折々の記へ

折々の記 2005 B

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】08/27〜        【 02 】09/10〜
【 03 】09/18〜        【 04 】11/06〜
【 05 】12/01〜        【 06 】02/08〜
【 07 】02/25〜        【 08 】00/00〜


【 05 】12/01〜

  12 01 12月の誕生日
  01 27 五味子はヤマブドウだった
  01 28 叔母の戒名「慶佑積愛
  02 02 困ったことのみ多かりき
  02 03 節分・生の目的
  02 06 …アンテナ…山陰中央新報
  02 07 …イスラム教とは何か…宗教は共生が原理ではないのか

12 01(木) 12月の誕生日

今日より師走。

 下平  優 満10歳誕生日
 尾崎 明美 満50歳誕生日
 下平 好上 満77歳誕生日
 下平 友美 満13歳誕生日
 下平 真介 満48歳誕生日
 下平 真広 没後08年
 斎藤 英雄 没後19年
 佐々木賢明 没後11年

近親者と友人の誕生日と没後記念を自分のカレンダーから拾いあげてみると、8名となっている。

きのう竹花愛子より孫たちへ誕生日のお祝品が送られてきた。毎年のこととはいえ感謝する。

優と友美への爺婆からの誕生祝として先月ピアノを贈った。

私は喜寿となる。


きじゅ【喜寿】」  スーパー大辞林

〔「喜」の字の草体「」が「七十七」と分解できるところから〕 数え年の七七歳。また、その祝い。喜の祝い。喜の字の祝い。

喜寿(きじゅ) 」 故事ことわざ・慣用句辞典

七十七歳の俗称。「喜」の字の草書は「」で「七と十と七」とから成っているからである。「喜の字の祝い」ともいう。


孫たちは寡黙であるが、いい根性をしている。目指す方向をしっかり確かめるようにするとよい。根性には感心する。

01 27(金) 五味子はヤマブドウだった

昨年の12月から干柿の手入れや出荷で頭の中は「干柿」の二文字で休む暇もなかった。

やっと1月半ば頃から「干柿」の文字が薄れた。なかなか大変なことであった。

12月12日に軽井沢の「信州かるいざわ・綾や」さんから‘折々の記 2005A【 01 】04/28’へ載せた“映像:木の芽…五味子”をみての感想メールが送られてきた。 内容は私の理解していたゴミシはヤマブドウではないかという指摘でした。 調べてみると「綾や」さんの指摘通りであることがわかったのである。

  「綾や(村井 綾)」さんの親切なご指摘に頭がさがった。 文面もソフトな温か味のあることばづかいで有難いことであった。

信州かるいざわ・綾や」のホームページをみて

いろいろと詳しく載せられているのに敬服しました。ことにトップページの「チョウセンゴミシとは (朝鮮五味子物語)」をクリックし、データを読みすすめて必要な箇所へジャンプしながらそれらを読み取っていくと“うぅゥーン”と、綾やさんの努力に頭がさがるのだ。

『軽井沢と五味子』のかかわりについてはその必要上とはいえ、三つの文献を探し必要箇所を提示していてくださるのには驚きなのである。森鴎外の伊沢蘭軒をひらいて軽井沢とのかかわりを見つけようとして読みすすめてみると‘その三十一’になって必要箇所に出会うのだが、これも大変なことだったと思う。後になって‘続きはこちらで……’へジャンプしてみると、その必要箇所が引用されさらに細部へジャンプするようなことまで調べられている。

村井綾という方はあれこれ考える探究心の強い方で、ホームページをさょっと覗いて見るとそのことが伺われる。

「白山やまぶどうワイン」

そうときまったら、“ヤマブドウ”を調べないといけなくなった。‘やまぶとう’を索引してみると先ず福井の「山ぶどうワインの白山ワイナリー」が一番詳しいし、親切な解説が載っている。

ちょっと遠いけれどもぶどうの芽吹きの時期から出かけていっていろいろと教えていただこうと思う。五月になってがよいかもしれない。全体が黒く熟すようにするにはどんなことに気を配ればいいのかを先ずはお聞きしたい。

01 28(土) 叔母の戒名「慶佑積愛」

昨年の暮12月17日、子供の頃から‘あいちゃ’と慕っていた叔母が亡くなった。89歳だった。

この28日は叔母の四十九日法要があり参加した。玉川寺の和尚さんから「慶佑積愛(佑を慶び愛を積んだ人)」という戒名をいただいた。その説明はどうにいっていた。

死ねばその生前の業に従って輪廻転生するという。その説明はつぎの六道に詳しく書かれている。


六道(ろくどう)

