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折々の記 2007 C

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】09/03〜        【 02 】09/13〜
【 03 】09/14〜        【 04 】09/24〜
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【 07 】10/10〜        【 08 】10/14〜



【 03 】09/14〜

  09 14 泰山の教え
  09 16 孔子の教え“恕”
  09 17 墓地の改造終わる
  09 20 彼岸入り気温30度三日間<付・安倍内閣閣僚名簿>
  09 22 安倍内閣崩壊の中核<テロ特措法>

09 14(金) 泰山の教え

朝ドラの「どんど晴れ」の中で南部鉄器職人平治が女将の環さんに大女将について語る場面がある。

岩手山のようにして、まわりの見える動きをジッと見ていろ、というのです。

“大女将も、わしにはいろいろとぐちった。 人は愚痴ってもいい。 わしは口が固いから、人にもらすことはない。 女将も、岩手山になっているといろいろ見えてくる。”

というようなことを語っている。

なかなかうまいことを言っている。

そう思ってみると、「巧言令色鮮なし仁」の句が浮かぶ。

関連するHPを掲載する。

http://homepage1.nifty.com/kjf/index.htm <中国故事物語>

巧言令色鮮なし仁

      ――巧言令色、鮮なし仁。(巧言令色鮮矣仁。)(「論語」学而篇・陽貨篇)

        というのは、孔子の言葉で、「口先が巧みで、角のない表情をするも
     のに、誠実な人間はほとんどない」という意味である。

        これを裏返して、孔子はまた、

        ――剛毅木訥、仁に近し。(剛毅木訥近仁。)(「論語」子路篇)

        すなわち、「剛毅で飾らぬ人間は、(誠実なのだから)完成した徳をそ
     なえたものに近い」とも言っている。利己的な打算がなければ《飾る》
     必要がないのだから、当然《木訥》になるであろうし、みずから正しい
     と信ずるものの前には、その生命さえ惜しまぬなら、当然《剛毅》にな
     るであろう。しかし、このような人間でも、《仁》(完成した徳をそな
     えた人間)そのものではない。

        孔子は、

        ――文質彬々として、然る後に君子なり。(文質彬彬、然後君子。)
                            (「論語」雍也篇)

        とあるように、文(形式)と質(実質)とが彬々として(調和して)いるこ
     とを、君子(徳をそなえた人間)の条件としていたのである。

        だから、弟子たちには、

        ――博く文を学び、之を約するに礼を以てす。
              (博学於文、約之以礼。)(「論語」雍也篇・顔淵篇)

        と、多方面に文(ここでは学問すなわち実質)を学び、それを礼(形式)
     で整理統制することを強調しているのだ。決して剛毅木訥という荒削り
     な態度を薦めているわけではない。

        しかし、その剛毅木訥を推称しているかに見えるほど、孔子は、巧言
     令色の徒を憎んでいた。


        その増悪は、

        ――その之を言うてハジざれば、則ち之を為すや難し。
          (其言之不zuo<立心偏+乍>、則為之也難。)(「論語」憲問篇)
       (臆面もなくものを言うような奴には、到底実行はできぬものだ。)

        と言う痛烈な言葉を吐かしているほどである。孔子は何よりも、巧言
     や令色によって、他人を瞞着する、その狡猾さを憎んだのだ。

          政党の公約は不履行に終るのが常識だが、国民を欺瞞して恥じぬこの
     ような巧言令色の徒の充満している今日、孔子のこの言葉には、私たち
     の俗根を凛々と打ち叩くものがあるのではないか!



