04 15(金) 続 佐久間象山 |
世界大百科事典 「佐久間象山」 1811-64(文化8-元治1)さくましょうざん 幕末の思想家,〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念の主唱者。名は啓,通称は修理,象山は号。信州松代藩下級武士の子として同地に生まれる。儒学を学び朱子学を信奉する。1833年(天保4)江戸に遊学,39年江戸に再遊し塾を開くが,アヘン戦争(1840‐42)の衝撃をうけて対外的危機に目覚め,以後〈海防〉に専心する。直ちに江川太郎左衛門(坦庵)に入門して西洋砲術を学び,やがてみずからオランダ語を始めて西洋砲術の塾を開く。弟子に勝海舟,坂本竜馬,吉田松陰,加藤弘之らがいる。54年(安政1)松陰の密航失敗に連座し,藩地蟄居を命じられる。これを機に蘭書学習に精進する一方,蟄居中にもかかわらず,たびたび意見書を書いて要路に働きかける。63年(文久3)初め赦免,64年(元治1)幕府の命をうけて京都に上り,海陸御備向手付御雇となるが,7月に尊攘派によって暗殺された。禁門の変を前にして,天皇を彦根へ移すよう画策していたことが,その直因である。 象山が課題としたのは,対外的危機を克服するため,海外の事情を知ると同時に,西洋の科学技術を導入して国力を充実することであった。その場合,西洋砲術の師江川坦庵らとは異なって,みずからオランダ語を学び,武士層の間に蘭学が広がる道をきり開いたばかりでなく,西洋の軍事力の基礎をその自然科学にまでさかのぼってとらえ,それを根本から摂取しようとした点に,彼の特徴がある。こうした態度の基礎には,彼の儒学の素養,とくにものごとの理を究めることを重んずる朱子学的な格物窮理の観念があった。その反面,彼には幕藩体制の階層秩序を天地自然のものと見る朱子学的な社会観が固持されており,これが西洋の文物に対する彼の関心が社会政治制度の面に向かうのを妨げた。〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念がここに生ずる。蘭学の学習とともに,彼の視野は世界に向かって広がっていったが,その夷狄観批判は,夷狄観が西洋の科学技術の導入を妨害するからであって,必ずしも日本と西洋諸国との価値の上における平等を認めるものではなかった。またその開国論は,押しつけられた開国を,日本が世界を席巻するための第一歩に転じようとするものにほかならなかった。著書に《省爪録(せいけんろく)》などがある。 植手 通有 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 「印刷電信」 ディジタル(2値符号)で送られてきた電信符号を,人間が判読するのでなく機械翻訳によって文字を現出させる電信方法。 印刷電信には,モールス符号を受信して印字する方式と,印刷電信用の特別な符号を用いる方式がある。前のものはテープの上にモールス符号の穴を開け,これを送信機にかけて電気符号で送信し,受信側では回転円筒のまわりに活字のついたものを回し,該当の文字のところで止めてテープに印字するもので,海底電信あるいは無線電信の一部に使用され,一般には使用されていない。後のものは2値の状態を取る5単位,または6単位の符号組合せで文字を符号化して送信し,受信側ではその符号組合せごとにタイプライターを働かせ印字する方式で,和文電報,欧文電報,テレックスなどで使われている。コンピューターと通信回線で接続されるデータ通信用端末も,技術的にはこの流れを受け継いでいるが印刷電信とは呼ばない。 印刷電信はモールス通信とは別個に発達した。印刷電信の先駆をなしたものは指示電信であり,1837年にイギリス人 C. ホイートストンによって実用機が作られた。これは配列された文字の位置に相当する数だけ電流パルスを送って指針を1目盛ずつ進ませ円盤上の文字を指示させるものである。日本へはペリー提督が54年(安政1)に幕府に献上したが,その前1849年(嘉永2)に佐久間象山がオランダの本《理学原始 Eerstegrondbeginselen der natuurkunde》(1847)を勉強して指示電信機を作り実験に成功していた。ホイートストンはまた紙テープに穴を開けて2値符号を記録するさん孔方式も発明し,符号の蓄積を可能とした。印刷電信機そのものの発明は55年アメリカのヒューズ D. E. Hughes(1831‐1900)によって完成した。