 インドの世界観で,すべての衆生が,死ねばその生(しよう)の業(ごう)に従って輪廻転生(りんねてんしよう)するという6種の世界。業によって趣き住む所なのでこれを六趣(ろくしゆ)ともいうが,六道は悪趣ともいって苦の世界である。すなわち天道,人(にん)(間)道,修羅道,畜生道,餓鬼道,地獄道をいい,このうちとくに畜生道,餓鬼道,地獄道を三悪趣(さんなくしゆ)(三悪道)という。天道は天人の世界で人間の世界の人道より楽多く苦の少ない世界であるが,天人にも死苦があり,死に先立って五衰をあらわす。すなわち衣裳垢膩,頭上花萎,身体臭穢,腋下汗出,不楽本座の五相で死に至る。人間の人道(人間道)は生病老死の四苦八苦の世界であり,修羅道は鬼類の世界でつねに闘戦をくりかえしてやむことがない。畜生道は虫から蛇や竜,鳥獣にいたるまで弱肉強食をくりかえし,竜も畜類であることを説く《竜畜経》があり,牛馬も人間に使役される苦があるという。餓鬼道地獄道の苦に至っては,その様相が平安時代の絵巻物である《餓鬼草紙》《地獄草紙》に活写されている。《正法念処経》には餓鬼に三十六鬼,地獄に八大地獄十六別所合わせて百三十六地獄があることを説いており,源信の《往生要集》もこれを受けて六道の苦を説いた。平安時代には多数の六道絵が描かれたことが文献に見えているが,《餓鬼草紙》《地獄草紙》はその一部が残ったのだろうという説もある。六道の苦を脱するのが仏教の解脱(げだつ)で,その上に声聞,縁覚,菩醍,仏の四聖を加えて十界とする説も広くおこなわれた。したがって六道絵は十界図の一部であることが多い。

 六道絵と十界図は仏教の因果を説く唱導にもちいられたが,六道も十界も一心より出たものだという唯心説を説く唱導もり,一心十界図が描かれた。中央に大きく〈心〉の字を置き,そのまわりの円を10区に画して六道と四聖を描いたものである。六道絵でも十界図でももっとも大きなスペースを取るのは地獄図であり,地獄変相図の観を呈する。しかし,日本では死後の世界を六道とするところから,墓地を六道原というところがあり,京都東山の鳥辺野葬場の入口も六道の嶋という。六道原の入口や六道の嶋には地蔵菩醍または六地蔵がまつられているが,これは地蔵を六道能化(のうけ)といって,六道全部の救済者とするからである。また死者の頭陀袋(ずだぶくろ)に入れる六文銭を六道銭といい三途(さんず)の川の渡賃などというのも,すべて死後の世界を六道とするからであり,インドの六道輪廻説や十界説と異なる六道の理解があったことがわかる。 五来 重 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.


畜生道,餓鬼道,地獄道の三悪趣をすくうのが地蔵であってそのことは次の説明に詳しい。


地蔵(じぞう)

菩醍の一つ。サンスクリット名クシティガルバKoitigarbha の訳。六道および五濁悪世を選んで救済活動にあたり,弥勒の出現まで活躍する。〈わが名を唱える人を苦から救う〉という誓願をたて,梵天,夜叉,狼,閻魔などさまざまの姿をとって衆生を導く。《地蔵菩醍本願経》によると,かつて二王がいて,一王は自ら悟ってから衆生を救おうと考え,一王はまず衆生を悟らせてから自らも悟ろうと考えた。前者は一切智成就如来,後者は地蔵菩醍である。

〈地蔵〉の意味は〈大地(クシティkoiti)の子宮(ガルバ garbha)〉であり,大地はたとえ裸でもさまざまのものを生み出す力を秘めているように,〈地蔵〉はいま菩醍であっても仏としての豊かな可能性を秘めていることを象徴している。したがって沙門の姿で表される。中国の偽経《預修十王生七経》では,罪人は死後に十人の王の役所を通過するとされ,日本の偽経《地蔵十王経》ではそのうちの閻羅(閻魔)王が地蔵の化身とされる。 定方 晟

