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折々の記 2003 B

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】06/15〜        【 02 】06/20〜
【 03 】06/26〜        【 04 】08/13〜
【 05 】09/02〜        【 06 】09/24〜
【 07 】10/17〜        【 08 】10/31〜
【 09 】11/26〜        【 10 】12/03〜


【 07 】10/17〜

  10 17 韓郷社誌完了
  10 20 秋来たる   ●渡来民
  10 21 タマネギ移植 ●斉藤康司水彩画展
  10 22 柿干場の方付け
  10 24 教育とマスコミ
  10 26 ザクロ
  10 27 ロンドン・タイムス
 
 10月17日(金)韓郷社誌の上枠ほぼ完了

社誌を作って配ったのは平成11年だったから、あれからもう4年もたった。

編集方針を決めていくときに、帰化人に関係しているという立場から、神社の由来記のなかに考えられる推察くらいの項目を入れたかった。だが決め手になるような腹構えがなかったこともあり、そのまま一応の手順をふんで製本した。

部数は160だったから、失くしてしまえばそれまでだ。それと、大陸文化の影響をたぶんに受けて日本が歩んできたことを思うと、私たちの先祖の渡来民のことを書き残しておきたかった。

そんなこともあって、およそ2週間をかけてホームページへ載せたのである。

データは次のようなものである。

  「韓郷社誌」 編集委員会
  「高麗神社と高麗郷」 高麗澄雄
  「帰化人」 日本歴史新書 関晃
  *参考にしたURL
  【高麗神社】
    http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/si1koma.htm

  【高麗神社】
    http://skyimpulse.s26.xrea.com/koma.html

  【高麗王若光と曼珠沙華】
    http://village.infoweb.ne.jp/~hidakk/komaou.html

  【高麗氏(こまうじ)】
    http://www.ksky.ne.jp/~imatakao/page23.html

  【大磯・高麗神社】
    http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/ooiso.html

  【武蔵と相模の渡来文化】
    http://www.fides.dti.ne.jp/~matsuda/framepage2.html

  【御船祭(大磯町無形文化財)】
    http://www.oiso.or.jp/event/mifune.html

  【関東の渡来の史跡】(その1〜7)
    http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/sirahige.html

この他に長野県関係の本としては「信州の韓来文化」(今井泰男)、「まほろばに無窮花(ムグンホァ)は咲く」がある。

   「信州の韓来文化」は写真と簡単な説明のある本で、地道なものとして
   受け止めてよい。また「まほろばに無窮花は咲く」は長野県在日韓国人
   の人たちがまとめたものでぜひ一読したいものです。

「人物探訪・日本の歴史」第一巻“古代の豪族”という本がある。<古代史の謎を探る>というタイトルで、山田宗睦(哲学者)、上田正昭(京都大学教授)、邦光史郎(作家)の三人の鼎談が載っている。

   幅広い視点から‘日本人はどこからきたか’‘「魏史倭人伝」の読み方’
   ‘邪馬台国はどこか’‘古代の王から天皇へ’‘実力者蘇我氏と天武天
   皇’‘蘇我氏と聖徳太子の対立’‘騎馬民族は日本を征服したか’を取
   り上げて興味深い話がすすめられている。
   この他、古代の天皇制や歴史の中の神話など何人かの説を取り上げてお
   り参考になる本である。

●秋深まる

きのうの午後4時過ぎ、きょうの御前9時、小一時間ずつ、伊久間堤防方面と伊久間原を歩いて回った。秋に咲く小さな花が目をひいた。去年は七草をカメラで撮ってまわったが、野辺の名もなき草花…ほんとは名前がちゃんとあるのだが、知らないだけ…を見ていると、無知は哀れだという想いにさいなまれた。

宵待ち草の切り株から遅ればせの花が一つ咲いていたが、妙に哀れであった。マンジュシャゲはとうに時期を過ぎていた。自然の美というと格好いいのだが、名前が判らないのは悲しいものである。

柿はだいぶ色づいてきた。月末には取りはじめるようになるだろう。下準備はやっとできた。

 10月20日(月)秋きたる

ツワブキの花が咲き乱れている。実はいままでも咲いたであろうに、気がついたことがなかったのである。黄色で一斉に開花する。

ところが、可笑しいのは山茶花である。お茶の花もそうだから仕方のないことなんだが、三々五々勝手に花が咲くのだ。

流しの前にある山茶花は早とんで一輪咲き誇っている。その他には赤くなりはじめた蕾が一つあるだけだというのに。

昨日は脱穀作業をして秋の取り入れが終わった。春先の代掻き前に苦土石灰を撒布した、失敗の影響からと思うが、出穂が遅れたものが多く、収穫は昨年よりは少なかった。

●渡来民

ホームページへ載せる韓郷社のインプットは、渡来民の項が終わりに近づいた。そこで今更ながら再確認したのが、渡来民の人たちは私たちの祖先である、ということだ。

テレビのコマーシャルかなんかで、『ぼくはお父さんお母さんがあるから僕があるんだ。お父さんお母さんはお爺ちゃん婆ちゃんがあるからお父さんお母さんがあるんだ。………考えてみると(ものすごい数になっていくのを想像すると)、不思議だなあ』というのがある。