77年にフランス人のボード J. M. E.Baudot(1845‐1903)が5単位印刷電信符号を発明し,1910年にアメリカのウェスタン・エレクトリック社が調歩式印刷電信機を発明するに及んで印刷電信の発展期を迎えた。日本では27年にアメリカのクラインシュミット社製の6単位和文印刷電信機が東京〜大阪間の通信に使われたが,国産では36年に黒沢貞次郎が初めてテープ式の印刷電信機を製造した。また,制度的には52年に専用電信が,56年にテレックス(加入電信)のサービスが法律化され,官庁,会社,旅館などで簡便な記録通信の手段として広く使われるに至った。 [現状] 加入電信は,開発途上国の根強い需要によりおもに国際通信に使われてきたが,最近の10年ではそれも年10%以上の割合で減少を続け1994年の国際通信回数は年700万通程度に至っている。一方の印刷電信である電報も国際通信は加入電信と同様に衰退を続けており,94年では27万通に至っている。国内電報は少し事情が異なり1963年の9500万通をピークに減少傾向にあったが,押し花電報,メロディ電報,漢字電報などの付加価値電報の発売と慶弔電報の根強い需要により85年ころで下げ止まり,最近は年4000万通強を保っている。印刷電信の衰退は電話,ファクシミリなどの新しい通信手段の普及による。 石野 福弥 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 「実学」 一般には実証性に裏づけられ,実際生活の役にたつ学問の意。その他,現実的な学問,道徳的実践の学,人間的真実の追求の学,政治的実践の学など多義にわたり,時代により異なる。 [日本] 日本で実学という概念が思想史にはじめて登場するのは,彼岸の生活を実在とするのではなく現実生活を重んずるようになった17世紀,江戸期からとみてよい。江戸前期では,仏教を虚学とし,儒教とくに朱子学を実学と考えた林羅山,中江藤樹らによれば道徳的実践,人間的真実の追求こそ実学と考えられた。古学派があらわれるに及び,山鹿素行は日常生活における道徳的実践と結びついた学問を実学とし,荻生徂徠によると歴史学にみられる事実に即した学問のなかに実学は成立すると考え,価値判断から自由な事実認識の上にたつ実証的な学問こそ真の学問であるとして,従来の道徳的実践を中心におく学の大変革を行った。 徂徠以後,実学思想は一変した。中期になると,山片蟠桃などは天文地理と医術のようなものを実学と考え,海保青陵は学問を経世済民という目的に奉仕すべきもの,今の世に役だつ学問こそ実学とした。本多利明にいたると,蘭学の影響を受け,西洋流の航海術,天文・地理,算数などの海外交易に役だつ学を実学と考えた。 幕末・維新期における実学は,政治と経済を統合する学と目された。在野の洋学者たちは国防の危機や国内の社会不安の解決のため洋学こそ有用急務の実学とみなした。佐久間象山は,西洋の自然科学の〈窮理〉(物理を究める)に基づく有用の学を実学となし,横井小楠の実学は,仁と利,すなわち道徳性と功利性とを統合しようとするものであった。また箕作阮甫(みつくりげんぽ),杉田成縁ら洋学系の学者は,実験,実証に基づいた洋学こそ実学であると主張し,明治維新後の実学観へとつながった。 明治以降となると,江戸期の学問はすべて空理を論ずる虚学とみなし,江戸末期の和魂洋才論的な発想の実学者たちが,あくまで儒学の優位性を主張したのに対して,西洋の政治,経済,哲学,軍事学をそれに代わるものとした。いわゆる倫理を中核とした実学から,科学を中核とした実学への転回が行われたのである。この考え方は1872年(明治5)の〈学制〉の指導理念となった。代表的な実学者としては,西周(あまね),津田真道(まみち),加藤弘之,神田孝平,福沢諭吉,箕作麟祥(りんしよう)らが数えられる。西周は健康,知識,富有の三つを人生の宝とし,市民社会的倫理を基盤とする実学を主張,津田真道は朱子学的なリゴリズムからの人間性の解放を唱え,情欲を人間性の基本とするが,知識と慣習による情欲こそ開化人特有の情欲であり,天理と人欲は相反するものでないと考えた。福沢諭吉は《学問のすゝめ》等の初期代表作において,独立自尊にもえた平等な人間関係に基づく実学を主張した。 塚谷 晃弘 [中国] 中国で実学という場合,まず儒学が本来備えている経世致用の学を念頭におかねばならない。