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折々の記 2005 @

【心に浮かぶよしなしごと】

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  03 28 続どうなっている竹島問題

 03 28(月) 続どうなっている竹島問題

「竹島問題」を google で検索してみると http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/<竹島問題>が出てくる。

この中の「リンク集」を見ていくと、‘竹島北方領土返還要求運動島根大会’ http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/henkan/ が出てくる。

このページの中の「講演」を開くと、 http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/henkan/08.html<領土問題の現状と課題> という公演内容が出ている。

それを次に紹介する。


領土問題の現状と課題

下條 正男(しもじょう まさお)(拓殖大学国際開発学部教授)

●講師プロフィール

昭和25年、長野県生まれ。國學院大学大学院文学研究科博士後期課程修了。同56年に韓国へ渡り、祥明女子師範大学講師、三星綜合研修院主任講師、韓南大学講師、市立仁川大学客員教授を経て平成10年12月に帰国。平成11年4月より拓殖大学国際開発研究所教授。現在、拓殖大学国際開発学部教授。 *著書:『ある日本人の発想』(三星電子家電営業本部)、『日韓・歴史克服への道』(展転社) *共著:『古書研究』(韓国出版販売)、『勝山鄭致薫教授定年記念論文集』(同刊行委員会)、『現代中国』(PHP)、『国際開発学U』(東洋経済)

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 皆さん、こんにちは。今日は小学生、中学生、それから高校生の皆さんがいらっしゃいますので、話の内容をできるだけわかりやすくさせていただきたいと思います。  私は一九八三年から九八年末まで韓国におりました。韓国に渡った理由は、一九八二年に日本の歴史教科書問題が起こり、当時、大学院の学生だった私は、韓国に渡って実際にどんな歴史感覚を韓国の人々が持っているのか知りたいと思っていたからです。ところが、韓国で生活しているうちに十五年が過ぎてしまいました。そして、日本に帰るきっかけとなったのが実は竹島問題なのです。

 ちょうど九六年に日本と韓国の間で漁業問題に関連して「国連海洋法条約」が発効し、韓国では竹島を獨島と呼びますが、二月にそこに接岸施設をつくり日本の外務省が抗議することがありました。韓国ではそのことが大きく報道され、よせばいいのに私は、竹島は日本領だという内容の論文を韓国の雑誌に投稿しました。それ以来、韓国にいづらくなり、ついに九八年に帰国することになりました。

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 竹島問題の背景

 まず皆さんにお尋ねしたいのですが、竹島問題の発端、つまり竹島問題が起こることになった原因、あるいはその時代がいつであったのかご存じでしょうか。五十年くらい前、百年前、二百五十年前、三百年前、五百年前。なぜこんなことをお聞きするかというと、国際法的にも歴史的にも竹島は日本の領土だと言いながら、実はそこのところがわかっていないからです。

 今日のような集会は韓国でも行われています。「竹島(獨島)死守」です。それが正しいかどうかは別問題ですが、彼らは少なくとも歴史についてある程度勉強しています。そのため彼らからはすぐに答えが返ってきます。韓国の歴史教科書には、二ページにわたって竹島問題の背景が記されています。そこには歴史的に獨島は韓国領であると書いてあります。

 さて、先ほど三人の学生さんが一生懸命発表してくれました。感動いたしました。しかし、そういった子供たちが、もし韓国に行って竹島は歴史的にも国際法的にも日本の領土だと言ったとします。ですが、韓国側は教科書で勉強しています。それ以上、日本の子供たちは話ができるでしょうか。そういうことを考えると、私たちはもう少し竹島についての理解を深めておかないと、日韓の国際交流や相互理解は難しいと思うのです。

 北方四島の場合は住民がいたということで非常に身近な問題となっていますが、竹島の場合は無人島であったということ、それからもうひとつ考えなければいけないのは、なぜ竹島問題が一九五二年一月十八日に起こったのかということです。その原因は李承晩ラインです。では、李承晩ラインがなぜその日に宣言されたのでしょうか。

 これには大きな問題があります。竹島が日本の領土になって、島根県に編入されたのは一九〇五年です。そして、一九五二年一月十八日に李承晩ラインによって韓国領とされてしまうのです。それはなぜなのか。実は竹島問題の発端は、今から三百年前にさかのぼるのです。その間のさまざまな歴史が積み重なり、日本が一九〇五年、竹島を島根県に編入した時点というのは、韓国側から見ると自分たちの領土が奪われた日と映っていたのです。一九四五年に第二次世界大戦が終わり、韓国は解放されます。その時から韓国側には民族感情が高まり、復権運動が始まります。そして当時の李承晩大統領は竹島だけでなく、対馬島もまた我が領土であると盛んに主張し始めるわけです。

