0歳教育関係へ

早教育と天才 1
日本で始めて出版された早期教育の本

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   〔1 はじめに〕
   〔2 早教育は英才をつくる〕
      〔§1  ハーヴァード大学の例〕
      〔§2  過去の例=カール・ヴィッテ〕
      〔§3  その他の早教育の例〕
      〔§4  なぜ早教育は英才か〕
   〔3 カール・ヴィッテの教育〕
      〔§1  カール・ヴィッテの教育〕
      〔§2  ヴィッテの結婚論と教育論〕
      〔§3  能力涵養の基本〕
      〔§4  三歳半ころから読書を教えた〕
      〔§5  全方位の教育〕
      〔§6  教育の底流は見聞を広めること〕
      〔§7  玩具とおもちゃ〕
      〔§8  食べ過ぎは、健康にも頭のためにも害になる〕
      〔§9  勉強の時間と遊びの時間は、厳格に区別していた〕
   〔3 カール・ヴィッテの教育〕
      〔§10  徳・知・健康・の教育〕
      〔§11  厳格な自制心〕
      〔§12  ヴィッテの父の躾け方は、合理的なものだった〕
      〔§13  朱に交われば赤くなる=環境への順応がすべてを規定する〕
      〔§14  善行を勧める〕
      〔§15  善行と単なる知識・その一〕
   〔3 カール・ヴィッテの教育〕
      〔§16  善行と単なる知識・その二〕
      〔§17  知徳体のバランス〕
      〔§18  七歳から十歳〕
      〔§19  十歳から十八歳〕
      〔§20  『カール・ヴィッテの教育』は善行を求めた真心〕

1 はじめに 

 早期教育の全貌をとらえようとすると、まさに思考の林にまよいこむ思いがするけれども、早期教育の実践例ということになると、その道筋はわかりやすく理解しやすくなる。根幹をなすものは一八〇〇年初頭の『カール・ビッテの教育』であり、次は一九〇〇年代になって『カール・ビッテの教育』のを実践に移した人達の実績であった。木村久一氏が『早教育と天才』を出版(大正六年)したのはこれに関連した出版物をみて、まとめたものだったと思われる。七田真氏はこの本を手にして子供の教育にあたったものである。アメリカで実践した人には実子・スセデック氏がある。ビッテの流れとは別に、赤ちゃんのESPをフル活用する方法を発見したドーマン氏があり、その流れは多くの実践者を排出している。音楽面での創設者は鈴木鎮一氏の実践例がある。
 このように見てくると、早期教育は、ビッテ教育の流れとドーマン法の流れの二つに大別することができる。両者の根底的論理の統合的思考体系としては、ピアスとしてもよいだろう。
 この「早教育と天才」の抜粋は、カール・ビッテの実践を簡潔に読み取るために、私たちにとってのよい方法であると思う。ただ、こうした書かれたものは、読む人によって、子供の教育にとって極めて大切な血とも肉ともなるし、読み取る意思のない人にとっては余り意味も価値もないものとして目に映る。ことの真実は活字の中に秘められているのだから、紙背に徹する読取りが、その人にとっての内容の価値を左右することとなる。文字の中で、書いた人と自分をダブらせながら、その思いや考え方を推敲しながら読み進めることが肝要である。本への書き込みがそれをより深くしていく方法である。
 ギリシャに関する内容は、私が付加したものが多い。国によりかかったり、学校によりかかって、環境を云々していても致し方ない。親子の絆も知的な発達も、だれのせいにすることもできない。自分に負わされている大事な責務といえよう。
 カール・ビッテの教育に対する、立ち向かう姿勢をようく読み取るようにして欲しいと願っている。
   1997年 春                    下平好上

   [緒言]… 木村久一氏の言葉 
   金儲けを考える人が読む本ではない。
   母としての生活は、個人的発展をさまたげる、
   と考える人が読む本ではない。

   自分はこれっきりの人間だ、
   せめて子どもを偉い人にしよう、
   人のためになる子を育てたい、
   世のためになる人を育てたい、
   そういう人に読んでほしい。

