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折々の記 2003 B

【心に浮かぶよしなしごと】

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【 03 】06/26〜

  06 26 再び「阿修羅」 ●不動滝 ● 九十九谷の紫陽花
  06 27 野麦峠の旅〔糸繰り唄を訪ねて〕

 6月26日(木) 再び「阿修羅」

『05 28(水) 驚くべきホームページ』で阿修羅を紹介した。最近になって小泉総理の姿勢がタカ派どころか、日米関係において際立ってペコツキ潜在意識が強くなってきた。

呉越同舟という言葉がある。

中国、戦国時代の呉と越の両国は、実力伯仲の好敵手で、「呉越」の語は仲の悪いたとえとされていた。その不倶戴天(ふぐたいてん)の敵同士が、一つの舟に乗って、仲よくしているのを諷(ふう)した語で、『孫子』「九地篇(へん)」に「呉人、越人と相悪(にく)むなり。其舟(そのふね)を同じうして済(わた)って風に遇(たまたま)に当たりて、其の相救うや、左右の手の如(ごと)し」などとある。〔日本大百科全書〕

政党間でも党内間でも、意見がいろいろあってそれがお互いに認められることは、健全な公論の要諦である。けれども、最近は使われなくなっておる党議拘束が国会議員の体質になってきたのかと思うほど、意見の集団化がすすんできた。

呉越同舟の体質を改めて、イラク関連問題に対処してほしい。

http://www.asyura.com/〔阿修羅〕を開くと、次のようなインデックスがあるので、「戦争36」とか「日本の事件5」などをニュースとして読んでいると、いろいろ参考になる。

            最高にほっとな最新掲示板9
   戦争36  破産27  石原慎太郎4  日本の事件5  地震7
 狂牛病7   不安と不健康5   Ψ空耳Ψ27  論議11  雑談2  他


ここ何日か国会中継が放映されていた。自衛隊のイラク派遣にかかわる質疑が中心である。米国ペコック(畳語ペコペコ=マレーインドネシア語pekok…k音脱落…湾曲した)潜在意識から自立しなくてはならない。

そんな意味合いで阿修羅を一つのデータバンクとするとよい。

● 大島山の不動滝……この地方では名の知れた滝

※ 写真を誤って消去してしまいました。
  いずれ、復帰させる予定です。

昨日の雨で畑の草とりができないので、下伊那地方では誰も知っている大島山の滝の写真を撮りに行ってきた。
飯田線の市田駅から上街道、中央道、山麓道を横切って大島川を登りつめていくと不動滝に達する。
山麓に高森公園があり、そこから1.5kmはまさに谷合の道である。
駐車場が整備されており、そこからは200メートルくらいで、近づくと滝の音が耳をつく。

立札にはこんな解説がある。

  瑠璃寺開創の観誉僧都が大滝
  に感激、不動明王の石造を祀
  り不動滝と名付けた。
  瑠璃寺秘蔵の「雨乞いの青獅
  子」はこの滝壷から上がった
  と伝えられている。
  滝の高さ35m、巾10m、
  滝の上部は巨大な一枚岩で千
  畳敷と呼ばれる。

また、漢詩の石碑も建っている。

  大島山深絶俗縁   大島山ハ深ク俗縁ヲ絶チ
  怪巌古木晝凄然   怪巌古木、晝ナオ凄然タリ
  仰看懸瀑高千丈   仰ギ看ル懸瀑、高サ千丈
  疑是飛龍下九天   疑フラクハ是レ飛龍、九天ニ下ルカト〔読み下し文…私訳〕

きゅう‐てん〔キウ‐〕【九天】……古代中国で、天を方角により九つに区分したもの。中央を鈞天(きんてん)、東方を蒼天(そうてん)、西方を昊天(こうてん)、南方を炎天、北方を玄天、東北方を変天、西北方を幽天、西南方を朱天、東南方を陽天という。

滝見に出かけるとすると、途中に天白公園があるから桜の見頃がいいと思う。団体なら帰りに瑠璃寺に立ち寄って和尚さんに連絡しておいて寺の宝物の説明をしていただく方法もある。

● 九十九谷の紫陽花……九十九谷は九輪草と紫陽花

※ 写真を誤って消去してしまいました。
  いずれ、復帰させる予定です。

雨にうたれる花…それはアジサイであろう。いつ九十九谷に紫陽花を植えたのか知らなかった。家内が富田へ用事があっての帰り道で見てきたそうで、いっぺんは見たほうがいいとすすめた。
この花はいまは亡き辻本千文先生の好きな花だった。

※ 写真を誤って消去してしまいました。
  いずれ、復帰させる予定です。

九十九谷については、喬木村誌によれば次のような説明をしている。
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「百谷といえば鬼が棲む」という伝説を恐れて九十九谷と呼ばれたのだと伝えられている。事実、かつては赤肌の懸崖がそそりたち鬼気せまるほど荒廃した山々の連続であった。緑の山肌にかえった今日では当時の崩壊山地を想像することさえ不可能となった。

この事実は多年にわたる治山治水工事などの施策の賜なのである。
九十九谷は机山の南東、小川より富田へ抜ける塩沢地籍東西1km、南北900mに分布する総面積45haにおよぶ大断崖崩壊地一帯を指している。
小川部落より約1.5km、阿島部落と伊久間部落から2.5km、富田、大和知からは1kmの距離にあり、四部落を結んだ四辺形のちょうど中心に位置している。それだから往古より山林資源の需要増大につれ林木の濫伐がすすみ、加えて入会山のため、牛馬の飼料、田んぼの肥料用としての刈りしき採集が何百年にもわたって行なわれていた。
そのため徐々に植生を失うという人為的原因が、宿命的な自然崩壊要素に拍車をかけて崩壊を助長させ、禿山へと変貌していった。
豪雨のたびに土砂が崩落して小川川へ流れこみ、下流地域に損害を与えたため、永禄年間(1560年)に川除普請をおこなったと史実が伝えているが、本格的工事は宝永四年(1707年)におこなわれている。

