名将」東郷平八郎元帥
 この戦闘中わが司令長官東郷元帥は終始敵弾にさらされる露天艦橋上で自ら陣頭指揮を執り、戦闘終了後の甲板にはそこだけ飛沫を受けずに乾いていた元帥の足跡があったとさえ言われています。
 東郷元帥の指揮の下、我が連合艦隊は一糸乱れずに艦隊運動を展開。当時でも世界トップクラスの正確な射撃によって大勝利を得たのです。この海戦によって我が帝国海軍は世界中にその名を轟かせ、東郷元帥は世界最高の名将と呼ばれました。また、この時の有名な作戦行動「東郷ターン」(敵前大回頭)は現在でも世界中の海軍学校で教材として取り上げられています。

有名な「Z」旗
 もうひとつ忘れてならないのが開戦前に旗艦「三笠」に掲げられた「Z」旗です。長期化した日露戦争は両国の国力を蝕み、この決戦に敗れたら敗戦は必至でした。特に日本にとっては独立を失い、植民地化されロシア帝国に隷属せざるを得ない事態も想定されていました。
 そこで決戦を前に東郷元帥は「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ」の訓示と共に旗艦「三笠」のメインマストに信号旗の「Z」旗を掲揚しました。「Z」はアルファベットの最後の文字であり、「後がない、最後の決戦」の意味で使われました。

連合艦隊旗艦「三笠」
 この海戦時の旗艦である戦艦「三笠」は記念艦として現在も神奈川県横須賀に保存されています。太平洋戦争終結後日本に進駐したアメリカ軍は日本のすべての軍艦を接収しましたが、この「三笠」だけは現在も横須賀の地にその姿をとどめています。

 21世紀に入り、出口のない低迷に喘ぐこの日本ですが、「坂の上の雲」を目指した理想に溢れる明治の先人達の数々の苦難と想像を絶する努力をもう一度思い返すひとつの機会としたいものです。

★(ウィキペディア)海軍記念日

海軍記念日(かいぐんきねんび)は、1905年(明治38年)5月27日に行われた日本海海戦を記念して制定された戦前の休日。5月27日。
1945年の敗戦(第二次世界大戦)に伴い廃止された。

日露戦争は、アジアの小国日本が欧州の大国ロシアに勝利を収めた、当時としては稀有な戦争であった。 その中でも、遠路ヨーロッパ・バルト海から回航された強力なバルチック艦隊(ロシア名:第2太平洋艦隊)を迎え撃ち これを撃滅した日本海海戦(ロシア名:ツシマ海戦)は、陸上での奉天会戦の勝利(陸軍記念日)と並んで日本国民が記念すべき日とされ、海軍記念日として祝われた。

★(文部省唱歌)日本海海戦 大正三年六月十八日刊 「尋常小学校唱歌」第六学年用

1 敵艦見えたり近づきたり
  皇国の興廃ただこの一挙
  各員奮励努力せよと
  旗艦のほばしら信号揚る
  みそらは晴るれど風立ちて
  対馬の沖に波高し

2 主力艦隊 前を抑え
  巡洋艦隊 後に迫り
  袋の鼠と囲み撃てば
  見る見る敵艦乱れ散るを
  水雷艇隊 駆逐隊
  逃しはせじと追いて撃つ

3 東天赤らみ夜霧はれて
  旭日かがやく日本海上
  今はや遁るるすべもなくて
  撃たれて沈むも降るもあり
  敵国艦隊 全滅す
  帝国万歳 万万歳

●東郷平八郎 とうごうへいはちろう  1847〜1934(弘化4〜昭和9)薩摩国鍛冶屋町(鹿児島市加治屋町)で,父は薩摩藩士東郷吉左ヱ門と母・益子の四男(五男一女のうち)として生まれる。17歳で薩英戦争に参加。維新戦争では鹿児島藩春日で参戦。阿波沖・宮古沖・箱館湾海戦に参加。明治4年2月イギリス留学,ケンブリッジとポーツマスで語学を習う。同7年商船学校卒業,英船ハンプシャーに乗り込み遠洋航海に参加,日本依頼英軍艦建造の監督のあと,比叡に乗って明治11年5月に帰国。同7月海軍中尉。同19年5月海軍大佐,のち病気療養全快のあと,同23年6月呉鎮守府参謀長。同24年12月巡洋艦浪速艦長となり,ハワイ革命・政変で居留民保護につとめた。同28年2月海軍少将となり常備艦隊司令長官として膨湖島を占領し,その後海軍大学長その他を歴任。同36年10月連合艦隊司令長官に就任を予定して常備艦隊司令長官となった。日露戦争時には,旅順港閉塞作戦,黄海海戦,旅順陥落とともにロシア艦隊撃滅,ついでバルチック艦隊との日本海海戦の勝利は,東郷平八郎をネルソンとともに救国の英雄視させている。戦後海軍軍令部長,同40年9月伯爵,同42年12月軍事参議官。大正2年(1913)4月元帥。同3年4月から10年3年まで東宮御学問所総裁となる。昭和になってもロンドン軍縮条約に強硬に反対するなど,海軍の元老的存在であった。昭和8年頃より喉頭癌におかされ,同9年5月30日没し,同6月5日国葬(日比谷公園)。墓は東京府中市多摩墓地と鹿児島市清水町多賀山公園にある。 〔参考文献〕小笠原長生『東郷元帥詳伝』1926 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E 東郷平八郎<フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse068.html 東郷 平八郎<資料館<写真・記事<Captain Fleet http://www.h7.dion.ne.jp/~speed/tougou_story.htm 東郷平八郎<偉人物語 http://www.ffortune.net/social/people/nihon-mei/togo-heihachiro.htm 東郷平八郎<人物-日本帝国時代<人物<人文・社会 <f-anecs

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