2 早教育は英才をつくる 

§1 ハーヴァード大学の例

A ウイアム・ジェームス・サイディス

 大正四年、ハーヴァード大学を十五歳で卒業した。
 一歳半から教育された。
 三歳のときは、自国語の読み書きが自由であった。
 六歳で入学し、その日の十二時に迎えに行くと、三年生になっていた。
 七歳で中学に入学しようとしたが年が足りず断られ、自宅で勉強した。高等数学。
 八歳で中学へ入学、先生の助手にされ、退学。自宅勉強。
 十一歳ハーヴァード大学入学。数学の難問題を講演、教授らが驚嘆。
 父サイディス博士の「俗物と天才」引用
  「彼は今年まだ十二歳になりきらない。しかし彼は、大学者も
  往々頭を痛める高等数学と天文学が大得意である。また『イリ
  アス』や『オデュッセイ』は、ギリシャ語の原文で暗記してい
  る。元来、彼は古典語が得意で、エルキルス、ソフォクレス、
  エリウピテス、アリストファネス、ルシアン等の作品を、ほか
  の子どもが『ロビンソン・クルーソー』などを読むような安易
  さと興味をもって読んでいる。また彼は、比較言語学と神話学
  が得意で、論理学、古代史、米国史等にも詳しい。また、わが
  国の政治や憲法にも通じている」

B アドルフ・バール

 十三歳半でハーヴァード大学入学。
 大正四年、ハーヴァード大学を十六歳半で卒業した。
 姉リナは十五歳でラドクリフ女子大学に入学し、大正十四年十八歳で卒業。
 妹ミリアムと弟ルドルフは大正十四年、それぞれ大学に入学した筈。

C ノバート・ウィーナー

 十歳でタフト大学に入学。十四歳で卒業。
 大正四年、ハーヴァード大学院を十八歳で卒業、哲学博士の学位を得た。
 妹コンスタンスは大正十四年十四歳でラドルフ女子大学に入学。
 つぎの妹ペルタも大正十五年にラドルフ女子大学に入学。
 「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば並の人」は間違い。
 「温室栽培のような教育」これも間違い。

§2 過去の例=カール・ヴィッテ

 一八〇〇年七月、ロヒョウ村に生まれた。
 父は田舎牧師だったが、非常に創見に富んだ驚くべき教育論をもった人だった。どんな子でも教育次第で非凡になる、という確信を抱いていた。
 生まれたときは、父は白痴だと信じていた。だが父は失望しなかった。そして着々と自分の計画を実行した。初めのうちは妻までが、「こんな子は教育してもだめです。何にもなりません。徒労です」といって、彼の熱心さに同情しなかった。
 ところがこの遅鈍児は、間もなく近所のものを驚かすにいたった。
 どんな教育かは、後に述べる。
 その結果、八、九歳で、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ラテン語、英語及びギリシャ語の六ヵ国語が自由にできた。また、動物学、植物学、物理学、化学、特に数学が非常にできた。九歳のとき、ライプツィッヒ大学の入学試験に及第し、一八一四年四月、十四才未満で数学上の論文によって哲学博士の学位を授けられた。二年後十八歳で法学博士の学位を授けられ、さらにベルリン大学の法学教授に任命された。 一八八三年八十三歳で永眠するまで講義を続けた。
 『カール・ヴィッテの教育』と題して父は十四歳になるまでの教育を本に書いて公表した。いまから一八〇年位前である。当時の人から殆ど顧みられなかった。今残っているものは極めて少ない。
 ところが面白いことに、この本はハーヴァード大学の図書館に一冊残っていた。アメリカにおける唯一のものだそうで、サイデス君、バーナー君、ウィーナー君の父親は、この貴重品室の『カール・ヴィッテの教育』を読んだのである。

§3 その他の早教育の例

A アテネは天才星の如し

 アテネは、総面積は北海道に及ばず、平野は二割に過ぎない。降雨少なく土地はやせていた。海による商業貿易に頼った。全盛期でも人口五十万、市民はその五分一の十万足らずだったのに、歴史上これほど多くの文化人を輩出した国はない。アテネのほか三、四のポリスを除いて、市民は一万にも満たなかった。
 早教育は、ギリシャ人の習慣であった。スパルタを除いてどのポリスも、ポリスによる義務教育はなかった。

