折々の記へ

折々の記 2007 A

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】04/29〜        【 02 】05/05〜
【 03 】05/21〜        【 04 】06/04〜
【 05 】06/08〜        【 06 】06/23〜
【 07 】07/12〜        【 08 】07/17〜


【 06 】06/23〜

  06 23 沖縄「慰霊の日」・集団自決問題
  06 24 先祖累代の墓・仕事始め
  06 25 天下りの弊害はそのまま
  07 01 精霊
  07 04 久間防衛大臣辞任

06 23(土) 沖縄「慰霊の日」・集団自決問題

テレビ報道によれば、高校教科書の記述の中で「集団自決」が問題になっている。

日本の誤った大きな流れはずうっと続いており、国民はこの流れに敏感でなくなっている。 この流れに対して敏感さをなくしている。 許容している感じにも思える。 けれども、内心では戦争を拒否し、頭の隅には政府への不信感がいつでもふつふつとしている状態だと思える。

こうした動きに慣れてしまうと、軍事化にたいして無批判的になってくる。 このことが恐ろしいことだ。

だから、絶えず抵抗反応を示していくことが極めて大事です。

朝日新聞の社説は、時事問題について大事なポイントについては折に触れて問題提起してきている。 きょうの記事もそうした意味で「折々の記」に取り上げておきたい。


社説   2007年06月23日(土曜日)付

沖縄慰霊の日―集団自決に見る軍の非情

 沖縄は23日、「慰霊の日」を迎えた。太平洋戦争末期の沖縄戦で、日本軍の組織的な抵抗が終わった日である。

 今年の慰霊の日は、昨年までとは趣が異なる。沖縄戦で犠牲になった人たちを悼むことにとどまらない。沖縄戦とは何だったのかを改めて考えようという動きが広がっているのだ。

 きっかけは、「集団自決」についての教科書検定である。文部科学省が「日本軍に強いられた」という趣旨の記述を削らせた。軍の強制を否定する資料が出てきたというのだ。

 沖縄では一斉に反発が起きた。各地の市町村議会に続き、県議会でも検定の撤回を求める意見書が全会一致で可決された。意見書は「日本軍による関与なしに起こり得なかった」と主張する。

 保守、革新を問わず、憤ったのはなぜか。集団自決が日本軍に強いられたものであることは、沖縄では疑いようのない事実とされてきたからだろう。

 集団自決が主に起きたのは、米軍が最初に上陸した慶良間(けらま)諸島だ。慶良間諸島だけで犠牲者は700人にのぼる。

 多くの悲惨な証言がある。例えば、元沖縄キリスト教短大学長の金城重明さん(78)は集団自決の現場で、手投げ弾が配られるのを見た。手投げ弾は自分にまで回ってこず、母と弟妹を自ら手にかけて殺した。「手投げ弾は自決命令を現実化したものだ」と語る。

 集団自決に直接かかわった人たちだけではない。沖縄の人たちが「集団自決は日本軍に強いられたものだ」と口をそろえるには理由がある。

 沖縄の日本軍は1944年11月、「軍官民共生共死の一体化」の方針を出した。足腰さえ立てば住民を一人残らず動員し、生死を共にさせようというのだ。

 子どもから老人まで駆り出された住民は、食糧や弾薬の運搬などだけでなく、戦闘員として敵に突入を命じられた。

 陣地の構築にも動員されたため、住民は軍事機密である日本軍の配置まで知ることになった。そこで日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告し、実行していった。

 一方で、「鬼畜米英」軍に捕らえられたら、女性は辱めを受け、男性は残忍な方法で殺される。日本軍はそう住民に信じ込ませた。

 迫りくる「鬼畜」の敵軍。背後には投降を許さない日本軍。そうした異常な状態が集団自決をもたらしたのだ。

 沖縄戦の3カ月の犠牲者は20万人を超える。本土から来た兵士より住民の犠牲の方が多かった。日本軍の任務は本土決戦の時間をかせぐため、米軍をできるだけ長く沖縄に足止めすることだった。

