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折々の記 2005 B

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】08/27〜        【 02 】09/10〜
【 03 】09/18〜        【 04 】11/06〜
【 05 】12/01〜        【 06 】02/08〜
【 07 】02/25〜        【 08 】00/00〜


【 03 】09/18〜

  09 18 孫・優の根性●中秋の名月
  10 18 野麦峠訪問・孫へピアノ
  10 21 ヴァイオリンの千住真理子
  10 27 伊豆の旅・ML熟年退会
  10 29 穂高神社
  10 31 小諸:孫の七五三

09 18(日) 孫・優の根性

昨日は小学校の運動会でした。四年生の優は女子のリレー選手に選ばれて走った。その写真がこれである。

いつも使わないでいるカシオの Exilim EX-Z40 は小型なのでそれ持っていった。ピント合わせの準備もできずズームも使わずにシャッターを切った。画像をトリミングしてみると、目が粗い。

これはこれで仕方が無い。二位でバトンタッチして一位になって第四コーナーを回りきるところである。水泳の泳ぎは早いし、走る脚も速い。

運動能力が身についているということはいいことだ。普通ではこんなわけにはいかない。それというのは、小学校二年のときからかスイミングに通っている。ズゥッ〜と続いているのである。これには感心し、脱帽している。その根性を賞賛してあげたい。一位というのにはそれだけの努力が払われている。

爺は感心もし褒めてやりたいのである。

●中秋の名月

今夜は中秋の名月だという。予報では曇るといわれていたが、予想はずれの好天で肌に心地よい冷気を感ずる名月だ。こんな満月はそうそう見られないと思う。

息子夫妻は串団子を一皿買ってきてくれた。季節感を子供たちにそれとなく記憶させたいのであろう。これにも感心した。

写真について
手引きを見て夜間撮影にセットして撮ってみた。三脚へ固定して撮らないと三秒は長かった。
孫の写真もシャッター速度を早くしてピントを合わせておくことが大事だったと反省している。

10 18(火) 野麦峠訪問・孫へピアノ

「折々の記」をしばらく休んでしまった。何となく気がめいっていたのだろうか。

●野麦峠訪問 細かいことは「旅の記録」へ載せている。

今回は、飛騨古川、美女峠、野麦峠の三ヶ所を主として回ってきた。八ッ三(やっさん)という旅館はこの地方の老舗なのだろうが歴史については余り触れたがらない様子であった。私がであったご主人が若年だったからかも知れない。それにしても対応の仕方は改めていただきたい。お爺さんの話なども聞かされてきているはずなのにと、そんな思いが頭の中を駆け巡ったのである。

美女峠の「美女高原ロッジ」足立さんは、八ッ三と違って詳しく話をしてくださった。話に誘われて旧江戸街道へ行ってみた。頂いた“江戸街道研修資料”を見ていると、糸姫たちが休んだのは稜線よりもっと下のほうの“峠の観音”がある場所にちがいないと思う。次回には麓から旧江戸街道を歩いてみようと思う。

峠の資料館「野麦峠の館」の受付の片は親切に詳しく説明してくださった。お助け小屋の一角に‘政井みねの石像’が建っている。

  野麦の集落から6Km。信州との国境野麦峠は標高167.2m。明治
  大正時代にはこの峠を越え長野県の製糸工場へ大勢の飛騨の若
  い女性が糸引きの出稼ぎに向かいました。厳しい労働条件の中
  病に倒れ兄に背負われ峠を越える途中で「あゝ飛騨が見える」
  と言って息絶えたという女工の悲しい碑が峠の展望台に残って
  います。

高根村の「野麦峠」という栞にはこのような記述が載っている。

更に、戦後ノンフィクション屈指の名作!とまで言われた山本茂実「あゝ野麦峠」を見ていると次のように記述している。


  吹雪の峠に野宿した三百人

一方、岡谷山十組の三番立ち二百八十人が峠の頂上にたどり着いたのはそに日の午後二時、川浦を出て十時間を要していた。「ああ― 着いた!」という女工たちの喜びの声をかき消すように、吹雪がどっと真正面から襲いかかった。

