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折々の記 2007 C

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】09/03〜        【 02 】09/13〜
【 03 】09/14〜        【 04 】09/24〜
【 05 】09/29〜        【 06 】10/01〜
【 07 】10/10〜        【 08 】10/14〜



【 07 】10/10〜

  10 10 ヤマブドウのジュース完了 ・ 柿の「熱風乾燥法」
  10 11 上田原古戦場
  10 12 むつみ会‘秋の行楽’清流苑 運転

10 10(水) ヤマブドウのジュース完了 ・ 柿の「熱風乾燥法」

朝日新聞社説 2

  10/04 対北朝鮮―首相は早く戦略を固めよ
      生保の不払い―国の年金にも通じる病根
  10/05 南北首脳宣言―言葉は盛りだくさんだが
      「円天」事件―うまい話に踊らされるな
  10/06 アフガン支援―小沢論文への疑問符
      親方解雇―「打ち止め」とはいかぬ
  10/07 政治とカネ―非公開になぜこだわる
      死刑自動化―そんな軽い問題ではない 
  10/08 体育の日―こどもの体力は遊びから
      原油高と物価―指数に表れぬ値上げ圧力
  10/09 ミャンマー―長井さんの遺志を継ぐ
      成年後見人―市民の互助で広げよう
  10/10 対北朝鮮―首相は早く戦略を固めよ
      生保の不払い―国の年金にも通じる病根

朝日の社説は必要と思う記事をメモ帳に保存していく。 日曜日をまとめの日とする。
社説では時の話題の渦になっているものに焦点をおきたい。

●ことしのヤマブドウは一枝に一房として管理してきた。 たくさんなり過ぎて困るからです。 人畜無害の消毒液、アミスターは二回散布しただけだが、三回散布したほうがよさそう。

9月20日ころには収穫してきたが、ことしは下旬も終わり頃で、房には青果はなくなってきていた。 腐乱病がない限り果実が十分熟して色も十分ついてから収穫すればいいことと思う。

アミスターという薬品はありがたい。

   http://www.syngenta.co.jp/<シンジェンタ(アミスター10)>

アミスターをブドウに使うには、次のデータを見ると良い。

   http://www.syngenta.co.jp/support/gaichu/gaichu39_budou1.html<ぶどうの病害について その1 -黒とう病->

また、参考になる苗木と栽培指導書も目を通しておくと良い。

   http://www15.plala.or.jp/urayama/index.htm<うらやま農園>

●柿の加工方法について前での奥山さんから話をお聞きしていたので、飯田女子短大の平井俊次先生のホームページをしばらくぶりに開いてみた。

   http://www1.ocn.ne.jp/~foodsh/index.htm<柿講座>

  柿に伝わる健康と文化
  甘柿・渋柿の判別法
  柿の話
  柿の効能
  柿酢の話

上のように五つの項目でいろいろと解説してくれます。

そして、9月28日の「市田柿研修会」の研修資料の最後に、《要約》として

  (1) 従来の干柿は、製品化するために30〜40日間必要であったが、新しい加工法では、半日から2日間で、
     多様なタイプの干柿の製品化が可能である。 これにより得られる干柿は、嗜好性、安全性、栄養・
     健康機能面、製造コスト面、二次加工の用途などいずれの視点からも優れた干柿である。 また、従
     来、使用できなかった熟柿にも適用でき、さらに、皮などの廃棄物がでない。

  (2) 新しい加工法で得られた干柿、また、従来の干柿(市田柿)は、いずれも他の生果実(甘柿、リンゴ、
     ミカン)、並びに、他のドライフルーツ(マンゴー、イチジク、アンズ、ブドウ、ブルーベリー、プル
     ーンなど)に比較して、7〜20倍にも及ぶ高いポリフェノール含有量とラジカル捕捉活性(抗酸化力)を
     示すことが明らかになった。
     これらの分析(測定)結果は、今までに、考えられなかった新しい知見であり、人の健康保持・増進面
     から、きわめて期待が大きいと考えられる。

