折々の記へ
折々の記 2004 A
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】04/02〜
【 02 】04/16〜
【 03 】04/25〜
【 04 】05/09〜
【 05 】06/07〜
【 06 】06/19〜
【 07 】07/17〜
【 08 】08/15〜
【 09 】08/22〜
【 10 】08/31〜
【 01 】04/02〜
04 02 倉知製作所訪問
04 03 俊成家族移転の日
04 05 三年生六年生へそれぞれ進級
04 07 淡墨桜
04 08 ボケの花
04 12 祭りは桜吹雪
04 14 山梨の桜
犬山城
木曽川の向こうに見えるのが、国宝犬山城である。2日の朝雨が降り始め折角の映像も見たとおりの霞んだものになってなってしまった。
国宝犬山城天守は、三層五階の望楼式となっている。本の丸で間近に見る天守もいい姿だが、木曽川の河原より見る天守は実によい絵になる構図である。
城の中核部分は、野面積みの石垣造りとなっている。現在本の丸には、天守の他に、模擬隅櫓と櫓門が、石塁の上に建てられている。
余談だが、犬山城は現在でも旧城主成瀬家の所有物だ。全国に城跡は数多く残るが、国宝天守を有する近世城郭が個人の所有物であることに、ある種の驚きと羨ましさを感じる。
【記念の写真】
左から順に松島純男、倉知仁助、下平好上犬山城の対岸にあるホテルでの記念写真。
天竜川は駘蕩として人為を眼中におかずして流れ、三人の話もまた総てのこだわりを眼中におかず。
人としての機微にかかわる要諦から始め5時間余、木曽川と川面にゆらめく桜花の電照をながめながら語り、かつ聞きあったのである。
それにしても、長野県南部の山村千代村から戦後の昭和27年春、単身就職した木下という一少年が、年商5億の実業家になったのである。
木下の天性資質は勿論であるが、人柄とか仕事への追求心とかエネルギー、もろもろの要素とともに人との信頼が出来上がって、天運に恵まれたのである。
驚くほどのことであるが、事実なのである。
独立して10年数年生活した一家の家財というものは、大変な分量になるものである。
午後6時半から、テレビアンテナの新旧委員会があった。デジタル化が2011年には始まるといわれており、その対応の仕方についての研究調査情報流布が二年間のひとつの仕事になりそうだという。
パソコンもそうなのだが、機器による表示は理解できるのだが、なぜデジタル表示にいたるのかは全くわからないでいる。
人の生涯の変容というものは、100年前の生涯とくらべれば雲泥の感があるだろう。物質文化の進歩がもたらす生活の変化は、隔世の感がある。
道路ひとつとってみても、乗り物一つとってみても、食べ物一つとってみても、生活の総ての分野で物凄い変化を遂げてきた。
物質文化の変化は精神文化のそれとの相関度があっていいはずなのに、むしろ逆になっているのではないかという危惧をすら感ずる。
一昨日は雛祭であった。
三日の雛祭は会合で写真を撮れなかった。遅ればせながらきのう撮った。一枚目は「お内裏様」「お雛様」「官女三人」
二枚目は「ひな壇一式」
懐かしい歌を「続0歳教育」の「お気に入りの歌」からコピーして掲載する。
[ 7 雛祭(ひな)の宵 ]
1 雪洞に灯を 入るるとて
電灯ことさら 消すもよし
瓔珞ゆれて きらめきて
物語めく 雛祭の宵
2 十二一重の 姫君の
冠少しく 曲がれるを
直すとのべし 手の触れて
桃の花散る 雛祭の宵
3 官女三人の 真似すとて
妹まじめの 振舞いに
加わりたまう 母上の
えまいうれしき 雛祭の宵
この曲が持っている独特の風合いは、歌詞の優雅さとともに、ほかの「ひなまつり」という節句の歌とは比較にならない。ほめすぎても可笑しいけれども、おっとりとした郷愁が漂っている。
大の大人が好きだというのも、この歌が持っている雰囲気というか、ほのぼのとした家庭の愛が歌詞の端はしにも読みとれて、いかにも日本の情緒が目の前に浮かんでくるからだ。しっとりとした安らぎを感ずる。
これを探し当てた事情は、
「折々の記」に説明した。
●小川へきて孫たちの新しい学年がはじまった。
孫たちへの祈りと支えが祖父としてのだいじな立場だと思う。
見られても恥ずかしくない行動、聞かれても恥ずかしくない言葉、この二つのことを念頭において生活していきたい。
爺さん婆さん二人の生活とは、当然ながらちがってくる。より良い方向のための励みがある。
【淡墨桜】
手前に帽子をかぶった女性二人は右側下平とみ子、左側下平秀である。
きのう、念願の「根尾谷の淡墨桜」を見ることができた。樹齢1500余年、幹周り9m20cmというが、その根元を見ると「ウワーッ、すごい」の一語に尽きる。
