03 30(水) おかしな陽気 |
04 01(金) 学問に王道なし |
04 04(月) やっぱりおかしい陽気 |
04 05(火) 友美が中学生、優は四年生 |
偶成 少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覚池塘春草夢 階前梧葉巳秋声... |
04 06(水) 坪庭の庭石設置と枇杷の定植 |
04 09(土) アメリカの参考書6冊 |
04 11(月) 隗より始めよ |
よい教育をしようとするならば、 大人自身・親自身が、見られてもよい、聞いてもらってもよい、読んでもらってもよい、というものを自らすることだったのです。 |
隗より始めよ 日本大百科全書 大事をなすには手近なことから着手せよとの意、転じて、いいだした者から始めよとの意。中国戦国時代、燕(えん)の昭王が天下に人材を求めたとき、遊説者の郭隗(かくかい)が王に「昔、王から名馬を求めてこいと千金を託された馬丁が、遠方まで出かけて行って死馬の骨を五百金を投じて買って帰った。王がそれをなじると、『死馬の骨ですら五百金で買う王なら、生きた馬はきっと高価に買ってくれるだろうと、いまに天下の名馬が王のもとに集まってくるに違いない』と答え、はたして王は千里一駆けの名馬を三頭も求めることができた」というたとえ話を語り、「これと同様に、賢者を招こうとするなら、まず私のようにあまり優秀でない者を優遇することから始めるのがよい。そうすれば、秀(すぐ)れた賢人が王のもとに続々と集まってくる」と説いた、と伝える『戦国策』や『史記』の故事による。 隗より始めよ デジタル大辞泉 《中国の戦国時代、郭隗(かくかい)が燕(えん)の昭王に賢者の求め方を問われて、賢者を招きたければ、まず凡庸な私を重く用いよ、そうすれば自分よりすぐれた人物が自然に集まってくる、と答えたという「戦国策」燕策の故事から》大事業をするには、まず身近なことから始めよ。また、物事は言い出した者から始めよということ。 |
04 12(火) 反日感情(時の動き) |
【社説】2005年04月11日(月曜日)朝日新聞 中国政府 なぜ暴力を止めないのか 中国での反日デモが激しさを増している。1972年の日中国交正常化以来、最悪といってもいい事態ではないか。 北京では約1万人が繰り出し、日本大使館に石やペットボトルを投げ込んだほか、日本料理店などを壊した。デモは広東省広州や深セン、四川省成都にも広がった。上海では日本人留学生が殴られてけがをした。 以下省略 社説ではタイトル表示のように、反日現象に対する感情を述べている。社説はこんなことだけではいけない。 |
04 12(火) 舎利禮文(しゃりらいもん) |
舎利礼文 しゃりらいもん (三回繰り返します) 一心頂礼 いっしんちょうらい 万徳円満 まんとくえんまん 釈迦如来 しゃーかーにょーらい 身心舎利 しんじんしゃーり 本地法身 ほんじーほっしん 法界塔婆 ほっかいとうばー 我等礼敬 がーとうらいきょう 為我現身 いーがーげんしん 入我我入 にゅうがーがーにゅう 仏加持故 ぶつがーじーこー 我証菩提 がーしょうぼーだい 以仏神力 いーぶつじんりき 利益衆生 りーやくしゅうじょう 発菩提心 ほつぼーだいしん 修菩薩行 しゅうぼーさつぎょう 同入円寂 どうにゅうえんじゃく 平等大智 びょうどうだいちー 今将頂礼 こんじょうちょうらい |
04 13(水) さくら |
桜と日本の酒 -日本の感性が育んだ酒- 日本の四季の移り変わりはきわめて微妙である。画家・東山魁夷は「多彩と淡泊、華麗と幽玄、桃山文化のようなきらびやかさと、雪舟の墨絵のようなものが、違和感なく同居し、空気そのものがうるおい、景色もソフト」だという。雨ひとつをとってみても「春雨(はるさめ)じゃ、濡れて参ろう」などという、やさしく明るい雨があるかと思えば、夕立のような激情ほとばしる雨や、深々と垂れこめる梅雨(つゆ)の雲など、見事に細かく描き分け、区別する。そこに日本の感性がある。人々の自然観と美的感覚がはぐくんできた酒、それが日本の酒である。 「春はあけぼの やうやうしろくなりゆく 山ぎは少しあかりて むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」と、静かにあけゆく京の春をいとも雅(みやび)に描写したのは、平安朝の才媛・清少納言。しかし、いまの私たちに最も春を感じさせてくれるのは、やはり桜であろう。明治以後、染井吉野という品種が全国各地に植えられ、ひときわ華やかに咲きほこるようになった。桜の開花日は、日本列島を南からゆっくりと北上、人々に春の到来を告げてゆく。いまでは「桜前線」という言葉まで生むに至った。 桜ばな いのち一ぱい 咲くからに 生命(いのち)をかけて わが眺めけり (岡本かの子) 京の春は、技垂桜の円山、銀閣寺へ通じる哲学の道などサクラに満ちあふれ、「はんなりした風情」に包まれる。「はんなり」とは「花有り」を意味し、陽気で、上品な華やかさを表わしている。京の酒の特徴も、ひとことで言えば「はんなりした風味」ということになろう。ふくらみとやさしさ、すっきりと調和した香味が身上の日本の酒は、不思議なくらい桜とよく似合う。 |