  (3) 渋柿は、甘柿に比してポリフェノール含有量とラジカル捕捉活性(抗酸化力)が高く、脱渋後も、この
     特性が落ちにくい。

  (4) 渋柿のタンニンは、脱渋後、塩化第二鉄が消失した後も、高いポリフェノール量とラジカル捕捉活性
     を示す。

と述べています。

ここでいう「熱風乾燥法」が確立して販路が安定すれば、ただちに移行したい。

10 11(木) 上田原古戦場

かねてより一度は訪ねたいと思っていた上田原古戦場へ行くことにした。 天気はよいという。 朝のうちはガスがかって雲が低く下りていたので心配した。

地名の岩鼻は切立つ絶壁である。 どうしてこんな形状になったのか不思議であり壮絶感すら覚える。 ここは村上義清の上田原合戦のときの本陣になったところだ。

ここから携帯で家内に連絡したのが 7:30 です。 オリンパスの‘μ(ミュー)1000’デジカメで眼下の景観を撮影する。

岩鼻には最近トンネルが通り、出ると直ぐ左折して岩鼻への道ができている。 今は千曲公園になっており、そこからの景観はすばらしい。

この映像は石久摩神社裏の無名戦士の墓をお参りしたとき撮ったものです。



                               石久摩神社裏から岩鼻を望む



千曲公園の鳥瞰図には一分拡大の戦跡図があり、武将の墓などの位置がわかり自分の地図に記入できた。 

そのため、この後村上方の

  ‘小島権兵衛の墓’

  ‘屋代源吾の墓’

  ‘雨宮刑部の墓’

や、武田方の

  ‘板垣信方の墓’

143号線沿いに建つ吉村午良書の

  ‘古戦場の郷碑’

石久摩神社に建つ

  ‘上田原古戦場碑’

その裏手にある

  ‘無名戦士の墓(小さな五輪の塔、六つ)’ それと「信玄道」

上田野球場の東にある

  ‘観音寺’

など地図に即して訪ねることができた。



                        岩鼻から上田原古戦場跡を眺望する……(画像の大きさ→1024)

戦跡訪問のデータは 【http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Tokubetsuhen/Uedahara/index.htm】<上田原古戦場> を開けばわかります。

それでも、Web が開けなくなると困るので、次に「天文十七(1548)年二月十四日」の様子を掲載している部分を記録します。


破竹の武田晴信が払った「高い代償」
上田原古戦場

  合戦の日時   天文十七(1548)年二月十四日
  当事者      ◎村上義清(7000?総数不明)
            ●武田晴信(8000?総数不明)
合戦の経緯
天文十六(1547)年七月、信玄は佐久で唯一抵抗する笠原新三郎清繁の志賀城を攻めるために侵攻、笠原清繁は上州平井城の関東管領・上杉憲政に援軍を要請した。上杉軍は八月に碓氷峠を超えて小田井原に布陣、八月六日に武田軍と激戦となり、武田軍は上杉軍の兜首十四、五と雑兵三千を討ち取った(小田井原合戦)。八月十一日志賀城は陥落、城主笠原清繁はじめ城兵三百余が戦死、同時に籠城していた多くの男女を生け捕りにし、その多くは黒川金山の坑夫や娼婦、奴婢として人身売買されたという。この笠原清繁は埴科郡葛尾城主の村上義清の属将であったといわれ、後詰できなかった村上義清が面目を潰されたとして怒り、武田との対決姿勢を鮮明にした。武田方も武田領となった佐久郡と村上領の小県郡が接することから、一気に主力決戦で小県・埴科から北信濃への侵攻を画策した。

村上義清は天文十七(1548)年一月十八日、北信濃の反武田勢を集めて、産川下流の西方の天白山(須々貴山)を背に陣を敷いた。武田軍は二月一日に甲府躑躅ヶ崎館を進発、諏訪を経て大門峠を越え、上田原に入り、千曲川支流の産川東方の倉升山に陣を張った。

