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折々の記 2005 @

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】01/01〜        【 02 】01/02〜
【 03 】01/05〜        【 04 】01/09〜
【 05 】01/14〜        【 06 】01/24〜
【 07 】03/28〜        【 08 】03/30〜
【 09 】04/15〜        【 10 】04/23〜


【 10 】04/23〜

  04 23 健康と「癒しの世界」
  04 24 美しい自然
  04 25 企業のトップ
  04 26 「癒しの世界」… 眼横鼻直
  
 04 23(土) 健康と「癒しの世界」

<癒しの世界> http://members.jcom.home.ne.jp/stolatos/index.htm へジャンプしてみると、そこには心の癒しの世界が広がっている。

内容を見ていると、ページ開設者はことに心の癒しにかかわるものを上枠していることがわかる。仏教、とりわけ密教に関することでは、やさしい解説案内のような雰囲気の書きっぷりである。わかり易いし、その通りにもおもう。

殊に気に入るのは、「密教は仏になって生きる教えである」という認識である。大自然の中では人も動物も植物もすべて一つの生命体である。

生きなければならないと願っている生命体という意味では人も特別なものとして考えることはない。

この「癒しの世界」と「健康に関したレシピ」のプリントを製本した。129ペイジの分量である。

…………………………………………………………………………………………………………

「人はそのまま仏さま」……20年ほど前、ネパールの北東のブダニールへ行ったことがある。父はまだ壮健で83才ころで孫が行っている所へ行きたいと言っていたから、まだ学校に勤務しているときだったので、夏休みを利用して初めての海外旅行をした。

カトマンズの北東にあるブダニール方面へ案内されたときのこと、町外れの山際へ足をのばして田園風景にひたっていた。一人のお百姓さんが荷物を背負ってやってきたので「こんにちは」と言ったとき、その人は合掌して「ナマステ」と挨拶をかえしてくれた。

どうして合掌するのかわけを聞いてみると、‘人さまの中に神さまが住んでいらっしゃるから’ということが解かった。ガツーンと一喝された思いはいまも忘れることができない。

愚痴や弱音をはかずに生きてきた人は、‘人間としての命の根が深くなるんだ’という言葉が心の底にズシンとひびく。

(ちなみにブダニールはブッダが池の中で寝ているそのままの涅槃像がある、そのことが町名になっているのだとおもう)

「人はそのまま仏さま」…とは空海も道元も人間の本質をそう言い表している。難しいことはいえないけれど、そう考えてよいのだろうと思う。

「脚下照顧」という言葉がある。自分が何をしていったらいいのか足元を照らして間違いのない行ないをするように、ということがこの言葉の本義であることを思えば「人はそのまま仏さま」に通ずる。

「一隅を照らす」という言葉もある。自分が光となってみんなのために一隅を照らすのではなく、やはり本義としては仏として実践にあたっての自分の足場をはっきりと自覚することだろうと思う。この言葉もそっくり「人はそのまま仏さま」に通ずる。

さらにまた「無財の七施」という言葉がある。金がなくても仏性をおこなう方便が説かれている。参考にしたいものである。

さらにまた「先ず隗より始めよ」という言葉がある。郭隗(かくかい)が燕の国の昭王に言った言葉だというが、‘何事もまず言い出した人から実行しなさいということ’と受け止めてよいというから、仏法も理論ではなく人の行為が重きをなすというもので、これまた「人はそのまま仏さま」に通じると思われる。

以下に括弧がきの四項目の検索結果からURLの参考部分を取りあげておく。


      「脚下照顧」

 禅寺に行くと、玄関に「脚下照顧」「照顧脚下」「看脚下」などと書かれた札が掛けられています。 文字通り「足下を見なさい。即ち履き物を揃えなさい。」という意味です。
これには深い意味があって、「自分自身を見つめなさい。」という大切なメッセージが込められているのです。

 私たちは、食事をしながらも「今日はどこどこへ行ってあれをしなければ・・。アッそうそうイチローは昨日ヒット打ったかな?・・」などと次から次へと様々なことを考えていて、静かに自分を見つめるという習慣があまりありません。

 自分の中には二人の自分がいて、絶えず闘っているのに気が付いていますか?

