09 10(土) 家のまわりの花たち |
09 10(土) 柳沢桂子の「生きて死ぬ智慧」 |
「生きて死ぬ智慧」の6頁 お聞きなさい 私たちは 広大な宇宙のなかに 存在します 宇宙では 形という固定したものはありません 実体がないのです 宇宙は粒子に満ちています 粒子は自由に動き回って 形を変えて おたがいの関係の 安定したところで静止します 「生きて死ぬ智慧」の10頁 お聞きなさい あなたも 宇宙のなかで 粒子でできています 宇宙のなかの ほかの粒子と一つづきです ですから宇宙も「空」です あなたという実体はないのです あなたと宇宙は一つです |
それは、現代西欧の知識人は性格の秘密を嗅ぎつけているということであります。ローレンスが1914年6月5日にエドワード・ガーネットに当てた手紙に次のような言葉があるのです。 「私の小説に性格という古臭い安定したエゴを求めてはなりません。そこには別のエゴがあります。その活動によって個人は見分け難いものとなり、いわば同質異体の状態を通過します。この状態を見出すためには、我々は普通以上に深い感覚を必要とします。それは根本的に不遍な同一元素の状態なのです。ちょうど、ダイヤモンドも石炭も、炭素という純粋の同一元素なのと同じようなものです。普通の小説は、ダイヤモンドの歴史をたどるのです。でも私はこういいます。「なにダイヤモンドだって? これは炭素じやないか」私のダイヤモンドも、石炭か煤かもしれません。しかも私の主題は炭素なのです」 私たちの感覚にとらえられる机とか椅子とか水とかは、私たちの常識の世界を構成しているのですが、科学はこれを分析して炭素とか水素とか酸素とかいった元素にしてしまいました。いやそればかりではなく、最近の科学は分析を重ねていって、結局、電子とか陽子とか、まるで常識の世界では想像もつかないまで分析してしまったのです。私の眼の前にいる美しい女性も、傍らにある洗面器と変わりのない電気を帯びた粒子という同質のものから出来ているわけになります。ところが帯電粒子が諸々に結合して、ご覧のとうりの別の物質と肉体とがここに現れるわけです。ローレンスは、これと同じようなことを人間心理にまで立ち入ってやったわけであります。 ところで、常識の世界には所謂「性格」を持った人間がいるわけですが、これを分解して非常識の世界にまで到ると、結局のところ「心理的原子」の集合があるだけになります。このように常識を越えて探究をすすめることが、現代の科学や思想界(殊に精神生活を素材にする文学上)の動向となっていると考えることができます。科学の発達は、精神科学を駆使して、かくまで人間心理を掘りだして我々の眼の前にさらけだしてくれました。個性を否定し、性格を否定し去ったあとには、ただ心理的原子が現れてくるのみと思います。極端にいえば「個性は我々の個人的所有物ではない」とも言いうるのであります。そこで、帯電粒子の電子であり陽子でもある心理的原子は如何なる構成により人間を形成していくのでしょうか。また個性とか性格とかは、人間形成と如何なる関係があるのでしょうか。原子は生まれおちる以前、否、陽と陰の結合せるやいなや、その活動は始まるものと考えられます。しかし、人間という一つの存在は、独立して生活しうるようになると、急速にところ嫌わずいろいろの原子を吸収してしまうと思います。そして吸着し成長してきますと、新しい意味での個性ができるとも言えます。それは削除をうけず選択のされていない、別の言葉でいえば、世界観とか人生観とかいった何か特別の排水溝に流しこまれていない、全人の個性というものであります。そこで、無意識や潜在意識の一切を含む人間の意識の流れを考えて、個性とは、人間のあらゆる体験によって絶えず流動変化するものですが、そこに内面的な判断の作用があって、自らひとつの統一をなしているものと言えましょう。そして、この流動変化する個性にたいして、何らかの規範、主義、原則により抑制を加えて変化をいくつかのジャンルに凝結せしめた結果として「性格」が現れてくるものと考えてよいと私は思います。しかしここでは、年齢の上で問題になる点は課題としておきたいと思い、控えておきます。 批評家を迷路に立たせ、一体如何なる性格を有せるものかと論議され、何も結果を見出しえずにいるハムレットなどは、あの英国の文豪シェクスピアの知恵の実のなかに、人間の性格の本質がきらめいていたのではあるまいか。文学上の問題に、恋愛問題をはじめ、身分、財産のごたごた問題が多くその素材にとられているのは何故であろうか。人間心理の、利害に基ずくエゴの微妙な変化が、その描かれる人間の中に、影のごとくつき纒っているからだと思います。なぜ道徳的品性を固持しつつも、しかも醜い想念を捨てさり得ないのか。原子的心理は、ある個性とか性格とかが許さざるところまで、人の内面に吸着されているのであって、個性とか性格に、厚い壁があると仮定する人のほうが、むしろおかしいと言えましょう。野心あるものが偉くなり、転ずれば悪人となるのも、またこれに帰一するでしょう。現今の我々は、個性とか性格への解剖のメスを許されているのであると思います。 主観の篩が、性格及びその他(このことについては、又いろいろと探究すべき課題が私には課せられている)により構成され、形を保持していると考えられるので、その一面である性格が朧げながら明らかになってきても、決して主観の篩の意昧内容が解明されたとは言えません。 二重人格、経験派、観念派、楽天家、厭世家、喜怒哀楽等々は、もはや人生のべールとして見えるのみで、本体はメスにより明らかにされ得るのです。我々は、世界の科学の進展に盲目でなく、この精神科学を進展せねばならないと思います。 |
「もったい」とは、物の本体を意味する「勿体=物体」のこと。「ない」はそれを否定したもので、本来は物の本体を失うことをさす言葉でした。また「もったい」には重々しく尊大なさまという意味もあり、それを「無し」にすることから、畏れ多い、かたじけない、むやみに費やすのが惜しいという意味で使われるようになりました。 しかし、なによりも「もったいない」という言葉の奥には努力や苦労、時間や歴史など、せっかく積み重ねてきたことを「失ってしまう」「無にしてしまう」ことへの無念と哀しみがあるのです。 |
09 15(木) 二宮金次郎 天保の大飢饉を救う |