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折々の記 2007 A

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】04/29〜        【 02 】05/05〜
【 03 】05/21〜        【 04 】06/04〜
【 05 】06/08〜        【 06 】06/23〜
【 07 】07/12〜        【 08 】07/17〜


【 03 】05/21〜

  05 21 次男夫妻、結婚記念日(陶婚式)
  05 22 <旅行記>舟山城跡・駒場城跡・久米ヶ城跡・富草の古城・
              吉岡城跡【 05 09 訪問 】

  05 28 <旅行記>足神神社、青崩峠
  06 02 <旅行記>飛騨の濁河温泉

05 21(月) 次男夫妻、結婚記念日(陶婚式)

昨日は結婚20周年というので、食事に招待してくれた。 時の流れは速いものです。

世代交番はどのように行なわれてきたのだろうか、答はなかなか見つからない。 人の性(サガ)というものは仏教語としての宿業(シュクゴウ = 生命の始まりから丸四年までの環境如何)として決まってくるものとおもうから、神業のインプットとしか言いようがない。

かくして性は伝承されていく。

いろいろと親からのそうした性の伝承を受けながら、新しい生命は自らを育て上げてきたものといえよう。 かくして親の側からは、大変な責任をしょわされてきていた。

20年間ご苦労様でした。 そしていろいろの努力を有難うさま。 感謝しています。

孫たちはすくすく成長してきました。まだまだ成長過程のさなかにいます。

話は変わりますが、仏様の印相(インゾウ)に【施無畏与願印=セムイヨガンイン】というのがあります。

<施無畏>とは、何物にもおそれない力を与えて安心させることで、最高の布施。 また<与願>とは、望むものを何でも与えるという意味。 二つの印相を組みあわすことで、すべてを受け入れ、そして、すべてを与えるという教えです。

釈迦如来像の印相(インゾウ)の一つであるが、多くの仏像に使われています。

この施無畏与願というのは、ピアスの言う母胎マトリックスと同一のものであります。


     ▼matrix (マトリックス)

  マトリックス(母胎、子宮)とは、子どもが絆を結ぶ対象である。
  マトリックスの特性
    @あらゆる可能性の源泉を与える。
    Aその可能性を探索するエネルギーの源泉を与える。
    Bその探索を可能にする安全な場所を提供する。
  子どもの知能は、マトリックスが提供した安全な場所に立ち、
  マトリックスから与えられたエネルギーを活用し、
  マトリックスから与えられた可能性を探索することによって発達する。

 「うばふところ」と同じ。植物や野菜の種子と同じく生命躍動がてきるところをいう。  ……好上……


この施無畏与願も母胎マトリックスも、生命が成長する基本条件になっていると私は思っています。

   

如来様はじめ多くの仏像は、右手の肘を曲げ上にあげて掌を相手に示し、左手は下げて掌を相手に示しています。 こうした【施無畏与願印】の仏像に接したならば、広大深甚の親心に気づいて精進したいものなのです。

歳をとったせいか、世代交番についていろいろと思いめぐらせるようになるのです。 自分の来し方をかえりみるとき、一番世話になったのは親であり、一番お礼しなければならないのは親である、という壁にぶちあたります。

孝行という意味は、歳をとってからじゅんにわかるもので、人の大事な美徳の一つだとおもいます。

  孝行をしたいじぶんに親はなし      

  さればとて石に布団も着せられず     川柳

  親おもう心にまさる親心 きょうのおとずれなんと聞くらん

松陰の辞世に接するとき、年若いのに思考の深さに驚きを感じます。

仏様の印相を調べていて参考になるサイトがあったので、ここへ挙げておきます。


   http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/inn.htm<仏の印相について>

   http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/butsuinn.htm<諸仏の印>

   http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/shingon.htm<仏尊の種字と真言>

   http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/bukkyou.htm<仏教の勉強室>
   <題名の通り、たくさんの索引があってとても役に立つ>


