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折々の記 2007 C

【心に浮かぶよしなしごと】

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【 05 】09/29〜

  09 29 もてなしの心(=hospitality)
  09 29 喬木中学の青風祭
  09 30 軍歌‘空の神兵’

09 29(土) もてなしの心(=hospitality)

テレビの朝ドラ「どんど晴れ」は今日が最終回でした。

このテレビの「どんど晴れ」の主題は‘おもてなし’である。 「もてなしの心」というのは何なのか、調べてみた。 

  もてなし(=hospitality)  出てきた!  出てきた!
    ↑クリックして見て
「もてなし」の趣旨をチェックしてみると、およそ次のようになる。

@ 相手の立場に立って心温まる応対をするのが、「もてなしの心」の原点です。
  【奈良・もてなしの心推進県民会議】

A 友人を自宅に招いてもてなす時の、部屋を掃除したり、和菓子ではなくケーキを買っ
  ておいたり、コーヒーではなく紅茶を用意したり、お皿やカップを選んだり。そうい
  った気配りがウェブサイトでももっと大事にされるべきです。
  【ミツエーメディアクリエイティブ 取締役 橋本 敬】

B 暖かくもてなす心、歓待の精神。hospital(病院、慈善施設)からの派生語であるが、
  源流は後期ラテン語「hospitalia(主人が客を接待する場所=来客用の大きな家)」
  に由来する。
  【現代用語の基礎知識】

C 温かく親切にもてなす心,歓待の精神
  【ランダムハウス英和大辞典】

朝ドラ「どんど晴れ」の主人公‘なつみ’が持っている「もてなしの心」のバックボーンは次のものでした。

   えがお  笑顔
   えがお  笑顔
   えがお  笑顔
   えがお  笑顔
   えがお  笑顔
   えがお  笑顔
   えがお  笑顔

「来者如帰」の扁額

@ 京都市のほぼ中心、車の往来の激しい御池通から麩家町通をほんの少し南に下ると、純日本建築の旅館「柊家(ひいらぎや)」の静かな佇まいがある。ここは創業が江戸時代末の文久元年(1861)と言い、京の一流旅館の中でも屈指の老舗。

 京の老舗旅館となるとどうも気楽にくつろげないような気がする。だが柊家は違う。打ち水がされた石畳の玄関を入ると「来者如帰(らいしゃにょき)」の額の文字が目に飛び込んでくる。この四文字が柊家の接客の基本精神で「自分の家に帰ってきたようにおくつろぎください」との気持ちで客をもてなす。柊家を定宿としていた川端康成は、部屋係の女性の気遣い、室内の雰囲気や調度品、清潔な槙(まき)のゆぶねなどすべてが気に入っていたようで、この旅館に入ると「ホッ」として落ち着くと書き残してる。

玄関から上がり座敷に向うと「来者如帰」と書かれた大きな額がある。これは柊家の180年余に及ぶ、伝統的精神で「温かなもてなしと優しさでお客様をお迎えする」という心です。数寄屋造和室21室。(改装工事の為、現在21室。平成17年10月に完成予定。)どの部屋からも庭が眺められ、四季折々を盛り込んだ京懐石料理の味覚や移ろいを、京の旅情とともにお楽しみ下さい。
<http://www.nta.co.jp/yadonavi/yado/yado_detail.do?sic=110&tc=6205>

A NHK連続テレビ小説「どんど晴れ」は民話の故郷である岩手県を舞台に老舗旅館でヒロインが伝統と格式の狭間の中で孤軍奮闘しつつ成長していく様が描かれています。

 老舗旅館「加賀美屋」の玄関に入って真っ先に目に入る書があるのをご存じでしょうか?

 「どんど晴れ」ファンだったらご存じの「来者如帰(来るもの帰るが如し)」と行書で書かれています。


 この言葉は、「加賀美屋」が180年という歴史の中で守り続けてきた心をあらわしていて、お客様が自分の家に帰ってこられたようにくつろいでいただくという意味だそうです。

作者の言葉   脚本家 小松江里子

日本の古き良きものの一つに、相手を敬い、思いやりを持ち、笑顔で迎え入れる、そんな『もてなしの心』があります。

この物語りは、そのおもてなしの心を代々受け継いだ、伝統と格式をもつ、盛岡の老舗旅館、加賀美屋を舞台に、横浜育ちの主人公の夏美が、いかに若女将として成長していくのかを描いています。