 沖縄の人たちは「捨て石」にされ、根こそぎ動員されて日本軍と一緒に戦い、そこで集団自決が起きた。いまさら「日本軍は無関係」と言うのなら、それは沖縄をもう一度裏切ることになる。


06 24(日) 先祖累代の墓・仕事始め

天候が心配されていたが、俊成の休みの関係で墓作りのお祓いを今日おこなった。

これから自分ですることの一つは、先祖累代の墓をつくることである。  ほかにはもう自分で家をなおすつもりはない。  というよりもう余力はないと言ったほうがいい。

今年は父真広の十年祭である。  墓を作る最後の機会である。

午前九時、忠平隆三神官、小林石材店、俊成夫妻、私達夫妻が集まってお祓いをしてもらった。  魂は家の神棚に移っていることとなる。  そのつもりで十月始め頃まで神棚に合掌しなければならない。

朝から霧雨の感じの空模様で、きょうはお祓いだけ済ませた。

◆試みに、下平好上の一字一字を字通で調べてみた。

【声系】【語系】【熟語】の中には該当文字が旧漢字のためその他の理由から印字されていないものがあります。  おかしい時には「字通」で直接調べるようにすること。

【字音】【字訓】からは シモ ダイラ ヨシ ヒサ の一字たりとも字音、字訓に一致する読み方はない。  こんなことって珍しいのじゃないか。

「大菩薩峠」に机龍之介の願いとして、「上求菩提下化衆生」というのがあった。  下平好上→「普段は平和に暮らし、絶えず理想を求める」と自覚したらよさそうに思う。

06 25(月) 天下りの弊害はそのまま

朝日24日のトップ記事「天下り先 随意契約約7割」が報道された。  国民一人ひとりがこの記事を読んでいるだろうか?

asahi.comkの検索総合ガイド枠へ‘天下り先 6月24日’と書き込んでWEB検索を調べると、「独立行政法人の発注、天下り先への随意契約が7割」などいろいろ出ている。  そこで、この言葉をクリックすると、ちゃんと次の新聞記事が出てくる。


       独立行政法人の発注、天下り先への随意契約が7割  2007年6月24日(日)12:13

 政府にかわって行政サービスを行う独立行政法人95法人が、OBの再就職先の企業や公益法人に05年度に発注した計約3330億円分のうち、約7割にあたる約2330億円分が競争入札によらずに任意で結ぶ随意契約だったことがわかった。  一方でOBのいない企業に対する発注では、随意契約は2割以下だった。天下りを規制する国家公務員法改正案では大半の独法は対象外。「緑資源機構」の官製談合事件でも問題になった、独法による天下り先の「優遇ぶり」が浮き彫りになった。

 民主党の請求で衆院調査局がまとめた各独法の05年度支出をもとに朝日新聞社が集計した。  250万円未満の工事など少額契約や、データの不完全な法人、借入金返済が支出の大部分を占める法人は除いた。

>> 続きは asahi.comへ


このように出てきたので、更に「>> 続きは asahi.comへ」をクリックすれば全文が出ている。


       独立行政法人の発注、天下り先への随意契約が7割  2007年06月24日12時13分

 政府にかわって行政サービスを行う独立行政法人95法人が、OBの再就職先の企業や公益法人に05年度に発注した計約3330億円分のうち、約7割にあたる約2330億円分が競争入札によらずに任意で結ぶ随意契約だったことがわかった。一方でOBのいない企業に対する発注では、随意契約は2割以下だった。天下りを規制する国家公務員法改正案では大半の独法は対象外。「緑資源機構」の官製談合事件でも問題になった、独法による天下り先の「優遇ぶり」が浮き彫りになった。

 民主党の請求で衆院調査局がまとめた各独法の05年度支出をもとに朝日新聞社が集計した。250万円未満の工事など少額契約や、データの不完全な法人、借入金返済が支出の大部分を占める法人は除いた。

 その結果、95法人の05年度支出は約268万件で、約4兆7788億円分にのぼった。うちOBの再就職先への発注は6068件あった。

 天下り先への随意契約の総額が最も多かったのは「都市再生機構」で、21法人に約598億円分を発注。再就職者は財団法人「住宅管理協会」など主な5法人だけでも3月末現在、230人にのぼる。次に多かった「雇用・能力開発機構」は、99%に上る約336億円分が財団法人「雇用振興協会」への発注だった。