 自然哲学
  ターレス     Thales
           前六世紀始古い神話的宇宙観を打破し,科学を宗
           教支配から開放したキリシャ哲学の父と呼ばれる。
           その後デモクリツスの原子論(Atom)に至って、近
           代原子論の根本概念に到達した。
  ターレス     物質の根源は水であると説いた。
  アナクシマンドロス不可知の元素アペイロント考えた。
  アナクシメネス  空気を元素とし、
  ヘラクレイトス  万物は流転し、火がその根源だと説いた。
  ピタゴラス    Pythagoras,582-492
           地球球体説及び地動説を唱えた最初の人で、数を
           もって宇宙の本体とした。
  エンペドクレス  万物は不変の元素(地水火風)より成るとした。
      デモクリトス   Demokritos,460-370
           万物は等質不変の原子より成ると説いた。

    アテネ時代の哲学(ソフィスト Sophist)
  プロタゴラス   懐疑に堕し、詭弁が横行した。

 ギリシャ哲学
  ソクラテス   Socrates,470-399 道徳的善
  プラトン    Platon, 427-347 理想主義(永久不変の真善美)
             アテネ郊外にAcademy に塾を開いた。
  アリストテレス Aristoteles,384-322 政治学

 ヘレニズム時代の哲学
  エピクロス   エピクロス派   唯物観から死後存在を否定し、
          現世の個人的快楽(肉体的快楽の意味でなく、精
          神的に平等満足を得ること)は最高の善と一致す
          ると考えた。
          この立場はヘレニズム時代の個人主義的風潮を代
          表するものである。
  ゼノン     ストア派     理性により勘定や欲望を殺す
          ことによって初めて完全なる徳を完成し心の幸福
          を得ると考えた。
          この立場はヘレニズム時代の世界主義的風潮を代
          表するものである。

 自然科学             いずれも前三世紀ころ
   ユークリッド  Euclid    幾何学
   アルキメデス  Archimedes  数学、物理学
   アリスタルコス Aristarchus  天文学
   エラトステネス Eratosthenes 地理学

 科学的な歴史の始まり
   ヘロドトス   Herodotus,484-425  ペルシャ戦役を主題とし
           た「歴史」
   ツキディデス  Thukydides,471-401 「ペロポネスス戦史」

 信仰
   オリンポスの十二神  ヘレネス共通の信仰対象となった。
   ホメロス    Homeros   トロイ戦争の物語、叙事詩
   ヘシオドス   Hesiodos  「神譜」「仕事と月日」

 ドラマ
   エスキロス   対話形式で神の意志、国家権力、運命に対立す
           る人間生活を悲劇的に書いた。
   ソフォクレス  第三登場人物をとりいれ対話中心の作品。
   エウリビデス  主題を人間生活の描写におくようになる。「メ
           ディア」
   アリストファネス喜劇、諷刺劇では特異の作家

 建築
   ドーリア式   初期
   イオニア式   中期
   コリント式   ヘレニズム時代

 彫刻        肉体美の描写に重点を置いた。
   フィディアス  最大の作家

 政治家
   クレイステネス Kleisthenes
     BC六世紀末、民主政実現の大改革者
     父 名門アルクメオン家のメガクレス
     母 シキュオン僣主クレイステネスの娘、アガリテス
    ・十部族の制定 編成単位として Demos(区)自治体を制定し
     た。
    ・Phyle(部族)フュレの改革アテネを市部、海岸、内地三群に
     分け、かつ各群を十分割し、三群よりそれぞれ一トリッテュ
     スを抽選し、三トリッテュスで一つのフュレを構成した。つ
     まり十のフュレ構成がアテネ行政単位となった。
    ・Ostrakismos(陶片追放)僣主の再出を防いだ。マラトン二
     年後初めて行われ、制定二十年後のことだった。

B ウイリアム・トムソンも早教育を受けた人である。

 彼の父は、アイルランドの農夫の子で、自分の勉学を反省して、子どもに早教育をした。男の子ジェームズとウィリアムは十二歳と十歳でグラスゴー大学に入学。ジェームズは工学の大家、ウィリアムは大物理学者ケルヴィン郷となった。