夏びきに越えた時のあの雄大な眺めはどこへいってしまったのか、そこにはササも乗鞍もない。ただ目に入るものは、顔を叩きつける吹雪の荒れ狂う荒涼たる風景だけだった。

初めて峠を越える新工の牛丸きさは一瞬息もできずに立ちすくんだ。

ピュ―ッピュ―ッという刃のような鋭い凍った風が軽い粉雪を谷から絶え間なく吹き上げて峠の稜線を通り過ぎていった。

きさは吹雪は覚悟してきたが、それでも峠にたどり着けば、お助け茶屋で一休みできて、熱い甘酒の一杯くらいは飲めるものと、それを楽しみにしてきたが小屋は吹雪に埋もれており、僅かに開いたと間口には前に到着した小松組、片倉組の工女たちがはみ出していた。

腰巻は凍って股は切れて赤くはれ上がり、血が流れていた。顔はまつ毛が凍って白く、もう手足の感覚もない。このままじっとしていたら凍死することは必定だった。

…………(後略)<山本茂実著「あゝ野麦峠」角川文庫 214頁より>


哀切の情は胸を突く。

●孫へピアノ

11月1日は中学校清風祭の一環として音楽会があり、両親と妹、婆さんは子供がクラスの音楽でピアノ伴奏をするというので出かけていった。婆さんは孫びいきでピアノが上手だと帰ってきて褒めていた。ぼつぼつピアノを買ってやるかなあ、と婆さんと話をしていた。

それというのも、保育園時代から毎週欠かさずレッスンに通い続けていた根性に感心していたからである。もう一つには大きくなったら音楽の先生になりたいと思っているらしかったからである。音楽の先生になるかどうかはどちらでもいいが、なにか自分の予定の願いに向かって努力している姿に感心している。

いろいろ調べて、次のところへ行きついた。お金があれば新品のほうがいいに決まっているが、リニューアルにしようと思う。早く言えば中古品なのである。

「ヤマハ ピアノ 販売」で検索して
  http://www.kinoshita-gakki.co.jp/shouhin/<キノシタ楽器>

を見つけ、その中で「UX30A」「YUA」などを候補とし、16日にショールーム‘埼玉県入間市豊岡1-3-18’へ出かけて、店長の伊倉民夫から細かい説明をうけ、帰宅後孫に話をして次のピアノに決定し、翌朝購入申込みをした。

詳細は省いて概要のみコピーしてみると次のような仕様である。


 UX30A
 ヤマハの上級モデルです。
 グランド型鍵盤蓋、トーンエスケープ、アグラフなどたくさんの機能が付いています。
 音量、音色とも豊かな響きです。
 ひとクラス上の、豊かな音が広がります。
  製造番号:5194225
 1993年製
 サイズ:高さ131×幅153×奥行き65  重量:245kg
 色 : 黒
 ・消音ユニット取付可
 ・特製ハンマー使用
 ・アグラフ採用
 ・アリコート採用
 ・トーンエスケープ採用
 ・オーバーハング採用
 ・X支柱採用


納品は12月8日大安の日、誕生祝にしたいので姉妹の誕生日の中間の大安の日にした。この日は丁度爺やんの誕生日と重なった。申込みに対する承諾のメイルがあり、電話でも連絡があった。


  17年11月11日
  82銀行よりキノシタ楽器へ  .
  524160円
  振込み済み


10 21(金) ヴァイオリンの千住真理子

18日のスタジオパークにヴァイオリンの千住真理子が登場した。どんな人なのか全く知らなかったが、目の動きと顔の表情から知的なお嬢さんだなと思った。

話題の楽器「デュランティ」の響きは演奏する技術と相俟って素敵なメロディーを伝え始めたのです。今までにないゾクゾクとした感覚におそわれました。CDが出ているので手に入れるつもりでいる。

これは記録に残しておきたいと考え、“懐かしい歌”のページへhttp://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.107.html【ヴァイオリニスト千住真理子】として載せることにしました。

http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/ このホームページのほうはHP容量50MBが一杯になってしまって画像が出ていません。近日中になんとかしたい。


10 27(木) 伊豆の旅・ML熟年退会

23日に出発し伊豆へ旅行してきた。柿田川の湧水は一度見たかったので感慨もひとしおであった。ただ団体だから時間の自由さがないのが惜しかった。

http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/tabi-30.html<伊豆の旅>に全体計画を載せてあるから見ればわかるようになっている。