[日本における地蔵信仰] 正倉院写経文書によれば,日本にはすでに奈良時代に《十輪経》など地蔵経典は伝来していた。しかし当時の地蔵造像の例は,阿弥陀,観音,弥勒などに比較して非常に少なく,その傾向は平安時代に入っても9世紀後半まで続く。おそらく現世利益信仰が仏教の主流を占め,来世の六道輪廻の恐怖がそれほど深まっていなかったこの時代には,地獄の救済を特色とする地蔵の信仰は,あまり人々の関心をよばなかったためと思われる。10世紀末の源信の《往生要集》は,《十輪経》の一節を引き,地獄に入って衆生の苦を救う地蔵の徳をたたえており,浄土教の発達にともない地蔵の利益(りやく)は天台宗の僧侶や貴族の間でようやく注目されはじめたのである。しかし当時の天台浄土教では,地蔵は多くの場合,弥陀五尊の造像形式にみられるように,阿弥陀をとり囲む聖衆(しようじゆ)の一員として礼拝されるにとどまり,単独で造像崇拝される専修的信仰はまだ発達していなかった。

平安時代後期,民間にも仏教が広く浸透するにつれて,地蔵信仰は大いに発達した。11世紀の中ごろ三井寺(園城寺)の僧実睿が民間地蔵説話を集成した《地蔵菩醍霊験記》は後に散逸したが,その説話の多くは《今昔物語集》巻十七に再録されており当時の民間地蔵信仰の特色をうかがうことができる。功徳の集積が容易な貴族たちの間では死後の地獄の恐怖がさして切実でなく,地蔵への関心が薄いのに対し,浄土往生の功徳を積むすべのない民衆の間では,〈地獄は必定〉という深刻な地獄観の下で,地獄に入って人々の苦しみを代わり受ける地蔵の信仰が発達し,〈ただ地蔵の名号を念じて,さらに他の所作なし〉といった地蔵専修さえ成立したのであった。鎌倉時代になると,法然,親鸞らの説く他力易行の浄土教が民間にひろまり,阿弥陀専修の立場から地蔵信仰否定の動きもみられた。これに対し,旧仏教側の無住の《沙石集》など阿弥陀にみられぬ地蔵の身近な利益を強調したこともあって,地蔵はむしろ現世利益的な面で民衆に信奉されるようになった。浄土に住まず,人々の間に交わり,大悲をもって罪人の苦を代わり受けるという地蔵の利益は,地蔵が信者の欲する力をもった人間となって現れたり,危難を被りそうになった信者の身代りになってくれるといった,〈身代り地蔵〉の信仰へ発展した。こうして鎌倉時代から室町時代には,地蔵が僧の姿になって信者の看病をしてくれる話とか,信者に代わって田植をしてくれる〈泥付地蔵〉の話などが生まれ,地蔵の治病神・農耕神的性格もみられるようになった。また武士の間では,地蔵が戦場に現れて危急を救う〈矢取地蔵〉や〈縄目地蔵〉の話がもてはやされた。足利尊氏が深く地蔵を尊び,みずから地蔵像を描いて人々に与えたのは有名である。こうした武士の地蔵崇拝は,甲冑をつけ,右手に剣をとり左手に幡をなびかせ,戦に臨めば向かうところ敵なしという,日本独特の〈勝軍(将軍)地蔵〉を生んだ。

一方,14,15世紀ころから,仏教各派は民衆の間に浸透定着しようとして,死者の葬送追善儀礼を十王信仰と結びつけて強調した。日本偽斤の《地蔵十王経》では,地蔵は,亡者を裁断する畏怖すべき閻羅(閻魔)王の本身であるとされ,民衆の素朴な冥界の恐怖を背景に,地獄の鬼から亡者をまもる慈悲の面を代表するものとして信奉された。六道をめぐって衆生を導くという信仰は,嶋々の六地蔵を生み,あるいは地蔵が小僧の姿で現れるという日本古来の通念を基盤に,在来の道祖神などとも習合して,地蔵が地獄の鬼から子どもを救う〈賽の河原〉の信仰も発達した。江戸時代には,延命地蔵,腹帯地蔵,子育地蔵,片目地蔵など無数の身代り地蔵が民衆によって創出されるが,こうした身代り的現世利益とともに,地蔵は来世救済の面も兼ねそなえ,日本人にとってもっとも親しみ深い菩醍として今日にいたっている。⇒地蔵盆  速水 侑