どんな困難な時でも、明るい笑顔で前向きに立ち向かう夏美。その笑顔は、岩手の遠野に古くから伝わる、幸せを呼ぶ『座敷童(ざしきわらし)』を、夏美の回りにいる人たちに、思い起こさせもします。

そして、世代も価値観も違う、大女将、女将、若女将という、三代の女たちが、それぞれの立場から、時には牽制しあい、時には相手に辛い決断を下しながらも、いつしか女将として、女として分かり合っていく。その筋を通した、潔い、凜とした生き方もまた、楽しんで観ていただければ嬉しい限りです。

09 29(土) 喬木中学の青風祭

喬木中学の青風祭は昨日今日行なわれている。 友美の中学最後のイベントだから見させてもらうことにしていた。

    

       全校合唱‘夏の日の贈り物’  (友美の伴奏)

この喬木中学の文化祭の名前が青風祭なのです。 なぜ清風祭ではなく青空の青風祭なのかわからない。 誰か青雲の志という言葉を知っていて、青風にしたのかもしれない。 知っていないとすれば先生方の入れ智恵かもしれない。

青雲という言葉はまちがうといけないから、ジャパンナレッジで調べてみた。 


  【青雲】 デジタル大辞泉

  1 青みがかった雲。また、よく晴れた高い空。青空。

  2 地位や学徳の高いことのたとえ。
   「之を要するに如何(どう)しても―の雲の上には向きの悪い男であるから」〈福沢・福翁自伝〉

  3 俗世間を離れ、超然としていることのたとえ。


こうしてみると、青雲の志というのは「超然として学問に励む願い」とでも受取ればいいのでしょう。

ただの文化祭よりも気品があっていいと思う。

それはそれとして、孫の友美が中三なのだ。 

抱っこしながら、「これは電柱です」「これは消火栓です」「これは冷蔵庫」「あれは電線」「これは〜何々」「あれは〜何々」………手当たり次第、目に見えるものの名前を聞かされたとおした知美、 それが何とまあ、今では中学校を卒業する学年になってしまった。

    

         三年一組‘はじまり’  (友美の伴奏)

音楽会では全校や学級のピアノ伴奏までしていた。 カメラの性能がよくなってきたから、画像を引き伸ばしていくと誰だかみんなわかります。

義務教育最後の学校生活なのである。 クラスの音楽‘はじまり’に寄せるみんなの想いが模造紙二枚にたんねんにはりつけてあった。 これも懐かしい筆跡となるでしょう。

    

            三年一組‘はじまり’への想い  (友美の寄書き)

校内の作品展示を見てまわった。 友美のクラスの黒板は青風祭へ寄せる期待が若者らしい熱意があふれていた。 来週になればチョークの粉として始末され、黒板の言葉は思い出の中に繰り入れられることだろう。 胸をうたれて思わずシャッターを切った。

    

                三年一組の黒板  (誰が書いたのだろう)

まだ幼いころには 「これッくらいの、おべんとばこに、………」 かわいい歌をうたってくれたっけ………。 楽しくてはちきれそうだった。


おべんとう箱

これっくらいの、おべんとう箱に
(両手の人差し指で、胸の前にお弁当箱を書く)

おにぎり、おにぎり
(おにぎりを握るまねをする)

チョイとつめて
(お弁当箱に並べて入れるまねをする)

きざーみショウガに
(左手を出し、右手できざむまねをする)

ゴマ塩、パッパッ
(両手で塩を振るまねをする)

ニンジンさん
(両手の指を二本出し、三本に変える)

サクランボさん
(指三本出し、もう一度出しなおす)

シイタケさん
(指四本出し、三本にする)

ゴボウさん
(指五本出し、三本にする)

穴のあいた、レンコンさん
(人差し指と親指で、わっかを作り、顔の横で振る)

すじの通ったフ〜キ!
(左手を前に出し、右手で手のひらから肩まで撫ぜていき、握って口の前に持ってくる)
(最後の「キ!」で握った右手をパッと開く)