05 22(火) 舟山城跡・駒場城跡・久米ヶ城跡・富草の古城・吉岡城跡【 05 09 訪問 】 写真92枚

○舟山城跡

   舟山城という名前は聞いたことがなかった。 鶴部の交差点から上片桐駅のほうへ上がっていって右折し、瑞応寺と御射山神社を通りすぎて河岸段丘突端にあった。

途中の瑞応寺は山門が立派な寺で、ここの城主の檀那寺であったという。 御射山神社には御柱が立っており、一目で諏訪社の分祀であることがわかる。 鳥居入り口左側にある桜は年をへた古木、一木一草、人々の営みがしのばれる。

ここから東は城域になるようだが、なかなか広い面積である。 本丸方向へ車を進めたが、駐車場所はない。 行き止まりまで行って車を止め(ここまでが本郭で)、空堀の先のこんもりした森の部分から出丸になっている。 この出丸部分からは獣道のような状態でしばらく進むと、先端部のやや広い平地になる。 ここには舟山稲荷の祠があり、舟山城初期の主郭だったのではないかと言われている。


        船山城跡  長野県史跡 昭和五十五年九月八日指定

この城跡は、平安時代末から室町時代末に至る四百有余年にわたり、伊那地方に栄えた信濃の名族、片切氏によって築城されたものであり、天正十年(1582)に織田氏の侵攻によって落城したといわれるまでの同氏の本拠地になっていたところである。

城跡は、下伊那郡松川町城の集落とその東方に延びた河岸段丘の先端の地形を利用して構築されている。 南は南沢の渓谷、北は天神平の急斜面で上伊那郡中川村南田島に面し、天竜川及び天竜川東の丘陵地帯を展望できる要害の地に位置している。 また西方より東方に細長く突出した形状が、船を山上に置いたごとくに見えることから、船山城の呼称が起きたものであろう。

城跡の規模は、出丸と呼ぶ船山一帯の郭地域(中世前期)、及び城畑一帯の本城地域(中世後期)の二地域で、城には大規模な二つの郭が、出丸には大小四つの郭が設けられている。

城内の北隅には守護神の御射山神社を祀り、城外に接して瑞応寺(元は宝珠院)があり、一帯は古城館跡の遺構をよく残しておりこの地方の代表的な中世城館跡である。

長野県教育委員会


○駒場城跡

ここは駒場を通るときに阿智川の対岸急峻な小高い山の上に、「信」「玄」「の」「ろ」「し」「台」というでかい看板があるところだ。

阿智川を渡って右側に気をつけていくと「阿智公園入口」が見つかった。 その道を行くと狭くて急な道になり、軽トラでよかったと思う。上がってみると乗用車が一台止まっていた。 途中一箇所だけすれ違うだけの道幅があるが、ほかではすれ違うことさえできないという大変な道だ。

阿智村では観光の目玉になるものとしてここを公園として整備していたが、大変な場所でした。 築城の時期や城主などの詳細はわからないが、駒場は松尾小笠原氏の支配下にあったという。 武田信玄の下伊那侵攻により、駒場城も改修されたと思われ、狼煙台の伝承もあるという。

○久米ヶ城跡

久米ヶ城は松尾城主小笠原貞宗の弟、貞長が初代城主で、貞和年間(1345〜1350)に築城された。 南北朝、室町、戦国時代と約200年続きましたが、小笠原一族の争いにより松尾城と共に落城したと言われています。

車は頂上近くに駐車場があって、そこへ止めることができる。 規模はさほどではない。

幕末の国学者、松尾多勢子の歌碑が建てられていた。

○富草の古城

下条から阿南町富草へ入ってすぐ、国道右側に古城入口の案内板がある。 ここは小さいけれども急峻な崖に取り巻かれた、古風で孤立した城というイメージを受けていた城跡だ。

今回は東へなだらかに下がっていく谷合まで降りてみた。 家は3〜4軒しかなく、東側からもこの城へ攻め上ることは至難のことと思われる。 孤立無援、難攻不落の古城である。


        雲雀沢の古城  (八幡神社 摂社諏訪神社) 国指定・重要文化財

今から六○○年ほど前、武田氏の一門、下条伊豆守源頼氏が甲斐国下条郷(現在の韮崎市の西南)から大沢の地に入り、ここに城を築いたとき鎮守として現時の氏神である八幡社を勧請した。

