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折々の記 2004 @

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】12/29〜        【 02 】01/15〜
【 03 】01/24〜        【 04 】01/30〜
【 05 】02/07〜        【 06 】02/18〜
【 07 】03/01〜        【 08 】03/06〜
【 09 】03/09〜        【 10 】03/21〜


【 07 】03/01〜

  03 01 南天と福寿草
  03 03 画像処理 ●「ブルーライト・ヨコハマ」
  03 04 雛祭
  03 05 山崎大佐
  
 03 01(月) 南天と福寿草

春は三月 march まち、学校の生徒は学年末の月となって、どことなく春の気配を感ずることができるようになります。ことに卒業式が済んでからは気分的な負担がなくなって、校舎の外では春風の感じが肌に沁みたものである。「あ〜あ、春がきたなぁ」お彼岸頃はこの実感がことに強かった。

【南天】













ナンテンは鎌倉時代から記録され藤原定家(ていか)は1230年(寛喜2)中宮権大夫(ちゅうぐうごんのだいぶ)が前栽(せんざい)に植えると『明月記』に書き留めた。

足利義満(あしかがよしみつ)が建てた金閣寺の夕佳(せっか)亭にはナンテンの床柱が使われたとの伝承がある。いけ花では最古の花道書『仙伝抄(せんでんしょう)』にすでに取り上げられている。元禄(げんろく)(1688〜1704)のころには普及し、園芸品種が作り出され始め、『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』(1829)には斑入(ふい)りを中心に41の品種が載る。明治年間には120品種に増えたが、その後衰退し、現在は40品種ほどが維持されている。

ナンテンは難転に通じるとして、縁起植物に扱われ、盗人、火災、魔除(よ)けに植えられた。京都鞍馬寺(くらまでら)の祭事、竹伐会式(たけきりえしき)や火祭りにはナンテンの小枝を身につける。ナンテンは果実にドメステチンメチルエステル、樹皮にナンジニン、ドメステンベルベリンなどの成分を含む。防虫、防腐の効果があり、葉を食物の掻敷(かいしき)に使い、古くは米櫃(びつ)や鎧櫃(よろいびつ)などに入れた。なお、「ナンテンの床柱」といわれているものは、普通イイギリなどの別種の材である。

南天は昔からどこの家にも1〜2株はある。冬の花のない時期に、南天の深紅の粒々の実は、爽快感を表わします。鞍馬沢の道をあがっていくと、20分位の所に南天畑がある。値段の折り合いが悪かったのか、この冬は切られていない。

【福寿草】












春を告げる花ともいう。福寿草の蕾が土の上へでてきて、膨らみはじめたのが節分頃である。この写真は2月20日午後2時半に撮ったもので、今では茎が伸びてきて3〜4センチにはなっている。

キンポウゲ科の多年草。多数の堅い根をもつ短い根茎から数個の花茎を出す。花茎は初め短く、包葉状の葉に包まれて先端に一花をつけるが、やがて伸びて細裂した3回羽状複葉を互生し30センチ以上になる。花は光沢のある黄色で径3〜5センチ、花弁は多く、日が当たると開く。雄しべ、雌しべとも多数で、花期後、金平糖のような集合果ができる。

日本から朝鮮半島、シベリアに分布する。日本では本州中部以北、北海道に多く自生する。

寒さに強く、自生地では山の北東斜面の落葉樹林に多く、南西面には夏の暑さと乾燥のためかみられない。花形や花色に個体変異が多く、弁先が裂けたナデシコ咲きや、紅色花の品種もある。

庭では夏に日陰となる落葉樹の下に植え、腐葉土や堆肥(たいひ)を十分施して、肥培するとよい。
英語では「a pheasant's eye」という。


 03 03(水)画像処理












メールに添付されてきた画像をこへ載せた。 どうすればいいのか、という段取りを記録しておきたかったからである。

解像度は 240 としておけばいい。

●「ブルーライト・ヨコハマ」 橋本淳作詞・筒美京平作曲


  街の灯(あか)りが とてもきれいね
  ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ
  あなたとふたり 幸せよ