したがって道家思想は玄虚無用を主旨とするために実学に反するものであり,仏教もまた,一切空を根本とするかぎり,やはり実学に反するものである。しかし,儒家に実学としての反省がおこるのは,道・仏2教の思想的圧倒をはねかえそうとする動きの始まる時代,すなわち北宋時代以後である。それは程標(ていこう),程頤(ていい)にはじまり朱子に受けつがれ,彼の対立者である陸九淵(象山)さえも,仏教の空理に対して実用の学を強調した。明代にいたって,王守仁(陽明)も実学を天理にかなうものと説いた。下って明末・清初の顧炎武の学問は実学と評され,顔元は明らかに実学を標榜した。しかし清代,乾隆帝が四庫全書館を開いて学術を奨励して以後,実学は,宋・明の性理学を空虚なものとして排する訓詁考証の学の意に変わり,戴震,章学誠らは実学の典型として尊敬された。このような考証学にも,やがて清代後半期,内外の危機が深刻になるにともない,かえって非実用的との批判が高まり,再び経世致用の学の回復が求められるようになった。そこで朱子学的色彩をおびた公羊学(くようがく)が,経世致用の学として台頭するのである。 坂出 祥伸 [朝鮮] 朝鮮の伝統儒教である朱子学が李朝中期ごろからしだいに現実ばなれして虚学化したのに対し,儒学内部からの内在的批判を通じて登場した〈実事求是〉の思想および学問を実学といい,その学派を実学派と呼ぶ。本来儒教における実学とは,道徳的実践の学問のことであるが,ここにいう実学とは,実証性と合理性に裏づけられた現実有用の学問という意味である。宋学=程朱の学が伝わったのは高麗末期の13世紀末であるが,それは高麗王朝の建国理念としての仏教の退廃と,僧侶の無為徒食に鋭い批判の矢を向け,苫道伝らをはじめとする改革派の儒者たちは,武人李成桂を推戴して李朝を創建し,崇儒排仏をもって建国理念とした。李朝初に朱子学は,新しい国づくりのための現実有用の学として機能を発揮したが,16世紀ごろからは〈理〉と〈気〉,〈四端〉と〈七情〉など,あまりに現実ばなれした形而上的な思索と論議にふけり,そのような見解によって分かれた学派は,17世紀に入ると執権の座をめぐる党派争い(党争)と結合し,その弊害は座視できなくなった。本来の李朝の政治は士=儒者による文治主義がとられたため,儒者間の分裂と対立は,そのまま民生問題を置きざりにした政治的混乱の原因となった。 17世紀半ばに柳馨遠(りゆうけいえん)は,《尚渓(ばんけい)随録》において社会制度の歴史的考察とその改革案を展開して実学思想の体系化をはかり,それは18世紀前半期に李砦(りよく)に受けつがれて,その門から輩出した安鼎福,尹東奎(いんとうけい),李家煥,丁若培(ていじやくよう)らによる経世致用学派=星湖学派(星湖は李我の号)を形成した。当時,士大夫たちは老論,少論,南人,北人の四色党派に分かれていたなかで,星湖学派は南人派に属する。他方,老論派のなかからも虚学化した伝統儒教を内在的に批判して,〈利用厚生〉による生産力の発展と民生問題の解決を主張した利用厚生学派=北学派が形成され,洪大容,朴趾源(ぼくしげん),朴斉家らがこれに属する。彼らは朝鮮儒教の〈尊明排清〉の風潮を批判して,〈利用厚生〉のためには北=清の長所から学ぶばかりでなく,入清したイエズス会士を通じて西洋の科学技術からも学ぶべきだと主張した。これらの実学思想が全盛をきわめたのは英祖(在位1725‐76)から正祖(在位1777‐1800)の治世期で,とりわけ李家煥,丁若培,朴斉家らは正祖の信任厚く要職に就いた。 ところが星湖学派の少壮派のなかには西洋の学術ばかりでなく,天主教(カトリック)に傾倒して入信する者が続出し,1800年の正祖の死とともに登場した老論派政権によって,01年の天主教弾圧(辛酉教獄)が行われ,星湖学派は再起不能の打撃をうけた。西学=洋学に対する禁圧は天主教に限らず,科学技術を含めた西学一般に拡大解釈され,老論派の北学派も自然消滅した。1870年代までの朝鮮思想界は〈正学〉としての朱子学を固守し,〈邪学〉としての西学を退ける〈衛正斥邪〉思想が支配的風潮となり,実学思想は李圭景,金正喜,姜偲(かんい)など一部の学者によってからくもその命脈をつないだが,70年代に朴趾源の孫朴珪寿(ぼくけいじゆ)の門からそれを継承した開化派が形成されるにいたった。