 また、関連ビルの管理を社団法人に2700万円で発注した「科学技術振興機構」など、一般的な業務を天下り法人と随意契約しているケースも少なくなかった。

 第三者性が求められる業務を身内に委託していた事例もある。ダムなどを建設・管理する「水資源機構」は、ダム施設の希少動物への影響調査を、役職員29人のうち11人がOBという財団法人「水資源協会」に随意契約で発注していた。

 一方、「科学技術振興機構」は、日本科学未来館(東京)の管理運営業務の今年度契約で複数業者による総合評価方式を採用。前回の随意契約での発注額より約1億円低くなったという。

 95法人には運営費交付金や補助金など、国庫から計約2兆6400億円が05年度に投じられている。総務省によると、府省の支出は会計法で原則的に競争入札によるよう定められているが、各独法は同様の規定を内規で定めているだけだ。

 各独法は、朝日新聞社の取材に対し、随意契約とした理由について「専門的な知識や経験が必要」などと説明した。

     ◇

 〈独立行政法人〉 行政の効率化を目指し01年度以降、各府省の政策実施部門や特殊法人が移行して設立。05年度には109法人の運営に国庫から約3兆円が投じられた。緑資源機構を巡っては、天下り先に公共事業を優先して割り振っていた官製談合が発覚、元理事らが逮捕・起訴された。


こんな記事を読めば、国民誰もが、自分達の税金が天下り官僚の私利私欲に使われている、とわかり怒り心頭となる。

でたらめではないか。 こんなことがいつまで許されるというのか。

ちなみに独立行政法人95法人を調べてみると、日本の独立行政法人一覧として掲載されている。

この天下りについてのデータはまだまだ調べていけばいろいろと出ている。 例えば「asahi.comkの検索総合ガイド枠‘天下り先 6月24日’WEB検索」の結果、WEBの検索数は実に207件が出てくる。 驚きではないか。 

24日の朝日34頁は更に詳細にわたって、関連記事が載っている。 その中に新藤教授の話がのっている。


  「生涯設計考え無理やり維持」  新藤宗幸・千葉大教授(行政学)の話

 自分達の生活設計のため、無理やり理由をつけて、天下り先の企業や公益法人を維持しているとしか言いようがない。 国会で審議中の国家公務員法の改正の政府案は、ごく一部を除いて独立行政法人や特殊法人からの天下りが規制対象外だが、この調査結果は、それでは意味がないことを示している。

 天下りを生む人事制度を根本から改め、各省庁ごとに裾野のように広がる組織維持の構造を断ち切る改革こそが必要だ。


政府の言う「天下りを規制する国家公務員法改正案」は、ザル法に過ぎない。  国民の目をごまかして政官の癒着は温存していくつもりである。  政治家の私利私欲にからんでいるからだ。

いつも黙っていても、大事なときには外に向け核心部分について発信しなければならない。

07 01(日) 精霊

先月の26日、一人のだいじな同級生が亡くなった。  葬儀に参加できなかったので、今日お家のほうへ出向いてご霊前に合掌してお別れしてきた。

般若心経で説かれているとおり、五蘊皆空であることは事実なのに人情として永遠の別れとなると寂しい。  それでも自分の中に彼の良さを留めておくことはできる。

それは、生前の善行を受け止めていく方法である。

わたしが一番感心していることは、弱い人に対する思いやりがあったことだ。  強きをくじき弱きを助ける、理解はしていても誰にでもできることではない。  ただ、誰にでもそれを感ずることができることなのである。

これは人として基本的にだいじな徳目だと思っている。

彼からだいじに受け止めておきたいことはそのことである。

精霊という言葉をPCのデジタル大辞泉で調べてみると、二つの読み方と意味がでていた。

   読み・漢字          意味
 しょう‐りょう【精霊/▽聖霊】 1 死者の霊魂。みたま。
 せい‐れい【精霊】  1 万物の根源をなすとされる不思議な気。精気。
 - 2 あらゆる生物・無生物に宿り、また、その宿り場所を変え、
   種々の働きをするとされる超自然的存在。
 - 3 死者のたましい。霊魂。