[地蔵のイコノグラフィー] 密教系の地蔵菩醍としては胎蔵界曼荼羅の中に地蔵院(第三重北方)があり,地蔵菩醍を中尊として九尊が並ぶ。この地蔵菩醍は,通形の菩醍形で右手を挙げて日輪を持ち,左手は腰前におき,上に宝幢幡(ほうどうばん)をのせた蓮華を執り,赤蓮台上に結跏趺坐する。しかしこの図像をとる地蔵菩醍は胎蔵界曼荼羅中にのみ描かれ,単独で造像・作画された例は見当たらない。一方,釈梼滅後より弥勒出世までの無仏時代の六道衆生を済度し,また地獄に苦しむ衆生を救出する末法思想や浄土信仰と結びついて広く親しまれた地蔵は,袈裟をつけた声聞形をなすもので,その図像は中国で成立したと考えられる。右手を施無畏印とし,左手に宝珠(盈華形)を執る地蔵は立像・座像とも平安時代に多い。さらに右手に錫杖を執る作例や,左足を垂下させた半跏像などは,平安時代から鎌倉時代にかけての作例が多い。絵画の場合,左手に宝珠を執り,右手の指を捻じて正面向きに立つ知恩院本などのほか,大半は宝珠と錫杖を執る像で立像・半跏像であり,座像は見当たらない。立像の地蔵では来迎雲に乗った作例が多く,しかも正面向きのほか,斜めを向いて来迎する情景を表現したものなどが見いだされる。また半跏像では岩座に座し,背景の自然景や侍者を伴う作例があり,さらに《十王図》と組み合わされたものや,《十王図》中に描き加えられた作例もある。これら《十王図》と組み合わされた地蔵像は,宋・元や高麗の地蔵図と強い結びつきが認められる。なかでも高麗画や敦煌画に見いだされる特異な図像を有する地蔵に,被帽地蔵と称される一群の作品があり,声聞形をなす地蔵が頭巾をかぶる姿で表される。 百橋 明穂 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.



02 02(木) 困ったことのみ多かりき

 姉歯に始まった耐震偽造 堀江の証券取引のカラクリ 憲法改正の動き 官僚の天下りと談合

@姉歯に始まった耐震偽造   「耐震偽造」の検索結果   約 3,100,000 件
A堀江の証券取引のカラクリ   「堀江貴文」の検索結果   約 4,930,000 件
B憲法改正の動き         「憲法改正」の検索結果   約 2,880,000 件
C官僚の天下りと談合      「官僚の天下り」 の検索結果 約   27,200 件
                    「官僚談合」の検索結果   約   78,900 件

上の数字は Google で「〇〇〇〇」の言葉で検索される Web 件数である。この言葉以外で検索すれば、また別の内容も検索できるだろう。情報量は莫大なものになる。すべてを見て自分の意見をまとめるなんていうことは不可能であるとすれば、やっぱり新聞やテレビのニュースを読んだり見たりして判断しなければならない。

憲法改正にかかわっては一人一人の人生観や世界観、平和に対する考え方によって意見が違ってくる。考え方の土台になっている過去の歴史認識のあり方まで掘り下げて見直さなくてはならないだろう。他の三つの課題とは質を異にしている。

02 03(金) 節分・生の目的

今日は節分。「こよみのページ」を開いて、お知らせの欄にある‘節分には豆まき’と‘恵方巻き’をクリックすると、いろいろの事を教えてくれる。

02月01日発行の「ものみの塔」には、‘金銭欲と道徳心‥両立しますか’という副題がついて人の心のあり方を課題にしている。
「般若心経」では‘照見五蘊皆空度一切苦厄’と教えている。

自分の存在は………動き回る粒子が一定期間安定し静止している存在

生きる目的は………喜であり悦であろう。

感謝の根源は………他の生により己の生がなりたつことにある。「絶対矛盾の自己撞着」

02 06(月) …アンテナ…山陰中央新報

山陰中央新報の『論説』の主張に傾聴すべきことが多い。データ保存の為次の二つの記事をのせる。

  『知る権利/閉ざされた社会の怖さ』


ついこの前までは行政の持っている情報の開示、つまり国民の「知る権利」の重要性が言われていた。ところが、最近は「個人情報保護」ばかり声高に叫ばれる。どうも日本人は「情報」を正しく扱うのが苦手なようだ。

 ことし四月、個人情報保護法が完全施行された。結果、いろいろ首をかしげざるを得ないことが起きている。例えば(1)医師の国家試験合格者の名前が公表されず、受験地と受験番号だけの官報告示に(2)警察が病院から事件・事故の被害者の病状や被害程度の情報を得られない(3)小学校のクラス名簿を作らない(4)緊急時避難に備えた要援護者の名簿を作るための基礎情報を市役所が民生委員らに渡さない―などだ。

