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折々の記 2007 A

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】04/29〜        【 02 】05/05〜
【 03 】05/21〜        【 04 】06/04〜
【 05 】06/08〜        【 06 】06/23〜
【 07 】07/12〜        【 08 】07/17〜


【 05 】06/04〜

  06 08 かわいい子には旅をさせよ
  06 10 土浦空爆の日…62年前
  06 17 <旅行記>第一回お遍路報告 父の日・累代の墓石建立
  06 21 <旅行記>源氏物語絵巻・特別企画展

06 08(金) かわいい子には旅をさせよ

最近軽トラに乗ってあちらこちら旅に出た。 歳はとっているのだが、どこかへ出かけることを考えはじめると、わくわくして楽しい気分でルンルンになる。 若者が読めば噴飯ものかもしれない。

脳みそと体を使うことは長寿の秘訣だろう。 もともと mind-brain-body (心脳体)は存在そのものだから、健康のためにはその新陳代謝をはかっていくことは当然のことです。

大脳を築くには記憶を確実にそして多くすることが必要であり、そのために具体物を目で見て触って確かめることが第一の基本でしょう。

その意味から旅から受ける刺激は異質なものであり、莫大なものであり、初体験ばかりなものである。 人の成長には欠くことのできない要素がある………それが旅の効用だ。

 「百聞は一見に如かず」といい「隗より始めよ」という。

 親からは「なすべきことは自らなせ」と教えられた。

 長ずるに及んで「善悪、正邪、玉石混交の中に身をおいて、自分に必要と思うものを採って
 自分の世界を創る」ということがわかった。

 泥水をくぐりて清し蓮の花


旅は、じぶんを創っていくうえで大事な環境です。

「奥の細道」ではその序文にこんなふうに記している。

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 月日は百代(ハクタイ)の過客(カカク)にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜(カイヒン)にさすらへ、去年の秋江上(コウショウ)の破屋(ハオク)に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風(サンプウ)が別墅(ベッショ)に移るに、

      草の戸も住替る代ぞひなの家
     (くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ)

面八句(オモテハチク)を庵(イオリ)の柱に懸置(カケオク)。

…………………………「奥の細道」序文…………………………



松尾芭蕉の旅 おくのほそ道
[ 序 文 ]

   原   文   解   説
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。 月日というのは、永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。船頭として船の上に生涯を浮かべ、馬子として馬の轡(くつわ)を引いて老いを迎える者は、毎日旅をして旅を住処(すみか)としているようなものである。
古人も多く旅に死せるあり。古人の中には、旅の途中で命を無くした人が多くいる。
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへわたしもいくつになったころからか、ちぎれ雲が風に身をまかせ漂っているのを見ると、漂泊の思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、
去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、去年の秋は、隅田川のほとりのあばら屋に帰ってクモの古巣を払い、しばらく落ち着いていたが、
やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、しだいに年も暮れて、春になり、霞がかる空をながめながら、ふと白河の関を越えてみようかなどと思うと、
そゞろ神の物につきて心をくるはせ道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。さっそく「そぞろ神」がのりうつって心を乱し、おまけに道祖神の手招きにあっては、取るものも手につかない有様である。
もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりてそうしたわけで、ももひきの破れをつくろい、笠の緒を付けかえ、三里のつぼに灸をすえて旅支度をはじめると、さっそくながら、松島の名月がまず気にかかって、
住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに住まいの方は人に譲り、旅立つまで杉風の別宅に移ることにして、その折に、
草の戸も住替る代ぞひなの家人の世の移ろいにならい、草葺きのこの家も、新たな住人を迎えることになる。これまで縁のないことではあったが、節句の頃には、にぎやかに雛をかざる光景がこの家にも見られるのであろう。
面八句を庵の柱に懸置。と発句を詠んで、面八句を庵の柱にかけておいた。

[ 出立前の動向 ]

「おくのほそ道」の旅を控えた元禄二年(1689)の二月末、友人や門人、近隣の人々の寄付金で築かれた第二次芭蕉庵を手放し、旅立ちまでの一ヶ月ほどを仙台堀のほとりにあった杉山杉風の別墅採荼庵で過ごした。

以下は、芭蕉の出立前の心境を綴る句文。本文中の発句と中七が異なる。

はるけき旅の空思ひやるにも、いさゝかも心にさはらんものむつかしければ、日比住ける庵を相知れる人に譲りて出でぬ。この人なむ、妻を具し、娘・孫など持てる人なりければ、

  草の戸も住かはる世や雛の家  (「世中百韻」)

