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折々の記 2003 B

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】06/15〜        【 02 】06/20〜
【 03 】06/26〜        【 04 】08/13〜
【 05 】09/02〜        【 06 】09/24〜
【 07 】10/17〜        【 08 】10/31〜
【 09 】11/26〜        【 10 】12/03〜


【 06 】09/24〜

  09 24 日本の教育(続)・これじゃあ哀れ●問題をどうとらえるか
  09 25 日本の教育(続)・どうしたらいい @
  10 02 色紙「游於藝」の解説●「戒石銘碑」の解説
  10 05 「平林寺の不思議」紹介
  10 15 すずむしの屍

 9月24日(水)(続)日本の教育、これじゃあ哀れ

9月22日に続く。 教育については、今まで朝日新聞その他で次のものを調べてきた。

@ 新しい時代を切り拓くたくましい日本人の育成〜画一から自立と創造へ〜
  平成14年8月30日
  文部科学大臣  遠山敦子
  moto.343.html
   http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/14/09/020911.htm

A 児童生徒の学力について 国際数学理科教育調査
  2002/10/11 のURLでは開けたが、今は表示されない。
  「データベースサービス」か「CLUB A&A」から有料で検索できる。

B asahi.com の転機の教育をみると次のものが見れる。
  <転機の教育…第二期>(1〜13)
  国立大学法人化(1〜10)
  大学激動(1〜7;特集2)
   http://www.asahi.com/edu/tenki/index.html

C asahi.com には次の転機の教育があったが今は表示されない。
  「データベースサービス」か「CLUB A&A」から有料で検索できる。
  <転機の教育…第一期>(1〜4)
  <転機の教育…第三期>(1〜7)
  <ゆとりを追う…時間>(1〜6)
  <ゆとりを追う…この一年>(1〜6)

D 「データベースサービス」から次の項目も検索できる。
 01 日本の大人たちの基礎的な科学知識 天声人語
 02 意欲の低さが心配だ 国際学力調査(朝日新聞社説)
 03 知識の応用力上々 ОECD32ヶ国で15歳テスト
 04 学校五日制 学力低下への危機対応(ちば教育最前線)
 05 学力問題、国越え共通 国際教育シンポ・討論、各地で
 06 算数の学力大幅ダウン 20年前の75.2%→64.5%
 07 算数学力低下、計算・数量で顕著 教科書の簡素化も響く
 08 OECD生徒の学習到達度調査 2000年調査国際結果の要約
 09 算数の学力、20年で大幅ダウン 小学生6200人調査
 10 有料検索「教育:学力」→総件数697件
 11 有料検索「教育:ゆとり」→総件数427件
 12 有料検索「教育:OECD」→総件数19件

以上のデータに一度に目を通すことは至難のことかもしれません。だが、問題になりそうな項目だけでもいいから読んでいくと、戦前戦後の教育の姿を比較せずにはおれなくなります。

問題をどうとらえるか

@ 子供のとらえ

調査対象が子供だから、子供はどうして学力低下してきたのか、それをハッキリとらえなければならない。すべて環境に順応して育った結果としてとらえたほうがよい。

環境の中で一番影響を受けるのは当然のことながら子供の両親である。80〜90パーセント以上の影響を受けると考えていい。異論があるでしょうが基本的な認識として位置づけることがいい。

他人任せで子供が育ったとすれば、こんな困ったことはない。カール・ヴィッテにしても正田美智子様にしても、「この親ありてこの子あり」ということは洋の東西を問わず誰しも納得できる。子供は親の影響があってこそ親のようになる、あるいは親以上になる、ということは誰しも了解できることだと思う。

とすれば、ことの解決は親のあり方如何にある。

A 親のとらえ

親は自分の生き様が子供にとって物凄い影響を及ぼすという認識は、あるいはそういうメカニズムがあるということの認識は、一般的にはもっていない。

戦前の貧乏な時代、「子供にだけはいい生活ができるようにさせたい」という共通の願いをどの親ももっていた。「恥ずかしくない子供に育てたい」という願いをもっていた。

生活が楽になってくると、子供へ寄せるこういう意識はだんだんと薄れてしまう。忙しいときに子供に手伝わせるという、いい伝統も薄れてしまう。我慢させるという忍耐心も薄れさせてしまう。子供は困ったこともなく育ち、思ったように振舞えるようになり、自分の欲するままの行動をとりしゃべり、言わばわがままになってしまった。親と一緒に汗を流すことがなくなり、親の働く姿を見て学ぶという機会がなくなってきている。
親が自分の生き様がそのまま子供に物凄い影響を及ぼすという認識、あるいはそういうメカニズムがあるということの認識、そういう認識の有無にかかわりなく、貧乏が子供の成長にかかわっていたことは間違いのない事実であった。