⇒開化派 姜 在 彦 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 「省けん録」 幕末の思想家佐久間象山の著書。1854年(安政1)成稿。象山は54年に弟子吉田松陰の密航失敗に連坐して,江戸で投獄されたが,本書は獄中の感懐を出獄後に筆記したものである。内容は多岐にわたるが,それまで海防問題に専心し,海外事情に関する知識の普及と西洋科学技術の導入に奔走してきた自己の思想と行動の正当性を主張した部分が中心をなす(題名はあやまちを省みる記録という意味)。有名な〈東洋道徳・西洋芸術〉の言葉も本書に出ている。《日本思想大系》,岩波文庫などに所収。 植手 通有 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 「電信」 広義では電気を利用した通信のことで,有線,無線を含めた電気通信全体を指すが,狭義では初期の電気通信であったモールス電信にその後の印刷電信および模写電信などを含めたものをいう。最近ではおもに狭義で使われており,英語のテレグラフ telegraph の意味も狭義である。電信の業務運営はアメリカ,カナダ,イギリス,日本を除いては国,または公共企業体で行われている。 電信の歴史は,1837年に S. F. B. モースが発明したモールス電信と,37年に C. ホイートストンらが発明し印刷電信の発端となった指示電信機に始まる。日本では,49年(嘉永2)に佐久間象山が松代藩においてオランダの文献《理学原始第2版》(1847)をもとに指示電信機を作り,電信の実験に成功している。これは54年(安政1)にペリーがモールス電信機を将軍に献上するより5年も前のことであった。事業としての電信は,外国ではアメリカにおいて1845年にニューヨーク〜ボルティモア間の実用電信に始まるが,日本では70年(明治2)に東京〜横浜間で公衆電報の取扱いを開始した。電報はその後,95年 G. M. マルコーニの無線電信の発明,1910年ウェスタン・エレクトリック社の調歩式印刷電信機の発明など新たな通信技術の導入により,各国とも外交,産業をはじめ国民の日常生活に至るまでのあらゆる面で重要,緊急時の通信手段として利用されてきた。 電報はその性質上,サービス地域は山間辺地を含め国土の津々浦々まで及ぶものであるから,その中継には多くの人手を要し,また所要時間も長くなる。このため,各国とも電報の自動中継交換に取り組んだ。電報の自動中継交換方式には,中継局にテープ受信さん孔機を用いたテープ中継交換方式と,ダイヤルまたは電信符号によって交換機を動作させて発信局と着信局を回線で接続する自動交換方式とがある。前者はアメリカと日本で使われており,アメリカではウェスタン・ユニオン電信会社が46年に実施したが,中継動作の一部にオペレーターが介在するものであった。日本では53年に世界に先駆けてテープ式の全自動中継交換方式を開発し,水戸局に最初に導入した。これはその後パケット交換をはじめとして世界中で計算機間通信などに用いられている半導体記憶を用いた蓄積交換網の雛形でもあった。後者のテープを用いない方式は54年にイギリスで実施され,西ドイツ,フランスなど西欧諸国で採用されている。この自動交換方式は紙テープを用いない代りに回線数が多くなり,端末印刷電信機の数も多くなる欠点もあるが,西欧諸国は電報通数も少ないので,この方法で十分処理できる。また,フランス,スイスなどのようにテレックスと電報の交換網を共用している国もある。国際電報の中継はテープを用いた手動中継か,回線交換機を用いた半自動方式によっていたが,64年にアメリカのRCA 通信会社がコンピューターを用いた世界最初の国際電報自動交換システムを採用して以来,各国とも国際電報にはコンピューターを用いる自動方式を採用している。日本でも71年に国際電報自動交換システム(TAS。telegraph automation system の略)が開発された。また国内の電報中継についてもテープ式の自動交換に代えて,パケット交換網を用いる計画が進められている。 重要,緊急時の通信手段として主流を占めてきた電報は,加入電話の普及,テレックス,ファクシミリなど,より速く便利な通信手段の発展に伴い,その利用内容は緊急連絡用から儀礼的な慶弔電報へと変容してきている。また,各国とも利用通数が減少しており,かつ配達のための人件費の高騰が加わって電報事業の合理化が課題となってきている。