 その過程で竹島が大きな問題に発展していくのは、一九五二年四月二十八日に「サンフランシスコ講和条約」が発効し、その講和条約の中で竹島の処遇が大きく変化したことに起因しています。草案の段階では竹島は朝鮮領として記録されていましたが、最終案では日本領となります。つまり条約が発効すると竹島は朝鮮領ではなくなってしまうのです。そうなる前に韓国政府は、李承晩ラインを引いたわけです。事前に予防線を張ったのです。戦後の日韓正常化交渉は、この竹島問題の直後から始まっていきます。それから「日韓基本条約」締結の一九六五年まで十三年、長い交渉が行われていきます。
 その間、韓国は李承晩ラインを盾に何名くらいの日本人を抑留し、日本漁船を拿捕したと思いますか。三、九二九人が抑留され、三二八隻が拿捕されました。その過程で四十四名の方が死傷しています。公海上に引かれた李承晩ラインを根拠に拿捕するのは拉致と同じ状況です。その抑留した人々を韓国側は外交交渉の手段に使いました。もしこれらの人々を返してもらいたかったら、日本は賠償をしなさい、在日韓国人の法的地位を認めなさい、あるいはまた朝鮮半島に残してきた日本人の個人資産をゼロにしなさいという外交交渉です。その外交カードとなったのが竹島問題です。そして、その論拠となっていたのが歴史理解です。その韓国側の歴史理解が十分なものであったのかどうか。これについて今日は皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

 竹島は一九〇五年に島根県に編入され、一九五四年九月に韓国によって武力占拠されます。したがって、二〇〇四年九月は竹島占拠五十周年の年となります。五十年以上経つと国際法上、自国の領土として主張するのが非常に弱くなります。今日皆さんがお集まりになったことはたぶん新聞報道されるでしょうが、韓国でも報道されればおそらく問題提起ということになります。ぜひ若い方にこの竹島問題に関する勉強を続けていってほしいと思います。

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 竹島問題の課題

 竹島問題が解決しない理由は、韓国側との間で対話がまったくないからです。日本側が何か言うとすぐ「妄言」です。なぜ「妄言」という言葉が出るのでしょうか。それは自分たちが絶対に正しいと思っているからです。そういう状況のときに、「返してください」、「歴史的にも私たちのものです」、「国際法的にも私たちのものです」と言っても通用しません。

 一番大きな問題は、長い間、日本側が竹島問題に関してあまりにも関心を持たなかったことにあります。日本側の竹島研究は一九六〇年代で終わっています。ところが、韓国側ではそれ以降もずっと続いています。この対応の差がとても大きいのです。

 一九六〇年代、島根県庁の職員であった田村清三郎さんが書かれた『島根県竹島の新研究』、それを受けて外務省の川上健三先生が書かれた『竹島の歴史地理学的研究』には実は問題があります。それは日本側の史料だけを使っていることです。韓国側の文献を使って反論していない。したがって、韓国側の主張と日本側の主張が合わないわけです。それ以降の韓国側の主張は、すべて日本の歴史研究は間違いである、歪曲であるという視点に立っていますから、日本側がどんなに返せと言っても返すはずがありません。そういう現状を認識しておかなければならないと思います。

 と同時に、歴史研究が行われなかった間に、日本の研究者の間にはすべて韓国の言うことが正しいというような人が出てきました。その人たちは韓国側から言うと「良心的日本人」ということになります。その「良心的日本人」と言われる人たちが書いたものを読んでみると、韓国の人が書いたものをまる写しにしています。「良心的」に写したのかどうか、それはわかりませんが、そういう意味では歴史研究が中断していたことが、竹島問題が解決しない課題の一つです。

 また韓国では、大統領が替わると必ず前の政権が政治的に問題となります。時代が過ぎると前の時代のことをあまりよく見ないわけです。まして日本が植民地支配をした時代をよく言うはずがありません。つまり、悪く言う、だめだった、いけないと言うことによって自分たちの正当性を主張していくのが韓国的発想で、それに対して「良心的日本人」がお手伝いをしているのです。これでは何も知らない人たちは何を信じたらよいか、竹島問題は混迷していかざるを得ません。

