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折々の記 2004 A

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】04/02〜        【 02 】04/16〜
【 03 】04/25〜        【 04 】05/09〜
【 05 】06/07〜        【 06 】06/19〜
【 07 】07/17〜        【 08 】08/15〜
【 09 】08/22〜        【 10 】08/31〜


【 06 】06/28〜

  06 28 涼羽来宅
  06 29 長岳寺と阿智神社
  07 04 月見草
  07 08 月見草
  07 09 速聴機
  07 10 下平真広誕生日
  07 12 合併住民投票 喬木は反対

 06 28(月) 涼羽来宅

しばらくぶりに涼羽がきた。26日晩7時過ぎ、頭の毛が伸びてきたので、可愛い女の子に見えるようになった。体もずいぶん大きくなっていた。言葉の生活がぐんぐん伸びているようである。

こんなふうに成長してきた孫を見ると、ほんとに嬉しい。明るい気持ちになる。












27日には「高森蘭ミュージアム」へいった。
ここでも元気な声が印象的で、おおきい声で「今日わァー」とか「どーも、ありがとう」など聞くとエネルギッシュな毎日が想像される。

 06 29(火) 長岳寺と阿智神社

午前中に柿のボルドー液消毒が終わった。「柿の消毒は、六月上旬、二十日後の六月下旬か七月上旬、九月上旬頃の年三回としてもいい」と専門家にお聞きしている。ボルドー液はカッパも用具一切白くなるし、車まで白くなるので消毒後の手入れが大変だ。のども渇く。

午後、長岳寺と阿智神社へ行ってきた。

長岳寺は武田信玄縁の寺として考えていたより境内は狭い寺だ。















調べていた十三重の塔婆は見たとおり大きいものであった。
本堂参拝者の下足棚のまえに、次のような説明板がある。


武田信玄公十三重之塔建立由来記

進言公三河に進出、野田城を攻略中、病を得て帰国途上、この駒場の地に病没されました。その亡骸は土葬か火葬か謎とされておりましたが、昭和六年信州佐久市岩村田竜雲寺境内より、信玄公の遺骨が発見され、その骨壷の中より袈裟環が出まして、その環に次のことが書かれていました。

大檀越信玄干時天正元年四月十二日於駒場卒戦時為舎利納茲北高和尚項礼百拝即今神霊今日作麼生是安身立命処擲火云三世諸仏火焔裏転大法輪酉春念十八日全祝六十九歳

このことより駒場に火葬はなきやと照会あり、当地に古来より信玄公火葬塚と伝えらるゝ処あり、昭和十三年にこの塚より灰と骨粉を認めましたので、供養塔建立の議もありましたが、大東亜戦にて沙汰止みとなりました。
然るに本年信玄公没後四百年迎うるに当たり、塚より骨粉を求め、有志相はかりて、この塔に収め信玄公の徳をたゝえ供養の塔を建立いたしました。


是を見ると、岩村田の竜雲寺にも行ってみたくなるが、まず駒場の「火葬塚」を確かめたくなる。ともあれ歴史は諸説が云々されるが、武田信玄は当地駒場で病没したと思われる。

続いて阿智神社も見てきた。












「古代東山道」園原や神坂峠などにかかわる遺跡はよく知られている。中津川の「坂本駅家(うまや)」から阿智村の「阿智駅家(うまや)」コースが散策対象である。このコースの下伊那の起点“阿智”には 式内阿智神社があり、神社は前宮と奥宮にわかれている。この社は渡来民の社だという考え方もあり、私たちの韓郷社とのかかわりもあるので、二つの意味から関心を持っていた。

奥宮は富士見台や園原に行くとき、こんもりとした墳丘は見ていたが、そこが阿智神社奥宮とは知らずにいた。前宮は昼神温泉郷町並からちょっと登ったところにあるが、そこもやはり両サイドが急峻で小作りの城を思わせるところだった。

詳細は「旅の記録」へ載せていく。

 07 04(日) 月見草

4日といえばアメリカ独立記念日である。

きのうは神社総代の総会だった。初めての総会で当番の依頼が思わしくなくて失敗であった。総会の運営については引継も無く困ることが多かった。全員が承知していたほうがいいものはプリントにして配布する方法をとりたい。

今朝、検索で月見草を調べていると参考になるページが幾つかあった。

「月見草の花」    山川清作詞・山本雅之作曲

一 はるかに海の みえる丘
  月のしずくを すって咲く
  夢のお花の 月見草
  花咲く丘よ なつかしの

二 ほんのり月が 出た宵(よい)は
  こがねの波が ゆれる海
  ぽーと汽笛を ならしてく
  お船はどこへ 行くのでしょう

三 思い出の丘 花の丘
  きょうもひとりで 月の海
  じっとながめる 足もとに
  ほのかににおう 月見草

さらに http://www.daichi.nu/tukimisou/tukimisou.htmを開くとほんとの月見草を手に入れる方法が出ている。すぐ千葉県御宿町の大地農園へメール注文をした。

 07 08(木) 月見草

『予定君』へ書き込んでいる。5日に荷物が着いた。6日の晩3つ咲いたのだが知らずにいて朝見つけた。薄いピンク色になって萎んでいた。

7日今晩は咲くぞと言って家の中へ持ち込んだ。夕食前にお風呂をすませて月見草を見ると、もう二つ開いていた。よく見るともう二つ咲きそうである。時間は6時35分、見る間に花は開いた。感激、かんげき、歳をとっても命の息吹を目の前にしたとき、驚きであった。