文明七年(1475)六代康氏のとき、ここが狭く諸事に不便となり城を北方の吉岡に移した後、ここを古城と称し、重臣・佐々木帯刀(タケワキ)が守った。

七代家氏がこの地を拡張して八幡神社〔祭神・誉田別命=第十五代応神天皇〕本殿〔一間社流造(イッケンシャナガレヅクリ)、こけら葺(フキ)〕と信州の地主神として諏訪明神〔祭神・建御名方神〕を勧請し、摂社諏訪神社本殿〔一間社流造(イッケンシャナガレヅクリ)、こけら葺(フキ)〕を整えた。

これらの造営には京都から大工の吉村惣右衛門らを招いてあたらせたといわれ、下条氏滅亡後も人々の尊崇により今日にいたり、昭和五年(1930)五月二十三日、国の重要文化財に指定された。

平成三年(1991)から平成五年にかけて解体修理(総事業費7164万円)が行なわれた。その折、永禄十二年(1569)、寛永元年(1624)、正徳二年(1712)、元文三年(1738)の棟札が確認され、これらの時期にも修理があったことが推定できる。

平成八年(1996)三月吉日 阿南町教育委員会


下條から富草にかけて佐々木姓が非常に多い。 無縁ではなかろう。 亡くなった佐々木賢明もこの雲雀沢の出身だ。

   

富草の古城、頂上の八幡神社と周囲の赤松。 この神殿は二つの祠に分かれており、右の拝殿前面上部に「國寳」と書かれた木札が貼り付けてある。

  松風さわぐ 丘の上

  古城よ独り 何偲ぶ

五感に伝わるものが過去を語るとすれば何を語るであろうか。

参道の落葉や松風は私に何を伝えるであろうか。

いつでも訪ねたい“孤高の城跡”の一つである。

○吉岡城跡

ここは下条村陽阜にある。富草の古城の説明板にも、吉岡城跡の説明板にもあるように下条氏六代の康氏が、富草の古城から居城を現在地の吉岡へ移したという。

        吉岡城と下条氏

吉岡城は文明七年(1475)室町時代中期、下条氏第六代康氏によって築城され、以降七代百十二年間、本拠地とした城である。

城郭は下條氏の勢力拡大に伴って拡張し完成された。形状は連郭式平山城で、東西約七○○メートル、南北約三○〜二○○メートルに及び、中世後期の城としては規模も大きく、その特徴を有している。 城跡は部分的には埋没し崩されているが、当時の輪郭を十分伝えている。 遺構は空堀による四つの郭と城下町・馬場・弓場等からなり、枡形 上町 屋敷町 大手 大手裏 竪町 横町 等の地名と、井戸 四脚門 が残っている。

下條氏は甲斐源氏小笠原氏の庶流である。

初代頼氏 室町時代初期、小笠原氏の麾下として大沢(古城)に来たり、この地方を支配したが、五代にしてその系は絶えた。

六代康氏 松本小笠原政康の子 文明二年(1470)下条家を継ぐ。 居城を大沢から吉岡に移し根拠地とした。 下条氏中興の祖である。 文亀三年(1503)没。

七代家氏 信濃守護小笠原氏の代官として治世を安定させ、中央の文化を招来し、重要文化財大山田神社社殿等、今日にその偉業を伝えている。 天文三年(1534)没。

八代時氏 松本小笠原氏と謀り、松尾小笠原氏・新野の関氏を攻略し、武田信玄の妹を妻に迎え、信玄の伊那先方衆として武功を立てるが、天正十年(1582)二月、織田信長の信濃攻略に際し家老の謀反にあい、長男信正(十代)と共に三河に逃れたが、彼の地に没した。

十一代頼安 信氏の二男、天正十年六月二日本能寺の変に乗じ、徳川家康の助勢を得て吉岡城を奪回したが、天正十二年正月松尾城において謀殺された。

十二代牛千代 八代時氏の長男信正(十代)の長男 家康に従属したが家中の内紛や謀反が家康の詮議を招き、天正十五年(1587)三月改易となり、下條氏は事実上滅亡し、一族郎党は諸方の大名家に仕え四散するところとなった。