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 竹島問題の淵源

 こういう状態が五十年も続いています。そういうことを考えていくと、竹島問題はどうしたらいいのか、なぜ起こったのか、これはぜひ隠岐島の皆さんに考えていただきたい。なぜなら、竹島問題の淵源となる三百年前の事件には、隠岐島の方が関係しているからです。

 江戸時代の初めの頃、鳥取藩米子の大谷と村川の二つの家が幕府から許可を得て鬱陵島に漁に行っていました。これはアワビやワカメを取り、材木を切り出すためです。米子の両家は輪番で鬱陵島に渡航する際は、きまって隠岐島の福浦港で風待ちをして出航していました。そして風待ちの間に島前、島後を回り、乗組員の確保をします。当時、鬱陵島には二百石船で渡っていました。乗組員は二十一、二名です。そして、隠岐島でアワビ突きを二、三名、船のこぎ手を六名、計八、九名を連れて行きます。船主は米子ですが、実際にアワビ突き漁をしていたのは皆さんのご先祖なのです。

 事件は、一六九三年に米子の大谷家の船が鬱陵島に渡ったときに起こりました。たまたま前年くらいから朝鮮側からも漁民が来るようになっていて、漁場を争うことになります。鬱陵島に渡ってみると、アワビなどが干されているので、これはいけないというので大谷家の船頭等は、安龍福と朴於屯という二人を連れ帰ってきます。つまり、領海侵犯の現行犯逮捕です。はじめに連れてきたのが福浦です。そして、西郷町から松江藩の役人が来て取り調べをした後、米子に連れて行きます。

 そのとき鳥取藩は幕府に連絡します。幕府はそれを聞いて、朝鮮半島との外交窓口であった対馬藩を通じて朝鮮側に抗議させます。当時の朝鮮の政権は、日本に対してかなり協調的な政権でしたから、これは悪いことをしたとまず謝ります。しかし、そうこうしているうちに朝鮮では政権が替わって、前の政権がやったことは間違っていた、二人は拉致されたんだということになります。当時、鬱陵島は朝鮮からは行ってはいけない島でした。だから、本来この二人は朝鮮側からしても犯罪人だったわけで、朝鮮側で法が守られていたら処罰されていたはずです。ところが、日本の実情を知っているということで送還された後も生かされていきます。これは最近の例では大韓航空機爆破事件の金賢姫という女性のケースと似ています。本来なら犯罪人ですから処罰されるはずですが、そうしません。

 そういったことがあって、安龍福という人物は生かされているわけです。ところが、日本と朝鮮との交渉が難航していきます。それにしびれを切らした彼はついに仲間を誘って密航して隠岐島にやって来ます。そして、鳥取藩には自分でやってきます。なぜ彼は再びやって来たのか。それは、最初に鬱陵島で捕まって隠岐島にやってくる間に、彼は夕方の海上で島を見ていたのです。それも安龍福は鬱陵島と日本の間に「鬱陵島よりすこぶる大きな島」があると証言したのです。しかし、朝鮮では誰もそんなことを信用しない。それが気に入らないので、安龍福はそれを証明するために海を渡って再びやって来るわけです。

 そして帰国後、安龍福は「すこぶる大きな島」を日本の松島(現在の竹島)と証言し、それを朝鮮の于山島と供述するのです。安龍福がこのように竹島を朝鮮の于山島と誤解するのは、初めて鬱陵島に渡った際、島(于山島)を目撃していたからです。安龍福はその島を鬱陵島から船で東北に一日ほどの距離にあると目測していました。そして同行の朝鮮の漁民から教えられた島の名は于山島だったのです。

 しかし竹島は鬱陵島よりはるかに小さい島で、鬱陵島の東南に位置しています。ですから、安龍福は実際に竹島を見ていません。見ていないけれども、安龍福はその島は自分たちの島(于山島)に違いないと思い込むわけです。朝鮮半島は三面を海に囲まれていますが、当時は航海術も造船技術も劣っていたので、外洋に出ることはありませんでした。そういう状況ですから日本に連れて行かれる途中のすこぶる大きな島は、鬱陵島の近くにあると錯覚したと思われます。そして、位置関係からしてもそのすこぶる大きな島はたぶん隠岐島のことだと思います(隠岐島の面積は鬱陵島の四・七倍の広さです)。それを自分たちの島、于山島だと思い込んでいたわけです。そして、本国に送還されて、朝鮮側で調べられても、自分の言うことを誰も信用してくれない。そこで証明しようとして再び渡ってきたのが一六九六年です。