09 16(日) 孔子の教え“恕”

今から2〜30年ほどまえ、学校にいた頃には「孔子の教え“恕”」について毛涯章平先生の話としてお聞きしていた。

一昨日の「折々の記」に取り上げた<中国故事物語>を開くと、役に立つ項目がいっぱいある。

「己の欲せざる所は人に施す勿れ」 あれ〜? これはキリスト教で説いている言葉ではないか。

それで、その項<己の欲せざる所は人に施す勿れ>を開いてみた。 あるある! 私たちが概要をつかむ程度としては十分な説明がのっている。

この言葉は『論語』に出てくる孔子の言葉であった。

  其恕乎。己所不欲、勿施於人。(『論語』衛霊公篇)
     それ恕か。己の欲せざる所は人に施す勿れ。

【データには次の説明がある】 

……孔子は、 己を虚しゅうして[天]の権威に順うこと、 その[教え]、 すなわち[道]にいそしむことを、 人生の本義としている。……

 従って、子貢のような[自己意識]を抱きながら、他人に強要しないという行為は、事実としてあり得ぬことと思われたのだ。

 [恕]は、自己を抛棄する所に可能となる。従って、孔子はこの言葉によって、[我]から離れよ、ということを教えたのだ。そして、この教えは、高弟の曾子が、

    夫子之道忠恕而已矣。
     夫子の道は忠恕のみ。(先生の[道]は、誠意と思いやりにつきる。)

  と言っているように、教義の根本をなすものであった。

     <天>とは

恕の解説は‘おもいやり’であった。 難しい説明は何もなくても、誰にとっても一番わかりやすいし、ほんとそうだと納得できる。 

この説明を読んでみると、漱石の『即天去私』は漢文学への造詣もわかり、面目躍如たるものがある。 己を虚しゅうして[天]の権威に順うこと、その[教え]、すなわち[道]にいそしむこと………すなわち、漱石によれば『天道』に近づけない心のわだかまりが〜金と名誉と女〜であり、その極みが〜自殺か発狂か宗教か〜であり、そして心のわだかまりを乗り越えて〜即天去私〜に辿り着いたのである。

『道は忠恕のみ』(まじめおもいやり)というのは、「五蘊皆空」と観じたあとの「進むべき基本」を示したものと思われる。 「五蘊皆空」をもとにして「眼横鼻直」とか「花は紅に柳は緑に」の言葉が成り立っている。

すばらしい考え方です。

キリスト教でいう「己の欲せざる所は人に施す勿れ」は、子貢の考え方であり、孔子の考え方はもっと深いところまで根を張っていたのです。

お釈迦さまの教えには、「無財の七施」など具体的な行動まで称揚しています。 これまた、すばらしい考え方です。

09 17(月) 墓地の改造終わる

墓誌がついた「下平家之墓」ができあがった。 石屋さんは伊久間にある小林石材。

家紋は‘石持ち地づき蔦’である。

詳細はテキスト文書一覧の中の「下平家之墓 改造・家紋」へまとめて記録してある。 

個人用としては、「Notepad」を開き、通常<ローカルデスク(C:)>になっているから、<テキスト文書>を開いて「下平家之墓 改造・家紋」を見ればよい。 もし<My Documents>になっていれば<ローカルデスク(C:)>をクリックして<テキスト文書>を開けばよい。

  

見たとおり、立派なお墓ができてうれしい。

09 20(木) 彼岸入り気温30度三日間<付・安倍内閣閣僚名簿>

<http://weather.yahoo.co.jp/weather/jp/20/4830/20415.html>これは Yahoo!天気予報、喬木村の天気予報です。 それで見ると、今日から三日間の気温予想は30度を越えています。

きょうは秋の彼岸入りです。 ‘暑さ寒さも彼岸まで’という言葉を子供のころから聞いて育ちました。 その彼岸なのに真夏の気温になっています。

今朝のニュース

きのうのテレビで年金不正横領を厳正に取り締まるという舛添要一<付・安倍内閣閣僚名簿>厚生労働大臣の話がありました。 この大臣の気構えに多くの国民は好感をよせ期待をしていると思います。 