C ジョン・スチュアート・ミルも早教育を受けた人である。

Dゲーテも早教育を受けた人である。

 八歳でドイツ語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語の読み書きができた。『ゲッツ』は二十三歳のとき書いたものである。

E ピットも早教育を受けた人である。

 二十三歳で蔵相、二十四歳で首相となった人。

F ウェストベリーも早教育を受けた人である。

 十四歳の時、オクスフォード大学に入学し、優等生になって奨学金を貰っている。

§4 なぜ早教育は英才か

 子どもは可能能力を持っている。
 教育の理想は、子どものかのう能力を十分実現させることである。
 逓減の法則がある。
 生まれたときから、理想的に教育すれば、一〇〇%の能力を備えた人
 になる。
 教育を始めることが遅れれば遅れるほど、子どもの可能能力を実現す
 る割合が少な くなる。これが子どもの可能能力の逓減の法則である。
 発達期(臨界期=バリア)は大切だ。
 動物の能力は、それぞれの発達期をもっている。発達期に発達させな
 ければ、永久 に発達しなくなる。
 例
 鶏の雛の「親鳥に追従する能力」の発達期は、生後四日間くらいで、
 この期間に発 達させなければ、この能力は永久に発達しなくなる。
 鶏の雛の「親鳥の声を聞き分ける能力」の発達期は、生後八日間くら
 いで、この期 間に発達させなければ、この能力は永久に発達しなく
 なる。
 人間の能力も同様である。早教育が英才をつくる所以もここにある。
 「早教育は健康に害がある」というのは間違いである。これは早教育
 に対する昔か らの非難である。