 ところが、その前に江戸幕府では、対馬藩の藩主が亡くなって新たな藩主に替わったのを機に、鬱陵島の領有権問題を争うのは日本側が不利だ、文献上(『東国輿地勝覧』の「歴々見える」を朝鮮半島から鬱陵島が「歴々見える」と読み、鬱陵島は朝鮮領と解釈した)もこれは朝鮮のものだから返しましょうと決定しました。そして、一旦この領土問題が解決した後に、朝鮮から安龍福が密航して来て、問題が大きくなってしまうのです。それは安龍福が本国に帰って後、重大な発言をするからです。つまり、日本の松島(今日の竹島)は、朝鮮でいう于山島だと証言するのです。それが朝鮮の『肅宗実録』という編年体の歴史書に記録されることになり、後世に伝えられることになります。

 そして、その安龍福の証言は、さらに一七七〇年に『東国文献備考』に載せられていくことになります。ですが、竹島を朝鮮の于山島とした安龍福の証言は正しくありませんでした。于山島は鬱陵島の東北にありますが、竹島は鬱陵島の東南方向にあります。それに竹島は「すこぶる大きな島」ではありません。しかし、竹島は朝鮮でいう于山島なんだという証言がそのまま官撰の『東国文献備考』に載り、文献として残されていくのです。これが後に韓国側が竹島の領有権を主張する際、根拠のひとつとなっていきます。

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 竹島問題の発端

 文献として定着した後、時代が過ぎて明治維新を迎え、日本人がまた朝鮮半島に渡るようになってくる頃、『東国文献備考』を改訂して『増補文献備考』が編まれ、その中でも安龍福は日本をやっつけたということで過大評価されていきます。安龍福は韓国の歴史教科書では英雄として描かれる背景がここにあります。

 そして竹島問題が浮上することになった端緒は、一九〇五年以前から隠岐島の中井養三郎さんという方が、竹島でアシカ漁をしていたことの中にあります。そのとき、アシカ漁をするには領有権がはっきりしていないので、はっきりしてほしいということで、日本政府が調べた結果、竹島は以前にどこの国にも属していないということで島根県隠岐郡に編入することになりました。

 実はアシカ捕りは日本人だけで行ったわけではありません。アシカ漁に行く場合、隠岐島などから行く方法と、鬱陵島から行く方法とがありますが、鬱陵島から行くときはどうしても人夫が必要となります。そこで雇われたのが韓国人です。数社そういう会社があって、韓国人が雇われてやって来て、その前後から韓国側では獨島という呼称が使われはじめます。それ以前は、航海術も十分ではない、船もいい船ではない。したがって韓国の人が竹島に来るはずはなかったわけです。

 そして竹島が日本に編入されたということで、一九〇六年に島根県の方と隠岐島の方総勢四十五名が第二隠岐丸に乗って竹島視察に出かけています。これは、一九〇四年から〇五年にかけては日露戦争があったために外洋に出ることができなかったので、一九〇五年に竹島が隠岐郡に編入されたことを記念して竹島に渡ったのです。竹島は視察したのですが、天候が悪くなったため、隠岐島に帰るか、鬱陵島に行くかということで、鬱陵島に行くことになります。その時に一行の一人が、竹島が日本領になったということを発言したのです。それを聞いた韓国の官吏が、これは大変なことになったということで中央政府に報告することになります。その時から、竹島は日本に奪われたという歴史理解が韓国側に出来あがるのです。

 それが時代がずっと下って、先ほど述べたようにサンフランシスコ講和条約の中でまた問題化されて、そして韓国側としては竹島を死守したい、つまり奪われたものだから死守するということで結局韓国に編入してしまって、武力によって占拠していくことに繋がっていくのです。それが一九五四年九月です。そして日本側は、外務省等が一生懸命に調査したり、本に書いたりしたのですが、それも途中で終わってしまいました。以降、日本側はずっと沈黙していました。

 というのは、日本側が領有権を主張して、日本側の文献を根拠に抗議しても韓国側は一蹴してしまうからです。韓国側と論争する場合には、日本側の文献だけで論争ができますか。そうではないですね。外交交渉をする場合は、自己主張するだけでなく、相手側の欠陥を見つけだすことです。