両軍は二月十四日に衝突。武田軍先陣の板垣駿河守信方は村上軍の第一陣を撃破しつつ進軍したものの、敵中に深く入り込み過ぎた上、一説にはこの地で首実検を実施したという。板垣信方は反撃に出た村上軍の包囲を受け、乗馬しようとするところを引きずりおろされ、鑓で串刺しにされて首級を挙げられた。勢いづいた村上軍は村上義清の本隊が武田軍本陣を襲い、脇備えの内藤昌秀、後ろ備えの馬場信春らが奮戦、小山田出羽守信有が村上軍の横腹を衝いたため辛うじて村上軍を押し返したが、信玄自身も二箇所に薄手を負ったほか、甘利備前守虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門らの宿将と兵七百を失った。一方の村上義清も、唐崎山城主の雨宮刑部正利、小島城主の小島権兵衛、屋代源五基綱らの将をはじめ兵三百を失った。

武田軍はなお陣に留まったが、敗報は翌十五日に諏訪上原城の駒井高白斎政武に伝えられ、今井兵部信甫と相談の上、躑躅ヶ崎館にいる信玄生母の大井夫人から帰陣をとりなしてもらうよう画策、三月五日にようやく撤退し諏訪上原城に引き上げた。一方の村上義清も損害が大きく追い討ちはかけなかったという。

この武田軍の敗戦の結果、村上義清らは四月二十五日に上原昌辰の守備する内山城を攻めて宿城に放火したのをはじめ、佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆などが反武田同盟を結んで武田氏の信濃支配は危機を迎えた。

佐久、筑摩、伊那と信濃の各方面に同時進行的に軍を進め、着実に版図を伸ばしてきた武田晴信。抵抗する国人衆も各個撃破し、怖いもの無し、と思われた矢先、強敵が目の前に現れます。村上義清。村上氏は他の小豪族とは明らかに一線を画す、本格的戦国大名でした。他の国人衆が鎌倉以来の名族の血を誇りながらも、小豪族同士の争いや一族分裂で滅亡したり力を削がれたりしている間に、更級・埴科・川中島から小県まで勢力を伸ばしつつあった村上氏は、晴信にとって最初の大きな敵でした。晴信の父、信虎の代には一緒に海野平に侵攻したりしていたのですが、強大化した武田氏は早晩村上義清と雌雄を決する運命にありました。

雪が降りしきる天文十七年の二月、その時がきました。信玄は長い軍旅、伸びきった兵站線、不慣れな地理、そして天候と不利な条件ばかりですが、果敢に村上勢に対峙、上田原に陣を布きます。一方、本領に踏み込まれた村上勢は血縁諸将や反武田の国人衆の残党とも語らい、一歩も引かぬ構え。いつもの信玄であれば、間者を放ち埋言を流布し、敵を内部から切り崩して「戦う前に勝つことが決まっていた」でしょう。それに、敵地の最前線で、地理にも不慣れ、天候も最悪、のコンディションでは、力対力の主力決戦は回避するのが彼のやり方だったでしょう。しかしこのときの信玄は、何かが違っていました。信玄がはやったのか、麾下の武将たちがはやったのか、それとも信濃戦線における連戦連勝に気が緩んでしまったか。その代償はなんとも高く付いたのでした。

