折々の記へ

折々の記 2005 @

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】01/01〜        【 02 】01/02〜
【 03 】01/05〜        【 04 】01/09〜
【 05 】01/14〜        【 06 】01/24〜
【 07 】03/28〜        【 08 】03/30〜
【 09 】04/15〜        【 10 】04/22〜


【 8 】03/30〜

  03 30 おかしな陽気
  04 01 学問に王道なし
  04 04 やっぱりおかしい陽気
  04 05 友美が中学生、優は四年生
  04 06 坪庭の庭石設置と枇杷の定植
  04 09 アメリカの参考書6冊
  04 11 隗より始めよ
  04 12 反日感情(時の動き)
  04 12 舎利禮文(しゃりらいもん)
  04 13 さくら
  04 15 佐久間象山

 03 30(水) おかしな陽気

温暖化の性なのかどうかはわからないけれど、三月末になって寒気は日本海を南下し、気象は冬の様相のままである。ただ日差しは日増しに暖かくなってきており、それなりに春めいてきている。

今日も最低気温はマイナス指標なのである。

東京の桜前線は今日開花宣言をすると報じている。飯田地区は4月5日頃と予想されていたが、とにかく温暖化とは逆現象であることは事実である。

昨日真介と涼羽が帰っていき、真弓さんから電話があった。涼羽がとても喜んでいたということでありとても良かった。

 04 01(金) 学問に王道なし

無為に過せば十年一日という。生涯に限りありとするならば、将来の見通しを立てて知徳体の分野をできる限り伸ばしていく必要がある。 ことに学問に於いては、福沢諭吉の「学問のすすめ」にあるとおり、 There is no royal road to learning.《学問に王道はない》

 04 04(月) やっぱりおかしい陽気

昨夜の雨はけさあがったが寒かった。西山を見ると高い山が白くなっていた。

4月になって山に雪が降るというのは、やっぱり陽気がおかしい。

明日は小学校も中学校も入学式がある。優は4年生になり、友美は中学1年生になる。友美に英語のURLを幾つか連絡し、友美がパソコン操作をしたところ接続ができないと言ってきた。たしかに接続できない。NTTの斉藤さんに連絡してみると、明日の夕方きてくれるそうである。

18〜19の同級会は出席20名となり、アスティたかぎへ行って、細かい打合せをし、準備を整えて6日の会合の資料を作った。

 04 05(火) 友美が中学生、優は四年生

玄関先へ出てきた友美は中学の制服に身をかため、見違えるような中学生になっていた。今日は入学式である。

学問に王道なし、ということなればクラークが「少年よ、大志を抱け!」というように、「青雲の志」に燃える年齢になったのである。

すくすくと成長することを願う。

朱熹の漢詩


  偶成

   少年易老学難成 

   一寸光陰不可軽 

   未覚池塘春草夢 

   階前梧葉巳秋声
... 


孔子の儒学を発展させ朱子学を大成した南宗の大学者<朱熹>が、学究の徒としての万感の想いを込めた「偶成」の世界・・・ である。

自己構築、自己世界の完成…それは、<ピアス>が願った生物の根源的な意志でもある。

それゆえに、福沢諭吉は「学問のすすめ」を著わして日本の近代化を目指したものでもある。さらにまた、「五箇条の御誓文」に‘知識を世界に求め、………’も国家の大計であるにせよ、基本的心構えであった。

自己を高め人の役にたつようにするには、学問の研鑚は誰にとっても最も大切な心構えである。

良い高校へ行きたい、良い大学へ行きたい、良い職業に就きたい、こうしたことも目標として掲げることはできるけれども、自分の世界に行き詰まるときがある。

『人の役にたつ』それは人と人が心の中で手を取り合うことが基本になっている。それは小さくは友達が喜び合う土台になるものであり、兄弟仲よく、家庭円満、地域の発展、国家の平和につながり、やがて世界の平和に直結する。

『人の役にたつ』そのために学究の徒として日夜研鑚に励むことが望まれる。

青雲の志、すてきな言葉だ。若いときは二度とないし、記憶量が最大の時期である。

 04 06(水) 坪庭の庭石設置と枇杷の定植

去年の8月10日「折々の記」に記録してあるが、大塩さんの鹿塩の家の庭から庭石をいただき適当に設置しておいたが、どうも直したほうがよいと考えていて今日石の向きをなおした。