以下は、出立前の芭蕉の動向を伝える杉風の句文。

翁、陸奥の歌枕見んことを思ひ立侍りて、日頃住ける芭蕉庵を破り捨て、しばらく我荼庵(採荼庵)に移り侍る程、猶其筋餘寒ありて白川の便に告げこす人もありければ、多病心もとなしと弥生末つ方まで引とゞめて

  花の影我草の戸や旅はじめ 杉風 (「杉風秘記」)

[ 語 釈 ]

百代の過客
「百代(はくたい)」は、「何代にもわたる」意から、永遠。
「過客(かかく、かきゃく)」は、通り過ぎてゆく人、旅人。
李白の詩「春夜宴桃李園序」(「古文真宝後集」)に「夫天地者万物之逆旅也、光陰者百代之過客也、而浮生若夢」の一節がある。春夜ニ桃李園ニ宴スルノ序。夫天地ハ万物ノ逆旅ナリ、光陰ハ百代ノ過客ナリ、而シテ浮世ハ夢ノゴトシ。

古人
芭蕉が敬慕し、旅先で客死した古の文人。西行、宗祇、李白、杜甫など。
平安末期〜鎌倉初期の歌僧西行は、建久元年(1190)に河内国(大阪府)の弘川寺にて。
室町末期の連歌師宗祇は、文亀二年(1502)に相模国(神奈川県)箱根湯本の旅宿にて。
中国唐代の李白は、宝応元年(762)に安徽省の当塗にて。
中国唐代の杜甫は、大暦五年(770)に洞庭湖の近く岳陽にて。

片雲の風にさそはれて
「片雲」は、一片の雲、ちぎれ雲。
「風にさそはれて」は、「(片雲が)風に(身をまかせ漂っている空の光景に)さそはれて」のように、「さそう」主体を直接「風」ととらないで解釈。

海浜にさすらへ
貞享四年(1687)十月に、深川の芭蕉庵を出立し、鳴海、豊橋、渥美半島、伊良湖崎、熱田神宮、伊賀上野(越年)、伊勢、吉野、高野山、和歌浦、奈良、大阪、須磨、明石を旅したことを指す(「笈の小文」の旅)。

去年の秋
芭蕉は「笈の小文」の旅の後、貞享五年(1688)八月に、仲秋の名月を見るため、蕉門越人(えつじん)とともに岐阜から信濃国の更科へ旅した(更科紀行)。「去年の秋」は、この旅がなされた年の秋季を指す。この年の九月三十日、「元禄」に改元。

やゝ年も暮
しだいに年も暮れて。「やや(稍)」は、漸く、次第に、の意。

白川の関
白河の関[資料]。蝦夷南下の防御や通行人・交易物品の検問などを目的に、現在の福島県白河市大字旗宿に置かれた関で、古代の奥羽三関の一。他は、勿来関(菊田関)と念珠関。

そゞろ神の物につきて心をくるはせ
「そゞろ(漫ろ)神」は、人の心を誘惑する神。「物につきて」は、「そゞろ神」が自分に取り付いて(のりうつって)の意。「心をくるはせ」は、心を混乱させて。

道祖神
道の神、塞(さえ)の神。道路や通行する人を守る神。

松島の月先心にかゝりて
「松島」は、松島湾や塩釜湾を中心に、「八百八島」、実際には二百六十余りの島々が、奇景を織り成す一大観光の地。日本三景の一。古くは、僧宗久著「都のつと」(南北朝時代)や大淀三千風(資料)編「松島眺望集」(天和二年)などにより広く知られた。
「心にか(懸)かる」は、「あることが意識から離れない、気に掛かる」の意。以下は、松島に心を馳せる芭蕉の真筆書簡からの抜粋。
拙者三月節句過早々、松島の朧月見にとおもひ立候。
(元禄二年二月十五日付の桐葉宛書簡)
彌生に至り、待侘候塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみふくころより北の国にめぐり、秋の初、冬までにはみのおはりへ出候。
(元禄二年三月頃の猿雖宛書簡)
又々たびごこちそぞろになりて、松島一見のおもひやまず、此廿六日江上(こうしょう)を立ち出で候。
(元禄二年三月二十三日付の安川落梧宛書簡)。

住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに
芭蕉は、元禄二年(1689)の二月末、第二次芭蕉庵を手放し、旅立ちまでの一ヶ月ほどを仙台堀のほとりにあった杉山杉風[資料]の別墅採荼庵で仮住まいをした。