 これらの事例は、もっともらしい理屈がつくから問題を複雑にしている。しかし、こうした事例が集積された先に見えてくるのは「匿名社会」であり、「閉ざされた社会」である。こうした社会では、その構成員たる国民一人一人を断片化してしまう危険さえある。ここは、もう一度原点に立ち戻って考え直す必要がある。

 自民党は十一月二十二日の立党五十年記念大会で発表した新憲法草案で「国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う」(第二一条の二)との表現で「知る権利」の規定を新設するよう提案した。

 民主党も十月三十一日に発表した憲法提言の中で、「新しい人権」の一つとして「国民の『知る権利』、行政機関などに対する情報アクセス権」の導入をうたっている。

 情報は権力でもある。権力者が情報を独占してきたのが封建制社会だった。「よらしむべし、知らしむべからず」の世界だ。

 これに対し、明治期の自由民権運動はそれを国民の手に取り戻そうとする動きだったが、初めは藩閥政府、後には軍国主義化した政府によって情報が独占された。各種の治安立法による情報弾圧・情報操作により、国民は戦争の現状さえ知らされず、「閉ざされた社会」となってしまった。

 戦後、国民の知る権利が強く求められたのは、こうした戦前型社会への復帰を阻止し、「開かれた社会」を確実にするためだった。自民、民主両党が「知る権利」を憲法上きちんと規定しようとするのは、その延長線上にある。

 しかし最近の情報保護の動きを見ると、国民の切実な要求というより、それに名を借りた「官」主導の情報規制の傾向が見て取れる。

 日本社会には、鎖国時代の記憶が強いからか、「閉ざされた社会」を心地よいとする心情が潜んでいる。それに付け込んで、何でも情報を隠したがる官の論理がまかり通る点が憂慮される。

 巨大な個人情報を蓄積しているのは行政だけでなく、民間企業でも同じだ。その意味では、官民を問わず、個人情報の保護は必要と言わなければならない。個人情報が誤用されれば、大きな害を及ぼしかねない。

 それにもかかわらず、それが第一原理になってしまっては「閉ざされた社会」になりかねないし、社会は委縮する。あくまで「知る権利」を社会の第一原理とし、「個人情報保護」はそれを支える調整原理と位置付けるべきだ。('05/12/04 無断転載禁止)


  『国会議員年金廃止/既得権確保はおかしい』


悪評だった国会議員互助年金(議員年金)の廃止が決まった。

 だが成立した法律では議員OBやベテラン議員の既得権はしっかり確保されており、とても歓迎すべき代物ではない。むしろ廃止後、議員の老後をどうやってサポートするのか、退職金制度の導入を含め、大切な論議が待っている。

 今の国会議員年金制度は、当事者にとって、特権だらけの「おいしい年金」(民主党若手議員)であり、廃止されて当然である。掛け金は月額十万三千円とやや高いものの、在職わずか十年で月額約三十四万円、二十年で約四十一万円の年金が生涯にわたってもらえ、しかも年金額の約七割が国民の税金で賄われている。

 国会議員年金は公的年金ではないから、国民年金や厚生年金、さらには地方議員年金との併給(一部減額あり)も可能だ。

 そもそも今の制度は、年金制度としては既に崩壊していると言ってもいい。二〇〇五年度予算によると、議員OBや遺族ら年金受給者九百七人に対し、掛け金を払っている現役議員は七百二十二人。これでは制度の維持は難しい。

 サラリーマンの場合、厚生年金に四十年間加入していても、本人が受け取ることができる老齢厚生年金は平均約十万円。専業主婦である妻の基礎年金を合算してもせいぜい二十万円余というところだろう。

 国民の怒りを受けて小泉純一郎首相の掛け声で、制度廃止への動きが加速し、予想を超すスピードで〇六年度廃止が決まった。スピードだけは評価できる。ところが、OBやベテラン議員らの激しい巻き返しに遭い、壊滅させるべき特権を復活させたことは、国民の感情を逆なでする結果となった。

 特権の最たるものが、OBに対する手厚すぎる年金の支給水準だ。OBは現行の4―10%しかカットされない。年金と他の所得の合計が七百万円を超えた場合、七百万円を超えた分の二分の一相当の年金がカットされるだけ。