物質文化の向上は精神文化の向上を阻むことになって、心のもち方の伝承が妨げられるようになりました。

B 時代のとらえ

生活が便利なものになると心のもち方の伝承が変化してくる、ということは事実であろう。物質文化と精神文化の相関性はどこかにバリア(限界)がありそうだ。
現代はこのバリアの圏外となっており、相関性はない。

C 教育制度のとらえ

国民を教育する義務は国政にある。文部科学省に全責任がある。教育行政が目指しているもの、方向というものはこれでいいのだろうか。
教育制度をどう整えていくかは一大関心事でなくてはならない。

教育制度を考えていくのに、たえず全体像を想定して修正また修正という手法をとっている。けれども基本的部分につまづきがあれば改正に改正を重ねていても、土台ができていないところへ楼閣を築くのに等しいことになる。
この基本部分の考え方を再検討すべきではないのか。
人の成長過程の基本認識ができていないように思えてならない。知的能力の成長はすでに幾多の実績によって証明されてきている。道義的能力あるいは倫理的能力の成長もおおよそ判っているのだと思われるが帰納的方便としてはまだ確立はされていない。生体維持能力については、目覚しい開発をしている最中のようである。

一人の人間がどのようにして知徳体の円満な完成に向かうのか、その科学的メカニズムにそって教育制度そのものを再構成する必要があるのではないだろうか。

教育制度のとらえについては問題がある、というとらえをしなくてはならない。

D その他

地域社会の協力とか、精神文化の高揚などの分野にも配慮していく必要がある。

 9月25日(木)(続)日本の教育、どうしたらいい

日本の教育がおかしい。いま言われ始めたことではない。それだけに根が深い。

生徒も、制度もおかしい。昨日は問題の「とらえ方」を整理してみた。
教育が嘆かれる現状をハッキリさせておいたほうがいい。

校内暴力、登校拒否、いじめ、学力低下 などの小中高の生徒の現状
髪型服装化粧、夜型徘徊、性の紊乱、礼儀の欠如 などの青少年の現状
サンマに代表されるТVの低俗化、ビニ本取締り欠如 などの現状
政治家、企業役員に代表される倫理観の欠如の現状
拝金風潮に見られる泥棒マンビキ窃盗横行の現状
「寄らば大樹」にみられる追従性の現状
………………

などなど、一人の人の個人の内部意識がおかしくなってきている。

生命体の本来の意識は、その生命体の維持進化に支えられているのだが、どこかの段階で…「俺は、これでいいんだ」という段階で…エネルギーを無くしてしまっている。維持進化のエネルギーが衰えてきているというのが言い過ぎなのなら、足ふみをし始めていると言ってもいい。

もともといつでも、自分の生命体の維持進化という「本然意識」を、誰でも心の深層にもってはいるのです。よくよく考えている時にこの「本然意識」はめざめるのです。ただそれは余計なプライドとか格好悪さで他人に表現できにくいものもあるのです。人は心に忠実に生きることが大切なのです。そして本来は心というものは自己満足に留まるものではなく、みんなが喜ぶことを喜べるようにプログラムされているのです。

そういう意味では、ウソは言ってはならないのです。ウソは自分を苦しめるものなのです。そしてそれは誰でも知っているのです。自分にもウソは言ってはいけないんです。

とは言っても、屋上屋を重ねる人がいます。上記の望ましくない現状にあげたことに該当する人たちは屋上屋を重ねているのです。自分の殻にとじこもって恥ずかしく小さくなっているのです。知らない人に対しては胸をはっているのです。見ている人は信用しなくなります。

自分を高めていくという意識というかエネルギーというか、そういうものを私たちは持たなくてはなりません。

もしそうであったとしたら、子供をどういう環境においてやればいいのだろうか。これが今回の根底的テーマなのです。

「子供たちの学力がおかしい」ということは教科書をかえたり事業時間を多くしたりしても、それはそれとして良いのだが、そんな姑息な考え方では成果はあがらない。成果があがらないことは間違いないことであるばかりか、中途半端で片つけられるのです。