面(おもて)八句
百韻(または五十韻)の初表の八句。表八句とも。
連句は、折った懐紙の表と裏に書き付け、百韻連句の場合は、懐紙四枚の内の第一紙を初折(しょおり)、第二紙・第三紙を二の折・三の折、第四紙を名残(の折)といい、初折の表(初表)に八句(これを面八句または表八句という)・裏に十四句、名残の表に十四句・裏に八句、第二紙・第三紙の表と裏にそれぞれ十四句を書く。五十韻の場合は、懐紙二枚を用い、初折の表にのみ八句(面八句、表八句)、他の表・裏に十四句ずつを書く。歌仙は、二枚の懐紙に、初折の表に六句・裏に十二句、名残の表に十二句・裏に六句を書く。

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まあ、ざっとこんなふうな解説もある。

「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」…旅に惹かれる気持ちそのままです。

06 10(月) 土浦空爆の日…62年前

62年前のきょう、木造建築の予科練の兵舎はなんのくもなく、一回の爆撃で完全に破壊され消滅した。

つらつら思うに、戦争とは生命や建造物の無差別の破壊を認める闘争である。


  平和のときに人一人殺せば殺人罪で起訴され裁判所でその罪を裁かれなければならないというのに……………。

  戦争であれば人を何人殺しても殺人罪にならない。 国家間で認めた無法地帯がそこに生まれるからだ……………。



06 10 の土浦空爆記録を調べてみても軍事機密ということだったのか、爆撃の事実も死者の報道もなにも見当たらない。 霞空のある段丘に大きい穴をいくつか掘って、亡くなった人たちを何日かにわたって荼毘に付したというのに……………。

今再び日本は軍備を着々とすすめ、戦争を認めようとしている。 相手が戦争の準備をしているからという理由からである。 戦争による教訓は相手への疑いによって生まれてきたことを承知はしていても「相手が戦争の準備をしているからという理由」を受け入れて戦争の準備をしていることに無頓着でいる。

全世界とも「不戦条約」に諸手をあげて賛成しながら、それを徹底した国はない。 ユネスコの無知と偏見について、それを乗り越えていくことが平和を築いていく基盤だという腹構えがない。 自分自身の無知蒙昧に気づかないでいる。 世界はみずからの終焉に向かって休むことなく突き進んでいると言わざるを得ない。

阿見町のホームページ、予科練記念館「雄翔館」には次のような説明が載っている。


「若い血潮の予科練の〜」と、若鷲の歌で知られている土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊武器学校)。終戦を迎える昭和20年まで、日本海軍少年航空兵養成の中核的施設でした。予科練卒業生は、全国で約24,000人で、18,564人が、太平洋戦争で戦死しました。

  昭和41年、予科練の碑「予科練二人象」が、昭和43年には予科練記念館「雄翔館」が予科練出身者により建てられました。記念館には、約1,700点の遺品がおさめられており、日本の昭和史を伝える貴重な記念館です。年間7万人余りが全国から訪れます。


<今日は何の日>を見ると「1945年 米軍機362機が関東全域の工場地帯を攻撃」と出ている。

06 17(日) 第一回お遍路報告と父の日・累代の墓石建立

まえから「お遍路」の調べをしていたので、農作業の暇を考えて13日から出かけた。

三時前に家を出発して四国の第一番札所の霊山寺(リョウゼンジ)へ着いたのが八時半頃だった。

 13日 一番札所の霊山寺(リョウゼンジ)から十二番札所の焼石寺(ショウザンジ)まで
 14日 十三番札所の大日寺(ダイニチジ)から第二十三番札所の薬王寺(ヤクオウジ)まで
 15日 二十四番札所の最御崎寺(ホツミサキジ)から三十二番札所の禅師峰寺(ゼンジブジ)まで

天気図では曇となっていたが、予想とはちがって14,15日は梅雨に入って霧雨模様の天気となった。 歩き遍路の人たちには心から頭が下がります。大変な覚悟と決意がなければできるものではないのです。 丸岡君の心根の一端に触れることができる。

歩き遍路には、同行(ドウキョウ)二人という遍路の導師の励ましの言葉を頂いてはおりますが、大変な行(ギョウ)なのです。

最初は指示書に従って参詣をすすめていますが、自分にとって参詣は何を意味するのかそういうことを考えざるを得なくなります。 何を考えるのでしょうか。人によって違いはあるでしょう。

自分を今日にあらしめている両親はじめ先祖の人たちの心根とそれへの恩義を思うのが一つ。 般若心経をみているとその中核の主張は序文の「五蘊=空」だということははっきりしている。 舎利子以降は「五蘊=空」の解説だということもはっきりしている。