自分の五代前といえば、一代前は「自分×2」であり五代前といえば「自分×2×2×2×2×2」となって、32人の関係者の末孫ということになる。
一世代30年としてみると、朝鮮半島から人々が渡ってきてからは1300年余になるから、43世代は過ぎていることとなる。

西暦650年代の自分の祖先の関係者総数は「自分×2×2×2×2×2×…………と2が43続く」という計算になる。
すなわち、2の43乗=17,5921,8604,4416。 これは当時の日本の人たち全部が自分の祖先になっていることを意味しています。

逆にいうと、1000年後の自分に関係する子孫の数は、
  自分×2×2×2×…………と2が33続く。
すなわち、2の33乗=42,9496,7296。  日本中が自分の血縁者ということになる。

明治以来、日本は日本独自の皇国史観に拘束されてきました。太鼓持ちに踊らされてきた思考方法は正しくなかった。日本民族は単一民族なんていう意識は勝手な言い分であって国際的には通用しないのです。古代から続いていた北方からの、あるいは南方からの、多くの民族が渡来して混血をつづけてきたのです。気兼ねなく日本人は混血民族である、といっても間違ってはいません。

渡来民は私たちの祖先なのである。

昔、「温故知新」ということばを教わった。
時間という縦のつながりから言えば、きわめて大切な心がけであります。

昔、「かわいい子には旅をさせよ」ということばを耳にした。
空間という広がりからいえば、きわめて大切な心がけであります。

五箇条のご誓文は学校で憶えた。

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス。
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。
 我国未曾有ノ変革ヲ為ントシ、朕躬ヲ以テ衆ニ先ンジ、天地神明ニ誓ヒ、大
ニ斯国是ヲ定メ、万民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ。

なにはともあれ、昔の事を知ることは大切なことである。『韓郷社誌』へのつけたしをまとめていて、ハッと気のついたのが、心のもち方だったのです。「温故知新」だったのです。

 10月21日(火)タマネギ移植

昨日、原実さんが田んぼの藁を切って(10センチ位にカットして)くれた。20分前後で片付いた。

それからタマネギ150本植え付けた。この時期ならば生育が順調だろうと思う。

昨夜は習字の日だった。11月の15〜16両日は村の文化祭で、習字の教室の人たちは出品するといっている。14日午後3時から飾り付け準備で、古川さんが出てくれる。

般若心経の掛け軸が三点(奥山すみ子・古川たづ子・小生)、色紙額五点(奥山すみ子…千曲川旅情の歌・古川たづ子…心の糧五ヶ条・白子勇江…東照宮遺訓・下平秀…方丈記・小生…泥水を〜)出品の予定でいる。

●午後「斉藤康司水彩画展」を見に行った。

飯島町駅前のアミカホール2002(ヤナギヤ2F)にありました。場所がわからず飯島駅でお聞きすると親切に教えてくださった。

定休日は火曜日だったのだが、月曜だと勘違いしていたので閉まっていた。ところがお店の方が開けてくださり二階へ案内してくれた。

その方は名刺を見ると富永芳一という方で、お店のオーナーで「富永企画開発事務所」の所長さんでした。斉藤康司叔父との出会いから始まって一年間に亘る水彩画製作についての様子を話してくれました。アミカというのは IIJIMA のスペルを逆にして AMI とし イスパニッシュのアミ……からアミカホールという命名にしたといいます。飯島駅周辺の開発のあり方をいろいろと考えられているようでした。

家に帰って、「イスパニヤ辞書」を見ると、語頭に ami- のつく単語では、
   amigo は、形容詞で‘親密の、睦まじい、親しい’、
       名詞で‘友達、朋友;仲間、組合員;親友’であり、
   amigable は、形容詞で‘友情ある、親密の’となっていた。

一方英語の chemical の接尾辞 cal は形容詞に使われるから、amigo-hall よりも amical-hall → amica-hall のほうがリズミカルだから、アミカホールとしたのだろう。