うらぼん【盂蘭盆】

 7月15日を中心に祖先の冥福(めいふく)を祈る仏事。江戸時代からは13日から16日にかけて
 行われ、ふつう、迎え火をたいて死者の霊を迎え、精霊棚(しょうりょうだな)を作って供物をそ
 なえ、僧による棚経(たなぎょう)をあげ、墓参りなどをし、送り火をたいて、霊を送る。現在は、
 地方により陰暦で行う所と、一月遅れの8月15日前後に行う所とがある。
 精霊会(ショウリョウエ)。盆。お盆。盂蘭盆会(ウラボンエ)。魂祭(タママツリ)。うらんぼん。《季 秋》

冥福を祈る。

07 04(水) 久間防衛大臣辞任

またまた、とんでもない発言!

辞任のけじめでは済まない、彼の認識そのものが政治家として不適! 映像を見ていても、自分から国民への謝罪は一言もない。

詳しいニュースを転載するよりも、やっぱり朝日の評価を含んだ社説を参考のために転載する。


   防衛相辞任―原爆投下から目をそらすな  朝日新聞社説 7月4日(水曜日)

 米国による広島、長崎への原爆投下について、「しょうがない」と講演で述べた久間章生防衛相が辞任を表明した。

 原爆投下を容認するかのような発言は、被爆者の痛みを踏みにじり、日本の「核廃絶」の姿勢を揺るがすものだった。辞任は当然である。

 当初、久間氏は発言を訂正しないと言い、安倍首相も問題視しない姿勢をとった。ところが、被爆地の怒りがやまず、世論調査でも内閣支持率の低下が止まらない。参院選が戦えないという与党内の批判で追い込まれたのが実情だろう。

 悲惨な被爆体験は戦後日本の原点にかかわるものだ。それなのに、政治の感度は鈍かったとしかいいようがない。

 久間氏は辞任するが、これで一件落着したわけではない。久間発言は無思慮ではあるが、そういう物言いを生み出す土壌があると思わざるをえないからだ。

 それは、米国の原爆投下に対し、日本の政府が厳しく批判せず、国民の動きも十分でなかったことだ。

 広島と長崎に原爆が投下された直後の45年8月10日、政府は国際法違反として米国に抗議した。終戦後の同年9月には、のちに首相になる鳩山一郎が戦争犯罪と批判した。この発言を掲載した朝日新聞は占領軍により発行停止になった。戦犯を裁いた東京裁判でも、日本側は原爆投下を違法と主張した。

 原爆投下を糾弾する動きはここで止まる。政府が黙ってしまったのは、平和条約で、米国などの連合国への請求権を放棄したことが大きいだろう。法的にものを言うすべを失ったということだ。

 だが、それだけではあるまい。日本は米国に無謀な戦争を仕掛けて、敗れた。しかも、敗色が濃厚になっても、戦争をやめなかった。そんな負い目が戦後の日本にあったからではないか。

 久間氏の発言は、こうした心理がうっかり漏れたということだろう。

 しかし、戦争ならばどんな手段でも許されるということではないはずだ。原爆は破壊力がけた外れに大きいだけでなく、生き延びても後遺症を残す兵器である。その非人道的な性格については、いくら批判してもしきれないほどだ。

 原爆投下が間違っていたと米国を説得するのは並大抵ではない。米国人の多くは原爆投下によって戦争終結が早まったと信じている。米政府は謝罪したことはないし、現職の大統領が広島や長崎を訪れたこともない。