 例えば、勉強しようと思うけど眠いから寝てしまおうとか、映画を見に行くからまたにしようとか、弱い自分が勝ってしまうことがよくありませんか。

 そうです。弱い自分を見つめているもう一人の自分がいるのです。

 このように知らず知らずのうちに自分を見つめるのではなく、意識して、長い時間、できれば何時でも見つめられれば、こんなに凄いことはありません。

 正にこれが「脚下照顧」なのです。

 自分を常に監視人のように見つめられれば、無闇に怒ったり、人を傷つけたり、道端にポイ捨てしたり、そのほか様々なマイナスの行動や思考をとらなくなるのではないでしょうか。

 実は、これが経営に非常に効果的な方法なのです。

 自分の経営を「脚下照顧」する。

 具体的に言えば、社長としての自分自身や、会社そのものを、冷静に、自己中心的にでなく第三者として客観的に見つめて、それを箇条書きにする。その項目が沢山挙がる経営者ほど自分の経営をしっかり見つめている証拠です。項目の書き出しができたら、あとはその項目を、すぐに解決できるものとできないものに分類し、できるものからその具体的な解決方法を洗い出して一つ一つ実行していくのです。

 とても単純で、何だこんなことかとお考えかと思いますが、案外皆さんやってないんですね。やりだしても直ぐにやめてしまう。ここに成功の分かれ目があるんですね。(下平註:成功するしないということは、仏法の目指すものではない)

 さて、ここで注意ですが、自分を見つめることにばかりに気をとられて、本来の「靴を揃えること」を疎かにしている人が何と多いことか。

 自分も気を付けたいところです。



      「一隅を照らす」

 「一隅(いちぐう)を照らす」という言葉は、比叡山を開かれた伝教大師・最澄(767-822)さまの著書『天台法華宗年分学生式』より出典したものです。

 『山家学生式(さんげがくしょうしき)』は、伝教大師が日本天台宗を開かれるに当たり、人々を幸せへと導くために「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいと、熱意をこめて著述されたものです。 「国宝とは何物ぞ、宝とは道心(どうしん)なり」。仏道を求める心で御仏におすがりし、御仏の教えを実行する心、これを「道心」といいます。御仏にすがる心をもって生活すれば、必ず正しい生活をすることができると諭されています。

 「道心の中に衣食(えじき)あり 衣食の中に道心なし」。御仏の教えを実行して生活していると、何不自由なく暮らすことができますが、自己のことばかりを考えて生活していると、他人への思いやりの心、御仏を信頼する心を忘れ、正しい人間生活を送ることができないということです。
 「径寸十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」。「径寸」とは金銀財宝のことで、「一隅」とは今あなたのいるその場所のことです。

 お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝である。一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝である。そうおっしゃっています。

 そして、そういう心豊かな人が集まれば、明るい社会が実現します。
 「一隅を照らす運動」は、伝教大師のご精神を現代に生かし、一人ひとりが自らの心を高めて豊かな人間になり、明るい社会を築いていこうということを目的に、1969年より始まりました。

 あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、ベストを尽くして照らして下さい。あなたが光れば、あなたのお隣も光ります。町や社会が光ります。小さな光が集まって、日本を、世界を、やがて地球を照らします。

 一隅を照らして下さい。



      「無財の七施」(むざいのななせ)

 仏教には、財施(ざいせ)、法施(ほうせ)、無畏施(むいせ)という3っつの 布施の行があるといわれています。では、施すべき財、説くべき教え、恐れを取り除く力がなければ布施の行ができないかというと、そうではないと言われています。地位や財産がなくても、誰もがいつでも容易にできる布施の行、それが「無財の七施」です。「無財の七施」とは、次の七つの施しをいいます。

1 眼 施 がんせ      慈眼施ともいい、慈しみに満ちた優しいまなざしで、
               すべてに接することをいいます。温かい心は、自らの
               目を通して相手に伝わるのです。

2 和顔施 わげんせ     和顔悦色施ともいいます。いつもなごやかで穏やかな
               顔つきで人や物に接する行為です。喜びを素直に顔の
               表情にあらわしましょう。