 厳しい財政運営が続く中で、約七割もの税金を使って、高額な年金をOBに仕送りする理由はどこにもない。せめて高額所得者については超過分の全額をカットすべきだった。

 ちなみに在職十年以上のベテラン議員は、年金15%カットと、掛け金納付総額80%相当の退職一時金のどちらかを選ぶことになる。

 OBたちと比べ、在職十年未満の現役議員は、どちらかといえば恵まれない。それでも納めた掛け金総額の80%の退職一時金が支給されるが、将来不安を訴える若手議員は少なくない。

 先進国の中で国会議員年金制度のない国はほとんどない。政治を担ってきた国会議員も老後または退職後の生活保障が必要だからだ。そこで提案だが、在職期間や報酬額に応じて退職金を支給する「国会議員退職金制度」(仮称)を新設してはどうだろうか。「おいしい退職金」にならないよう、必要な費用は一般財源から支出して、国会への報告を義務付け、審議する方法だ。

 与党内には、いまでも厚生年金や共済年金との統合を求める意見もあるが、事実上破たんしている年金制度を復活させても、他の年金加入者に迷惑を掛けるだけだ。('06/02/05 無断転載禁止)



『知る権利/閉ざされた社会の怖さ』 『国会議員年金廃止/既得権確保はおかしい』 … この二つの論説を見ていると、こうした批判に対して政府は国民に納得できる説明ができるのだろうか疑問である。

また 『憲法改正』 によって世界平和の方向へ着実に進むという説明を、政府は国民に対して納得してもらうことができるのだろうかも疑問である。

『東アジア政策』は政府が考えているような方向へ着実に進むと考えているのだろうか。政府の方針を国民は諸手を挙げて賛成すると思っているのだろうかも疑問である。

‘困ったことのみ多かりき’ なのだ。

02 07(火) …イスラム教とは何か…宗教は共生が原理ではないのか

複雑な社会現象をどのように理解したらいいのか。自立をどう理解したらいいのか。この課題は年老いたからこそはっきりさせたい。

個人の存在は絶対矛盾の自己撞着の認識を基にして考えなくてはならない。

複雑な社会現象はAの自己世界の認識とBの自己世界の認識という二つの認識の相違から始まってくる。

この認識の相違によって社会現象の対応の仕方に、いろいろの様相が現われてくる。こう考えて良いとすると、宗教ゆえに生ずる集団の齟齬もABの自己世界の認識の相違から始まっていると理解してよい。

争いの頂点として戦争という現象が二十一世紀になっても絶えることはなく、それどころか泥沼にますますのめりこんでいく予感すらする。

イスラム教をどう理解し、イスラムの信者の世界観をもどう理解していったら良いのかは、急務の課題の一つであるといわざるを得ない。

そこで、今日はインターネットやその他のデータによって手に入るものを拾い出してみたいと思う。

まず‘イスラム教’で検索してみると次のものへジャンプできる。

@イスラム教
  http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/islam.html
     マホメット
      http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/muhammad.html
     シーア派
      http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/shia.html
     イスラムの国家原理
      http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/column/islam_kokkagenri.html
     アラビア
      http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/arabia.html
AイスラムHP
  http://www2s.biglobe.ne.jp/~racket/
     イスラム文化HP
      http://www2s.biglobe.ne.jp/~racket/
     コーランAS版(日本ムスリム情報事務所)
       http://www.isuramu.net/kuruan/index.html
     日本ムスリム情報事務所
       http://www.isuramu.net/index.html
Bイスラム教 Wikipedia
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99
Cイスラム原理主義
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%8E%9F%E7%90%86%E4%B8%BB%E7%BE%A9
Dイスラム教の成立(世界史講義録より)
  http://www.geocities.jp/timeway/kougi-43.html
Eイスラム教の特徴(世界史講義録より)
   http://www.geocities.jp/timeway/kougi-44.html
Fイスラムの道しるべ
   http://www.isuramu.com/
GYahoo!カテゴリ - イスラム教
  http://dir.yahoo.co.jp/society_and_culture/religion/faiths_and_practices/islam/
Hイスラムについて(外務省)
  http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/islam/
Iイスラム教
  http://www002.upp.so-net.ne.jp/mikuroom/islam.html

‘イスラム教’で検索(724,000件)し、そのうち始めの10を拾っただけでもHPの内容は膨大な分量であった。

‘@イスラム教’を見ると、内容は 起源・教義・宗派・社会への影響・歴史 の五つについて概要が記述されており、一応の理解はできるようになっている。 @に挙げてある‘マホメット、シーア派、イスラムの国家原理、アラビア’の四つは更にジャンプして説明をつけてある。