 だが、戦後50年に米国で開かれた原爆をめぐる展示では大論争があった。米国にも原爆投下に批判的な声がある。

 マクナマラ元米国防長官は、自らが携わった原爆を含む日本への無差別爆撃について「勝ったから許されるのか。私も戦争犯罪を行ったんだ」と語った。

 原爆投下が誤りであり、原爆の被害が悲惨なことを、日本から粘り強く発信し、米国に伝えていく。そのことの大切さを久間発言で改めて痛感する。


社説には賛成です。

でも、「戦争ならばどんな手段でも許されるということではないはずだ」というのがちょっと気にかかります。

人を殺すこと、ものを破壊すること、それが国際間の戦争だというなら、無法状態を認めたのが戦争なのです。 

この地球上から人殺し…戦争をなくそうとするのなら、すべての戦争を拒否すべきでしょう。

ピストルならいい、小銃ならいい、そんな戦争否定はありません。 通常爆弾ならいいが、原爆は悪い、そんな戦争否定はありません。

‘人を殺してはならない’それが原点で、それがどんな論理にもバックボーンとして一貫していなくてはなりません。

‘たとえ一人の人でも、人を殺してはならない’それが原点であり、それがどんな論理にもバックボーンとして一貫していなくてはなりません。 

兵器産業を否定し、自衛隊を否定する…平和を希求する絶対条件です。 それが原点であり、それがバックボーンとして通っていなくてはならないのです。

究極の平和希求の中に‘人を殺してはならない’という根本概念を堅持して、時事問題に対応したいものですね。

そういう意味あいで、朝日の論説についての考え方を改めてほしいのです。 わたしはそんな風に感じました。

●朝日のほか、毎日、読売、日経各紙の社説や論説を参考にするとよい。

中でも東京新聞では‘無知の露呈’と評している。 他の各紙と違い辞める前日の社説である。


   原爆容認は無知の露呈 防衛相発言  東京新聞社説 2007年7月2日

 どのような意図であれ核兵器使用は許されない、というのが被爆国日本の立場のはずだ。「国際法違反」との司法判断もある。原爆投下を「しょうがない」という政治家に自衛隊はゆだねられない。

 広島、長崎に平和の祈りが満ちる盛夏を前にして、原爆の犠牲者を追悼し、核兵器廃絶を願う人々の心を踏みにじる発言が飛び出した。

 久間章生防衛相が講演で、先の大戦における米国の原爆投下を「しょうがない」と語ったのである。

 防衛相は、勝利が確定的なのに米国があえて原爆を使ったことへの疑念や、被爆者への同情を示しながらも、当時の国際情勢からみて「しょうがないなと思っている」「選択肢としてはあり得るのかな、ということも頭に入れながら考えなければいけない」と話した。

 投下した米側の論理そのものであり、被爆者や広島、長崎の市民などから悲しみ、憤る声が上がったのは当然である。二つの原爆では二十数万人の命が奪われ、いまなお二十万人以上が苦しんでいる。久間氏はそれらの人の墓前、面前でも「しょうがない」と言えるのだろうか。

 核兵器の残虐さを身をもって知る日本人には、核廃絶を求める国際世論の先頭に立つ責務がある。幅広い市民が被爆者とともに「どんな理由があっても核兵器は許されない」との思いで努力してきた。

 被爆国閣僚の今度のような発言はこうした核廃絶運動の足を引っ張りかねない。ただでさえ米国追随が指摘される中での原爆投下容認は、国際社会で「なにもそこまで」と冷笑されるのではないか。

 そもそも「しょうがない」「選択肢としてはあり得る」という認識自体が無知をさらけ出している。国際司法裁判所は一九九六年、「核兵器による威嚇とその使用は一般的に国際法に違反する」という勧告的意見をまとめている。

 その際、日本政府は「核兵器使用は人道主義に反する」とはっきり述べた。こんな基本的事実も久間氏は知らないようだ。

 事実上の国会閉幕で気が緩んだためという見方もできるが、軍事を司(つかさど)る人物だけに見過ごせない。防衛相が原爆を受け入れる考えでは、日本の国是である非核三原則も国際的に信用されまい。

 久間氏をかばって、問題を直視しない安倍晋三首相の政治感覚は国民のそれから遊離している。内閣としてけじめをつけるべきであり、最低限、本人のきちんとした陳謝、大臣辞任が求められる。一日に行われた記者会見は単なる言い逃れだ。


「あきれた! 謝って済むことではない」 「辞めたって何にも変わりない! そもそも認識がおかしい」 巷の評は厳しい。 国民一人ひとりの評価のほうが正しいようだ。


【折々の記 2007 @へ】