  照見五蘊皆空  度一切苦厄   <悟りの奥義

  舎利子ょ

  色不異空 空不異色  色即是空  空即是色  受想行識亦復如是


とは言いながら、自分が受けた人(両親、家族、先祖、その他の人たち)からの影響を考えないわけにはいかない。

いま一つは、自分の言行が人(両親、家族、子孫、その他の人たち)に与える影響も考えないわけにはいかない。

この二つのことが頭の中に渦を巻き、いろいろの仏様に手を合わせ、来し方の反省とともに行く末の願いを口ごもるのです。 反省とか願いというのは、自分への約束にほかなりません。

仏像に対する考え方について、今は亡き本島さんの話を思い出さずにはいられません。 彼は言うのです。 立派な仏像だから合掌するというのはおかしい、仏の考えや教えを有難く受容するから、仏像に性根をこめて作った人の心根に対しその人の心情に同化して合掌するのが本来の在り方だ、と言うのです。 それ以来、本島さんの言葉が頭の隅から折々にささやくのです。

お遍路のたびというのは、いろいろな仏さまに合掌しながら、反省と希望を繰り返し繰り返し煮詰めていくことにほかなりません。わたしはそんなふうに思い始めました。



  第一番札所 霊山寺(リョウゼンジ)

この寺は東大寺建立で知られる聖武天皇の勅願時として、その在位していた天平年間(729〜748)に行基菩薩が開基されました。 そののち815年、弘法大師はこの寺で21日間の修法をおこない、四国に八十八ヶ所の霊場を開くことを祈願し、釈迦如来を刻んで本尊としこの寺を竺和山霊山寺と名づけたといいます。

行基菩薩という人は検索から下記のような頁へジャンプして、一応の知識をもっていたい。

http://urano.org/kankou/topics/gyoki/index.html <行基菩薩>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA <行基 - Wikipedia>

http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/kikouji-temple03.htm  <「喜光寺その3 行基菩薩さんの終焉の地>

写真は参道左側に見える「五智如来」(五大如来ともいい、密教で5つの智恵‘法界体性、大円鏡、平等性、妙観察、成所作’を5体の如来にあてはめたもの。金剛界五仏《大日如来(中心)、阿?如来(東方)、宝生如来(南方)、阿弥陀如来(西方)、不空成就如来(北方)》を祀った多宝塔です。



     第十二番札所 焼山寺(ショウザンジ)

やァ〜……。 たかァ〜い……。 車だからいいようなものだが、登っても登っても道が続いていた。 歩き遍路には大変な札所だ。 納経所でお聞きしてみると700m余だという。 一番高いのは讃岐にある雲辺寺910mだという。 今回のお遍路では 700mの12番焼山寺、430mの20番神峰寺、460mの21番太龍寺、500mの27番鶴林寺、寺には山号がついているが、さすが厳しい山の寺でした。

高さを表すために入山してきた神山町集落をカメラに収めてみた。曇っていたのと高い山のせいで、境内は霧が立ちこめ幽玄の世界に入った感じがした。前掲の四つのお寺ともその感じだった。 山はどちらかといえば急にそそり立った感じで、独特の褶曲岩が多かった。 この神山集落には神山温泉が湧出しており、温泉につかって初日の汗を流すことができた。



第二十七番札所 神峰寺(コウノミネジ)

格好のいいお不動様でした。 右折左折の急な登り坂で驚く。 この寺は、焼山寺、鶴林寺、太龍寺、と同様霧の中で、朱色の不動明王が強く心象にのこっています。

TVドラマの風林火山には折々にお不動さまの尊像が出てくる。

フリー百科事典『ウィキペディア』でみると、不動明王(ふどうみょうおう)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一つであり、密教の根本尊である大日如来の化身、或いはその内証(内心の決意)を表現したものであるという。 アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ており、造像例も多いという。

また、http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/hudou.htm<不動明王 なかなか役に立つページですを開くと、

「不動明王は悪魔を降伏するために恐ろしい姿をされ、すべての障害を打ち砕き、おとなしく仏道に従わないものを無理矢理にでも導き救済するという役目を持っておられ真言宗の教主「大日如来」の使者です。お姿は、目を怒らせ、右手に宝剣を持ち左手に縄を持つ大変恐ろしい姿をしておられますが、そのお心は人々を救済しようとする厳しくもやさしい慈悲に満ちております。」

という説明も載っております。

※ お遍路についてはそれぞれの札所の順番に従って記録を残しておく予定でおります。 今日のところ画像三枚を取り上げて、それにかかわることを少し残すことにしました。

参考にしたデータは次のようなものです。 ようこそ 四国霊場へ club88 http://www.nbn.ne.jp/~club88/index.htm 車で四国遍路 http://homepage3.nifty.com/63/88index.html
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今日は父の日である。 歳をとってきたからということで、二人で夕食を食べに行こうと妻に誘われた。 なるほど、だんだんと晩秋を思わせるような歳になってきているから、そうした誘いには乗ってやることがいいと思った。