3 カール・ヴィッテの教育 

§1 カール・ヴィッテの教育

 「Karl Witte,oder Erziehungs-und Bildungsgeschichte Desselben」は、1818年に書かれた本である。多分早教育の最古の本である。
 読まれなかった第一の理由
 1000頁以上の大冊で、その大部分はあまり大切とも思われない、面白くない議論である。しかも雑然と書いてある。前にでているウィーナー博士は、大正四年に英語に翻訳したが、その序文には、大切でない部分は省略して、大切な部分だけを訳したとある。その結果三〇〇頁ほどの本になっているが、それでも随分くどいところがある。だから当時の人が、うんざりしたのは当然である。
 (ついでながら英訳は「The Education of Karl Witte」という)
 読まれなかった第二の理由
 その所論が、当時の人の考えと非常に違っていたためである。ヴィッテの父の教育論の中核は、子どもの教育は子どもの知力の曙光と共に始めなければならないということであった。アテネ人の間には、早教育が習慣であった。ところがこの習慣は、いつの間にか消え失せてしまった。そしていつの間にか、子どもの教育は七、八歳ごろから始めるべきものだという説が、これに代わった。この説は今日でも一般に信じられている。当時はもっと深く信じられていた。早教育は子どもの健康に害があるという考えは、今日も一般の人の頭を支配しているが、当時はもっと強く支配していた。そうして彼等は、ヴィッテの才能は生まれつきであって、教育の結果ではないと信じていた。ヴィッテは『カール・ヴィッテの教育』の中で、次のように述べている。
 人々は、倅は生まれつきの英才であって、私の教育の結果でないという。いったい英才の子を与えられるということは、神の特別の恩寵であるから、息子が英才に生まれたのなら、この上なく嬉しいことであるが、実は決してそうでない。
 しかし、多くの人は私の言を信じない。私の多くの親友さえ信じてくれない。私の言を信じてくれた人はただ一人あった。それは故グラウビッツ牧師である。彼は子どものときから私の親友であって、私を最もよく知っていた人であるが、彼だけは、「カールは君のいうように、確かに非凡な稟賦を受けて生まれたのではない。彼がこうなったのは、全く君の教育の結果である。君の教育法を見ると、カールがこうなったのは当然である。そして今後、これ以上に世間を驚かすに違いない。私は君の教育法をよく了解している。君の教育法は大成功に終わるに違いない」といっていた。なお、次のことは私の言を強めるであろうと思う。
 息子が生まれる前、マグデブルグに数人の青年教育者がいた。また、そのころ同市および同市の付近に、やはり数人の牧師がいた。そしてこれらの教育者と牧師は、会を組織して教育の問題を研究していたが、グラウビッツ牧師はその会員であったので、私も彼の紹介によってこの会の会員になった。
 ところがある時この会で、「子どもに大切なのは稟賦であって教育でない。教育者がいかに本気になって教育しても、その結果は知れたものである」というような話が出た。私はかねてこれと正反対の意見を抱いていたので、「いや、子どもに大切なのは稟賦よりも教育である。子どもが英才になるか凡骨になるかは、稟賦の多少よりも、生まれた時から五、六歳までの教育のいかんによる。もちろん子どもの稟賦に差はあるが、この差こそ知れたものである。だから非凡な稟賦を受けて生まれた子どもはもちろん、普通の稟賦を受けて生まれた子どもでも、よくさえ教育すれば、すべて非凡になる。エルヴェシウスは、『十人並の子どもなら、適当にさえ教育すれば、必ず非凡な人になる』といったが、私は固くこの言を信ずる」というふうに論じた。
 すると人々は口をそろえて私に反対した。そこで私は、「みんなは十三、四人もいるし、私はたった一人だけであるから、議論では衆寡敵せずでとうていかなわない。従って、私のとるべき道は、諸君に論より証拠を示すほかない。それで、もし神が私に子どもを与えたもうたなら、そうしてその子どもが、みんなが見て鈍物でなかったなら、私はそれを必ず非凡な人に育て上げてお目にかけましょう。これは私が、ずっと前から決心していることである」といった。彼等は承知したと答えた。
 会が終わってから、シュラーデル牧師が、「私の宅に話にいかないか」と言うから、私はグラウビッツ牧師と共に彼の家に行った。そして引き続いて同じ問題を議論した。しかし、いくら議論しても果てしがなく、私はただ先刻述べたことを繰り返すに過ぎなかった。
 グラウビッツ牧師は、先刻はただ黙っていたが、今度は旗幟鮮明に私に味方して、「私は、ヴィッテ君が、この約束をみごとに果たすだろうと確信する」といった。しかし、シュラーデル牧師は、そんなことはできるものでないと断言した。
 その後間もなく息子が生まれた。グラウビッツ牧師はただちにこれをシュラーデル牧師に通知した。シュラーデル牧師は、またこれを他の会員に通知した。そこで彼等は、「さあ、これからお手並みを拝見しましょう」という調子で息子の生い立ちに注目していた。そうして私やグラウビッツ牧師に逢う度に「どうです、うまくいきそうですか」と聞くのが常であった。これに対して私とグラウビッツ牧師は、いつも「然り」と答えたが、彼等は依然として懐疑的な目で見ていました。
 息子が四歳か五歳になったとき、私は息子をシュラーデル牧師に見せる機会を得た。すると彼は、「おや、これはいい子だ」といって直ちに息子が好きになった。この時彼は、息子が十人並の子どもであることを見届けた。ところがその後、息子の学業が非常な勢いで進んだので、彼はだんだん私の説を信ずるようになった、と書いているが、当時の人はどうしても彼の説を信じなかった。こうして彼の本は世間から葬られたのである。

§2 ヴィッテの結婚論と教育論

 ヴィッテの父についてはあまりよく判らない。ただ彼は一田舎牧師に過ぎなかったが、なかなかの学者で、非常に創見に富んだ驚くべき人であった。それに非常に意志が強く、他人の批評などは眼中におかないで、自分の考えをどしどし実行する人だった。
 自分の子どもをできるだけハンディキャップを少なくしてこの世にだす義務がある。子どもをつくる前に、自分の精神と身体に十分気をつけなくてはならない。
 衣食住を質素にし、よく清水を飲み、しばしば野外の新鮮な空気を吸って、心を平和に保ち、できるだけ感情を激させないで、満足した生活を営なまなければならない。そうすれば、たいてい心身の健全な子どもができる。
 何より先ず、健康で、頭のよい、善良な伴侶を選ばなければならない。
   妻をめとらば 才たけて   眉目麗しく 情ある
   友を選ばば 書を読みて   六分の侠気 四分の熱
 これまでの偉人や天才をみると、いずれもいろいろな欠点をもっている。
 彼等がもっと賢明な教育をうけたなら、もっと偉い、もっと健康な、もっと優しい、もっと寛大な、もっと立派な、もっと賢い、もっと正直な、もっと博識な、もっと謙遜な、もっと忍耐づよい、一言でいえば、もっと完全な偉人や天才になったであろう。