熟年のオーナー、ジュンコさんはエネルギッシュでリーダーの資質に恵まれていて、明るくて親切、褒めているとかぎりがない。きょう退会届を出した。

もの言えば唇寒し秋の暮れ だんだんと実感をもって感ずる年配になってきた。

10 29(土) 穂高神社

きのうは穂高神社に参拝した。穂高町は合併して安曇野市(豊科支所、穂高支所、三郷支所、堀金支所、明科支所)となった。歴史の上から見てもいい名前である。(多くの市町村合併に伴い市町村の名前が変ったが、たして二で割るという木で鼻をかむような味気もない名前が生まれた。東部町と北御牧村が合併して東御市になった例はその典型であろう。)

穂高神社はこの地方一帯の中核になっている神社である。

10 31(月)小諸:孫の七五三

孫の涼羽がすくすくと大きくなってきた。三歳九ヶ月である。

都合によって七五三のお祝いを29日にするという連絡を受け、楽しみにして小諸へ出かけた。一般道を走っていくのも慣れてきて、三時間あれば着く。岡谷から和田峠へ抜けるバイパスができたのと、浅科バイパスができたのとで都合よくなった。11時半に鶴巻へ着いた。

森住のお母さんがお祝いのお赤飯を炊いてくれてお昼ご飯はそれをご馳走になった。自分の家の赤飯よりいい赤飯であった。

懐古園の鹿嶋神社で森住さんと出会うことにしてあって、そこで合流して鹿嶋神社へお参りした。行く途中の車の中で、涼羽は黄色がすきで着物のを色をえらぶのに黄色にしたという。“喬木じいちゃも黄色が好きなんだよ”と、いろの応援をしてきた。

お参りが済んだのは3時過ぎで、お祝いの席は隣の「金ずし」で6時から。パパの挨拶に続いて涼羽の乾杯によって食事が始まった。

食事の披露は店のご主人が筆で和紙にしたためてあった。こうした案内をつけるのはそうそうめったにはない。記録のために記載しておくこととする。


     神無月の献立

 一、先付
   きのこ・おろし和え
 一、向付
   戻り鰹・平造り
 一、お椀替り
   松茸・土びんむし
 一、焼物
   いわなの塩焼
 一、中皿
   ほうとう入り白味噌グラタン
 一、揚物
   海老みの揚、舞茸、茄子、ししとう、紅塩、天つゆ
 一、温物
   茶わんむし
 一、寿司
   本日のおすすめ (小たらい)
 一、水物
   キャメルバニラのアイスクリーム

   紫芋のけんぴ添
                以上


料理に対する責任・格式をもっていなければ、こんな添書きをするはずはない。いいお祝いができた。

翌日は涼羽の歌があるというので、軽井沢の矢ヶ崎公園にある「軽井沢大賀ホール」へ行く。長野市から上田佐久平一円のグループの童謡唱歌の発表会である。いきなり行ったものの座席はないようだ。当然のことだ。

涼羽とママは会場に参加し、パパと私たちは軽井沢見晴台へ行くことにする。秋の紅葉狩りで知られている展望のよい高台という。ここは峠、峠町という地名がついている。旧碓氷峠だったのだろうか。熊野神社もある。この神社は石段から神社を縦割りにして長野県と群馬県の県境になっている。

茶店で一服してから見晴台に向かう。歩いて五分くらいの所にある。見晴台というだけのことはあって、妙義山の峨峨たる山容がかすんで見える。

三年程前に妙義山を訪れた。日本の山の中でこんな風体の変った山容をもつ山並みはないと思っていたからである。きょう霞んではいるが眼下に広がる妙義連峰をみる。ここからみるとそう高い山ではない。

もう一度行ってみたい山である。



    「妙義山」   大和田建樹作詞・田村虎蔵作曲

  峨峨たる巌 連りて
  虚空に峙つ 妙義山
  夏来て聞けば 時鳥
  麓の若葉の 蔭に鳴く

  石門高く 白雲の
  絶間に開くる 妙義山
  冬来て見れば 降る雪に
  巌も枯木も 花ぞ咲く

この「見晴台」には「タゴール記念像」と「万葉集の歌碑」がある。












「タゴール記念像」説明板には次のような言葉が日本語、英語、韓国語、中国語の四ヶ国語で表記されている。

  ノーベル文学賞を受賞したインドの詩聖タゴールは、来日した際軽井沢で
  行なわれた日本女子大の修養会に講師として招かれ、学生を前に「祈り」
  について講話を行ないました。