‘AイスラムHP’では‘イスラム文化HP’の基本概念の中の‘なぜイスラームは日本人に理解しにくいか’など参考になる説明がある。 ‘コーランAS版’には114の目次で解説し、具体的な内容を読み取っていくのには重要なデータであるとおもう。たとえば‘4. 婦人 (アン・ニサーア)’を見ると 176 の項目の解説があり、 イスラムの教えそのままのものとして理解することもできる。‘日本ムスリム情報事務所’には十五章にわたる解説がある。

‘なぜイスラームは日本人に理解しにくいか’の一部


さて、イスラームは日本人にとって最も馴染みの薄い宗教であり、イスラームが日本 人にとってわかりにくい宗教である、ということは単に漠然とした印象ではなく、実 は一つのはっきりとした事実であり、また、それには相応な理由と根拠がある、と考 える。

まず第一にイスラームにおいて宗教というものがどのように捉えられているか、一口 にイスラームといううけれども、これは極めて多様で複雑な文化の構造体とも呼ぶべ きものであり、その中には、普通我々が宗教の領域に属するものと考え教義や儀礼や 戒律などがふくまれるばかりでなく、この世における政治、法律、経済に関する事柄、そしてさらには日常生活の端々にいたることまで、すべて包み込まれている。すなわち、イスラームにおいて宗教とは、人間生活のある特定の部分にのみ関わることではなく、文字通りそのすべてを覆うのである。

これまで見てきたイスラームの現実主義的側面は、普通、スンニー派と呼ばれるもののもつ根本的特徴である。このスンニー派によって代表される現実主義的側面に対して、イスラームにはそれと正反対の内面主義的、ないしは理想主義的な側面があり、これはイラン的傾向の強いシーア派の特徴である。こうして、スンニーとシーアの対立はイスラームを大きく二分する。ただし、アッラーは唯一絶対の神であり、ムハンマド(マホメッド)は神の使徒であり、コーランは神の言葉である、といったイスラームの根本信条においては完全に一致するが、その他のほとんどすべての重要な点で、両者は鋭く対立する。



‘Bイスラム教 Wikipedia’には六信五行などの考えが出ており、‘Cイスラム原理主義’とともに Wikipedia だから用語へもジャンプできて都合がいい。

‘Dイスラム教の成立(世界史講義録より)’と‘Eイスラム教の特徴(世界史講義録より)’は“金岡新さん”の高校世界史のノートだというので一般的なわかりやすい記述が出ている。この金岡さんのホームページを見ると94項目にわたるノートが出ており、歴史の読物としても「お気に入り」へ入れておくと何かと便利であろう。

‘GYahoo!カテゴリ - イスラム教’は他との重複があるが取り上げてみた。

続いて‘Hイスラムについて(外務省)’は、〔外務省「イスラム研究会」報告書(平成12年12月)(PDF)〕が対外的な意味合いでは参考になる。

‘Iイスラム教’は「セカンドクラスの添乗員」の ホームページ の自作の添乗資料の一部‘イスラム教’の内容である。わかりやすい解説だから参考になる。

検索でみてきたものは以上のようであるが、Wikipediaのムハンマド(マホメッド)を開いてみると、このページは基本的におさえておくべきデータかも知れない。ウィキペディアの数々のジャンプは驚くべきものがある。