§3 能力涵養の基本

 能力涵養の第一は、言語能力の涵養である。
 目の前のものを、言語でくりかえしくりかえし目と耳を通して涵養する。
 最初は名詞であり、形容詞や動詞その他も含めていく。
 これらは目覚めている全ての生活場面で活用する。
 言語音声と事物名の定着とともに、言語音声と事物名と文字の定着をはかるために「カード法」を用いるとよい。
 発声できなくても、すべて判る。
 引き続いて、お話の世界に進める。
 正しい言葉遣いと、正確な発音で対処する。幼児語は使わない。
 発声できなくても、すべて判る。
 発声できるようになったら、子どもにくりかえさせる。
 子どもは自分と、自分いがいのものの関連がわかりはじめると、喜んでその方向につきすすむ。子どもの驚くほどのエネルギーをわかってやること。
 一つ一つの確かめと励ましのため、褒めてやって、階段を登っていくような区切りをつけてあげる。
 子どもの様子をみて、すこしずつ程度をあげた会話をしてあげることが、能力涵養にとって大切な心得である。
 言語は、あらゆる知識をインプットする道具だから、能力涵養の第一は、言語能力の涵養ということになる。
 第二第三・・・の言語能力の涵養も同時にすすめることがよい。

§4 三歳半ころから読書を教えた

 西洋の文字は、僅か二十六文字だからわけがないが、漢字、平仮名、片仮名まじりの日本言語の習得にはちがう手立てがいる。この方法には三石由起子の方法がよいと思う。
 「強いて教えるな」というのが、ヴィッテの大方針であった。
 だから、まず子どもが興味をもつように仕向ける。そして子どもが興味をもってから、初めて教える。
 ヴィッテの外国語の教え方……外国語は覚えるより慣れよ、という主義をとった。母国語で文法を教える親はひとりもいないと同様である。
 子どもは同じ話を何回聞いても飽きないものである。
 この秘密を心得て、外国語を教えるとき、同じ話をいろいろな国語で読ませた。例えばイソップの寓話を、ドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語でも読ませるという方法をとった。そしてこの方法は非常に効果があった。

§5 全方位の教育

 決して机にすわっているばかりの生活ではなく、どんな少年よりも机にむかうことは少なかった。彼は余裕綽々として盛んに遊び盛んに運動し、極めて健康快活な少年であった。
 外国語のほかに、植物学、動物学、物理学、数学などやすやすと学んだ。
 ヴィッテが三、四歳になると、父は毎日彼を連れて、かならず一、二時間ずつ散歩した。しかしその散歩は、ただぶらぶら歩くのでなく、絶えずヴィッテと話をしながら歩くのであった。例えば野花を摘んでそれを解剖し、これは何それは何というふうに説明して聞かせる。あるいは小虫を捕らえて、それに関していろいろな知識を与える。このようにして石ころ一つ、草一本といえども話の材料になるのであった。教え方は詰め込み主義ではなく、ヴィッテに興味を起こさせ、それに応じて教えていった。
 父の教育の秘訣は、子どもに興味と疑問をおこさせ、それに答えることだった。子どもがいろいろ尋ねたときには、わかる言葉でよく説明した。自分で知らない時には、「これはお父さんも知らない」と正直に答え、二人で書物をみるとか、図書館にいくとかして研究した。このように、正確合理的に知識を求める精神を鼓吹し、不合理やいい加減ということを極力排斥した。

§6 教育の底流は見聞を広めること

 ヴィッテの父は、教育上大切なことは、学問を詰め込みことよりもその見聞を広めることだ、と考えていた。
 例えば、大きい建物をみれば、あれは何々といって、何々するところだと説明して聞かせる。また古城などをみれば、あれは昔これこれだと、その歴史を話して聞かせた。二歳のときから、買い物でも音楽会でも劇場でもどこにでも連れて行った。暇さえあれば、博物館、美術館、動物園、植物園等はもちろん、工場でも鉱山でも、病院でも養育園でも、あらゆる所を訪問して、彼の見聞を広くした。
 これらの訪問から帰ると、ヴィッテに見たことを詳しく話させた。或いは母に報告させた。だから、ヴィッテは見物中よく注意してものを観察し、父の説明や案内者の説明を、よく注意して聞くのが常であった。
 ヴィッテの父は、ヴィッテの知識欲や究理心を満足させるためには、金や労力を決して惜しまなかった。