アメリカのウェスタン・ユニオン電信会社では毎年約12%の割合で電報通数が減少しているが,これは自社が提供しているテレックス,テレファクスおよびメールグラムサービスが電報の代替をしているためで,電報の合理化施策として電報受付の集中化を進めている。西ドイツでは人手作業の省力化を目ざして,コンピューターを導入したり,日本と同じくパケット交換網を介して中継する新システムへ移行することを計画中である。イギリスでは,電報通数の減少と経営赤字の増加から,82年に国際電報を残して国内電報サービスを廃止し,テレメッセージサービスを始めた。テレメッセージは,発信者が電話またはテレックスから発信し電文をいったんコンピューターに入れる。そのあとの配達は郵便公社の集配局に送られて,受信人には普通郵便として翌日中に配達されるものである。記録通信手段としての電信は,ファクシミリ,電子メールなどのニューメディアの登場により国際的にも衰退の途をたどっている。ただし,日本の国内電報は慶弔挨拶の風習としての根強い需要と押し花,メロディなどの付加価値電報の発売などに支えられて,85年以降は年4000万通強の取扱いで落ち着いている。経営的にも販売単価の向上と,電報受付の統合,中継設備のパケット交換との統合などの合理化により改善が図られている。⇒ディジタル交換‖テレックス‖ファクシミリ 石野 福弥 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 「東洋道徳・西洋芸術」 幕末の思想家佐久間象山が唱えた観念。道徳や社会政治体制の面では伝統を固持しつつ,科学 技術の面では西洋のものを積極的に摂取しようとする思想をいう。類似の思想はすでに新井白石や江戸中期以後の蘭学者に認められるが,幕末の一時期には,とくに西洋軍事技術の導入と関連して,同様の思想が広く現れる。この思想動向は,西洋の文物思想を敵視した攘夷論当初の思想から,近代西洋文明を根底より導入して社会の全面的変革を実現しようとした明治啓蒙思想へいたる,過渡期の産物と考えられるが,象山の〈東洋道徳・西洋芸術〉論はこの動向を代表するものである。清末の中体西用論や李氏朝朝鮮末期の東道西器説は,同じ歴史的意味をもつ。なお,啓蒙思想や自由民権論を否定して,天皇を頂点とする国家体制を確立しつつ,急激に富国強兵を推進した大日本帝国のあり方も,しばしば〈東洋道徳・西洋芸術〉的と評される。 植手 通有 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 「吉田松陰」 幕末の志士,教育者。諱(いみな)は矩方(のりかた),字は義縁,通称寅次郎。松陰は号。長州藩士杉百合之助の次男として萩郊外の松本村に生まれ,山鹿流兵学師範吉田大助の養子となった。叔父玉木文之進らの教育を受け,11歳で藩主に《武教全書》を講じて早熟の秀才であることを認められた。1850年(嘉永3)九州を巡遊して平戸に山鹿家を訪れ,家学の歴史を探った。翌51年には江戸に出て西洋兵学を知る必要性を痛感し佐久間象山に入門したが,直接原書につく勉強法には進まなかった。同年末,許可なく藩邸を脱し,翌年にかけて水戸から東北,北陸と遊歴したため,士籍影奪の処分を受けたが,その代りに10年間諸国遊学の許可をもらった。 53年ペリー来航に際しては浦賀に出かけて黒船をまのあたりにし,佐久間象山に勧められて海外の状況を実地に見極める決心を固め,長崎でプチャーチンの軍艦に乗ろうともくろんだが行き違いとなって果たさず,翌54年(安政1)再来中のアメリカ艦に暗夜下田で漕ぎ着けたが,密航を拒否された。岸に送り返されて幕府の役人に自首し,江戸の獄に入れられたのち,藩に引き渡し在所に蟄居(ちつきよ)させるとの判決を受けたが,身柄を引き取った長州藩は,慎重に過ぎて萩の野山獄に投じた。ここで同獄の囚人に孟子を講じて獄内の気風を一新し,教育者の資質を発揮し始める。在獄1年余,藩当局も処分の過当を認めて,生家の杉家に預けることに変更,55年12月出獄した。他人との接触は禁じられていたが,近隣の子弟で来たり学ぶものが多く,幽室が塾と化した。玉木文之進が始めた松下村塾は外叔の久保五郎左衛門に受け継がれていたが,そこの門弟で松陰のもとに来るものが増えたため,いつしか松陰が松下村塾の主宰者とみなされるようになった。評判が高まるにつれて萩の城下から通うものも現れた。