横の寝石は金属音がしており、非常に硬い石である。塀をかけると彫っておきたいと考えていた文字「大塩」2004 が彫れないので、石の向きを変えて「大塩」と刻んだ。

最初は鑿で彫りこむつもりでおったが、鑿をまったく寄せつけないので、機械を使って大きい文字で大塩と裏面へ彫りつけた。

枇杷はその庭石の前に定植した。

 04 09(土) アメリカの参考書6冊

mag2「冠詞の世界」マガジンの紹介で 4〜6年生の参考書(英語・算数・理科・地理・歴史上下)6冊を取寄せた。(4/7出荷、4/8到着、7770円支払)

たとえば、アメリカ小学校高学年の国語(英語)の参考書の表紙はこうなっている。

4th to 6th grades
everything you need to know about
ENGLISH
homework

算数・理科・地理・歴史上下の表紙も‘ENGLISH’の部分がそれぞれの教科名になっているだけである。1 冊 135頁位で値段は 1200円余だから、割りに安いとおもう。

友美の参考にもなるので、独自のノート形式で解読していくつもりである。

 04 11(月) 隗より始めよ

http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.49.html>は「日記と随筆5」の、古い日記をまとめたその‘はじめに’の序文に書いたものである。

教育の中核は次のことであった。


 よい教育をしようとするならば、

 大人自身・親自身が、見られてもよい、聞いてもらってもよい、読んでもらってもよい、というものを自らすることだったのです。


戦後出版された「知と行」という小冊子も、「隗より始めよ」という『戦国策』燕策の故事に出てくる成句も、その中核は自分ですることであったのです。

「隗より始めよ」を調べてみると次のように書かれている。


隗より始めよ   日本大百科全書

大事をなすには手近なことから着手せよとの意、転じて、いいだした者から始めよとの意。中国戦国時代、燕(えん)の昭王が天下に人材を求めたとき、遊説者の郭隗(かくかい)が王に「昔、王から名馬を求めてこいと千金を託された馬丁が、遠方まで出かけて行って死馬の骨を五百金を投じて買って帰った。王がそれをなじると、『死馬の骨ですら五百金で買う王なら、生きた馬はきっと高価に買ってくれるだろうと、いまに天下の名馬が王のもとに集まってくるに違いない』と答え、はたして王は千里一駆けの名馬を三頭も求めることができた」というたとえ話を語り、「これと同様に、賢者を招こうとするなら、まず私のようにあまり優秀でない者を優遇することから始めるのがよい。そうすれば、秀(すぐ)れた賢人が王のもとに続々と集まってくる」と説いた、と伝える『戦国策』や『史記』の故事による。

隗より始めよ   デジタル大辞泉

《中国の戦国時代、郭隗(かくかい)が燕(えん)の昭王に賢者の求め方を問われて、賢者を招きたければ、まず凡庸な私を重く用いよ、そうすれば自分よりすぐれた人物が自然に集まってくる、と答えたという「戦国策」燕策の故事から》大事業をするには、まず身近なことから始めよ。また、物事は言い出した者から始めよということ。



 04 12(火) 反日感情(時の動き)

国益という考え方があるけれど、国益の衝突をどう解決したらいいのか。あるいはまた、寄らば大樹という諺もあるけれど、中樹とか小樹はどうすればいいのだろうか。

日本のアメリカ追従姿勢には、驚きを禁じえない。政治家は日本の将来に対する大計をどう考えているのだろうか。

新聞の記事をみていると中国の反日感情は無理のないことだろうと思う。それにしても日本の基本路線ははっきりしていない。

靖国参拝、竹島問題、教科書問題、領海領土問題の対応、軍事力にまつわる憲法修正問題、巨大資本の海外進出、基本姿勢がはっきりしないままの国連常任理事国運動

困ったことが多い。「過ちは改むるに憚らず」と教えられてきた。間違っていたらなおせ、そんなことは当たり前のことである。


【社説】2005年04月11日(月曜日)朝日新聞

中国政府 なぜ暴力を止めないのか

 中国での反日デモが激しさを増している。1972年の日中国交正常化以来、最悪といってもいい事態ではないか。

 北京では約1万人が繰り出し、日本大使館に石やペットボトルを投げ込んだほか、日本料理店などを壊した。デモは広東省広州や深セン、四川省成都にも広がった。上海では日本人留学生が殴られてけがをした。

以下省略  社説ではタイトル表示のように、反日現象に対する感情を述べている。社説はこんなことだけではいけない。


そもそもというのも可笑しいが、戦争責任者を一般の戦没者といっしょにして靖国神社へ合祀したことがおかしいのである。

私の年代は戦争の為に青春時代を失った。これはいずれの国にもあることであるが、戦争を始めた責任者(それは特定できないかも知れないが)に対し、あってはならない考え方として拒否されなければならない。