  この像はタゴール生誕120年を記念して建立されたもので、背後の壁に
  は彼の言葉「人類不戦」の文字が記されています。


また、これとは別に「詩聖タゴールについて」という案内板には次のような説明がある。













  アジアではじめてノーベル文学賞を受けた、インドの詩人ラビンドラート
  ・タゴールが、軽井沢を訪れたのは、一九一六年(大正五年)の夏であった。

  この詩人は、一八六一年(文久一年)にカルカッタの地主の家に生まれ、ラ
  ビ(太陽)と名づけられた。父は大聖者と呼ばれた求道の人であり、ときど
  きラビをヒマラヤの峰につれて行き、宇宙の霊に呼びかけることを教えた。

  のちにラビは、古代の教育法を求めて、今日のタゴール大学の前身となっ
  た森の学校を始めた。一九一二年(大正二年)には、タゴールがみずから英
  訳した「神への献げ歌」がノーベル文学賞の受賞となった。

  その翌年の夏、第一次世界大戦が起こって、ヨーロッパは、互いに憎み殺
  しあっていた。当時インド綿花の輸入によって、日本は繊維工業の隆盛を
  得ていたこともあって、国賓としてタゴールを招待した。詩人は、日本人
  の美と調和を愛する心に感動したが他方、日本軍国主義の台頭には強い心
  配をもち、講演の中で再三警告した。

  八月には、日本女子大成瀬仁蔵学長の招きで、軽井沢の三井邸に滞在し毎
  朝真珠のような詩を女子大生たちに読んで聞かせ大樅の樹下に座って、祈
  りの講話をした。

  軽井沢は噴火山のないインド亜大陸の詩人に、つきることのない詩の泉と
  なった。

  「神は名もない野の草に、何億年もかけて、一つの花を咲かせ給う」
  「大地一面の微笑を咲かせるのは、天地の涙あればこそだ」

  タゴールはその後二回日本を訪れたが、最後の講演では「自己中心の文明
  は隣の国民を焼きつくす武器を発明するようになる。くれぐれも『人類は
  戦わず』を守るべきだ」と述べ、原爆を予言するような言葉も残した。

  一九四一年(昭和一六年)八月七日、広島・長崎の原爆投下やインドの独立を
  知ることなく、たくさんの作品を残して、その八〇歳の地上の生涯を閉じ
  た。


タゴールの胸像の裏手に開きこの字型の壁がありその右隅には、中村元書として「人類不戦」の文字が石版に刻まれはめ込まれている。旅というものは私たちにいろいろと知らなかったことを提供してくれる。

「万葉集の歌碑」は二つ立っており、その一つは、













    碓氷峠 万葉集の歌

  日の暮れに
    うすひの山を
       こゆる日は
    せなのか袖も
       さやにふらしつ
                   巻十四 よみ人知らず

  ひなくもり
    うすひの坂を
       こえしだに
    いもか恋しく
       わすらえぬかも
                   巻三十 他田部子磐前


が刻まれ、解説版に、


   万葉集歌碑

 わが国最古の歌集である万葉集に、碓氷峠の歌が二首のっています。その二種の
 歌碑は碓氷の自然石を使って昭和42年に建立され、表面には読みやすいように
 現代語で刻まれています。
    日の暮に うすひの山を こゆる日は
         せなのが袖も さやにふらしつ   (巻14) よみ人知らず
    ひなくもり うすひの坂を こえしだに
         いもが恋しく わすらえぬかも   (巻20) 他田部子磐前


とある。もう一つの石碑は二首の歌の解説を石碑に刻んでいた。

万葉集の東歌は八世紀ころなのだろうか。一般には防人として解説されているが、租庸調の運搬やら寺社伽藍の建造人夫など峠を越えていかなければならない人たちは大変なことであったにちがいない。

千数百年前の往時を偲べば、これまた、感慨深いものが胸を突く。

天気がよければ浅間山も見えるというが、あいにく裾野の広がりが目に入るばかりであった。

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