叔父の絵は中央アルプスの山容がキリッとして描かれているためにしまりのある絵がおおかった。また飯島の風景は明るい郷土を感じさせるイキイキとしてエネルギッシュな絵が多かった。千人塚公園の風景画は山容の描き方とともに湖水に浮かぶ陰影が生きていて気持ちのいい作品だと感じました。

 10月22日(水)柿干場の方付け

須坂市春木町 490-2 関根英朗  さくや電話があってフォニックスについての問い合わせであった。静岡県生まれで今須坂で塾を開いているといわれていた。

自分から勉強をしたいという気持ちがあって塾へ来るようならいいのですが、今の子供たちは親に言われてくるものが多い。知的能力を伸ばしたいと思うんなら親が自分で小さいときのちょっとした考え方でいくらでも伸ばせるのに………。それまでほっといて………、残念なことです。

関根さんの切実な気持ちがビンビン伝わってきました。参考資料をきょう送ってあげよう。

http://www.amazon.co.jp で調べてみると、「英語のつづり字と発音の指導」は在庫切れでした。

続いて 「知ってる英語なのになぜ聞き取れない?―ネイティブ発音・リスニング7つの法則」 藤田 英時 (著) の内容を見てみると、

 目次
   第1章 音が弱くなる
   第2章 音が短くなる
   第3章 音がつながる
   第4章 音が消える
   第5章 音が抜け落ちる
   第6章 音がとなりの音に似る
   第7章 音が別の音に変わる
   第8章 音の七変化のリスニングテスト

のようになっています。参考になりそうなので、購入することにしました。

 10月24日(金)教育とマスコミ

今日テレビを見ていたら、教師の乱れを大げさに放映していた。
これから細かく放映されるというから、よく見ておきたい。

問題と思うのは、教育の権利義務が保障されずにいて、社会規範のないままに、子供や生徒、学生にいたる被授業者が甘やかれ過ぎていることに、根底的な欠陥があるということだ。

親に教育についての自信のない人が多いし、定見を磨こうとする人も少ない。教育の権利義務についてしんけんになって議論する気風や雰囲気もない。そして問題を解決しようとするとき、他の人とか一般の人とか自分以外の人や制度にその責任がある、と錯覚している。

この基本的部分の認識は、マスコミ関係者にも教育に関わる指導的立場の人々の間にも、きわめて多い錯覚現象である。

同様の錯覚は、自衛隊の海外派遣についての討論の様子を聞いていてもそうである。自分以外の他人事として処理しようとしている事実にも通用している。
第九条の戦争放棄とか武力とかの意味が皮相的な認識にとどまっていて、武力の結論は自分と隣人を含む人と汗水流して作った モノ を破壊する以外のなにものでもない。自分がなにも知らない相手を殺傷するか、自分がなにも知らない相手に殺傷されるか、それ以外のなにものでもない。

この戦争認識にしても、マスコミ関係者や政治指導者の多くは、“相手が攻めてきたらどうする”という発想から“丸腰でもいいのか”という論理が横行しているのである。武力の結論は双方のことであり、双方の立場を含めて人としての認識の基本は『人を殺してはいけない』という理念が取り上げられない。他人事としての空論なのである。

教育問題も、有事論争の問題も、基本的部分に大きなずれがあると言わなければならない。

 10月26日(日)ザクロ

ザクロが三つとれた。

ザクロをほしい。そう思って苗木を買ってきて植えつけた家内にとっては、よほど嬉しかったに違いない。物を作るという感覚はとっても素晴らしいことだ。

ザクロってどういう字かなあ、と聞いたが、家内も忘れたようだ。パソコンで調べてみると、ザクロは、「ザクロ」「ざくろ」「石榴」「柘榴」の四通りの文字がでてきた。

今度は広辞苑で調べてみると、次のようにでてきた。

ざくろ【石榴・柘榴・若榴】
ザクロ科の落葉高木。ペルシア・インド原産で、栽培の歴史はきわめて古い。高さ五〜一○メートル。幹には瘤(コブ)が多く枝に棘(トゲ)がある。葉は細い長円形で対生、つやがある。六月ごろ鮮紅色五弁の筒状花を開き、果実は秋に熟し、大きな球形。果皮は黄紅色で黒斑があり、熟すると裂けて中にある多数の種子を一部露出する。種皮は生食し、また果実酒を作る。樹皮は煎じて駆虫剤、材は硬く装飾用の柱などに使う。また、通常は結実しない観賞用のハナザクロがある。色玉。じゃくろ。《季・秋》。「石榴の花」は《季・夏》。本草和名「安石榴…和名佐久呂」