九十九谷崩壊地は洪積層の代表的な崖崩れである。山体構造は風化した基盤岩、天竜層の花崗岩礫(花崗閃緑岩)の上に伊那層の礫層が厚く堆積してできたものである。この礫層は手で圧しても崩れるほど脆弱で、崖の上部の平坦面からの表流水で崖面が垂直状に崖崩れをおこすのである。
なお、花崗岩に由来する粘土層を挟み、まれに砂層を挟んでいる。要するに堆積層は粗雑で水の浸食に抵抗する力が極めて弱く、かつまた、断層線の存在が九十九谷をうむ自然的崩壊原因と考えられる。

治山事業は昭和三年に着工、約三〇年間継続施行され昭和二九年に完了した。
大小各種の堰堤、谷止類が築設され、土砂の留土をしたり或は崩壊山腹の脚部固定をおこなったので、完成後には、土砂流失は急激に減少し豪雨でも濁水を流出しなくなった。
今では当時の幼苗も成木になり、かつての赤肌の山は鬱蒼たる美林に変わり、往時の九十九谷の嶮も姿を消し、下流に及ぼした災害は皆無となり、全く今昔の感ひとしお深いものがある。

自然保護育成が叫ばれる現今、先人や関係村民の尊い努力に敬意をささげる次第であります。
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温故知新、アンテナは高いに越したことはない。先人への恩義に感謝し自分を築く一つの cell(細胞)にしておくことがいい。

 6月27日(金) 野麦峠の旅〔糸繰り唄を訪ねて〕

とても優しい同年のTさんと話をしているうち、岡谷製糸工場の糸繰り工女の人たちが歌っていた唄について話がすすんだ。昔は大変だったという話がてんてんと広がっていってのことだった。

   信濃乙女は 糸繰るおとめ         これは三番のようです。
   モダン都は 思わず暮らす
   蚕休みに ちょいと出て会おうか
   山の桑畑 月明かり
   信濃よいとこ 糸のくに糸のくに

   信濃みずうみ 朧に暮れて         これは二番のようです。
   末世衆生は 思わず暮らす
   ………?

よく憶えていたものと驚いた。聞いているといい曲である。もしわかったら聞いてあげましょう、ということになって、岡谷に住んでいる友達に手紙を出したが、調べてみても知っている人がないという。

岡谷の製糸博物館へ電話で聞いてみたが、どうもわからないようだ。唄は調べているので、ということで何枚かコピーを送ってくれたがだめだった。

野麦峠といえば松本出身の作家山本茂美の「あゝ野麦峠」で知られている。

あゝ野麦峠>文明開化と野麦峠>地図にないノウミ峠
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 日本アルプスの中に野麦峠とよぶ古い峠道がある。
 かつては飛騨と信濃(岐阜県と長野県)を結ぶ重要な交通路であったが、今ではその土地の人にさえ忘れ去られた道になっている。
 また「野麦」という名から、人は野生の麦のことかと思うらしいが、実はそうではなくて、峠一面をおおっているクマザサのことである。十年に一度ぐらい平地が大凶作と騒がれるような年には、このササの根元から、か細い稲穂のようなものが現われて、貧弱な実を結ぶ。これを飛騨では野麦といい、里人はこの実をとって粉にし、ダンゴをつくって、かろうじて餓えをしのいできたという。
 「笹に黄金がなりさがる」という東北の民謡と同じもので、峠の呼び名もおそらくそこから出たものであろう。
 ――もうだいぶ古い話になるがぼくは死んだバア様からよくこの野麦峠の話をきいた。もっともバア様はこれを「ノムギ」とは発音せず、いつも「ノウミ」といっていたから、後で日本アルプスの地図をひろげていくらさがしても、どこにもそんな名の峠はみつからず閉口したことを覚えている。
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上のような文章が「あゝ野麦峠」の冒頭にでている。巻末の資料には「糸ひき唄の収録について」が載せられておる。著者は360人に及ぶ直接の老婆から聞き取った唄を元にして、雑誌『蚕糸の光』、『平野村誌』『女工哀史』などに収録されたもののうち、老工女が「これは歌った覚えがある」と指摘したものを加えて、掲載している。

従って、「信濃乙女は 糸繰るおとめ ……」の歌詞は、七七、七七、七七、七五、七五五のリズムをとっており、「あゝ野麦峠」収録の唄とは違うものかもしれない。

山本茂美が収録したものは、昭和52年出版の本だから早くても40年代の時期で、しかも当時の古老の婆さんから聞き取ったものというから、私より40歳くらいは年上の方ということになる。
そうすると「信濃乙女は 糸繰るおとめ ……」の歌詞は「あゝ野麦峠」には収録してはいないだろう。

「信濃乙女は ……」の歌は新しい歌ということであり、私くらいの年代で高根村や古川町の70台の人が知っているかもしれない。どこを調べればいいのか判らない。

6月4日に、高根村観光開発公社ウェブサイトの「掲示板」に、この歌を掲示し連絡をお願いした。まだ連絡はない。

とすると、直接「野麦峠の旅」を実施するしかない。

計画は次のとおりである。

喬木 … 飯田IC … 中津川IC … 下呂 … 高山 … 古川町(八ッ三館) …

高山 … 美女峠 … 高根村(野麦の館) … 野麦峠(野麦峠の館・お助け小屋) …

薮原 … 権兵衛峠 … 喬木

全行程の時間予定をゆっくり見積もると、14時間は見ておかなくてはならない。





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