3 愛語施 あいごせ     言辞施(ごんじせ)の別称もあります。文字通り優し
              い言葉、思いやりのある態度で言葉を交わす行ないを
               いいます。

4 身 施 しんせ      捨身施ともいいます。自分の身体で奉仕をすること。
               身体で示すことをさし自ら進んで他のために尽くす気
               持ちが大切です。

5 心 施 しんせ      心慮施。他のために心をくばり、心底から共に喜び共
               に悲しむことができ、他の痛みや苦しみを自らのもの
               として感じ取れる心持ち。

6 牀座施 しょうざせ    たとえば自分が疲れていても電車の中で喜んで席を譲
               る行為。また競争相手にさえも自分の地位を譲って悔
               いなく過ごせることをいいます。

7 房舎施 ぼうしゃせ    風や雨露をしのぐ所を与えること。自分が半身濡れな
               がらも、相手に雨がかからないように傘を差し掛ける
               思いやりの行為など。

どれをとっても、人に対する思いやり、優しさに溢れた言葉であることが分かっていただけると思います。

 私がこの言葉を知ったのはある友達とのなにげない会話の中ででした。その友達はお祖父さんから教わったと言っていました。世知辛い現代社会なればこそ、人に対する慈しみ、思いやり、優しさの大切さについて諭しているこの言葉を是非大切にしたいものです。

 縁あって私の研究で卒業研究を行うことになった学生諸君が、知性と共に優しさ溢れた学生に育ってもらいたいと思い研究室の座右の銘とすることにしました。[高橋治道記]



      「隗より始めよ」(その一)

【読み方】
    かいよりはじめよ
【意 味】
    @ 大事を始める時には、まず手近なことから始めるとよいということ
    A 何事もまず言い出した人から実行しなさいということ
【由 来】
    燕(えん)の国の昭王(しょうおう)が人材を自分の所に集めよう
    として郭隗(かくかい)と言う人にたずねたところ、「この郭隗(かく
    かい)を大切に優遇(ゆうぐう)しなさい。そうすれば、やがて、普
    通の私でさえ、これだけ大切にされるのだから、私以上のすぐれ
    た知恵の持ち主はもっと大切にされるだろうと考えて、優れた
    人物が他国からやっくるでしょう。」と言った。その通り、燕(えん)
    にはすぐれた人物が続々と集まってきたことからこの語ができた。
                               (戦国策)



      「先ず隗より始めよ」(その二)故事成語

燕の国の昭王は強い国を作りたくて

よい方法はないかと郭隗(かくかい)という者に相談しました。
郭隗が言いました。

  「昔、ある君主がよい馬を探していました。
  何年たってもなかなか見つからなくて困っているところに
  ある男が、よい馬を探してくると申し出てきたので
  大金を与えました。

  その男は、すばらしい馬を見つけましたが、
  すでに死んでいました。
  ところが男はその死んだ馬の骨を大金を出して買ってきました。
  君主はあきれて、男を怒りましたが、実は男には、
  ”死んだ馬にさえ、あんなに大金を払うのだから
  生きている名馬ならもっとすごいお金がもらえるだろうと評判がたつはずだ”
  という考えがあったのです。
  それから1年もしないうちに、すばらしい名馬が数頭手に入ったのです。

  もし昭王が本気ですぐれた人材を集めたいのなら
  まず私のような何の取り柄もない人間を大切に扱うことから始めてください。
  あの隗のような人間でさえ優遇されると評判が立てば
  もっとすぐれた人間が道のりを遠いとも思わず
  ぞくぞくと集まってくるはずです。」

しばらくすると、有能な人材がたくさん集まり
燕の国は大いに発展することになりました。

           「先ず隗より始めよ」

事を始めるには、人にあれこれ言う前に、自分が積極的にやり出すべきだ。
大きな事を始めるには、呼び水になる小さなことから始めるとよい。



      「隗より始めよ」(その三)