桜を見に来る人が25万人というが、さすがに人は多い。
「根尾谷の淡墨桜」訪問記は『続0歳教育』の【薄墨桜他2004】に載せた。
【ボケの花】
ボケの花は美しい。今日、家の片隅に咲いていたので撮影。バックが日陰だったため暗色となり、ひきたって見えるのは偶然である。
木瓜について一言
※妖精の輝き―ボケ T
ボケ(木瓜)の原種には5種類あります。@クサボケ(草木瓜)Aカラボケ(唐木瓜)Bヨドボケ(淀木瓜)Cヒ ボケ(緋木瓜)Dシロボケ(白木瓜)です。クサボケが日本原産で、あとは中国原産です。中国では「放春花(ホウシュンカ)」の名で親しまれています。ところで、こんなにオリエンタルで美しく可憐な花が、どうして「ボケ」などと呼ばれるようになったのでしょうか。呼び名の由来は、その実が大きいところを瓜に見立て、木になる瓜だというので「木瓜」、これを音読みして「モククワ」=「モケ」と呼んだのが転じて「ボケ」となったと言われています。ボケの花が終わると、直径5pほどの卵形あるいは球状の実がなります。この実は初めは緑色で、熟すと黄緑色になり、とても良い香りがします。この実を果実酒にしたボケ酒は、香り高い絶品といわれ、飲むと疲労回復や筋肉の痙攣に効くと言われています。「器量よけれどわしゃボケの花、神や仏に嫌われる」という俗謡は、ボケに棘があるので神仏の献花として用いないことを指しますが、反面、「厄介者扱いされるほど丈夫な木」ということでもあるのです。 大きくなる木ではなく狭い庭に向いていることから「平凡」という花言葉がついたそうです。他には「情熱」とか「早熟な人」という花言葉もありますが、私は「妖精の輝き」という花言葉がピッタリだと思います。(智泉荘周辺)
※平安時代に渡来した―ボケ U
ボケは、日本には平安時代に渡来したと言われ、江戸時代以降盛んに栽培されるようになり、大正時代には50種類近くがあったと言われています。ボケの名前の初出は『魏志倭人伝』(3世紀後半)の「ボウ」でクサボケに近いものとなっています。その後『本草和名』(918頃)に「木瓜 和名毛介」として、また『和名類聚抄』(承平年間、931〜938)にも「木瓜 和名毛介」として登場します。さらに『延喜式』(927)には、朝廷に木瓜3束を献上したとの記事がみられます。『大和本草』(1709)には、ボケの種類として、寒木瓜・淀木瓜・白木瓜・長寿木瓜・カラボケ・八重ボケ・草ボケの7種類があげてあります。『草木錦葉集』(1829)、『本草図譜』(1828)にもボケが載っています。花言葉は「先駆者」「情熱」です。(智泉荘周辺)
※子宝伝説―ボケ V
ボケを漢字で書くと木瓜となりますが、何故、木の瓜と書くのでしょうか? 今回はボケの花(【花散歩 壱百四拾弐】【花散歩 壱百七拾壱】参照)でなく、ボケの実です。ボケの実は瓜に似ているとも思えませんが、昔の人はボケの実を瓜と同じようだと思っていたのでしょうか。ボケの実は薬用になるそうで、漢方の本にも載っています。焼酎づけとしては最高のものとして珍重されています。梅の焼酎づけのような黄金色の美しい上品な味と香りの焼酎づけが出来るそうです。9月〜10月頃にボケの実を収穫し、5〜10分くらい湯通しをして縦割りにし、乾燥したものを木瓜(もっか)といい、漢方では強壮・鎮痙・鎮咳・利尿薬として用います。冠稲荷には、群馬県指定天然記念物のボケ(樹齢400年)の木があります。昔、子供に恵まれない夫婦が毎日お参りをしていました。するとある時、修験者の老人が二人にボケの実を授けました。二人でそのボケの実を食べたところ、まもなく子宝に恵まれました。夫婦はお礼に境内にボケの木を植えました。それが現在の冠稲荷のボケの木だと伝えられています。この伝説から、このボケは、子宝・縁(えにし)結び・健康長寿などの御利益があるとされています。毎年美しい花を咲かせ、祭の日には、このボケの実で作ったボケ酒が与えられるそうです。(智泉荘周辺)
祭りは桜吹雪であった。10日の朝は花びらがチラホラ散っていた。それなのに、11日の昼には一陣の春風に誘われてパラパラみごとに散り始めた。
春祭りに、今年のような桜景色はめったなかった。宮総代としては恙なく祭が終わったことで一安堵、ホッとしている。
【神代ザクラ】
確かに見ごたえのある桜である。
所在地が山梨県北巨摩郡武川村山高だから「山高神代ザクラ」といわれている。エドヒガンザクラである。
今回の山梨訪問は
武田八幡宮、わに塚の桜、山高神代ザクラ、満休寺の舞鶴松
精進ヶ滝、真原の桜並木、清治の美術館の桜、神田の大糸桜
の八箇所で「山梨の桜2004」へ詳細を載せておきます。
今度まわったコースはとても良かったから、希望者を案内するときの参考になる。
【折々の記 2004 Aへ】