04 15(金) 佐久間象山 |
★日本大百科全書 佐久間象山 さくましょうざん [1811―64] 幕末の先覚者。信州松代(まつしろ)藩士。名は啓(ひらき)(またの名は大星(たいせい))、字(あざな)は子明(しめい)、通称は修理(しゅり)、号を象山という。一般には「しょうざん」というが、地元の長野では「ぞうざん」ということが多い。 1833年(天保4)に江戸に遊学し、林家(りんけ)の塾頭佐藤一斎(いっさい)の門に入った。ただし、すでに純乎(じゅんこ)たる朱子学者であった象山は、ひそかに陽明学を信奉していた一斎に不満をもち、一斎からは経書の講義をいっさい受けず、もっぱら文章詩賦(しふ)を学んだと伝えられる。42年、主君真田幸貫(さなだゆきつら)が老中海防掛に就任すると、象山は顧問に抜擢(ばってき)され、命を受けて、アヘン戦争(1840〜42)で険悪化した海外事情を研究し、「海防八策」を幸貫に上書した。これを契機に洋学(蘭学(らんがく))修業の必要を痛感した象山は、44年(弘化1)34歳のときにオランダ語を学び始め、2年ほどでオランダ語を修得し、オランダの自然科学書、医書、兵書などをむさぼるように読み、洋学の知識を吸収し、その応用にも心がけた。51年(嘉永4)江戸に移住して塾を開き、砲術・兵学を教えた。このころから西洋砲術家としての象山の名声は天下に知れわたり、勝海舟、吉田松陰(しょういん)、坂本龍馬(りょうま)らの俊才が続々入門した。53年、ペリー来航により藩軍議役に任ぜられた象山は、老中阿部正弘(あべまさひろ)に「急務十条」を提出する一方、愛(まな)弟子吉田松陰に暗に外国行きを勧めた。しかし54年(安政1)に決行された松陰の海外密航は失敗に帰し、象山もこれに連座して、以後9年間、松代に蟄居(ちっきょ)させられた。この間、洋書を読んで西洋研究に没頭し、洋学と儒学の兼修を積極的に主張するとともに、固定的な攘夷(じょうい)論から現実的な和親開国論に転じ、そのための国内政治体制として公武合体を唱えるようになった。62年(文久2)蟄居を解かれ、64年(元治1)幕命を受けて上京した象山は、公武合体・開国進取の国是(こくぜ)を定めるために要人に意見を具申してまわったが、その言動が尊攘激派の怒りを買い、同年7月11日ついに斬殺(ざんさつ)された。享年54歳。 象山の知的世界――変革的意識とエリート意識に立脚する政治的世界と照応する――は、人間の内なる理(倫理)を究める「東洋の道徳」と、人間の外なる天地万物の理(物理)を明らかにする「西洋の芸術」によって構成され、「倫理」と「物理」を連続的にとらえることによって天人合一の境地に達しようとする朱子学によって統轄されており、その朱子学は幼年期から熟通していた易道と深く結び付いていた。著書には『省録(せいけんろく)』『卦(ほうけ)』などがある。 [石毛 忠] 参考文献・音響映像資料: ■信濃教育会編『増訂象山全集』全五巻(1934〜35・信濃毎日新聞社/復刻版・1975・信濃教育会出版部) ■松浦玲編・訳『佐久間象山』(『日本の名著30』所収・1970・中央公論社) ■植手通有訳注『佐久間象山他』(『... ★デジタル大辞泉 さくま‐しょうざん〔‐シヤウザン〕【佐久間象山】 [(一八一一〜一八六四)] 江戸末期の学者。信濃松代藩士。名は啓(ひらき)。初め朱子学を、のちに蘭学を修め、西欧の科学技術の摂取による国力の充実を主張したが、京都で攘夷派に暗殺された。門下に勝海舟・吉田松陰らがいる。 ★日本人名大辞典 佐久間象山 さくま‐しょうざん 1811‐1864 江戸時代後期の武士,思想家。 文化8年2月28日生まれ。妻は勝海舟の妹。信濃(しなの)(長野県)松代(まつしろ)藩士。江戸で佐藤一斎にまなび,神田で塾をひらく。天保(てんぽう)13年老中真田幸貫(ゆきつら)に「海防八策」を提出。江川英竜(ひでたつ)に西洋砲術をまなび,勝海舟らにおしえた。嘉永(かえい)7年吉田松陰の密航事件に連座。のち公武合体,開国を説き,元治(げんじ)元年7月11日京都で尊攘(そんじょう)派に暗殺された。54歳。名は啓(ひらき),大星。字(あざな)は子明。通称は修理(しゅり)。号は「ぞうざん」ともよむ。著作に「省録(せいけんろく)」など。 【格言など】東洋の道徳,西洋の芸術,精粗遺さず,表裏兼ね該(そな)え,よって以て民物を沢(うるお)し,国恩に報ず(「省録」) |