01 09(日) 日の出入 |
月 日・・ | 日 出・・ | 日 入・・ |
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12/03 | 06:41 | 16:34 |
12/04 | 06:42 | 16:33 |
12/05 | 06:42 | 16:33 |
12/06 | 06:43 | 16:33 |
12/07 | 06:44 | 16:33 |
12/08 | 06:45 | 16:34 |
月 日・・ | 日 出・・ | 日 入・・ |
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12/31 | 06:57 | 16:44 |
01/01 | 06:58 | 16:44 |
01/02 | 06:58 | 16:45 |
01/03 | 06:58 | 16:46 |
01/04 | 06:58 | 16:47 |
01/05 | 06:58 | 16:48 |
01/06 | 06:58 | 16:48 |
01/07 | 06:58 | 16:49 |
01/08 | 06:58 | 16:50 |
01/09 | 06:58 | 16:51 |
01/10 | 06:58 | 16:52 |
01/11 | 06:58 | 16:53 |
01/12 | 06:58 | 16:54 |
01/13 | 06:57 | 16:55 |
01 10(月) 花暦 はなごよみ |
月 | 中国 | 日本(江戸) | 日本(現在1) | 日本(現在2) |
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睦月 | 梅 | 松 | 梅 | 福寿草 |
如月 | 桃 | 梅 | 椿 | 水仙 |
弥生 | 牡丹 | 桜 | 桃 | 菜の花 |
卯月 | 桜 | 藤 | 桜 | チューリップ |
皐月 | 木蓮 | 菖蒲 | 藤 | カーネーション… |
水無月 | 柘榴 | 牡丹 | 紫陽花 | 花菖蒲 |
文月 | 睡蓮 | 萩 | 山梔子 | 百合 |
葉月 | 梨 | 薄 | 百日紅 | 朝顔 |
長月 | 葵 | 菊 | 萩 | 彼岸花 |
神無月… | 菊 | 紅葉 | 木犀 | 秋桜 |
霜月 | 山梔子… | 柳 | 山茶花 | 菊 |
師走 | 芥子 | 桐 | 枇杷 | 石蕗 |
01 12(水) 小六には面白いが難問 |
第206回の問題
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出題期間 | 2005年1月1日〜1月20日 |
出題範囲 | 小学校6年生2学期程度 |
難易度 | B(普通) |
(面積比)
下の図のような角Bが直角で、ABが20cm、BCが24cmの直角三角形ABCがあります。辺上の点、D,E,F,G及びH,I,J,Kは、辺AB,BCをそれぞれ5等分する点です。 このとき、下の図の色をつけた部分の面積の和は何平方センチメートルですか。 ∠R Bから右へ、 B,H,I,J,K,C の記号をつけ、 △の頂点Aから Hへ、L,M,N の記号をつけ、 △の頂点Aから Iへ、O,P の記号をつけ、 △の頂点Aから Jへ、Q の記号をつける。 |
【解答】……多分間違いはないだろう。 S=〔(△ABC)−(△AKC)−(□AFMO=□EFMO+△AEO)〕/2 S=〔(20*24/2)−(20*24/5/2)−(12*24/5*2/2/9*2) -(4*24/5/2)〕/2 S=〔(240)-(48)-(12.8)-(9.6)〕/2 S=84.8(赤色の部分の面積は84.8平方センチメートル) 【(12*24/5*2/2/9*2)の証明】 △ADOは△AFIと相似し相似比は1:3であり、面積比は1:9となる。なお、△ADOと△DEOはDOを共通の底辺とし面積は等しく、(12*24/5*2/2/9*2)が成立する。 【(4*24/5/2)の証明】 □EFMOはEMを共通の底辺とする△EFMと△EMOWで面積は等しい。それゆえ、□EFMOの面積はは△GBHの面積に等しく、(4*24/5/2)が成立する。 |
01 13(木) 津波と先覚者 |
浜口梧陵は文政3年6月(1820年)に、紀州藩(現和歌山県)の広村(現有田郡広川町)に、浜口七右衛門の長子として生まれた。しかし父は一年後死去、母親しんの手によって育てられ、名は成則、字は公輿、通称儀兵衛と呼ばれ、梧陵は号である。 彼は幼いときより、温厚な人物であり、また聡明で物事を深く考え、洞察力に富んだ人物であった。 彼が成長した時代は幕末の激動期であり、日本の将来に対して、不安と期待の入り交じった多難なときであった。 彼は、日本の将来を見据え、鎖国攘夷論者を批判し、「世界の現状は門戸開放主義である。もし人が遠方より訪れるなら、迎えて交わるのは普通の礼儀である。しかるにその容貌を見ず、その来意をも確かめず、ただこれを拒絶するのは、あたかも臆病な犬が見慣れぬ人の影を見て遠吠えするようなものである。」と語った。 そのように進取の気性に富んだ梧陵は、30歳の時、海外への渡航を幕府に願い出ているが、時まだ至らず、断念している。 当時、外国の侵略に備え、武器などを購入し、人々を組織する試みがなされていたが、梧陵は、「武備がいかに厳重でも、人の心が一致していないならば、何の効果があろうか」と語り、「目下の急務は、学校を興し、文武を励まし、人材を養成することである」と述べた。 そして、浜口東江、岩崎明岳らと相図り、広田町に道場を設け、子弟の教育にあたる。後の慶応2年(1866年)に、新たな場所に道場を新築し、耐久中学(高校)の前身、耐久社を設立し、ここに本格的な学校を創立する。 彼は人材を養成することの大切さを知っていただけではなく、それをまさに実践したのである。彼はまた、郷土の人材育成だけではなく、広く人材を育成し、学問の道を望みながらも、貧しき者たちのために、学資を融通している。その中には勝海舟も含まれていた。 彼は明治2年(1868年)に和歌山藩小参事に任ぜられ、大広間席学習知事に任命される。彼は西洋の文物を研究する必要を感じ、英語学校を設立しようとして、福沢諭吉に教授を依頼する。しかし福沢諭吉には断られたが、イギリス人サンドロスや、通訳山内堤雲、吉川泰次郎、有名な英学者松山棟庵らを招いて、共立学舎を設立する。 広の町は、浜が湾曲していることから、昔から津波の被害の受けやすい土地であった。 