図   ざくろ    (写生したザクロの図にジャンプする)
絵   ザクロ(花) (花がたくさん咲いている映像にジャンプする)
絵   ザクロ(実) (一つのザクロの映像にジャンプする)
→‐いし【石榴石】  (この項へジャンプする)
→‐ぐち【石榴口】  (この項へジャンプする)
→‐そう【石榴草】‥サウ(この項へジャンプする)
→‐ばな【石榴鼻】  (この項へジャンプする)
→‐ぶろ【石榴風呂】 (この項へジャンプする)

ざくろ‐いし【石榴石】
マグネシウム・鉄・マンガン・カルシウム・アルミニウムなどを含む珪酸塩鉱物の一群。変成岩に多い。等軸晶系で、黄・褐・赤・黒色。主に研磨材。硬度七。半透明で深紅色の美しいものは飾石・宝石にする。ガーネット。

ざくろ‐ぐち【石榴口】
@江戸時代の銭湯の湯ぶねの入口。湯のさめるのを防ぐために、湯ぶねの前部を板戸で深くおおったもの。からだを屈(カガ)めて中に入る。ザクロの実の酢は鏡の金属面をみがく料となるから、「屈み入る」と「鏡要る」とをかけた名という。浮世風呂三「はい、まづおさきへと、―へはいる」
A裂け開いた口。はぜぐち。
図  石榴口1    (写生した石榴口1にジャンプする)

ざくろ‐そう【石榴草】‥サウ
ザクロソウ科の一年草。畑や路傍に普通にある雑草。高さ約一○センチメートル。葉は対生、線形で小さいが、ザクロの葉に似る。夏に黄褐色の細花を開き、花後、*(草冠に朔の字)果(サクカ)を結ぶ。粟米草。

ざくろ‐ばな【石榴鼻】
鼻が凹凸不整、暗紅色の腫瘤状を呈し、ザクロの種子のように見える鼻。酒*(査の右に皮の字)鼻(シユサビ)。
→酒*(査の右に皮の字)。(この項へジャンプする)

ざくろ‐ぶろ【石榴風呂】
ざくろ口のある風呂。じゃくろぶろ。醒睡笑「たてあけの戸なきを―とは…かがみいるとの心なり」

CD-RОM版の「広辞苑」は以上のように出ていて、ほんとに便利である。“ざくろ”の解説も簡明直裁なかなか堂に入っている表記である。花や実は見る目には清潔だし、スッキリした感じは観賞用植物としてはいいものだと思う。

香を利く。

京都醍醐寺、醐山料理、宇月茶屋にて購入
芳輪  香老舗 松栄堂
 銘香 芳輪  芳輪には五つの種類がございます。
    <天平><室町><元禄>は天然香木‘沈香’を主原料にしておりその
        幽玄な香りはこころ静かな深い味わいが特徴です。
    <堀川><葵>は伝統的な香りを基に現代風にアレンジして優美な香
        りを創りだしました。

とあった。
利いたのは<堀川>である。お土産の気持ちがありがたい。いつのものだか忘れたが………。

10月20日に書いたのは山茶花一輪だったが、ちらほらと五つ六つと花が開き始めた。

 10月27日(月)1912年の『ロンドン・タイムス」

橋本裕という方のホームページをみていたら、1912年の『ロンドン・タイムス』紙が載せてありました。インターネットで検索していけば、こんな資料も見つかるんだろうか。

珍しいデータなので載せておく。ちなみに明治天皇は1912年7月12日病没されている。明治45年のことである。

○『ロンドン・タイムス』紙(ロンドン)1912年7月30日

<御即位当時の御決断:未曾有の大改革、日本の安全・進歩と西洋諸国との条約締結、新日本建設と保守派(攘夷派)の鎮撫>

 このたび崩御された日本の天皇は、1867年、14歳の幼い年で皇統を継がれ、翌年、京都において即位の大礼をされたが、たまたま当時の日本は重大な事件が頻発し、空前の危機に遭遇していた。
 15歳に満たない御年で、陛下はついに(幕府)将軍職を廃止し、『王政復古の大号令』を発し、実権を掌握された。この改革は重大な意義を持っていた。それは、新政府の傑物中に、三条(実美)、岩倉(具視)、木戸(孝允)、後藤(象二郎)、徳大寺(実則:明治天皇の侍従長)、大久保(利通)、伊藤(博文)、井上(毅または馨か?)、寺島(宗則:外務卿)がいたことからも明かである。

 彼ら政治家は、血気さかんな青年で、日本の安全のためには、ぜひ西洋諸国との友好を進めるべきことを確信していた。陛下も即位直後より、彼らの奏請を受け入れて、すみやかに諸国との間に修好通商条約を結ぶべき旨、詔(みことのり)を発された。