枝葉末節という言葉がある。一つの問題を「木」にたとえて考える考え方であろう。「木」という生命体を支えているものは、誰しも知っているように土と水と太陽が必須のものです。根からはたとえ微量にしてもたくさんの栄養素を吸い取っていきます。一本の木を考えていこうとするとき、枝葉末節にこだわって全体の理解を中途半端にしてはいけないことは判りますね。

明日は、それではどうしたらいいかを扱いたいと思っています。

 10月2日(木)色紙「游於藝」の解説

学力問題は日をあらためて取りあつかうようにしたい。

表題の「色紙の解説」…実はきのう色紙をいただいたので、記録のためにもここに載せることとした。水戸「弘道館」の扁額文字と「弘道館蔵書印」の色紙なのです。

色紙についている解説にはつぎのようなことが印刷してある。

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  弘道館  游於藝

   解説

  「游於芸」(げいにあそぶ…振り仮名)は国の重要文化財
  に指定されている弘道館の正庁南面長押に掲げられてある
  扁額の文字であり、水戸徳川九代藩主斉昭公(烈公)が論
  語の「子曰、志於道拠於徳、依於仁、游於芸」からとって
  篆書で書かれたものであります。
  「芸」とは六芸のことで、礼(礼儀作法)、楽(音楽)、
  射(弓術)、御(馬術)、書(習字)、数(算術)の六つ
  であります。
  「芸にあそぶ」とは学問武芸に悠々楽しみながら勉強する
  意であります。
  色紙の中央におした弘道館の大振りな「弘道館印」は同館
  の蔵書などにおしたもの、この印は鉄製で縦横とも 9.3糎、
  高さ 4糎、重量2,454gであり現在弘道館に保存されており
  ます。
        水戸市三の丸一丁目六-二九   祥雲堂

………………………………………………………………………………

弘道館について(japanknowledge= http://www.japanknowledge.com/による)

江戸後期の水戸藩校。藩主徳川斉昭(なりあき)が藩政改革の一環として計画し、1841年(天保12)8月仮開館した。総裁青山拙斎(延于(のぶゆき))、会沢安(あいざわやすし)(正志斎(せいしさい))。しかし斉昭が幕命で失脚、49年(嘉永2)ようやく藩政関与を許されるなどの政変のため、本開館式はやっと57年(安政4)5月、水戸藩安政(あんせい)改革中に挙行された。藩校は71年(明治4)廃藩置県まで、およそ30年間続いた。創立を1838年(天保9)とする説があるのは、斉昭の命で家臣の藤田東湖(とうこ)が建学の大意を記した『弘道館記』が同年に完成しているためであるが、実際に水戸城三の丸の重臣らの屋敷をほかに移して、建物がほぼ竣工(しゅんこう)したのは、仮開館の年である。水戸に先行する同名の藩校は佐賀・福山・彦根(ひこね)藩など五校あるが、水戸の弘道館がとくに有名なのは、敷地が5万7000坪にも及ぶ広大なこと、『弘道館記』が水戸学の集中的表現とみなされることである。そして館記の「敬神崇儒」の方針により、敷地内には学館のほか、孔子廟(こうしびょう)とともに鹿島(かしま)神社が祀(まつ)られている点などは、全国的に珍しい。また領民に対する種痘(しゅとう)の本拠となった医学館が併設されたことも注目される。

徳川斉昭 (世界大百科事典では次のように説明している)

江戸後期の大名。水戸藩第7代藩主治紀(はるとし)の三男として江戸の水戸藩邸に生まれる。母は外山氏瑛想院。初名は敬三郎,字は子信。景山と号した。諡(おくりな)は烈公。その生涯は波乱に富み,とくに幕末の政界では将軍継嗣問題や日米修好通商条約の締結をめぐって幕閣と対立して,激しい政争渦中の人となった。1829年(文政12)斉脩(なりのぶ)の跡を継いで第9代藩主となるや藩政改革に着手した。これが幕府や諸藩に先駆けた天保改革である。この改革で注目されるのは第1に文教策で,藩校弘道館の建設がその中心であった。建学の方針を示した《弘道館記》は水戸学の原典とされる。第2は武備の充実であり,第3は土地政策である。保守門閥派の反対を押し切って完了した天保の全領検地の結果は,改革挫折後も変更なく,その土地政策は当時全国的にも類例がなかった。第4は神道興隆を目ざす宗教政策であるが,厳しい寺院整理などは斉昭失脚の一つの原因と考えられている。44年(弘化1)幕府より謹慎を命ぜられる。
斉昭の失脚は藩内に大きな動揺を与え,改革派士民の間に2,3年激しい斉昭の雪嘘復権運動が展開し,藩内には天狗派(改革派)と保守派の対立が表面化した。斉昭の復権はならなかったが,1849年(嘉永2)3月藩政関与が許され,53年ペリーの来航直後,阿部正弘の推挙で幕府の海防参与となり,次いで軍制,幕政にも参与するが,57年(安政4)免ぜられた。この前後,水戸藩の安政改革を指導し,郷校の増設,農兵の設置,反射炉の建設などを進めた。しかし内政外交の面で大老井伊直弼と対立し,58年〈急度慎 (きつとつつしみ)〉を命ぜられ,翌59年には水戸に永蟄居(えいちつきよ)となり,その罪が解けぬまま 60年(万延1)8月水戸城中で急死した。斉昭には藩内種痘の実施,医学の普及など隠れた業績が少なくない。編著も多く,《告志篇》《北方未来考》《景山奇方集》《景山救痘録》《明倫歌集》《息距編》《不慍録》《景山文集》などがある。