月下美人は一晩のうちに咲いて萎む豪華であるが可憐な花である。月見草も一晩のうちに咲いて萎む花だが、清楚なつつましい花である。

『富士には、月見草がよく似合ふ』……太宰治

Google で月見草を検索してみると836という驚くほどのサイトが出てくる。‘富士には月見草がよく似合う’という言葉は景色かと理解していたが、そうではなかった。読んでみると、実は命の賞賛であった。


●「富嶽百景」より
○昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。
・・・・・・・私は、甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく。御坂峠、海抜千三百米。
 この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しょうと思つてゐた。
私は、どてら着て山を歩きまはつて、月見草の種を両の手のひらに一ばいとつて来て、それを茶店の背戸に播いてやつて、「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちやいけないよ。」娘さんは、うなづいた。 ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合ふ と、思ひ込んだ事情があつたからである。
御坂峠のその茶店は、謂はば山中の一軒家であるから、郵便物は、配達されない。
峠の項上から、バスで三十分程ゆられて峠の麓、河口湖畔の、河口村といふ文字通りの寒村にたどり着くのであるが、その河口村の郵便局に、私宛の郵便物が留め置かれて、私は三日に一度くらゐの割で、その郵便物を受け取りに出かけなければならない。
天気の良い日を選んで行く。
河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの詠嘆ともつかぬ言一葉を、突然言ひ出して、・・・・・・・間抜けた嘆声を発して、車内はひとしせり、ざわめいた。
けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥も輿へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素撮りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぽんやり崖の方を、眺めやつた。
老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぽんやりひとこと、「おや、月見草。」 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。
さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあぎやかに消えず残った。三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。

「富嶽百景」日本文学全集54「太宰治集」新潮社より月見草関連分抜粋


ふつう月見草というのは‘オオマツヨイグサ’のことで、夢二の「宵待草」で知られている。


竹久夢二「宵待草」

  待てど くらせど 来ぬ人を
  宵待草のやるせなさ

  今宵は月も出ぬそうな

とは、竹久夢二の作詞による「宵待草」の一節。海鹿島海岸近くに、房総夢二会によって建てられた竹久夢二の碑文がある。

夢二は明治43年、27歳の夏に海鹿島に滞在し、この「宵待草」のモデルとなる女性、長谷川カタに出会った。宵待草とは、銚子の海岸に群生して夕方になると黄色い花を咲かせるマツヨイグサのことである。


 07 09(金) 速聴機

0歳教育を調べているときに速聴機の効果は計り知れないと思い、カタログをとってみると50万前後という高額な値段であったので、紹介もしなくてきた。

このカタログはその後何回も送付されてきている。パソコンの検索で調べてみると、この種の機器がいろいろ紹介されていた。やっぱりパソコンは都合がいい。

その中で目をつけたのは次のものである。

デジヴォ右脳開発センター
http://www.rakuten.ne.jp/gold/mrock/digivo/index.html

詳細はジャンプして見るとよい。孫たちのためにも手に入れたい。

 07 10(土) 下平真広誕生日

明治35年7月10日生まれ、満102歳

 07 12(月) 合併住民投票 喬木は反対

信濃毎日新聞 午前4:45 URL


合併住民投票 喬木は反対、望月・奈川は賛成が60%超

 市町村合併をめぐる住民投票と投票方式の住民意向調査が十一日、県内五町村で行われ、三町村で即日開票された。

 下伊那郡喬木村の住民投票は飯田市、上村、南信濃村との合併の賛否を問い、反対が二千九百五十八票(60・4%)。喬木村は任意合併協議会から離脱する見通し。

 北佐久郡望月町の住民投票は、佐久市、南佐久郡臼田町、北佐久郡浅科村との合併に賛成が四千四百二十七票(63・2%)。来年三月の新市発足が確実になった。

 松本市との合併か、自立かが問われた南安曇郡奈川村の住民投票は「合併」が五百四十一票(67・1%)。村は、任意合併協議会の法定協への移行を進める見通しだ。

 上伊那四市町村合併をめぐる南箕輪村の住民投票、高遠町の住民意向調査は十二日に開票する。


昨夜オフトークで選挙管理委員会から放送があるだろうと待っていたが、わからなかった。そこで、今朝信毎を見ると上記のようであった。

さて、自立が決まったから喬木村は独自の方向に進まなければならない。

もともと‘国政の赤字財政をどうするか’が合併の根源にある。手元にある〈日本の借金時計〉 http://www.takarabe-hrj.co.jp/takarabe/clock/index.htmを見ると、日本の財政赤字はおよそ700兆になっている。算術平均では一軒約1500万円になる。喬木村は戸数約2000軒だから、村の赤字は300億円になる。

国依存という村のぶらさがり財政体質を、まず変えなくてはならない。

〈住民を主人公にした考え方〉を一人一人のものにしていくことが、一番大事なことである。
当然といえば当然のことなのだが、ことに公平な金銭感覚を基盤にした考え方を共通化していくことが大事なことである。この共通化のためには月々に話合いをもつとか、いろいろなアイデアを出し合うとか、話合いを通して村の行政財政総てを考え直さなくてはならない。

旧来の陋習にこだわることはない。議員の数とか報酬とか年金とか職責とか住民とのつながりとか、選挙の方法とか議員について考えても、すべての面で旧来のしきたりにとらわれず、〈住民を主人公にした考え方〉を基にして新しく考え直さなくてはならない。

このことは議員だけではなく総ての行政、財政、組織にわたって考え直さなくてはならない。
このことは、これから個人としても立案をつづけていきたい。

今朝はさわやかな秋冷の肌触りであった。



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