1.「賢者を招きたいならば、まず自分のようなつまらない者をも優遇せよ、そうすればよりすぐれた人材が次々と集まってくるであろう」という意味。

2.転じて、遠大な計画も、まず手近なところから着手せよということ。また、物事はまず言い出した者からやり始めるべきだという意味でも使う。

故事:「戦国策−燕策」 郭隗が燕の昭王に賢者を用いる法を聞かれた時に、「今王誠欲致士、先従隗始、隗且見事、況賢於隗者乎」と答えた。

人名:郭隗(かくかい)  中国、戦国時代。燕(えん)の人。生没年不詳。昭王(在位紀元前311〜前278年)に人材の登用策を問われ、「まず私を登用しなさい(まず隗より始めよ)」と答えたことで有名。


 04 24(日) 美しい自然

待ちに待った桜の多くは散ったけれど、柿や五味子は芽吹きはじめた。ボケは満開であり、柘榴も芽をふいた。じつにすばらしい。

目には青葉 山ホトトギス 初鰹

作詞の作法によれば、目に映じるもの、耳に聞こえるもの、肌で感ずるもの、鼻に匂ってくるもの…いわゆる五感に響くものを取り入れるとともに、更に目に映じるものの大小、形状、遅速・・・限りないそうした表現を盛りこむとよいという。

けれども、 漱石の言うとおり

「無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺〔糸偏に兼の旁の文字〕( セキケン と読む=一尺ほどの画布)なきも、かく人世を観じ得るの点において、…省略… 千金の子(シ)〔〈男女を問わず〉人を親しんで呼ぶ語〕よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。」

ということもあるから、「一句なくとも、画布がなくとも」自然の姿は実に美しい。

“こよみのページ”の‘日の出入 (計算地:東京)’を見ると「日の出 04時57分:日の入 18時22分」と出ている。喬木村でも 4:30 というと明るくなるようになった。四季の移り変わりが実感できる嬉しいことである。

静かに自然を見つめると、世事でくよくよせずとも平静な心を保つことができる。

次に載せる「埴生の宿」は、ホームページの http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.67.html から転載したものである。


       埴生の宿

 1 埴生の宿も わが宿
   玉のよそい うらやまじ
   のどかなりや 春のそら
   花はあるじ 鳥は友
   おお わが宿よ
   楽しとも たのもしや

 2 ふみよむ窓も わがまども
   瑠璃の床(ゆか)も うらやまじ
   きよらなりや 秋の夜半
   月はあるじ むしは友
   おお わが窓よ
   楽しとも たのもしや


次の「美しき天然」はクリスチャンだった松原のおばあちゃんが、興がのったときよくうたった歌うたで今も頭の奥にその歌声が残っているものである。

歌詞が手元になかったので検索で調べていると、次のページに載っていた。MIDI だからクリックしてみると良い。

  http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tennen.html

クリスチャンといえば、しぐさのなかに‘十字を切る’光景がテレビで見かけるが、密教の‘自分がそのまま仏さま’という、同じ自覚を自分に求める仕草なんだろうと思う。


       美しき天然

 1 空にさえずる鳥の声 峯より落つる滝の音
   大波小波とうとうと 響き絶えせぬ海の音
   聞けや人々面白き 此の天然の音楽を
   調べ自在に弾き給う 神の御手の尊しや

 2 春は桜のあや衣 秋は紅葉の唐錦
   夏は涼しき月の絹 冬は真白き雪の布
   見よや人々美しき 此の天然の織物を
   手際見事に織り給う 神のたくみの尊しや

 3 うす墨ひける四方の山 くれない匂う横がすみ
   海辺はるかにうち続く 青松白砂の美しさ
   見よや人々たぐいなき 此の天然のうつしえを
   筆も及ばずかきたもう 神の力の尊しや

 4 朝に起る雲の殿 夕べにかかる虹の橋
   晴れたる空を見渡せば 青天井に似たるかな
   仰(あお)げ人々珍しき 此の天然の建築を
   かく広大にたてたもう 神の御業の尊しや


 04 25(月)企業のトップ

鶏頭牛尾という言葉がある。企業人のトップというと、ウワー、大変だ!という思いも、いいなぁ、スゴイナー!という思いもあろう。小さいまわしの企業にしても大きいまわしの企業にしても、トップはトップなのである。