旧二本松藩「戒石銘」碑について

これは家内の東北旅行のお土産として昨日うけとったものである。「戒石銘」を縮小して仮表装した掛け軸の説明文である。

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  戒石銘について

  二本松城址(霞ヶ城址)は、福島県二本松市〔東北本線二本松駅下
  車、北方約700b、徒歩約15分〕に所在し、江戸時代・寛永2
  0年(1643年)から明治元年(1868年)までの220有余年にわた
  る、二本松藩・丹羽氏10万700石の居城でした。城の東手には
  藩庁があって、藩士たちの通用門がありました。その藩庁前に露出
  していた長さ約8.5b、最大幅約5bの自然石(花崗岩)の大石
  に刻まれたのが“戒石銘”です。
  五代藩主(丹羽家七代)丹羽高寛公が、藩儒学者の岩井田昨非の進
  言により、藩士の戒めとするため、命じて刻ませたもので、寛延二
  年(1749年)三月に完成しました。(この年は、高寛公はすでに致
  仕「隠居」し、六代藩主高庸‘たかつね’公‘高寛公の長男’の治
  世でした。)銘は、露出面の縦1.03b、横1.82bの間に、
  四句十六字を刻み込んだもので、その書体は非常に典雅さが感じら
  れます。

    爾 俸 爾 禄   爾の俸 爾の禄は

    民 膏 民 脂   民の膏 民の脂なり

    下 民 易 虐   下民は虐げ易きも

    上 天 難 欺   上天は欺き難し 
                      寛延己巳之年春三月
 

  つまり『お前(武士)の俸給は、人民があぶらして働いたたまもの
  より得ているのである。お前は人民に感謝し、いたわらなければな
  らない。この気持ちを忘れて弱い人民たちを虐げたりすると、急度
  (きっと=必ず)天罰があろうぞ。』と解釈されています。
  この戒石銘が、二本松藩士の士風を奮い起こしたことは言うまでも
  ありません。明治戊辰の戦役において、藩の子弟が二本松少年隊と
  して西軍に対して奮戦力闘し士道に殉じ、また重臣の多くが城を枕
  に自刃して武士の亀鑑(模範)を示したこともまた、この戒石銘の
  余香であったと思われます。
  昭和十年(1935年)十二月二十四日、教育資料として、また行政の
  規範として価値の高いものであるため、国史跡「旧二本松藩戒石銘
  碑」として指定されました。

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戒石銘のルーツ

  二本松市ホームページから上記同様の解説とともに「戒石銘のルーツ」がのっていた。     http://www.city.nihonmatsu.fukushima.jp/history/kaiseki/kaiseki.html

戒石銘の起源は、中国にあるとされています。その研究の第一人者としては、服部宇之吉(はっとりうのきち)博士が挙げられます。博士は二本松藩士の家に生まれ、のち漢学の研究に傾注し、ついに東京帝国大学(東京大学)教授となった、わが国の東洋哲学研究の権威者で、「文学博士服部宇之吉先生述 福島県安達郡二本松町所在戒石銘説明書」(昭和11年11月3日刊福島県教育安達部会)に、その起源を詳細に述べています。
本書と、朱子著「資治通鑑綱目」第13、陶懋炳著「五代史略」(この中で、「容斎随筆」巻1・「戒石銘」を引用)等の記述を総合すると、戒石銘の原典は、五代時代、後蜀の君主・孟昶(もうちょう)が乾徳3年(965年・日本年号康保2年)に作った、24句96字の「戒論辞」に求められます。
さらに、戒石銘の起源は、北宋時代の君主・太宗が大平興国8年(983年・日本年号永観元年)4月に、この戒論辞から4句16字を抜出し、戒石銘として州県の官史に示したことが記されています。また、南宋時代の君主・高宗は、その太宗御製の戒石銘を紹興2年(1132年・日本年号長承元年)6月に、黄庭堅(太宗御製の戒石銘を揮毫した名筆家)の書体で石に刻ませ、州県に頒布し官史の戒めとして用いられたことも記されています。このことから、中国では、日本の平安時代中頃に戒石銘が誕生し、平安時代末頃には広く各州県の門前に、戒石銘碑が建てられたことがわかります。