安政元年11月5日(1854年)夕刻大津波が広の地を襲った。そのとき、梧陵はすすき(籾を取り除いた後のわらの堆積物)に火を放ち、多くの人命を救ったという。これは後に小泉八雲によって、「生ける神」として世界的に知られるようになった。また後にこれをもとにして、「稲むらの火」として教科書に掲載され、有名になった。 しかし梧陵の偉大さはそのようなエピソードで表せるものではない。阪神大震災でもそうであるが、被災した後、再び元の生活にどのように戻していくかと言うことの方が大変である。 彼はまず食糧を確保するために、備蓄米を出し、地元の有志もまた食料を援助し、260俵、銀840貫を得たことが記録に記されている。さらに彼は小屋を建てて、被災した人々のために住まいを備え、農具を鍛冶屋に命じて多く作らせ、生産手段を確保した。また自ら住居を建てたものには、普請料(建設補助金)を与え、漁師のためには、漁船、漁網などを与え、再びもとの生業ができるようにされた。 梧陵の優れた人格と、博愛精神をかいま見ることができる。しかしながら、広の地は幾たびもの津波によって、甚大な被害を被ってきた。ある人々は広の地には住めないと感じ、別の土地へ移住していった。梧陵は広の土地を津波から守るため、また職を失った人々のために、堤防を築くという、当時としては大変な大工事を起こした。しかもその資金は浜口の両家から出すという、壮挙であった。安政2年(1855年)に起工し、足かけ4年目の安政5年(1858年)に完成した。さらに彼は、借家を建設し、極貧の者には無料で貸与し、農商業者には極めて低利で資本を貸した。 広橋も破損したので、その橋も自費で修復した。彼が出費した総額は実に4665両に上ると言われる。村民が彼を尊崇し、浜口大明神として祭り上げようとしたが、彼は堅く固辞した。このような業績により、小泉八雲によって「生ける神」と評されたことも当然であろう。まさに人々のために自らを費やした、真の政治家である。 彼は明治元年和歌山藩勘定奉行を命じられる。明治13年(1880年)には和歌山県初代県会議長に就任している。明治17年(1884年)海外の視察の情止み難く、65歳の高齢を押して、アメリカに旅立った。しかし翌年の明治18年2月(1885年)アメリカにて発病し、帰らぬ人となった。 今日、自らの利益を優先させる世にあって、梧陵の生き方はまさに偉大である。教育の危機が叫ばれているが、その根本原因は、自らの利益が第一になっている点が上げられるであろう。梧陵のように、他の人々のために自らを費やすことの価値を、今一度私達は認識すべきではないだろうか。 |
「これはただ事ではない。」 とつぶやきながら五兵衛は家から出てきた。今の地震は別に烈(はげ)しいという程のものではなかった。しかし長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。五兵衛は、自分の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では、豊年を祝うよい祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向気がつかないもののようである。 村から海へ移した五兵衛の目は、忽(たちま)ちそこに吸い付けられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。 「大変だ、津波がやって来るに違いない。」と、五兵衛は思った。このままにしておいたら四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予(ゆうよ)はできない。 「よし。」 と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明(たいまつ)を以て飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。 「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と五兵衛は、いきなりその稲むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。 「火事だ。庄屋さんの家だ。」と村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うようにかけ出した。 高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻(あり)の歩みのように、もどかしく思われた。やっと20人ほどの若者がかけ上って来た。彼らはすぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に言った。 「うっちゃっておけ。−大変だ。村中の人に来てもらうんだ。」 村中の人は追々集まってきた。五兵衛は、後から後から上ってくる老幼男女を一人一人数えた。集まって来た人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とを代る代る見くらべた。 その時、五兵衛は力一杯の声で叫んだ。 「見ろ。やって来たぞ。」 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な早さで押し寄せて来た。 「津波だ。」 と、誰かが叫んだ。海水が絶壁(ぜっぺき)のように目の前に迫ったと思うと、山がのしかかってきたような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとを以て、陸にぶつかった。人々は我を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進して来た水煙の外は、一時何も見えなかった。 人々は、自分等の村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。2度3度、村の上を海は進み又退いた。 高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。 稲むらの火は、風にあふられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。始めて我にかえった村人は、此の火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。 |