§7 玩具とおもちゃ

 ヴィッテの父は、ヴィッテのためにいわゆる玩具はほとんど買わなかった。「子どもは玩具によって何物もおぼえない。子どもに玩具をもたせて放っておくのは誤りである」とは彼の持論であった。
 本を読んだり物を観察する時間を考えれば、暇をつぶす必要はなかった。玩具をもたせて放っておけば、子どもは退屈して不機嫌になり壊したり泣いたりするのがオチである。子どもは一度その玩具が何であるか判ってしまえば、退屈してしまい用はないのである。玩具によってえた投げる癖や破壊の癖は、ときにはその人に一生つきまとうといっている。
 ヴィッテの家の庭には、ヴィッテのために作られた大きい遊び場があった。それは六十糎の深さに砂利を敷いて、周囲にいろいろな草花や樹木を植えたものであった。ヴィッテはここで、花を解剖したり虫を捕らえたりして自然に親しんだ。ヴィッテの父は子どもを自然に親しませることを、最大の教育と考えていた。
 ヴィッテは、おもちゃの台所用具を一式持っていた。子どもはたいてい大人のすることを真似たがるものであり、うまく利用すれば大いに子どもの知識を増すことができると着目し、一式揃えたのである。ヴィッテの母は台所の仕事をしながら、ヴィッテの尋ねることは何でも説明して聞かせた。
 ヴィッテの遊びには、芝居的なものがたくさんあった。ヴィッテの母はこんなことを言っている。
 ある時はカールが母になり、私が子どもになります。そうするとカールは私にいろいろな命令を下します。それを私は、わざとよくやらなかったり全くやらなかったりします。そうしてもしカールが、それに気がつかずにいれば、母の資格を失います。しかし、たいていそれを見つけて、まじめな顔をして私に意見を加えます。そこで私は、今後は気をつけますから、どうぞごめんください、などと言っておいて、また禁じられたことをします。するとカールは、私がカールを叱るとき言うようなことを言って私を叱ります。
 またある時は、カールが先生になり、私が生徒になります。そうして私は、カールがよくやる失敗をわざといたします。するとカールはそれを見つけて私を叱ります。これらの遊びは、カールによくやる失敗を避けさせる効果があります。
 またヴィッテの父は、いわゆる積み木を作ってやった。ヴィッテはそれを使って家を建てたり、教会や塔を建てたり、橋や城を作ったりした。モンテッソーリが言っているように、遊びをとおして彼の五感を発達させることに努めた。
 息子はわずかなおもちゃきりしか持っていないが、どんなに冬が長くても、決して退屈しなかった。彼はそのわずかなおもちゃを使って、常に快活で楽しく暮らしていた。

§8 食べ過ぎは、健康にも頭のためにも害になる

§9 勉強の時間と遊びの時間は、厳格に区別していた

 実は彼の教育には、いわゆる勉強の時間と遊びの時間との区別がなく、遊びや散歩や食事の時間にも、注意してヴィッテの知識を広めることに努めたのである。彼はヴィッテが六歳の時からフランス語を教えた。ここに言う勉強とはこういう課業をいうのである。
 ヴィッテの父はヴィッテの教育のために、非常に多くの時間を取られたろうと考えるかもしれないが、実は決してそうではなかった。彼は毎日、一、二時間だけこのために費やしただけであった。彼はヴィッテを教育して、子どもがもっている能力の発現力が、いかに大きいかをはじめて悟ったと書いている。彼はヴィッテを十七歳か十八歳で大学に入学させて、ほかの生徒にひけをとらないようにしようと思って教育したそうである。それなのに、こんなになったのは、全くの意外であって、これは全くこどもの発現力の偉大なることによる、と言っている。

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