 10月5日(日)「平林寺の不思議」

「平林寺の不思議」 斎藤 彰  2003.10.5現在 アクセス数 49072
HPアドレス
http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/index.htm

100MB容量もあるホームページは簡単には読みきれない。膨大な量でおどろくが、内容が豊かなものだから多くの方に紹介したくなるホームページです。

次の詩はその中の「残されたテープ」の中に紹介されていて、私の頭の奥を強くゆさぶったものです。それは妻の斎藤静枝さんが詠んだ一連の「慟哭の詠嘆(うた)」のしめくくりのような、わが子を亡くした母の赤裸々なことばであった。

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息子よ

息子よ
病の中で優しかったあなた
枕元から離れられないわたし
点滴の目盛り見ながら
音楽の話ばっかり
くる日もくる日も語り合ったね

息子よ
希望を捨てずに生きよう(と)
この秋はオペラを観ようか
ポリーニを聴こうか
楽しい話ばっかり
くる夜もくる夜もテープ聴いたね

しみじみとあなたは言った
「母さんが僕の才能を育ててくれた
我が家は温かかった、感謝しているよ」
背中の痛みは日毎増していたのに

息子よ
あの秋の朝
もう意識を無くした耳もとに
「ごめんね、一緒に死ねなくって」
と謝ったわたし

黙って一人で逝ってしまったね
くる秋もくる秋も母は泣いています

息子よ
街も凍てつく冬の夜
星の連なるステージで
あなたが奏でるテンペストが
眠らない母の耳に
果てもないオーロラのように
はかなくきらめいて
流れつづけます。

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なにはともあれ、素晴らしい斎藤さんのホームページを開いてみてほしい。

奥さんの詩を紹介したが、ご主人の重厚な考え方に共鳴してみてはいかがでしょうか。お勧めいたします。

今日は韓郷社のお祭の日です。早朝上記のホームページに出会ったので記録しておく。

 10月15日(水)すずむしの屍

韓郷神社の祭典がおわった。
韓郷社の社誌はいちおう完成して氏子のみなさんには配布してあるのだが、自分の考え方を残しておきたいのでホームページへ載せることにしました。

いまその最中であります。

●夏の夜ずっと耳を楽しませてくれた鈴虫がとうとうすべて屍となりました。

    すずむしは 九月の末に 鳴きやみぬ

生まれたてのときは、見てもわからないようなちっぽけなものだったのに、茄子と瓜と削り節少々だけを主な食べ物として、だんだん大きくなったのです。
茄子が黒くなって「これじゃあ食べれんな」と思うほどに、飼い主に忘れ去られたことも何度もあった。

そのうち7月終わり頃からだっただろうか、恥ずかしそうに鳴き始めていた。鳴くのはオスだよと言われて、鶏もそういえばそうだなと気がついた。メスにはお尻に産卵用のシッポがついている。

40匹くらいはいたと思うが、昼間でもいくつか鳴くのだが、暗くなってからは競争のように鳴き続けるのだからそのエネルギーに驚く。いつ食べているのか、食べる量もほとんどわからないほどの食べ物を口にするだけで成虫になり、夜は鳴きとおすのである。

オスからだんだん死んでいき、9月の末には鳴きやんだ。オスはすべて死に絶えた。

死に始めた頃、亡き骸がなくなるのに気がついた。「オッ、スゴイ」オスの亡き骸は他のものが食べ尽くすらしい。食べるのはおそらくメスのスズムシだろうと思う。昆虫の仲間には、種の保存のためにオスの役目が終わると、メスに食べてもらうことがインプットされているのだ。

生命の厳粛な過程に驚嘆しました。

スズムシ学校
http://www.sakura-utopia.ne.jp/SU/kobe/suzumushi-school/



【折々の記 2003 Bへ】