父の日のせいなのか日曜のせいなのか、いつも利用する「さすがや」の駐車場は満杯である。 お好み焼きの「喜一」へ行こうと言って駐車場へ入ってみると、車が一台もない。 もしかしてと思って様子をみると、どうやら閉店になってしまった様子である。

そこで、すぐ隣の中国料理の「The 煌's」(ザファンズ)に入った。 ボーイに上海料理と餃子を注文し、先にお湯割の焼酎を飲むことにした。 従業員の人たちは明るくて親切であり、落ち着いて料理を味わうことができた。 次にきたら四川料理を食べてみたい。 

先日は、真介からもらった商品券があるからお遍路の準備に使ったらといわれ、カバン、ズボン、などを買ってきた。 このときには、いい父の日ができたと妻がそっと言った。 大きくなっても親には気を使ってくれる。 なんとか、子孝行らしい暮らしをすすめて行きたいものと思うけれども、みやましいことはできない。

ともあれ、二人で父の日を祝うことができた。

初代別家父眞廣の十年祭について、俊成と共に小林石材を交えて「下平家の墓」という先祖代々の墓をつくる話をまとめた。 十年祭は柿剥きの前でないと困るので十月の中旬という予定にした。

石塔の移動は今度の日曜日の二十四日午前九時、墓地を現場として忠平神主、小林石材、及び関係者でお祓いを受けることにした。

06 21(木) 源氏物語絵巻・特別企画展

恥ずかしながら源氏物語を読んだことがない。ところが、テレビで

  特別企画展        よみがえる源氏物語絵巻
                  〜平成復元絵巻のすべて〜 長野展
               会期 : 2007年6月7日(木)〜2007年7月22日(日)

という紹介がありました。 けばけばしい色彩であったが復元模写についての詳しい解説を聞いているうちに、これは見ておきたいなと思うようになりました。 そこで、早速データの収集をはじめました。

 サンリツ服部美術館 展覧会の御案内<http://shinshu-online.ne.jp/museum/sanritsu/sanritu4.htm>

 セイコー - Wikipedia<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%BC>

 源氏物語絵巻・復元模写<http://www.hcn.zaq.ne.jp/internet-gallery/frame6-mokuji.htm>

データから鈴虫をコピーし、参考のために上げてみます。

 

   この映像は上の「源氏物語絵巻・復元模写」からコピーしたものです。

   鈴虫 (一) (Suzumushi-1)
   出家した女三宮の御殿の庭に、源氏が鈴虫(今の松虫)を放された。十五夜の夕暮れ、源氏が訪れる。

 

   この映像は下の「日本美術史ノート 平安院政期の絵画 絵巻物、男絵と女絵」からコピーしたものです。

   第38帖鈴虫第一段 21.8×47.4cm 五島美術館
   柏木との不義に悩み出家した女三宮が、前庭を眺め、夫の光源氏が放った鈴虫の音を聴いている。
   現存図中、絵の具の剥落が最も激しい画面。
   下描きの墨線や文字「たゝみ」「にわ」「すすむし」等が見える。

 日本美術史ノート 平安院政期の絵画 絵巻物、男絵と女絵<http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/nihon11.html>
   (この中の源氏物語絵巻)

 源氏物語 - Wikipedia<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E>

  @<源氏物語五十四帖>
  A<源氏物語各帖のあらすじ>
  B<源氏物語の登場人物>
  C<Category:源氏物語の登場人物>
  D<紫式部>

「源氏物語 - Wikipedia」には、このほかいろいろの項目へジャンプできるようになっているので好都合である。

 源氏物語 総合索引<http://www3.ocn.ne.jp/~mh23/gennziinndex.htm>
殊にこのサイトの総合索引は54帖のそれぞれの帖を理解するのに好都合である。

それで、きょうは天気予報では小雨のようだったので、諏訪へ行くことにした。 例のとおりおむすびを握りおかずを少々もって出かけた。 きょうは松川町から天竜橋を渡って中川村へ出て川東のルートを取り、火山峠を経て高遠、杖突峠を経て諏訪湖湖畔へ出た。 時間では二時間足らずで到着できた。 諏訪へ出るのには最短時間である。 北沢美術館の隣が「サンリツ服部美術館」で、すぐ見つかった。 復元絵巻の一つ一つに主な人物の解説がついており、




      

 


http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=53821<プリキュア5、スマイル go go!>
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