 これは、当時の陛下としては、非常なる大決心であられたが、これによって保守派の愛国者も攘夷の声をひそめるに至った。  さらに、その後、3週間以内に、陛下は早くも列国の使臣を正式に御前に引見せられた。古来、神聖な天皇のお顔を拝することは、国内の者でさえ容易に許されなかったのに、まして日本を脅かす外敵とみなしてきた諸国の使臣に謁を賜るとは、破天荒の大改革というほかはない。
 さらにその2週間後、初めて朝廷会議にご臨席になったが、これに参加したのは貴族のみならず、国内の大藩の人士も連なった。『五箇条の御誓文』は、その際に発布せられたものである。

 陛下は非凡な明晰さを備えておられた。ひとたび臣下を信任されれば、決してそれを見捨てず、みだりに干渉がましいことをなさらなかったのは、陛下を知る人々が一様に立証するところ。また御自身の功を決して誇ることなく、もっぱら臣下にその栄誉栄冠を戴かせるよう計られ続けた。

 陛下の国政へのご意志は熱心をきわめられた。
 一例をあげれば、伊藤(博文)公爵を総裁とし、(大日本帝国)憲法を起草させたとき、(明治21年4月から翌年2月まで連日のように開かれた長時間の)その会議に、陛下はただの一度もご欠席にならなかった。

 途中、(明治21年11月12日に)当時3歳だった皇太子(昭宮猷仁親王)が薨去されたが、それすら陛下の御精励を妨げる事はできなかった。(八神注:会議のさなかにその報を、伊藤から内奏され、『中断してお帰りあそばされては?』と耳うちされても、陛下は退出されず、議事進行を最後までお止めにならなかった)
 帝国憲法作成という大事業をなし遂げられた直後、陛下はその完成をみることなく世を去った、岩倉公ら多数の政治家の墓前に、その発布の報告をなさしめている。

 まことに陛下は、王者としてもっとも高尚な精神をお持ちになり、世間にはそれをよく知らない者もいるかもしれないが、それは陛下が謙譲の美徳に富み、自慢やてらいをお嫌いになるご性格であること、また国家元首の本分は、いたずらに天皇の威厳でもって国民にものごとを強制するのではなく、むしろ啓発(善導)することにあるとの信念を抱かれていたせいである。

 陛下は、何事についても無視や軽視をされず、あらゆる立法・行政の先例や細目に至るまで、よくご記憶になり、もっとも有能な官僚をさえ驚愕させたというのは有名な事実である。

 日本天皇の崩御の結果、日本は神のごとく崇敬した君主を失い、世界は最も卓越した俊雄傑人の一人を失い、そしてわが英国は、ここに誠実なる盟友の一員を失った。日本国民が陛下を神のごとく崇める理由は、西洋人にも理解が困難ではない。

 明治維新の革命を遂行した人々の数ははなはだ多い。その中で、最も偉大なのは、実に明治陛下であった。旧幕府を顛覆(てんぷく)し、新日本を樹立したのは多数の志士の力によるが、その責任の中心となり、一大帝国として日本を統一するという天職は、もっぱら陛下の双肩にあったのだから、陛下の任務は、だれよりも困難であったといわねばならない。

 およそ陛下のごとく偉大な元首であるにもかかわらず、恭謙の徳を備えた者はいない。ゆえに、臣民もあくまで赤誠をもって陛下に仕え、陛下もよく下の忠誠を信じられたので、陛下の御成功の大秘訣はここにあったのだろう。東洋最初の立憲君主としての陛下は、(世界じゅうの)あらゆる立憲国の君主に対しても、格好の模範となられたのである。

 明治陛下の崩御によって、日本の政策に変化はないと確信する。新帝(大正)陛下の治下においても、日本は友好国のよしみをあえて変えず、侵略の道を選ばず、あくまで先帝陛下の遺業を守り、崇高なる運命を負うのであろう。もし、先帝陛下の偉大な治世を規範として、その知恵と戒めとを今後の指導に生かすならば、新帝治下の日本の前途もまた有望というべきである。


インターネットの検索といえば、国民学校時代の教科書についてについても調べることができるという。

国民学校時代の教科書について:
海後宗臣「日本教科書体系近代偏」全27巻(講談社)
これは、明治以降の主な教科書の分析で、明治初期の私版の教科書
から国定教科書、国民学校時代の教科書の比較ができます。多くの
教科書は、そのまま縮小版が掲載されています。

という記事も別のページからも見ました。さて調べようとするといくらでも方法があるものだと思う。

昨日から柿取りをはじめた。


【折々の記 2003 Bへ】