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10 11(木) 上田原古戦場 |
上田原古戦場 合戦の日時 天文十七(1548)年二月十四日 当事者 ◎村上義清(7000?総数不明) ●武田晴信(8000?総数不明) 合戦の経緯 天文十六(1547)年七月、信玄は佐久で唯一抵抗する笠原新三郎清繁の志賀城を攻めるために侵攻、笠原清繁は上州平井城の関東管領・上杉憲政に援軍を要請した。上杉軍は八月に碓氷峠を超えて小田井原に布陣、八月六日に武田軍と激戦となり、武田軍は上杉軍の兜首十四、五と雑兵三千を討ち取った(小田井原合戦)。八月十一日志賀城は陥落、城主笠原清繁はじめ城兵三百余が戦死、同時に籠城していた多くの男女を生け捕りにし、その多くは黒川金山の坑夫や娼婦、奴婢として人身売買されたという。この笠原清繁は埴科郡葛尾城主の村上義清の属将であったといわれ、後詰できなかった村上義清が面目を潰されたとして怒り、武田との対決姿勢を鮮明にした。武田方も武田領となった佐久郡と村上領の小県郡が接することから、一気に主力決戦で小県・埴科から北信濃への侵攻を画策した。 村上義清は天文十七(1548)年一月十八日、北信濃の反武田勢を集めて、産川下流の西方の天白山(須々貴山)を背に陣を敷いた。武田軍は二月一日に甲府躑躅ヶ崎館を進発、諏訪を経て大門峠を越え、上田原に入り、千曲川支流の産川東方の倉升山に陣を張った。 両軍は二月十四日に衝突。武田軍先陣の板垣駿河守信方は村上軍の第一陣を撃破しつつ進軍したものの、敵中に深く入り込み過ぎた上、一説にはこの地で首実検を実施したという。板垣信方は反撃に出た村上軍の包囲を受け、乗馬しようとするところを引きずりおろされ、鑓で串刺しにされて首級を挙げられた。勢いづいた村上軍は村上義清の本隊が武田軍本陣を襲い、脇備えの内藤昌秀、後ろ備えの馬場信春らが奮戦、小山田出羽守信有が村上軍の横腹を衝いたため辛うじて村上軍を押し返したが、信玄自身も二箇所に薄手を負ったほか、甘利備前守虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門らの宿将と兵七百を失った。一方の村上義清も、唐崎山城主の雨宮刑部正利、小島城主の小島権兵衛、屋代源五基綱らの将をはじめ兵三百を失った。 武田軍はなお陣に留まったが、敗報は翌十五日に諏訪上原城の駒井高白斎政武に伝えられ、今井兵部信甫と相談の上、躑躅ヶ崎館にいる信玄生母の大井夫人から帰陣をとりなしてもらうよう画策、三月五日にようやく撤退し諏訪上原城に引き上げた。一方の村上義清も損害が大きく追い討ちはかけなかったという。 この武田軍の敗戦の結果、村上義清らは四月二十五日に上原昌辰の守備する内山城を攻めて宿城に放火したのをはじめ、佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆などが反武田同盟を結んで武田氏の信濃支配は危機を迎えた。 佐久、筑摩、伊那と信濃の各方面に同時進行的に軍を進め、着実に版図を伸ばしてきた武田晴信。抵抗する国人衆も各個撃破し、怖いもの無し、と思われた矢先、強敵が目の前に現れます。村上義清。村上氏は他の小豪族とは明らかに一線を画す、本格的戦国大名でした。他の国人衆が鎌倉以来の名族の血を誇りながらも、小豪族同士の争いや一族分裂で滅亡したり力を削がれたりしている間に、更級・埴科・川中島から小県まで勢力を伸ばしつつあった村上氏は、晴信にとって最初の大きな敵でした。晴信の父、信虎の代には一緒に海野平に侵攻したりしていたのですが、強大化した武田氏は早晩村上義清と雌雄を決する運命にありました。 雪が降りしきる天文十七年の二月、その時がきました。