世界大百科事典によりマホメッド(ムハンマド)を調べてみると次のようである。


ムハンマド 570頃〜632

イスラムを説いた預言者。日本ではマホメットと呼ばれる場合が多い。コーランでは彼は,〈神の使 徒 ras仝l All´h〉〈預言者 nab ̄’〉〈警告者 nadh ̄r〉などの語で呼ばれ,アブラハム,モーセ,イエスなど一連の預言者の系列において〈最後の預言者kh´tam al‐nab ̄y ̄n〉と位置づけられている。
 イスラム教徒とその社会にとって,日常生活から国家の政治に至るまで,神の意志が絶対のものと される。その意志は,預言者に下された啓示に示される。預言者以外の人間には,神の意志は直接には伝わらず,また最後の預言者がムハンマドであるから,ムハンマド以後の人間はムハンマドに下された啓示を集成したコーランによって,最も正しく神の意志を知ることになる。また,神の意志を直接に受けた預言者ムハンマドの言行(スンナ)にも,神の意志は示されている。その言行に関する伝承(ハディース)も,神の意志を知る手がかりとなる。スンナ派の神学・法学の体系の中では,このように,ムハンマドはその言行の細部に至るまで重要な人物と位置づけられてはいるが,彼はあくまで〈預言者〉〈警告者〉であり,決して神性を有するとも,信仰・崇拝の対象であるともされてはいない。
 ムハンマドは,アラビア半島の町メッカで生まれ育った。メッカはカーバのある聖地で,毎年アラビアの各地から巡礼者が集まる町であった。カーバはアブラハムが建設したと信じられており,多くの神々の像が祀られていたが,神殿の〈主〉はアッラーであるとされていた。ムハンマドは当時のメッカの住民,クライシュ族のハーシム家に生まれた。クライシュ族はムハンマドの5代前にメッカに定着し,3代前の時代から隊商を組織する国際商人に成長していた。ハーシム家はクライシュ族の名門ではあったが,彼個人は,誕生前に父を失い,幼時に母も失い,孤児として祖父や叔父に育てられた。
 ムハンマドは25歳のころ,富裕な未亡人ハディージャと結婚し,以後,平穏で安定した生活を送った。ある時期から,彼は郊外のヒラー山の洞窟でしばしば瞑想にふけるようになる。そのような瞑想中,突然に彼は異常な経験をする。全身が押しつぶされるような感覚があり,大天使ガブリエルが啓示を〈誦(よ)め〉と命じたと伝えられている。最初の啓示は彼が40歳のころにあった。以後,啓示は彼が死を迎えるまでの二十数年間にわたって断続的にあった。
 預言者と自覚したムハンマドは,人々に警告し始めた。主として若者からなる信徒集団が形成された。しかし,クライシュ族の多くの人々にとっては,父祖以来の宗教を棄てることはできなかった。また,ムハンマドの説教は,カーバを有し,そこに集まる巡礼者を迎えていた宗教都市メッカの基盤を危うくするものと考えられた。ムハンマドはまた富を独占する大商人を批判し,内面的な信仰だけでなく,メッカ社会のあり方そのものを問題にしたのであった。それゆえ,彼と信徒への迫害は急速に厳しくなっていった。
 622年,ムハンマドと70余名の信徒とその家族がメッカを棄て,メディナに移住した。彼は移住から死までの11年余りの期間に,メディナを中心とする教団国家を建設した。移住(ヒジュラ)は国家建設の契機となった重大事という認識が,後にこの年を紀元とするヒジュラ暦を成立させた。
 メディナにはユダヤ教徒とアラブがいた。後者は長い間内戦を繰り返し,その調停者としてムハンマドを招いたのであった。彼が移住した当初,信徒は少数であったが,晩年にはメディナのアラブは,ほぼ全員が信徒になっていた。一方,ユダヤ教徒はムハンマドを預言者とは認めなかった。最初,断食やエルサレムに向かっての礼拝など,ユダヤ教の儀礼をイスラムに取り入れたムハンマドも,ついにユダヤ教徒と対立し,イスラム独自の儀礼を確立していった。
 一方,偶像を崇拝するメッカのクライシュ族の人々とは,バドルの戦,ウフドの戦,ハンダクの戦と3度戦った。戦力的には優位にあったメッカは勝利できず,フダイビヤの和議で両者は和した。しかし,ムハンマドは条約違反をたてに,630年にメッカを征服し,ここをイスラムの聖地とした。
 メッカと戦う一方で,ムハンマドはアラビア半島の諸部族とも接触を広げていった。メッカ征服以前の段階では,諸部族とムハンマドとの関係は,対等な相互の安全保障であったが,メッカ征服後になると,ムハンマドは相手にイスラムの信仰を求め,神と彼の安全保障(ジンマ)を与え,一定率のサダカを徴収した。またキリスト教徒,ユダヤ教徒など啓典の民からはジズヤや他の税を徴収した。
 632年,ムハンマドはメッカに最初の,そして彼としては最後の巡礼を行い,メディナに帰ってまもなく没した。その時,彼の影響力はアラビア半島の全土に及んでいた。ムハンマドは,最初の妻との間に3男4女をもうけたが,子孫を今日まで残したのは末娘ファーティマ1人である。メディナ時代には,アーイシャほか10名を超える妻がいた。⇒イスラム 後藤 晃

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 青字は CD ではジャンプできるようになっている言葉。


世界平和の維持についてはイスラム教への理解なくしてはとても考えられない。そしてそれは誰にも理解できることだ。

言論の自由と宗教の自由、その接点部分が問題になる。思想信条にかかわる形而上の分野だから、始めのほうに書いたようにA・B二つの認識の相違からトラブルは発生しやすいのである。

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