宮仕えの人たちもいる。宮仕えの人は組織の上司の意向で仕事が決まってくる。いろいろとアイデアがあっても即実行に移すということはできない。組織体だから当然といえば当然のことである。

牛尾でなく鶏頭のトップはどうだろうか。一家の家長と同じく全責任を持たなくてはならないとともに、いろいろのアイデアの実現は熟慮の末に決めることができる。

トップと宮仕えはおのづから異なった性格を持っている。

一人一人の生涯から考えてみると、こうしたことは大きな違いとなって現れてくることが多い。トップは熟慮遠望が基本になってくるし、宮仕えの人は専門職としての自己世界の拡充が基本になってくる。当然といえば当然のことなのである。

倉知仁助は最初の教え子で倉知製作所を率いている。河野善一は三つ下の教え子で金八製材を率いている。曽田光男はそのまた三つ下の教え子で曽田建設を率いている。三人とも最近行き会った人たちである。

トップに立った人たちには基本的に共通していることがある。ある程度やんちゃであったことである。自分で思ったことをやってみる、それが積み重なって即断即決の性が身についてきている。

宮仕えの人は他人の立場を了とする融通性をもった幅が身についてきている。

どちらが可でありどちらが不可であるとかいう問題ではない。上下という問題でもない。勤務上身についてきている性である。

この角度からの人の理解の仕方について、目にふれるような書き物はまだみていない。

駕篭に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人、だれでも知っている通り職業は雑多である。運動ができるとかできないとか、知的活動が得ているとか得ていないとか、性分によっても適不適があるとか、もろもろの条件によって職業というものはその人に向いているいないが規定されもする。

職業に貴賎なしという。だが貴賎を感ずる人が多い。貴賎を鼻にかける人も多いし貴賎を卑下する人も多い。貴賎や上下を感ずるとすれば、職業に就くのに上記のような制約があるからであろう。

人の値打ちということから見れば、人さまへの貢献度とか人が喜んでくれるとか自分の意識ではなく、他の人がその価値を決めてくれること基であろう。

形而上の価値観として、お互いが共通意識を共有しうるのだろうか。

 04 26(火)「癒しの世界」… 眼横鼻直

いつ私はこの言葉を知ったのだろうか。多分空海を調べていて知ったことだろう。

改めてURLを調べてみると沢山のページが出ている。眼横鼻直についてのいきさつは直ぐにわかった。

そのうちの一つ、大雄寺住職倉澤良裕さんのページの一節が次のようなものである。


今から750余年前曹洞宗開祖道元禅師は、24歳の時中国に留学し、天童寺如浄禅師に学ばれ、28歳で帰国。帰国後の第一声が「空手還郷」クウシュゲンキョウ、「眼横鼻直」ガンノウビチョクというものでした。


引用したページには三つ(大雄寺住職倉澤良裕・なるほど法話海潮音・甲州光沢山青松院)のデータを載せたのだが、「そのまま仏さま」という道元の基本感覚の説明は出てこない。

道元禅師からのメッセージを見ていると、その感覚が推察できそうです。


 1 無常ならざるもの  観無常心(かんむじょうしん)

  生まれたものは死に
  会ったものは別れ
  持ったものは失い
  作ったものはこわれます
  時は矢のように去っていきます
  すべてが「無常」です
  この世において
  無常ならざるものはあるでしょうか

 2 どう生きるか 随処作主(ずいしょさしゅ)

  生まれて死ぬ一度の人生を
  どう生きるか
  それが仏法の根本問題です
  長生きすることが幸せでしょうか
  そうでもありません
  短命で死ぬのが不幸でしょうか
  そうでもありません
  問題はどう生きるかなのです

 3 人生に定年はない 安身立命(あんじんりゅうみょう)

  人生に定年はありません
  老後も 余生も ないのです
  死を迎える その一瞬までは
  人生の現役です
  人生の現役とは
  自らの人生を悔いなく生き切る人のことです
  そこには「老い」や「死」への恐れはなく
  「尊く美しい老い」と「安らかな死」があるばかりです