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 韓国側の竹島領有権主張の論拠

 韓国側が主張しているものがどういうものかというと、まず『増補文献備考』の註に「于山島は倭の所謂松島(今日の竹島)なり」と書いてあるのがまずひとつの論拠です。しかし、これは安龍福の証言から七、八十年後に書かれたもので、于山島を竹島とする文献は安龍福の証言以前にはありません。そして、もうひとつがその『東国文献備考』を根拠に、『東国輿地勝覧』と『世宗実録地理誌』の中に于山島という島の名前を見つけ、これを獨島だと主張するものです。ところが、その時に『東国輿地勝覧』の「歴々見える」(20ページ参照)をどう読んだか。十七世紀末、日本と朝鮮の間で鬱陵島の領有権を争った際、朝鮮政府は、朝鮮半島から鬱陵島が見えると解釈して、鬱陵島の領有権を主張する根拠としていましたが、竹島問題が起こると韓国政府はそれを鬱陵島から竹島が見えると読んだわけです。

 おかしくないでしょうか。同じ文献が竹島と鬱陵島という全く違う島の領有権を主張する論拠にされてしまっているのです。この事実は、韓国側が領有権を主張する際に使った文献には歴史的根拠がまったくなかったということなのです。ただ、安龍福が于山島は松島だと言っただけのことです。それが文献に残っているから、于山島とあれば全部それにつなげていくんです。だから、韓国側は地図に于山島とあれば、それは全部竹島だという言い方をしてきたわけです。

 この「歴々見える」は本来どう読むべきか。中央集権国家であった朝鮮半島では中央が地方を支配していますから、地方がどのようになっていたのか地誌の中で知っておく必要があります。その際、鬱陵島のような島は、中央を中心として線を書いて、管轄する地方官庁から見える位置と方向が明記されているのです。そう書かれているので、「歴々見える」というのは鬱陵島から竹島が見えると解釈するのは正しくありません。鬱陵島の場合は、島を管轄する蔚珍県から「歴々見える」と解釈しないといけないのです。そういう意味では韓国側が文献を正確に読んでいないということです。

 では、なぜそうなったのか。それは安龍福という人物が言ったことが改ざんされていたからです。それを韓国側は気づきませんでした。日本の学者もまったく気づいていませんでした。そういうことを一九九六年四月に私は韓国の雑誌に投稿したのです。「竹島が韓国領であるという根拠は歪曲している」というタイトルですが、韓国でこういうことを書くのはちょっとこわいです。しかし、載せてくれます。ということは、韓国側は日本側が主張すれば乗ってくるということです。韓国にはそういう人たちがいるんです。ですから、我々はこういう会をここでやるのではなくて、ソウルでやってもいいですね。そのくらいの気持ちがないとこの問題はなかなか解決しないのではないかと思います。

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 竹島問題の弊害

 九六年に竹島で接岸施設の建設をはじめた後、韓国側では自分たちの実効支配を確実にするために、有人灯台をつくったり、戸籍や郵便番号をつくったり、国立公園化をしようとしました。それからもうひとつ、「日本海」をやめて「東海」にせよという主張をしました。つまり、日本海の中に獨島があるというのは、日本の領海にあるようでよくないから、韓国側の名前に改めよというのです。これも歴史的に見るとまったく嘘です。東海というのは、日本でいう東海道と同じです。東の海です。そういう意味でいうと、隠岐島の人たちが日本海を何と呼んでいたかというと、「北海」です。「東海」もそれと同じようなレベルです。それに対して、日本の新聞には事実だけを報道して、真実を報道していないものもありました。なぜそういう問題が起こっているかという報道ではありませんでした。このようなところにも竹島問題が解決できない理由が潜んでいます。

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 今日的課題

 そういうことを考えていくと、他の誰にも頼ることができません。一番大きな問題は、竹島だけではなくて、大和堆(大陸棚)です。日本海の中で一番大きな漁場です。これが乱獲の海のままでいいのかどうか。韓国にも皆さんと同じように漁業に生活をかけている漁民がいます。だから、お互いに仲良く漁場として使えるように、むしろ魚を増やす方向で環境問題を語っていくような場の中で竹島問題を捉えていくことがあってもよいのではないでしょうか。