つぎに載せるのは、けさのニュースです。


社保庁、10年で処分者6000人超…うち懲戒1321人 9月20日3時6分配信 読売新聞

 社会保険庁は19日、過去10年間(1997年〜2006年)で「免職」などの懲戒処分を受けた同庁職員(非常勤含む)が1321人に上ることを明らかにした。

 懲戒には至らない「厳重注意」と「訓告」処分も加えると計6000人を超える職員が何らかの処分を受けていた。

 社保庁職員は、約2万9000人(正規職員約1万7000人、非正規職員約1万2000人)。特に05年は年金記録の「のぞき見」などで3400人超が処分されており、ほぼ8人に1人が処分を受けた計算になる。

 処分状況は、社保庁が同日、政府の有識者会議「年金業務・組織再生会議」(座長・本田勝彦日本たばこ産業相談役)に提出した資料で明らかになった。政府は2010年設立の日本年金機構で、社保庁職員を採用する際の基準に「過去の処分歴」も加える方針だ。


09 22(土) 安倍内閣崩壊の中核<テロ特措法>

憲法第二条戦争放棄の規定にかかわらず、日本は実質再軍備をしました。 人を殺してはならない、戦争をしてはならない、当然の国民の約束であるにかかわらず軍備を整えました。

その理由は独立国には自衛権がある、という理屈をあとでつけたのです。 理屈には合いません。

私は日本の軍備は憲法違反だと思っています。 どうみても理論上、人を殺したり施設を破壊したりする軍備は憲法第二条の戦争放棄の規定に違反しています。

それだから、戦争の応援を国際社会の一翼を担うという理解に結びつけるのは間違っています。

国際認識が甘いという批判をする人がいますが、真実を歪曲した理解の仕方が戦争の隠れ蓑になるのです。 いままでの国際間の紛争は殆どすべて相互不信と偏見によって発生しています。

テロの主張を聞いたことがありますか? 私はありません。

相互理解の片鱗だに聞いたことはありません。 公開討論を拒否してきたのはどちらでしょうか? 彼らの主張は何でしょうか?

日本軍部の五・一五事件に見られた問答無用です。 

凶弾に倒れた犬飼毅の「話せばわかる」は通用しなかった。 この大事なときに歴史の教訓を忘れてはいけない。

 (<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85> “犬養毅” 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に概要がある)

テロの主張を正しく理解し認識している人が何人いるのでしょうか?

それを公にし、すべて仔細に検討してみるのが大人の態度でしょう。

アメリカにとって、テロ首謀者の論理を世界中に公表し討議することになると、恐ろしい結果が出てくることを予知しているからでしょう。 そうとしか思えません。

政治家は誰一人としてテロ指導者の論理を分析し判断しようとする人がいないのです。 これは異常なことです。

テロ活動は不正であり、反テロは正義であるとどうして判断できるのでしょうか?

テロは反社会行動であり、反テロの武力行使は平和のためだとどうして言えるのでしょうか?

誰かそれに答えてほしい。

わたしが絶えず心の一隅に疑問にしている課題なのです。 そのために世界の方向が捻じ曲がっていきそうです。

だれか答えてほしい。

<テロ特措法>については、新聞紙上やテレビ画像でいろいろと報道しています。
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  ここをクリックすると関連情報の所在を見つけることができる。

最近の報道によると、参議院では野党勢力が過半数になり特措法の延期が不可能になりそうなので、アメリカは日本をアメリカと同一歩調にさせるために国連で日本は国際社会に貢献しているぞ、というデモンストレーションを行ないました。

アメリカの手立ては子供だましの小手先のやり方である、というしかない。

そのために日本ではとんでもない迷惑を蒙っている。 安倍さんはそのとばっちりで内閣を投出したではないか。

今度の福田さんの内閣にしても麻生さんの内閣にしても、このことで苦労しなければならないのです。

だからと言って、アメリカの手前勝手に従うことはありません。

国際間のバランスに重点を置いた考え方の人たちは、国際常識という言葉を使って国際間の力関係にしたがうことが多いのです。 「赤信号みんなで渡れば」の集団順応タイプが多いのです。

人殺しを防ぐのには、一人ひとりの心の中に集団判断ではなく、単数判断を最優先させなくてはなりません。

もう、問答無用はごめんです。



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