信玄は長い軍旅、伸びきった兵站線、不慣れな地理、そして天候と不利な条件ばかりですが、果敢に村上勢に対峙、上田原に陣を布きます。一方、本領に踏み込まれた村上勢は血縁諸将や反武田の国人衆の残党とも語らい、一歩も引かぬ構え。いつもの信玄であれば、間者を放ち埋言を流布し、敵を内部から切り崩して「戦う前に勝つことが決まっていた」でしょう。それに、敵地の最前線で、地理にも不慣れ、天候も最悪、のコンディションでは、力対力の主力決戦は回避するのが彼のやり方だったでしょう。しかしこのときの信玄は、何かが違っていました。信玄がはやったのか、麾下の武将たちがはやったのか、それとも信濃戦線における連戦連勝に気が緩んでしまったか。その代償はなんとも高く付いたのでした。 板垣駿河守信方、甘利備前守虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門ら討ち死に・・・。信虎を駿河に追った信玄にとって、「オヤジ代わり」だった板垣信方、甘利虎泰を失ったことは、予想だにできない不覚であったでしょう。しかも本陣を村上軍本隊に蹂躙され、、信玄自らも軽傷を負ったという惨敗。最終決着こそ付かなかったとはいえ、実質的には武田軍の大敗北でしょう。信玄はこの敗北を隠そうと、退き陣せずに寒中さらに一月ほど陣取りますが、諏訪上原城で敗報を聞いた駒井高白斎、今井兵部らの機転で生母の大井夫人に手紙を書いてもらい、やっと信玄は撤退。一方の村上軍も雨宮刑部、屋代源吾、小島権兵衛などの将を失い、武田軍の退き陣に際して追い討ちを掛ける力は残っていなかったようです。そしてこの合戦は、やがて戸石崩れと真田幸隆による戸石城奪取、葛尾城争奪を経て、長尾景虎、のちの上杉謙信の川中島への出陣を呼ぶことになるのです。 現地の地形ですが、上田原と呼ばれる場所は上田城のある市街地と千曲川を挟んだ対岸にあたり、一見平たく見えるものの段丘などもある地形で、武田軍はこの段丘上に陣を敷いたとされます。一方の村上軍の陣地は諸説あり増すが、天白山を背にした「岩鼻」という、上田原から眺めると北西の断崖上の台地に陣を敷き、千曲川の支流である浦野川を挟んで対峙した模様です。合戦はこの間の野原、千曲川の氾濫原で行われ、退く敵を追って深入りした板垣信方、甘利虎泰らは村上軍の術中にはまり、重囲の中で戦死したと言われます。付近は住宅地が建ち並び、「上田原古戦場公園」の大きな野球場などもありますが、畑、田んぼや当時と変わらないであろう山の形などに面影を忍ばせています。 さて、古戦場廻りは山城なんかに比べて楽なように見えて、実は結構大変です。なんといっても場所が分らない上に、お墓や石碑というのはとっても見つけにくいものなんです。近所の方に聞いても、はっきり答えが得られるケースは少なく、行って見ると全然違った、なんてこともよくあります。今回も板垣信方のお墓を探すのに一時間近く歩き回ったのですが、最終的に見つけた場所は、僕が車を置いた古戦場公園のほんのすぐ先でした。でもこうやってあちこち歩き回ったおかげで、多少は地理勘も身についた気がしますし、予定していなかった村上軍諸将の墓や無名戦死の墓、戦死者の菩提寺、などという場所にめぐり合うことができました。ところが最近は、今年(2007年)の大河ドラマにちなんで要所要所に看板が建てられたり、史跡の場所には風林火山のノボリがはためいていたりするので遠くからでも目的地がすぐ分かるようになっています。これは有難いことです。なお前述の「岩鼻」の断崖上は「千曲公園」になっており、この古戦場がよく見渡せます、よく見ると田んぼの中にあちこちノボリが立っているのが見えるでしょう。古戦場のほぼ全域を俯瞰でき、位置関係もバッチリわかるというお勧めスポットです。 [2007.06.11] <BGCOLOR=DARKKHAKI> |
10 12(金) むつみ会‘秋の行楽’清流苑 運転 |