久坂玄瑞と高杉晋作がその代表で,松下村塾の双璧と目された。久坂は松陰の妹と結婚した。松陰の講義は時勢を忌憚なく論じるところに特徴があり,それは残された講義録《講孟余話》や《武教全書講録》にもよく現れている。そこに若者が引きつけられ,彼の膝下から多数の志士が育った。明治の元勲伊藤博文,山県有朋,また萩の乱の前原一誠は,みな松陰門下である。この時期,外からは僧黙霖や月性,小浜の梅田雲浜らが文通もしくは来訪して松陰の思想に影響を与えた。 58年,幕府が勅許を得ないままハリスとの間に日米修好通商条約を結ぶと,熱烈な尊王論者であった松陰は,急に反幕府的言動を強めた。ついに老中間部椿勝(まなべあきかつ)暗殺の血盟を結ぶに及んで,藩も捨てておけず,借牢の願いを出させて同年末野山獄に再収容した。一方,安政の大獄を強行した幕府は,別途に松陰への疑惑をもち,59年江戸へ呼んで伝馬町の獄に投じた。訊問中に老中暗殺計画が現れて10月27日死刑に処せられた。 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. |
04 16(土) 密教 |
この忙しい現代社会 物質的にはほぼ満たされていると思えるが精神的荒廃がやけに目立つようになってきたと感じるのは私だけだろうか? ほぼ毎日のようにどこかで起こる殺人事件 お金目的の強盗事件や 仕事に関連して起こる不正など 挙げたらきりが無いほど事件が起こっている。殆どはお金に絡む問題のように見える。 そのくらい人々はお金のとりこになってしまったのだろうか。足ることを忘れてしまったかのように見えるし,もうひとつ精神的拠り所を失ってしまったようにも見える。国民の90%は無宗教と言われるように 宗教が人々の精神的渇望に応えられなくなったことも原因だろう。 私はここで密教のことを書きたい。密教は考え様によっては現代の状況に合った現実的宗教とも言えるのではなかろうか。私は密教を実践しているわけではないが 昔から関心を持っていて 素人なりにいろいろなところで知識を得て 魅力を感じているので 私の感じている密教に付いて紹介したいと思う。密教について系統立てて知りたければ、いろいろな書物があるのでそれを見ればよいので私は 系統立てて書くつもりはまったく無く,思いつくままの我流である。 まず密教と言う言葉に不思議な魅力を感じる。神秘性と怪しげな呪術などがイメージとして浮かぶかもしれないが 一般には相当誤解されて受けとられているのではなかろうか?。またオウムなどがあり悪いイメージが付きまとっているかもしれない。が事実はまったく違うのだ。 密教とは仏教の一種である。仏教とは何か? 一言で言うなら 夫々の人が悟りを開いて 幸せになるための方法を説いた哲学である。言葉を変えれば仏になるための教えだ。 如何にして仏になるか つまり、いかにして悟りに達するか? 悟りに達するのを大きな川を渡るのに例えられる。この川が煩悩であり障害である。 我々のいる岸が悟る前の現実の場所(精神的状態) 向こう岸が 彼岸であり悟りの世界(悟った精神状態)を意味する。どういう方法で煩悩の川を向こう岸(彼岸)に渡るか?に幾つかの方法がある。裸になって泳いで渡れというのが小乗仏教 つまり出家である。出家とは妻子 財産全て捨てることである。 しかしこれは誰でも出来ることではないし、我々は現実には仕事をし家庭を持ち 子供を育てなければならない。それは無理だと言うことになってくる。そこで発生した考え方が大きな乗り物に乗って皆で渡ろうというのが大乗仏教である。つまり在家仏教である。大乗にもいろいろ有り自分達で漕いで渡ろうと言うのが禅仏教で 向こう岸から有能な船頭つきの船(つまり阿弥陀如来)にきてもらおうと言うのが浄土教か。いずれにしても悟り(仏の)世界に行くのには間に大きな川(煩悩)と言う大障害があって 渡るのが困難と言う考えである。 では密教はどうか?仏教であるから悟りの世界に到達し 幸せになろうよと言うのは同じであるが 方法というか、発想法ががまったく違うのである。 悟りの世界に行くのに そもそも川などと言う大障害はない!というのだ。何故、川が無いか? もともと私達は悟りの世界に住んでいるのだ。 ただ 自分の意識が曇っていてそれが感じられないだけに過ぎない。従って その曇りを取り除いてやれば それは悟りの世界なのだと捉えるのが密教ではなかろうか。私が興味を持つ最大のところはこの密教の感じ方なのだ。