保育園のころの子供達はまだみんな小さくて、とても今の中三は想像だにつかなかった。

それが、こんなに大きくなった孫を見ることとなり、爺はうれしい。

時の経つのは早いものです。 浦島太郎の歌詞は間違いではなかった。 朱熹の偶成を高唱していたころは青春の真っ只中だった。 それはもう懐かしいものとなった。

    少 年 易 老 学 難 成

    一 寸 光 陰 不 可 軽

    未 覚 池 塘 春 草 夢

    階 前 五 葉 巳 秋 声

そして、将に秋声を聴く年配となった。

09 30(月) 軍歌‘空の神兵’

戦争中に土浦の予科練にいたが、「 ……… 七つボタンは 桜に錨 … 」の‘若鷲の歌’は、二度と歌いたくない。 同じように‘同期の桜’にしても歌う気はない。

だが、

  花もつぼみの若桜   五尺の生命ひっさげて   国の大事に殉ずるは   我ら学徒の面目ぞ   ああ紅の血は燃ゆる

‘ああ紅の血は燃ゆる’は暗くなり行く窓辺によってそこはかとない哀愁につつまれて、青春の歌としてうたった。

まだ土浦へいく前には血湧き肉踊るおもいで、‘空の神兵’をうたっていた。 この歌は爽やかな明るさと少年を鼓舞する気持ちを与えていた。 そういう意味で、http://www7.ocn.ne.jp/~gunka/showa.html#7<空の神兵>は懐かしい歌です。

この赤字の URL<空の神兵> を開いて、歌を聴いてみましょう。

  藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の
  真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
  見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

  世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
  捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
  この山川も敵の陣 この山川も敵の陣

  敵撃摧と舞い降る舞降る まなじり高きつわものの
  いずくか見ゆるおさな顔 ああ純白の花負いて
  ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

  讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも
  撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る
  我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る


昭和17年1月11日に海軍の落下傘部隊が蘭領印度(現在のインドネシア)のセレベス(現在のスラウェシ)島メナドに、続いて2月14日に陸軍の落下傘部隊がスマトラ島のパレンバンに降下しました。この歌はその時の模様を歌ったもので、青空に純白の落下傘が次々に開いてゆく様子が絵のように歌はれています。普通軍歌は勇ましいか、暗いかのどちらかが多いのですが、この曲は珍しく明るく美しい軍歌になっています。高木東六さんは雑誌「諸君」の平成13年9月号で作家・演出家の久世光彦さんと対談し、次のように語っています。「二,三年前自衛隊に招かれて習志野の第一空挺団の演習を見に行ったんですよ。この日は新米の隊員がはじめて実際に飛行機から降下訓練をする日だったそうです。ちょうど僕らの真上に輸送機がきた時、そこから新兵さんがどんどん降下してくる。落下傘がパッと開くのにあわせて、地上に控えていた楽隊が空の神兵の演奏をはじめたんですよ。驚きましたねえ。感動しました。まわりにいる自衛隊の人たちもみんなで歌いだして。この歌は部隊のテーマ曲みたいになっていて、ことあるごとに演奏しているそうですよ。ただいまの落下傘というのは白くないんですね。なんだか緑色みたいではっきりしないですから真白き薔薇のというわけにはいかなかった。」更に、「(軍歌はいやいやながら作っていたという話をした後で)ただ空の神兵は、レコード会社の人が梅木三郎さんの歌詞を持ってきて、それを読んだ瞬間僕の頭にさわやかなイメージが広がったんです。簡明、直裁、且つ美しいイメージはこれまでの軍歌にはなかったものです。これなら作れると瞬間的に思いました。・・・中略・・・あの曲は僕の曲作り、曲想そのもので書く事ができたから、確か十五分くらいで出来上がったと思います。」この対談の時高木東六さんはおん年九七歳でした。現在日本の唯一の落下傘部隊である陸上自衛隊第一空挺団(千葉県習志野)が年の初めに初降下訓練をする時はこの曲(メロディーのみ)が流されます。
ここに載せたのは岩城拓也・橘かおるという無名の歌手によるものです。この二人の声はこの歌のもつ明るい爽やかなイメージにぴったりで、たくさんあるこの歌のレコード、CDの中の最高傑作と思います。特に橘かおるという婦人歌手の爽やかでどこか温かみのある歌声は絶品です


橘かおるという婦人歌手の爽やかでどこか温かみのある歌声は絶品です、とある通りいつ聴いてもすばらしいと思います。

  海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ (海行かば)

同じURLに載っているこの歌は、子供心にも何か荘重な悲壮感を受け止めていた名曲でした。



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