 4 ひとの価値 無価大宝(むげたいほう)

  ひとの価値は
  地位・財産・職業に関係ありません
  知識・能力だけでひとを評価すると
  過ちを招きます
  知識を生かす心と行いこそ大切です
  ひとの価値は心と行いから生ずるのです

 5 最初の一歩 発菩提心(ほつぼだいしん)

  何ごとにおいても
  最初の一歩をまちがえると
  とんでもない方向へ行ってしまいます
  仏道の修行は
  自分が救われるためではなく
  世のため人のためにつくすことです
  この誓願から
  最初の一歩を踏み出しましょう

6 はきものをそろえる 脚下照顧(きゃっかしょうこ)

  はきものをそろえると心もそろう
  心がそろうと はきものもそろう
  ぬぐときに そろえておくと
  はくときに 心がみだれない
  だれかが みだしておいたら
  だまって そろえておいてあげよう
  そうすればきっと 世界中の人の心も
  そろうでしょう

 7 正しい宗教 回心向大(えしんこうだい)

  自分の宗教を信ずるあまり
  他の宗教をそしり
  果ては憎しみ争うほど愚かなことがあるでしょうか
  正しい宗教は
  いつの時代にも
  人々を照らし 平和な生き方へと導くものなのです
  宗教者同士が刃をぬいて争うことがあってはなりません

 8 修せざれば現われず 修証一等(しゅしょういっとう)

  「知る」ということと
  「わかる」ことはちがうのです
  知っていても
  実行されなければわかったことにはなりません
  薬の効能書を読んだだけでは
  病気は治りません
  禅も実行してはじめてわかることなのです

 9 仏心のめざめ 度衆生心(どしゅじょうしん)

  仏心とは
  自分のことはさておいても
  世のため人のために
  つくそうという心に他なりません
  自分を中心とするから苦しむのです
  仏心にめざめれば
  苦労も生き甲斐に変わるのです

 10 大自然のめぐみ 青山緑水(せいざんりょくすい)

  米も野菜もいのちです
  肉も魚もいのちです
  これらのいのちのおかげで
  私たちのいのちも生かされています
  「いただきます」 「ごちそうさま」
  尊いいのちに感謝して食事をいただきましょう

 11 仏教の戒め 諸悪莫作(しょあくまくさ)

  生きものを殺さないとみずからに誓います
  与えられないものをむさぼり取らないとみずからに誓います
  欲するままにみだらな行いをしないとみずからに誓います
  嘘をつかないとみずからに誓います
  無明なる酒を飲まないとみずからに誓います

 12 足ることを知る心 少欲知足(しょうよくちそく)

  貧しいことが善でもありません
  豊かなことが悪でもありません
  貧富にかかわらず 貪欲の心がおこるとき
  人は美しい心を失います
  仏心とは 足ることを知る心のことです

 13 仏道の祈り 直下承当(じきげじょうとう)

  奇跡が起こることを望んだり
  超能力を得ることを祈ったり
  事業の利益を祈願する宗教もありますが
  仏教は 世を導き人を助けることを願う宗教です
  仏道の祈りは 親がわが子を思う祈りと同じなのです

 14 仏法は坐禅 還家穏坐(げんけおんざ)

  仏法は坐禅です
  坐禅はお釈迦さまのお悟りの姿です
  身を正し 息を整え 静かに坐る
  あなたも坐ってみませんか

 15 美しい地球よ永遠に 清風明月(せいふうめいげつ)

  満天の星が輝く地球よ!
  母なる太陽を慕いつつ 今日も銀河空間を渡る美しい地球よ!
  地球は青い一顆の明珠・・・・・・・
  一千一万一億一兆年 無量百千万億阿僧祇劫∞
  美しい地球よ永遠に!

 16 十方三世一切仏  弘法救生(ぐほうぐしょう)

  十方三世一切仏。じー ほー さん しーいーしーふー
  諸尊菩薩摩訶薩。しー そん ぶーさーもーこーさー
  摩訶般若波羅蜜。もー こー ほーじゃ ほーろーみー



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