 そういうことを考えると、ただいたずらに返せと言ってもなかなかうまくいきません。そういう意味では、我々自身が人材を育成するという意味で地域研究を深めていく必要があります。しかし、地域研究ということで東北アジア、北東アジアという言い方をすると、どうも経済的、あるいは政治的な問題だけを捉えてしまいますが、本来は歴史的な問題を踏まえていかないと、特に朝鮮半島との問題はなかなか解決ができません。実際、拓殖大学には国際開発学部ができましたが、実は日本で東洋学、東洋史の原点である満鮮史研究が始まったのは拓殖大学の周辺からです。その中で百年を記念してつくられたのが国際開発学部です。過去への取り組みは今、始まったばかりです。

 隠岐島の皆さん、そして、島根県、鳥取県、あるいは福井県、石川県の皆さんは全て大和堆に関係があります。そういう人たちが連帯して勉強していくような組織をつくらないと、隠岐島だけで騒いでもどうにもなりません。先ほど知事さんともちょっとお話ししたのですが、そういう席に今度は韓国の学生さんも呼んだらどうでしょうか。チャーター便で竹島を見てこちらに来ていただいて、できれば日本海の沿岸を歩いてもらい、いっぱい落ちているゴミがどこのゴミなのか見てもらう。そして、ゴミを一緒に拾ってもらうんです。そうやって環境問題を考えながら、日本海がこれでいいのか、そして最後に島はこれでいいのかというような、子供たちがもう一度冷静になる時間をつくり、その中で交流などを考えていく必要があります。それから、隠岐の小学生、中学生、高校生の皆さんには、今言ったような歴史の背後にあるものをぜひ勉強していただきたいと思います。そういうものがあれば、日本の政府もたぶん動けるでしょうし、政治に携わっておられる方も動けるでしょう。政治家の方だけが動くと「妄言」ということでつぶされてしまいます。それを「妄言」にしないためには、この隠岐島、特に五箇村が中心になっていかないと、竹島問題の解決はなかなか難しいのではないかと考えます。

 韓国はこちらが主張すると応えてくれるところです。その問題が解決できると、これからの日朝国交正常化交渉も少し楽になってきます。五十年前に韓国側が日韓の国交正常化交渉で日本の侵略的性格を強調する外交カードとして竹島カードを使いましたが、韓国側の竹島占拠の歴史的根拠が事実無根であったことが実証できれば、従来のように歴史問題を出して日本をけん制することが難しくなります。

 それは五十年間にわたり竹島の占拠を続ける韓国側の歴史認識が問題にされるからです。今日、北朝鮮は歴史問題では韓国側に同調し、拉致問題などで日本政府の外交攻勢をかわす際にも、過去の歴史を取り上げ、過去は日本封じ込めの常套手段となっています。

 ですが過去の歴史問題は、竹島問題に象徴されるように、再検討すべきことが多いのです。この時、竹島問題をきっかけに日韓の誤解を解き、相互理解を深めていければ、ともに北朝鮮に向かうことも可能です。その突破口となれるのは島根県であるし、隠岐島の皆さんだと思います。そういう意味で、竹島問題は一部地域の問題ではなくて、日本全体の問題として認識していくことができるのではないかと思います。


竹島問題の淵源の項目以降を読んでみると、


安龍福の名前が出てきた最初が1693年となっている。

1696年に安龍福は再来している。そのときの記録が編年史『肅宗実録』に載り、安龍福の証言は1770年に官撰の『東国文献備考』に「于山島は倭の所謂松島(今日の竹島)なり」と載せられた。

時代が過ぎて明治維新後、『東国文献備考』は改訂され『増補文献備考』が編まれ、その註に「于山島は倭の所謂松島(今日の竹島)なり」と書かれている。

これは安龍福の証言から七、八十年後に書かれたもので、于山島を竹島とする文献は安龍福の証言以前にはない。

『東国文献備考』を根拠に、『東国輿地勝覧』と『世宗実録地理誌』の中に于山島という島の名前を見つけ、これを獨島だと主張している。

『東国輿地勝覧』には「歴々見える」というのは半島から鬱陵島がみえるのが本筋であり、鬱陵島から「歴々見える」というのは竹島ではない。


以上のことが「竹島問題」の根底的な誤解の源だと下條正男氏は解説していることがわかる。

日本と韓国の間に横たわる歴史研究を更にすすめて、相互理解をすることが大切であろう。「相互の無知と偏見が争いの根源である」という原則を逸脱してはならない。

「どうなっている竹島問題」の項を一先ず終わることとする。

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