しからば密教ではどうすればいいか 一言で言えば もともと私達は仏様なのだから、仏になったつもりで生きよと言うか 仏のふりをして生きよと言うか要するにそういうことである。 仏様ならこうするだろうと自分で考え、それを実行していけば ついには悟りの世界が見えてくるというのだ。 何故私達は仏様か? 実は私達は同時に二つの世界に住んでいる。 現実の世界と心の中の世界だ。但し、現実の世界といってももっと広く深い世界(大宇宙)を意味している。この世界はいたるところに仏様が充満しているが 心が曇っていては感じることが出来ない。つまり仏様の発する声が聞こえない この世界を胎蔵界という。もうひとつは心の中の宇宙で ここにも仏様がいたるところにいるのだが やはり心が曇っていると感じることが出来ない。つまり仏の声を聞くことが出来ない。これを金剛界という。密教ではこの仏様の声を真言と言う。真理の声とでも言うべきか。真言が聞こえるようになったと言うことがすなわち悟りの境地に達したことなのである。 どうすれば仏様の真言が聞こえるか? やはり修行が必要なのだ。胎蔵界の中心にいる仏が大日如来でありこれはキリスト教でいう神である。 金剛界は心の中 すなわち悟り行く世界であるが 中心はやはり大日如来である。 さて密教は基本的に仏の世界を意味していて 何でも有りの世界だ。顕教で言う悟りの世界に行く修行の過程で控えるべき事としての幾つかの行為は存在しない 我々はみな仏なのだから 一般の人が日常行う行為の中で控えるべきなどは殆ど無いのである。つまり欲望を否定しないのだ。ただちょっと心が曇っているに過ぎない。密教と言う言葉の意味は宇宙の仏様(大日如来)の発信する言葉(真言)は極めてかすかであり心の曇りを除いたものだけが秘密に聴くことができると言う意味で密教と言うそうだ。 仏様になったつもりとは 大きく言えば二つのことを実施しろといっている。ひとつは大宇宙を感じる為に一人静かに修行しろと言うことで密教の僧は人里離れたところで大宇宙と一体になるための修行をする。 星空を眺め 風の音 波の音 野の花が咲き しおれる 小鳥のさえずり 全て 宇宙からの大日如来が語りかけている説法なのだ。 ただなかなか聞き取ることが出来ない。これが密教に神秘性を感じ引かれるところかもしれない。 もうひとつある。それは積極的に社会に関れということである。 社会的に関れとは仏様のつもりで関われと言うことであるから仏の慈悲を発揮しろと言うことになり つまり弱者救済に手を貸せとなる。一般的には慈善事業などをやるのである。 一見相反する二つのことをうまくバランスをとって実施しなければ一人前つまりアジャリとは見なされないのだ。空海(弘法大師)を始め 密教の高僧はみなこれを実践している。密教では実践が極めて大切と考えられている。当然のことながら、頭の中で考えているのでは駄目で 目で見て 耳で聞き 鼻でかぎ 舌で味わい皮膚で触れる このように五感を総動員して宇宙の真理を体全体で感じる事が必要なのだ。 |
04 18(月) 77歳の辰巳会 |
04 20(火) 富田の城山公園 |
04 22(木) 中国の反日運動 |
反日デモに関して。台湾の新聞記事をご覧下さい。 歴史の改変については日本より中国の方がひどいという見出しです。 抹滅歴史 中勝於日 【王希之歴綜合外電報導】 中國近來反日風潮中,官方民間口徑一致批評日本歴曲二次大戰歴史,但一篇在《華盛頓郵報》刊出的評論指出,中國自己的歴史教學有更強烈的「選擇性」,譬如對天安門事件被屠殺的學生、對侵略西藏的史實,教科書都隻字未提。 毫無討論空間 這篇由專欄作家海亞特(Fred Hiatt)撰寫的文章指出,日本新版歴史教科書的確淡化其戰爭期間的殘酷行為,然而這本教科書非唯一版本。反觀中國,官方認定的歴史全無討論空間。 在中國教科書上,日本是被中共游歴隊英勇歴敗的(意即完全漠視國民政府抗日的貢獻);同樣被抹滅的,還有一九八九年天安門事件,幾乎沒有教科書提到有人死亡;毛澤東發動的大躍進造成三千萬人餓死,在歴史課本裡也歴佛從未發生過。誰敢挑戰官方歴法,就會遭逮捕拘禁。 大体の意味は、中国の歴史教育では強烈な選択性があること。天安門事件やチベット侵略には触れてないこと。確かに日本の教科書では戦争中の残虐行為は表現を薄めているが、刊行される教科書はそれ唯一冊というわけでない。中国ではお上が認めた教科書には文句のつけようがない。