板垣駿河守信方、甘利備前守虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門ら討ち死に・・・。信虎を駿河に追った信玄にとって、「オヤジ代わり」だった板垣信方、甘利虎泰を失ったことは、予想だにできない不覚であったでしょう。しかも本陣を村上軍本隊に蹂躙され、、信玄自らも軽傷を負ったという惨敗。最終決着こそ付かなかったとはいえ、実質的には武田軍の大敗北でしょう。信玄はこの敗北を隠そうと、退き陣せずに寒中さらに一月ほど陣取りますが、諏訪上原城で敗報を聞いた駒井高白斎、今井兵部らの機転で生母の大井夫人に手紙を書いてもらい、やっと信玄は撤退。一方の村上軍も雨宮刑部、屋代源吾、小島権兵衛などの将を失い、武田軍の退き陣に際して追い討ちを掛ける力は残っていなかったようです。そしてこの合戦は、やがて戸石崩れと真田幸隆による戸石城奪取、葛尾城争奪を経て、長尾景虎、のちの上杉謙信の川中島への出陣を呼ぶことになるのです。

現地の地形ですが、上田原と呼ばれる場所は上田城のある市街地と千曲川を挟んだ対岸にあたり、一見平たく見えるものの段丘などもある地形で、武田軍はこの段丘上に陣を敷いたとされます。一方の村上軍の陣地は諸説あり増すが、天白山を背にした「岩鼻」という、上田原から眺めると北西の断崖上の台地に陣を敷き、千曲川の支流である浦野川を挟んで対峙した模様です。合戦はこの間の野原、千曲川の氾濫原で行われ、退く敵を追って深入りした板垣信方、甘利虎泰らは村上軍の術中にはまり、重囲の中で戦死したと言われます。付近は住宅地が建ち並び、「上田原古戦場公園」の大きな野球場などもありますが、畑、田んぼや当時と変わらないであろう山の形などに面影を忍ばせています。

さて、古戦場廻りは山城なんかに比べて楽なように見えて、実は結構大変です。なんといっても場所が分らない上に、お墓や石碑というのはとっても見つけにくいものなんです。近所の方に聞いても、はっきり答えが得られるケースは少なく、行って見ると全然違った、なんてこともよくあります。今回も板垣信方のお墓を探すのに一時間近く歩き回ったのですが、最終的に見つけた場所は、僕が車を置いた古戦場公園のほんのすぐ先でした。でもこうやってあちこち歩き回ったおかげで、多少は地理勘も身についた気がしますし、予定していなかった村上軍諸将の墓や無名戦死の墓、戦死者の菩提寺、などという場所にめぐり合うことができました。ところが最近は、今年(2007年)の大河ドラマにちなんで要所要所に看板が建てられたり、史跡の場所には風林火山のノボリがはためいていたりするので遠くからでも目的地がすぐ分かるようになっています。これは有難いことです。なお前述の「岩鼻」の断崖上は「千曲公園」になっており、この古戦場がよく見渡せます、よく見ると田んぼの中にあちこちノボリが立っているのが見えるでしょう。古戦場のほぼ全域を俯瞰でき、位置関係もバッチリわかるというお勧めスポットです。 [2007.06.11] <BGCOLOR=DARKKHAKI>


上の引用文の最後に書いてあるように、とにかく判りやすくなっています。

  

  勘助の登用に功績があった板垣信方の墓……(画像の大きさ→320)

岩鼻で見た「板垣信方の墓」は、こんもりとした森の辺りかと思って近づいてみると、そうではなく見たとおりの畑のなかの木の下に五輪の塔がひっそり立っているばかりでした。

   「鎌倉」(文部省唱歌六年「鎌倉」七番)

  歴史は長き七百年
  興亡すべて夢に似て
  英雄墓は苔むしぬ

子供のころの歌が脳裏に浮かびます。 まわりには誰もいません。 しばし黙祷です。

●上田原古戦場を訪ねたあと、松尾古城、角間、岩屋観音堂、真田本城、真田の郷を訪ねた。

松尾古城、岩屋観音堂は144号線と山麓菅平線の合流点横沢の手前、右の角間川沿いの道へ入ります。 この道へ入ると左に急峻な小山が見えるが、これが<「松尾古城」で、ここへ登る予定はないので、通過する。