  いつものように 愛の言葉を
  ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ
  私にください あなたから

  歩いても 歩いても 小舟のように
  私はゆれて ゆれて あなたの腕の中

  足音だけが ついて来るのよ
  ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ
  やさしいくちづけ もう一度

  歩いても 歩いても 小舟のように
  私はゆれて ゆれて あなたの腕の中

  あなたの好きな タバコの香り
  ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ
  二人の世界 いつまでも


毎朝7時半から「てるてる家族」をみている。この歌は隣に住んでいた「アキコチャン」が3〜4歳のころ、ちゃんと知っていて、私が適当に歌うと何度でも訂正して教えてくれた歌である。テレビでこの歌を聞くと、アキコチャンを思い出すのである。

なるほど、夏子さんがテレビでは歌うのだが、やっと歌の世界でヒット曲になるという筋書きである。筋書きは別にしても、よく聞いてみるとなかなかハイカラな歌である。

 03 04(木)雛祭

ゆうべは雛祭であった。年寄り二人では雛祭の宵であることは判っていても、飾ることもないし歌をうたうこともない。

ただ、惜しいなあと思うことは、昔の雛祭の歌が聞かれなくなってしまったことである。

インターネットで調べてみると、次のような歌がでてくる。



「ひなまつり」 文部省唱歌 昭和16年(1941年)『国民学校初等科 第二学年用』

   赤いもうせん しきつめて
   おだいりさまは 上のだん
   きんのびょうぶに ぎんのだい

   五人ばやしや 官女たち
   そろってならぶ 下のだん
   どれもきれいな おひなさま

   あられひしもち おしろざけ
   ぼんぼりかざる おもしろさ
   きょうは三月 ひなまつり

「おひなまつり」 斎藤信夫作詞・海沼実作曲

   あかいひなだん 金びょうぶ
   おだいりさまや 官女(かんじょ)さま
   五人ばやしの おはやしに
   キューピーさんも なかまいり

   赤白青(あかしろあお)の ひしもちや
   あられきんとん お白酒(しろざけ)
   おすしのお重(じゅう)も できました
   ごちそうたくさん あげましょう

   ふたつ並んだ ぼんぼりも
   よるはほんのり ともります
   桃のお花も 笑ってる
   美代(みよ)ちゃんおうたを うたいましょう

   花のリボンに おふりそで
   あかいかのこの おびしめて
   おいわいしましょう おひなさま
   きょうはうれしい ひなまつり

「おひなさま」 作詞・作曲不詳/絵本唱歌

   だいりさまやら かんじょやら
   ごにんばやしも にぎやかに
   あられひしもち もものはな
   ぼんぼりつけて ひなまつり

「雛祭」 文部省唱歌 昭和7年(1932年)『新訂尋常小学唱歌 第五学年用』

   一 お行儀正しい内裏さま
   赤い袴の官女たち
   五人ばやしが次次と
   きれいに並ぶ壇の上
   雪洞つけて 坐つて見れば
   金の屏風がきらきらと
   夢のお國の御殿のように

 ニ 赤い毛氈美しく
   菱のお餅にお白酒
   お菓子・豆いり いろいろと
   きれいに並ぶ壇の上
   花瓶にさした緋桃の花も
   半ば開いて にこにこと
   お伽噺のお家のように

「うれしいひなまつり」 サトウハチロー作詞・河村光陽作曲
    この歌が一般的に知られている歌で、テレビにも
    よく出ていたと思います。

 1 あかりをつけましょ ぼんぼりに
   お花をあげましょ 桃の花
   五人ばやしの 笛太鼓
   今日はたのしい ひなまつり

 2 お内裏様(だいりさま)と おひな様
   二人ならんで すまし顔
   お嫁にいらした 姉様に
   よく似た官女の 白い顔

 3 金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
   かすかにゆする 春の風
   すこし白酒 めされたか
   あかいお顔の 右大臣

 4 着物をきかえて 帯しめて
   今日はわたしも はれ姿
   春のやよいの このよき日
   なによりうれしい ひなまつり




 「雛祭(ひな)の宵」(作詞者不詳 長谷川良夫作曲)