日本軍はこてんぱーにやっつけられたとされているし、国民党軍の貢献については触れていない。毛沢東の大躍進運動での3千万の餓死についてもない。逮捕監禁されるのだから、教科書に文句をつける者など居ない。 キューバに行った時の経験をお話します。覇権を求める中国は原材料確保の意味もあり最近中南米に接近しており、反米の機運が強いブラジルやベネズエラ(石油!!)、そしてキューバとはとても仲が良くなっています。キューバのホテルにはアメリカのケーブルチャンネルを始め、フランス、ドイツ、スペインの放送も入りますが、それに加えて中国のチャンネルが3つ、2つは中国語、1つは英語であります。人口の1%は中国系とはいえ、ホテルのテレビ放送は外人向けで一般家庭で受信できる内容のものではありません。8日間滞在中国人系の人にはたった2人(マレーシア系中国人と香港系中国人)で、2人ともカナダ在住です。ということはこの3つのチャネルを見る本土からの中国人はほとんどおらず、これはキューバ政府の外国人(カナダ人、ヨーロッパ人)向けの全くのプロパガンダであることがわかります。つかりキューバは中国と強い絆があるのだ、ということを示すためのPRです。 反日デモに「原因よくわかる」・カストロ議長(朝日新聞)をご覧下さい。 私の考えでは、今回の事件は中国の覇権主義(アジアの宗主国、世界の超大国)が根底にあると思います。絶対至上命令的な石油の確保ということから尖閣列島についての最近の日本の動きにピリピリしている、ということもあるでしょう。 臨時編集責任者:神原 幹郎 記 |
反日デモは「愛国主義・反日教育の成果」 文科相が批判 2005年04月18日18時29分 中山文部科学相は18日、都内で講演し、中国の反日デモに関連して「『愛国無罪』といえば何でも許されるような愛国主義・反日教育の成果が今まさに出ている。天安門事件以降、国内の不満を外に向けるためにそういう教育をしてきた成果だ」と中国の教育を批判した。 中山文科相は「日本の歴史教科書を読めば『中国を侵略してたくさんの人々に苦痛を与えた』と書いてある」と述べるとともに、記述内容を具体的に指示できない教科書検定の仕組みについて韓国や中国の理解を求める考えを示した。また、小泉首相の靖国参拝にも触れ、「日本は一億総ざんげという言葉があり、『みんな悪かった』と反省している。中国は『A級戦犯という悪い人たちがいた。一般の日本国民は悪くなかった』と理解していたのだろうが、日本はA級戦犯も死んだら仏様。そこの区別がないから反省がなかなか伝わらない」と述べた。 一方で「主張すべきことはきちっと主張するのは外交の始めだ。なかなか難しい問題だが、日本はずっと謝り続けなければならないのか。向こうは何かあるごとにこの(歴史問題の)カードを切ってくる」と述べた。 |
反日デモに「原因よくわかる」 カストロ議長 2005年04月18日16時54分 投票所で報道陣の質問に答えるカストロ議長=17日午後、ハバナで キューバのカストロ国家評議会議長は17日、全国で実施された地方議員選挙の投票のためハバナ市内の投票所に姿を見せ、外国報道陣の取材に約40分間応じた。反日デモが広がる中国の状況をどう見るかとの質問に、中国の国民が歴史に敏感で対米依存を強める日本の姿勢にも反発しているためだと指摘、「われわれも(米国から)独立した日本を望んでいる」と述べた。 議長は今夏で79歳。昨年10月に演壇から降りる際に転倒して右腕と左足を骨折、一時は車いす生活だったが、時々側近に支えられる程度で1人で歩き回った。投票所の7段の階段を手すりをつかみながら自力で下り、待ち受けた報道陣の質問に弁舌も滑らかに答えた。 中国の反日デモについて、議長は「とても残念なことで関係改善に力を尽くしてほしい」としつつも、「原因はよく理解できる」。歴史問題のほか、台湾に武器を輸出している米国の「ナンバーワンの同盟国」に日本がなっていることに反感があるとの見方を示した。 中国は昨年11月、胡錦涛(フー・チンタオ)国家主席がキューバを訪問して幅広い経済協力協定を結んだ。実弟のラウル・カストロ第1副議長は現在、中国を訪問中。議長は「中国は今や世界経済の主要な機関車だ」と持ち上げるなど、中国の存在感はキューバでも増している。 この日の選挙は市区レベルの地方議員を選ぶ。各地区で最低2人が推薦され、全国で約3万3000人が約1万5000のポストをめぐって有権者の審判を受けた。 |