折々の記へ
折々の記 2004 A
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】04/02〜
【 02 】04/16〜
【 03 】04/25〜
【 04 】05/09〜
【 05 】06/07〜
【 06 】06/19〜
【 07 】07/17〜
【 08 】08/15〜
【 09 】08/22〜
【 10 】08/31〜
【 07 】07/17〜
07 17 HPのプリントアウト
07 19 目ざめよ
07 25 香齢会(両馬老人クラブ)
08 07 南方熊楠という人
08 09 熊野古道
08 10 稲と坪庭
08 11 教育の地方分権私案
3日ほど前に今年の梅雨はあけた。暑い日が続く。
ホームページをプリントアウトすることにした。ジェットプリンターだから割合スムーズにできる。特殊な製本にした。
『0歳教育』356枚 A 0歳教育関係のものを収録した。
『折々の記:No War!』379枚 BC 日記と反戦サイトを収録した。
『月見草出版』416枚 D 随筆、英語、韓郷社など収録した。
『旅の記録:デジカメ:歌詞』 EFG 7月中製本予定。
A5版用紙で1100枚余の分量はだいぶなものになった。
キリスト教の『ものみの塔』と一緒に『目ざめよ』という冊子を配ってくれている。この『目ざめよ』の冊子の中には折々興味ある記事を載せている。
印刷の都合上、ここへ載せた。
《01》平成16年役員会通知、他
rojinn-01.html
しばらく「折々の記」を休んでいた。青垣を板塀に替える作業をしていた。
この間に調べていていたのが、表題の「南方熊楠という人」のことである。この人の記念館へ行ってみようと思っている。
南方熊楠記念館
http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/
ホームページの冒頭に次のような記載がある。
和歌山県が生んだ博物学・民俗学の巨星「南方熊楠(みなかた くまぐす)」。
日本に「ミナカタ」ありと世界を驚かせた熊楠の、文献・標本類・遺品を保存・展示
熊楠の生涯の中にはいろいろと考えさせられる記事がある。その中の共鳴できる一つは、記憶の最良の方法であった。
私が自分で初めて勉強する気持ちで勉強したのは、実は下伊那農学校へ入った一年生のときからである。扇風機も冷房装置もない二階の養蚕用具置き場の隅を片付けて手製の机を据えたのが勉強した場所であった。
貧しい農家だったから本というものは一冊とてなかった。勉強のきっかけは「桐生君、試験は最初が大事だぞ」と三年生の市瀬猛文さんに言われたことに始まった。
教科書を読み直して口頭で口ずさむ方法をとっていた。そのうちどうも憶えれないので、要点を紙に書き散らしていた。そしてもっといい方法として読んだ部分を小さい単位で紙に書いていく方法をとっていた。
後年教師になってから、憶える一番いい方法は五感を利用することだと話したものである。
さらにこの方法を有効にするには、レシーバーをして読み、書くときにはシャベリながな書くということが最もいいと思っている。
これが「記憶の最良の方法」であった。
南方熊楠の博学多彩ぶりは、一に書き取ることによる方法が基になっていると了解できる。
このことと共に、「ほんとのことはなにか」という好奇心、追求心、をいつどこで身につけていたのか、が大きな課題として考えざるを得なかった。
どういう環境によって、その性分が身につくのだろうか。
「なんだもんで」時代を作り出すことと、それを大事にする家風をつくっていることが基本的には、極めて大切なことであろうと思う。
熊楠の生涯という記事にふれて、人のスタートの部分について考えさせられた。
http://www.asahi-net.or.jp/~pf8k-mtmt/koindex.htm
熊野古道を調べているとたくさんのサイトがあっていろいろと参考になる。上のサイトは「熊野古道 中辺路」で索引したとき出てくる<<熊野古道トップページ歴史への誘い>>で、中辺路を歩いた記禄だからとてもよい。
南方熊楠記念館と熊野古道の旅
行程概要
中央自動車道→吹田→堺→高野山→高野龍神スカイライン→
南方熊楠記念館→熊野古道中辺路→熊野本宮大社→168号線で五条市→
郡山→名坂国道→亀山→飯田
印刷資料 熊野古道76p
南方熊楠と中辺路141p
今年のイネは出穂がとても早かった。例年ならこの時季のウルチマイはチラホラ出穂が見られるほどである。モチゴメは早めに出穂するが今年は写真に見るとおりだ。
坪庭の青垣をやめて板塀に替えることにしたが、基礎部分は自分でやった。鹿塩から石を頂いたのを適当に据えた。大きい石三つと小さい石二つ。
横に寝ているとても硬い石
その上に小さい鹿塩の石灰石
紅葉の根じめにあった富士の石
平たい踏み石…何処の石か不明
横石の前にあった石…富士の石
教育制度の変化が一つの潮流になりそうな様子。市町村立小中学校はその自治体の権限に委譲される流れになったと見ていい。これは教育行政についての政治の考え方の大きな変化であり、やっと教育の国家統制の間違いが修正される方向になってきた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040810-00000012-yom-pol
その中に次のような骨子が書かれている。
改革私案は、
1 義務教育制度の弾力化、
2 教員養成の大幅改革、
3 学校・教育委員会の改革、
4 国による義務教育保障機能の明確化
の4項目で構成している。
(読売新聞)[8月11日0時55分更新]
Yahooニュース・国内・政治の中に出てきたニュースである。
教育の原点は、幼児期ことに0歳教育如何にかかっている。
こうした大きな行政の変化を期待できる記事だった。
幼児教育の先駆者は世界各地にその活動を始めている。日本においてもその試みはいくつもある。ドーマンメソッドや七田さんや、三石さんなど、実際には私的なものだから金がかかるし、見方によれば営業として能力開発を食い物にしている業者さえいる。
私は「0歳教育」を地方行政の中に持ち込むことが理想だと信じている。それはビッテやストーナーの実践を読んだときからのものであり、教育の原点は各家庭の実践しかないと言えるからである。
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