その後吉岡城は幕府領の代官所等にあてられていたが、寛永年間、旗本知久氏によって取壊された。

   平成二年三月          下条村教育委員会


この村にいたので城跡の様子はわかっているので、説明板を引用するのみ。


        兜 塚

兜塚の由来は明らかではないが、江戸時代に書かれた書物によると、築城のとき石室の塚があり、兜と鎧の札(キレ)を掘り出したとあるから、吉兆として城の聖地に祀り、その名をつけたものであろう。

他にいくつかの伝説がある。 昭和二十年頃まで円形の塚があって沢山の南天が繁っていた。

下条村教育委員会


05 28(月) 足神神社、青崩峠 写真103枚

おむすびを作って足神様と青崩峠の撮影に出かける。 先ず兵越峠を通って草木トンネルをくだり、引き返して旧道へ入る。 ここから足神様までは2km、5分、峠まで10分、と標識に記されている。 翁川沿いに進み、トンネル入口を右に見て、坂道を登る。。

    

         足神様                        青崩峠
  <石積みは古いが神社は改築して新しい>     <熊伏山と兵越峠の鞍部、向こうは八重河内側>

足神様の写真では社殿が黒っぽく写っているが、真新しい。内部を写してみると、これまた真新しい。足の神様など滅多にはなく珍しいものだそうで、説明が又ふるっている。


        足神神社由来

昔、諸国行脚の途時、この秋葉街道で不幸にして脚を病い辛うじて池島に辿り着いた鎌倉の北條時頼の脚を数日にわたって治療し、全快せしめた池島庄屋地の(現在大屋)五代目守屋辰次郎を、彼亡き後、時頼の命により村民が霊神として祠を建て祀ったのがこの足神神社である。
これは遠く1250年代のことである。 当神社は全国にも希な神社であり、遠近各地の参詣者は多数である。


真偽の程は別として珍しい神様である。 なお、ここは「足神の銘水」として知られ、湧水量が多く、名水を手に入れる人が後を絶たない。 たま湧水地には「塩の道、足神銘水」と読める文字が刻まれていた。

青崩峠は、幻の152号線として知られるように、ルートだけの国道である。近年になって峠部分はトンネルを穿ち、飯田市南信濃と水窪が結ばれようとしている。

長野県の八重河内の熊伏山東側は、中央構造線の露頭がむき出しになっており、崩壊している急斜面が目立っている土地だ。 トンネルができれば飯田市と浜松市の直近道路となることには間違いない。


   静岡県指定史跡

青 崩 峠 海抜 1082メートル

             平成八年三月十二日 静岡県指定文化財史跡

青崩峠は、遠州と信州の国境にあって古くからある信州街道(秋葉街道ともいう)の峠である。 この道は昔から海の幸や山の幸が馬や人の背によってこの峠を越して運ばれたことから「塩の道」ともいわれている道である。

また、戦国時代、武田信玄の軍勢が南攻のためこの峠を越えたと伝えられ、近世には多くの人々が信州、遠州、三河の神社、仏閣に参詣するためにこの峠を越した。

近代においては、可憐な少女達が製糸工女として他郷で働くために越した峠でもあり、多くのロマンと歴史を刻む峠である。

  平成十年三月一日
                          水窪町教育委員会


このような文面の銅版標識が峠には立てられている。

水窪側から峠に着いたので、今度は戻って八重河内側から峠道へ挑戦する。 今までは小嵐川沿いの秋葉街道(152号線)は、途中から兵越峠越えで水窪町へ迂回していた。 分岐点の秋葉街道は、営林署関係以外の車両の進入が鎖でとめられていたから入れなかった。 それが今では入れるようになった。

ただ、この道は狭く車がすれ違うところも少ないために、たくさんの車が入るとなれば混乱に陥る。 車に出会うことのないよう祈りながら約3kmの道を、峠のすぐ下まで軽トラで進んだ。

峠まで数百メートルで車道は終わっている。山は急な斜面で、露頭が前面に迫っている。

登山道入口の立札があり、丸太で足場を作った階段道がある。 そばには「御案内」の説明板があって、

『之より徒歩約20分にて静岡県境の青崩峠(1085メートル)に至ります。 なお峠より右へ2時間登れば熊伏山頂上(1653米)に達します。 平成元年六月十八日  八重河内地区住みよい村づくり