戦争の責任者の墓と、戦争のために亡くなった親や兄弟の墓を一緒にしていてよい筈はない。

戦争に対する総懺悔がなされていないという主張は事実として改めなくてはならない。憚ることはない。

反日感情は無理からぬことであるが、さてどの方向にむけて処理するつもりだろうか。

 04 12(火) 舎利禮文(しゃりらいもん)

竹花壮六法事の折に浄真寺住職から渡された「舎利禮文」を記録しておく。


       舎利礼文 しゃりらいもん  (三回繰り返します)

  一心頂礼 いっしんちょうらい

  万徳円満 まんとくえんまん

  釈迦如来 しゃーかーにょーらい

  身心舎利 しんじんしゃーり

  本地法身 ほんじーほっしん

  法界塔婆 ほっかいとうばー

  我等礼敬 がーとうらいきょう

  為我現身 いーがーげんしん

  入我我入 にゅうがーがーにゅう

  仏加持故 ぶつがーじーこー

  我証菩提 がーしょうぼーだい

  以仏神力 いーぶつじんりき

  利益衆生 りーやくしゅうじょう

  発菩提心 ほつぼーだいしん

  修菩薩行 しゅうぼーさつぎょう

  同入円寂 どうにゅうえんじゃく

  平等大智 びょうどうだいちー

  今将頂礼 こんじょうちょうらい


 04 13(水) さくら

戸数28の小さな部落の「やよい会」というボランテアの誘いがあって、韓郷社境内の桜の木の下で‘桜の花見’に出かける。

「月桂冠」のホームページに<桜と日本の酒 -日本の感性が育んだ酒->という記事が出ている。

「さくら」に寄せる私たちの気持ちをうまく書いてあるので、ここへその一部を転載する。


桜と日本の酒 -日本の感性が育んだ酒-

日本の四季の移り変わりはきわめて微妙である。画家・東山魁夷は「多彩と淡泊、華麗と幽玄、桃山文化のようなきらびやかさと、雪舟の墨絵のようなものが、違和感なく同居し、空気そのものがうるおい、景色もソフト」だという。雨ひとつをとってみても「春雨(はるさめ)じゃ、濡れて参ろう」などという、やさしく明るい雨があるかと思えば、夕立のような激情ほとばしる雨や、深々と垂れこめる梅雨(つゆ)の雲など、見事に細かく描き分け、区別する。そこに日本の感性がある。人々の自然観と美的感覚がはぐくんできた酒、それが日本の酒である。

「春はあけぼの やうやうしろくなりゆく 山ぎは少しあかりて むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」と、静かにあけゆく京の春をいとも雅(みやび)に描写したのは、平安朝の才媛・清少納言。しかし、いまの私たちに最も春を感じさせてくれるのは、やはり桜であろう。明治以後、染井吉野という品種が全国各地に植えられ、ひときわ華やかに咲きほこるようになった。桜の開花日は、日本列島を南からゆっくりと北上、人々に春の到来を告げてゆく。いまでは「桜前線」という言葉まで生むに至った。

 桜ばな いのち一ぱい 咲くからに
   生命(いのち)をかけて わが眺めけり   (岡本かの子)
京の春は、技垂桜の円山、銀閣寺へ通じる哲学の道などサクラに満ちあふれ、「はんなりした風情」に包まれる。「はんなり」とは「花有り」を意味し、陽気で、上品な華やかさを表わしている。京の酒の特徴も、ひとことで言えば「はんなりした風味」ということになろう。ふくらみとやさしさ、すっきりと調和した香味が身上の日本の酒は、不思議なくらい桜とよく似合う。


「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の  吹かぬものかは」
たとえ私たちへの警鐘であるとしても、さくらを題材にして人の世の想いを歌っているものは大変な数になる。

生きる死ぬにかかわっていたとしても、
「散る桜 残る桜も 散る桜」
これなどは、あっけらかんとして軽妙洒脱の言い放ちと受けとめられる。

「七つ釦は 桜に錨」となると、これはいただけない。

 04 15(金) 佐久間象山

きのう秀は松代へ行き、韓国の人たちに強制労働を強いて造らせた、大本営防空壕を訪れて涙を流してきたという。

それと佐久間象山記念館を訪れ、その偉大な人となりに感激してきた。

信濃の国に歌われているので長野県の人たちは誰でもその名を知っている。幕末の時代に信州の山の中からどうしてこんな人が出たのか見当がつかない。だが日本の開国の方向を目指した新進気鋭の青年であったに違いはない。

ジャパンナレッジと世界大百科事典を調べて転載しておく。


★日本大百科全書  佐久間象山  さくましょうざん  [1811―64]