    長年、はっきりした歌詞を知りたいと思っていてURLを調べていたが、「薩摩守」という題で昔の高等小学校第一学年の唱歌の本にありました。

  1 ぼんぼりに灯を 入るるとて
    電灯殊更 消すもよし
    瓔珞(ようらく)ゆれて きらめきて
    物語めく 雛祭(ひな)の宵

  2 十二一重の 姫君の
    冠少しく 曲がれるを
    直すとのべし 手の触れて
    桃の花散る 雛祭の宵

  3 官女三人(みたり)の まねすとて
    妹まじめの 振舞に
    加わりたまう 母上の
    えまいうれしき 雛祭の宵

 「えまい」を広辞苑第四版でみると、次のようにでている。

 えまい【笑まひ】
   @ にこにこわらうこと。ほほえむこと。万一八
       「なでしこが花見るごとに少女らが えまいのにほひおもほゆるかも」
   A 花がひらくこと。永久百首「花の―のくちびるも見ず」


この曲が持っている独特の風合いは、歌詞の優雅さとともに、ほかの「ひなまつり」という節句の歌の比ではない。ほめすぎても可笑しいけれども、おっとりとした郷愁が漂っている。

私の好きな歌の一つである。



 03 05(金)‘山崎大佐’

家内の友達に山崎さんがいる。山崎という姓といえば、私は山崎大佐を思い出す。幼少の頃のイメージとでもいうのだろうか、アッツ島玉砕は硫黄島玉砕とともに第二次世界大戦中に少年時代を送ったものにとって、忘れることのできない出来事だった。

戦争の話は当然のことながら美化されて話し伝えられる。実際には人を殺したり、殺されたりすることなど、好き好んでするものは一人もいないと思う。

そういう意味では、時の断面の思い出としか言いようがない。

じつは「アッツ島玉砕」の『山崎大佐指揮をとる』という壮烈なイメージが子供ごころに焼きついていて、その歌も記憶から遠ざかって消えそうであった。

『アッツ島血戦勇士顕彰国民歌』 作詞 朝日新聞社選定・作曲 山田耕筰 唄 伊藤久男

一番 刃も凍る北海の 御楯と立ちて二千余士
    精鋭こぞるアッツ島 山崎大佐指揮をとる 山崎大佐指揮をとる

二番 時これ五月十二日 暁こむる霧深く
    突如と襲う敵二万 南に迎え北に撃つ 南に迎え北に撃つ

三番 陸海敵の猛攻に 我が反撃は火を吐けど
    巨弾は落ちて地をえぐり 山容ために改まる 山容ために改まる

四番 血戦死闘十八夜 烈々の士気天をつき
    敵六千は屠れども 我また多く失なえり 我また多く失なえり

五番 火砲はすべてくだけ飛び 僅かに銃剣手榴弾
    寄せ来る敵と相撃ちて 血汐は花と雪を染む 血汐は花と雪を染む

六番 一兵の援一弾の 補給を乞わず敵情を
    電波に託す二千キロ 波頭に映る星寒し 波頭に映る星寒し

七番 おりから拝す大御言 生死問わぬ益荒雄が
    ただ感激の涙呑む 降りしく敵の弾丸の中 降りしく敵の弾丸の中

八番 他に策なきにあらねども 武名はやわかけがすべき
    傷病兵は自決して 魂魄ともに戦えり 魂魄ともに戦えり

九番 残れる勇士百有余 遥かに皇居伏し拝み
    敢然鬨と諸共に 敵主力へと玉砕す 敵主力へと玉砕す

十番 あゝ皇軍の神髄に 久遠の大義生かしたる
    忠魂のあと受け継ぎて 撃ちてし止まん醜の敵 撃ちてし止まん醜の敵

MIDIで演奏付だから間違いなく再現してくれる。

なお、Google で「アッツ島」で検索するといくつか参考になるものがある。

   http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gyoku-attu.htm
   は「アッツ島玉砕」のページで、こうしたことも知っておくこともよい。

   http://www2u.biglobe.ne.jp/~taro/attu.htm
   これは「アッツ島戦記」で詳しく出ています。


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