と、解説してあった。

ここへくる途中に「民宿 島畑」と看板があり、それには「秋葉街道唯一の馬宿」とも書いてある。 こんな山の中で民宿などどうなのか訝しく思ったが、60m下だというので降りていってみた。

小嵐川沿いに山の中に似合わない立派な家が建っていた。 当主は十一代目だという。墓石は宝冠が乗ったような見慣れないものがある。

昔からこの峠を利用する旅人の宿場だったに違いない。 話をしてくれたおばあさんは鄙びのない上品な人だった。 聞いてみると飯田の人で、戦後の飯田の大火にあい親戚の関係からこちらに嫁ってきたという。

馬宿というだけあって馬の宿はそのままあった。そして家の裏手には石垣沿いの道があり、それが秋葉街道だという。 昼間の風はさわやかで、鳥の声は遠くからも聞こえ、夜の星はこれまた美しいに違いない。 由緒ある宿でした。

06 02(土) 飛騨の濁河温泉 写真21枚

王滝村の三峠…真弓峠、白巣峠、鞍掛峠の撮影に出かけた。「峠と旅」<http://www.geocities.jp/wellon2/tohge/tohge.htm>に刺激されたことがもととなった。

いつもの通りむすびをにぎって九時半に出発。 清内路峠、上松、赤沢林道、東大天文台観測所を通って王滝村に到着する。

<鹿島紀行 第9回 王滝村災害復旧……Back Nomber 2004から> 「旅の記録」王滝村訪問より


 ちょうど20年前,1984年(昭和59年)9月14日午前8時48分のことである。長野県王滝村は突如激しい揺れに襲われた。至るところで山崩れが発生,29人が土石流などに呑み込まれて亡くなった。御嶽山付近を震源とするマグニチュード6.8の長野県西部地震で,最大の被害を出したのが南麓に位置する王滝村だった。



‘スポーツ公園’対岸の営林署の事務所で真弓峠入口の道をお尋ねしてみると、真弓峠も鞍掛峠も施錠してあって通れないという。 白巣峠は2005年7月9日訪問の折踏破していた。

仕方なく御岳湖南の湖岸道路の途中、崩越地区から赤沢林道へでて上松に戻った。 再度予定変更をして19号線元橋交差点から王滝川をさかのぼって三岳から開田高原の長峰峠へ行くことにした。

    

         木曽の桟跡                            長峰峠
    <左側コンクリート柱部分の奥>                   <左側に見えるのは峠の茶屋の一部>

天気がよく‘木曽の桟(カケハシ)’をカメラに収める。木曽川左岸橋の手前だが、いつもこんな明るさに出会わない。 元橋交差点から県道20号線に入り、黒沢信号機を右にして開田高原へ進む。 長峰峠から岐阜県へ抜ける361号線の道路は快適であった。

長峰峠から野麦峠を通って帰る予定でいた。 峠の茶屋で老夫婦が腰を下ろしていたので立寄る。 峠に茶店があるというのも漱石の草枕を髣髴させた。 冬は開田へ降りるという。 木曽馬の親子を飼っており、仔馬は水前寺清子によって「水清号」と命名されたという。 野麦峠は崩落のため通行止めになっているとも言う。

茶屋の爺さんの勧めで、岐阜県側の濁河温泉へ行くことにした。 スキー場までの道は快適であったが、旧道になってから舗装が掘れてでこぼこ道となり、それは大変難儀をした。
   

           星降る宿

      霊峰御岳山六合目

      標高 1800m の日本一高所に湧く

      飛騨小阪・濁河温泉

      澄みきった空気と晴れわたる空

      日暮れと共に輝きを増す満天の星

      ここは湯の谷・星の降る荘(ヤド)




これは「湯の谷荘」のパンフレットに載っているもので、星の降る荘(ヤド)はパンフを見ると‘星降る荘(ヤド)’となっている。 「湯の谷」に続くとすれば、やはり「星の降る荘(ヤド)」が語呂にあうから、勝手にかえて載せてみた。

黒地の枠に白印字 …… 初めてやってみたが、時には引立ってよい。

近くに緋の滝(歩いて5分)や仙人の滝(歩いて15分)があるという。



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