幕末の先覚者。信州松代(まつしろ)藩士。名は啓(ひらき)(またの名は大星(たいせい))、字(あざな)は子明(しめい)、通称は修理(しゅり)、号を象山という。一般には「しょうざん」というが、地元の長野では「ぞうざん」ということが多い。
 1833年(天保4)に江戸に遊学し、林家(りんけ)の塾頭佐藤一斎(いっさい)の門に入った。ただし、すでに純乎(じゅんこ)たる朱子学者であった象山は、ひそかに陽明学を信奉していた一斎に不満をもち、一斎からは経書の講義をいっさい受けず、もっぱら文章詩賦(しふ)を学んだと伝えられる。42年、主君真田幸貫(さなだゆきつら)が老中海防掛に就任すると、象山は顧問に抜擢(ばってき)され、命を受けて、アヘン戦争(1840〜42)で険悪化した海外事情を研究し、「海防八策」を幸貫に上書した。これを契機に洋学(蘭学(らんがく))修業の必要を痛感した象山は、44年(弘化1)34歳のときにオランダ語を学び始め、2年ほどでオランダ語を修得し、オランダの自然科学書、医書、兵書などをむさぼるように読み、洋学の知識を吸収し、その応用にも心がけた。51年(嘉永4)江戸に移住して塾を開き、砲術・兵学を教えた。このころから西洋砲術家としての象山の名声は天下に知れわたり、勝海舟、吉田松陰(しょういん)、坂本龍馬(りょうま)らの俊才が続々入門した。53年、ペリー来航により藩軍議役に任ぜられた象山は、老中阿部正弘(あべまさひろ)に「急務十条」を提出する一方、愛(まな)弟子吉田松陰に暗に外国行きを勧めた。しかし54年(安政1)に決行された松陰の海外密航は失敗に帰し、象山もこれに連座して、以後9年間、松代に蟄居(ちっきょ)させられた。この間、洋書を読んで西洋研究に没頭し、洋学と儒学の兼修を積極的に主張するとともに、固定的な攘夷(じょうい)論から現実的な和親開国論に転じ、そのための国内政治体制として公武合体を唱えるようになった。62年(文久2)蟄居を解かれ、64年(元治1)幕命を受けて上京した象山は、公武合体・開国進取の国是(こくぜ)を定めるために要人に意見を具申してまわったが、その言動が尊攘激派の怒りを買い、同年7月11日ついに斬殺(ざんさつ)された。享年54歳。
 象山の知的世界――変革的意識とエリート意識に立脚する政治的世界と照応する――は、人間の内なる理(倫理)を究める「東洋の道徳」と、人間の外なる天地万物の理(物理)を明らかにする「西洋の芸術」によって構成され、「倫理」と「物理」を連続的にとらえることによって天人合一の境地に達しようとする朱子学によって統轄されており、その朱子学は幼年期から熟通していた易道と深く結び付いていた。著書には『省録(せいけんろく)』『卦(ほうけ)』などがある。
[石毛 忠]

参考文献・音響映像資料:
■信濃教育会編『増訂象山全集』全五巻(1934〜35・信濃毎日新聞社/復刻版・1975・信濃教育会出版部) 
■松浦玲編・訳『佐久間象山』(『日本の名著30』所収・1970・中央公論社) 
■植手通有訳注『佐久間象山他』(『...

★デジタル大辞泉 さくま‐しょうざん〔‐シヤウザン〕【佐久間象山】 [(一八一一〜一八六四)]

江戸末期の学者。信濃松代藩士。名は啓(ひらき)。初め朱子学を、のちに蘭学を修め、西欧の科学技術の摂取による国力の充実を主張したが、京都で攘夷派に暗殺された。門下に勝海舟・吉田松陰らがいる。

★日本人名大辞典 佐久間象山 さくま‐しょうざん 1811‐1864

江戸時代後期の武士,思想家。

文化8年2月28日生まれ。妻は勝海舟の妹。信濃(しなの)(長野県)松代(まつしろ)藩士。江戸で佐藤一斎にまなび,神田で塾をひらく。天保(てんぽう)13年老中真田幸貫(ゆきつら)に「海防八策」を提出。江川英竜(ひでたつ)に西洋砲術をまなび,勝海舟らにおしえた。嘉永(かえい)7年吉田松陰の密航事件に連座。のち公武合体,開国を説き,元治(げんじ)元年7月11日京都で尊攘(そんじょう)派に暗殺された。54歳。名は啓(ひらき),大星。字(あざな)は子明。通称は修理(しゅり)。号は「ぞうざん」ともよむ。著作に「省録(せいけんろく)」など。
【格言など】東洋の道徳,西洋の芸術,精粗遺さず,表裏兼ね該(そな)え,よって以て民物を沢(うるお)し,国恩に報ず(「省録」)




【折々の記 2005 @へ】