川沿い2km余で角間温泉があり、それを過ぎると岩屋観音堂となる。 駐車場へ車を止めて案内板を見て山道へ入った。

これが間違いの元で、登れど登れど観音堂がない。 これには閉口しました。 急になってそれ以上無理と知って降りてきた。

何のことはない。 駐車場の直ぐ左手に観音堂への上り口がありました。 長い石段は200段もあります。 シロトのカメラでは全体が入らないが、クロトの写真には全体をとらえたものがあります。

  埋もれた古城 表紙 > 東海・甲信地方の城 > 真田氏館

この写真を写している場所は右側と同じように頭の上までせり出した洞になっています。

このあたり一帯を「鬼ヶ城」といい、’角間鬼ヶ城遊歩道周囲略図’という地図を添えた看板には次のような解説があります。

             ………………………………………………………………………………………

   『鬼ヶ城』

いつの頃からか悪鬼がここにこもり、地方の良民を苦しめていた。 たまたま西暦八百年頃征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途次このことを聞き、早速悪鬼退治と攻めかけたが、何分にも要害堅固な岩また岩の城とて手のつけようもなかった。

そこで日頃信仰の馬頭観世音に祈願をこめてその助力を仰いだ。 たちまちその霊験あらたかにした天馬空を切るの観音力を賜り、さしもの鬼どもをも生捕る大勝となった。 そして再びこの地方に平和の春がよみがえったという。

その馬頭観世音こそ傍陽地区金剛山実相院の馬頭観世音にして、いまなおここには、鬼松、鬼石などと角間の鬼ヶ城にまつわるいろいろの話が伝承されている。

角間の岩屋堂はその後悪鬼の巣にならないようにと、その時まつられたものといわれ、坂上田村麻呂の像もまつられている。

             ………………………………………………………………………………………

長い石段に別れを告げての帰り道、角間部落の道上直ぐに真田家の祖先にまつわる発掘遺跡の標識が目に入った。 真田の郷へ行ってから写真と解説を見ることができました。

続いて真田本城

  埋もれた古城 表紙 > 東海・甲信地方の城 > 真田本城

へ行く。 前に行ったときには「矢竹」の生えた小路が通っていたのに、いまは芝生が貼り付けられて観光地に変わっています。

‘埋もれた古城’の製作者の意見では、このきれいな城は本来の城ではないと考えられているようです。 確かに、戦国時代の戦いをする城とはいえないと思いました。 風光明媚な場所で平地から眺めると、格好のいい城跡に見えます。 簡単に行かれるから一度は見たらいい。

珍しくこの秋さなかに、ナデシコの花が咲いていました。 カメラに収める。 検索で調べてみると、シナノナデシコもある。 下伊那と咲く時期が違うようです。

      真田氏本城 (詩碑)  作詩 新田大作

   山 嶽 幾 重 連 陣 営   さんがくいくちょうカ じんえいつらナル

   縦 横 布 置 緻 行 兵   じゅうおうノ ふちこうへいちナリ

   今 朝 錦 繍 一 望 遠   こんちょうきんしゅういちぼうとおシ

   覇 業 遥 思 古 本 城   はぎょうはるカニ おもウ こほんじょう

真田本城から真田の郷

  埋もれた古城 表紙 > 東海・甲信地方の城 > 埋もれた古城

へ行く。 ‘埋もれた古城’の‘埋もれた古城’を開いて合戦の経緯や真田氏の解説を読んだほうがいい。

今日の上田への旅は以上にして帰途に着く。 和田峠は道路整備のため午前5:00から午後4:00まで通行止め。 朝は通過してしまってからで良かったが、帰りは旧道の峠道を通って帰った。 トンネル通行料金は600円。

10 12(金) むつみ会‘秋の行楽’清流苑 運転

宮下秋雄さん石の鳥居前一台、小生韓郷前一台。 8人ずつの総勢16人が参加しました。

  

                 松川、清流苑パターゴルフ場……(画像の大きさ→800)



【折々の記 2007 Cへ】