明治天皇……〈世界大百科事典〉
第122代に数えられる天皇。1868年に即位し,明治国家の主権者として君臨した。孝明天皇を父とし権大納言中山忠能の女慶子を母として,京都の中山邸で生まれた。祐宮(さちのみや)と命名され,60年(万延1)院君(ちよくん)となり,立親王の宣下とともに睦仁(むつひと)と改名した。66年(慶応2)12月25日,孝明天皇の急逝にともない,翌67年1月9日に践祚(せんそ)し,関白二条斉敬(なりゆき)が摂政となる。幕末の激動に対処して10月将軍徳川慶喜の大政奉還を勅許し,他方,醍摩,長州両藩主に対して討幕の密勅を下した。12月には王政復古の大号令によって旧来の政治制度を一新,翌68年1月からの戊辰戦争に征討軍を派遣して旧幕勢力を制圧した。その間に五ヵ条の誓文を発布して新政府の基本方針を宣言するとともに政体書によって新しい政治体制を採用,また〈明治〉と改元,一世一元の制を定めた。翌69年には東京に遷都,さらに版籍奉還の上表を勅許し,71年には廃藩置県を断行して中央集権体制の基礎を築いた。他方,大教宣布の詔を出して神道の国教化をはかり,同時に天皇の絶対化が試みられた。とくに藩閥政府内の矛盾が表面化した征韓論をめぐる政争では,内治優先の勅裁を下し,また,75年には木戸孝允,板垣退助の政府復帰の条件として漸次立憲制を採用するとの詔を発して政体改革の方向を明らかにした。
自由民権運動の高まりに対しては,1881年詔勅をもって国会開設の期日を約束して運動の鎮静化をはかり,同時に欽定憲法主義と天皇大権の確立を基本方針とする憲法制定の原則を定め,それに対応する制度的整備に着手した。一方,78年の参謀本部の創設,82年の軍人勅諭によって統帥権の独立を確保し,軍隊を天皇の軍隊として位置づけ,以後,対清戦争を想定した軍備の増強に努めた。議会開設を前に内閣制の創設,府県制・郡制・市制・町村制を制定するなど,地域末端までの官僚支配の体系を整え,他方,莫大な皇室財産を確保して皇室自律主義を貫いた。89年,大日本帝国憲法を発布,天皇主権を明示するとともに,広範な天皇大権を保障し,さらに翌90年には教育勅語を渙発して国民教化の理念を定めた。議会開設後は,政府と議会の対立が先鋭化するとしばしば詔勅によって政争を収拾し,日清戦争,
日露戦争に際してはみずから大本営において戦争指導に当たった。韓国併合に臨んで韓国王室を優待して併合の実をあげようと努めたが,このころから糖尿病による身体の衰えがめだつようになり,1912年7月30日病没した。
明治初年には三条実美,岩倉具視らの指導で君徳の培養のため身心を鍛え,また,全国各地を巡幸して国民との接触をはかった。日常生活は質素を旨とし,自己を律すること厳しく,天皇の威厳を堅持することに努めた。明治維新以後,明治国家の指導者として君臨し,多くの国民は天皇への畏敬の念を抱き,天皇の病気が発表されると,容態の変化に一喜一憂し,平癒を祈願した。したがって明治天皇の死は多くの人々にある脱落感を覚えさせ,これを明治国家の終焉(しゆうえん)としてうけとめる者も少なくなかった。宇野 俊一
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