05 21(月) 次男夫妻、結婚記念日(陶婚式) |
▼matrix (マトリックス) マトリックス(母胎、子宮)とは、子どもが絆を結ぶ対象である。 マトリックスの特性 @あらゆる可能性の源泉を与える。 Aその可能性を探索するエネルギーの源泉を与える。 Bその探索を可能にする安全な場所を提供する。 子どもの知能は、マトリックスが提供した安全な場所に立ち、 マトリックスから与えられたエネルギーを活用し、 マトリックスから与えられた可能性を探索することによって発達する。 「うばふところ」と同じ。植物や野菜の種子と同じく生命躍動がてきるところをいう。 ……好上…… |
05 22(火) 舟山城跡・駒場城跡・久米ヶ城跡・富草の古城・吉岡城跡【 05 09 訪問 】 写真92枚 |
船山城跡 長野県史跡 昭和五十五年九月八日指定 この城跡は、平安時代末から室町時代末に至る四百有余年にわたり、伊那地方に栄えた信濃の名族、片切氏によって築城されたものであり、天正十年(1582)に織田氏の侵攻によって落城したといわれるまでの同氏の本拠地になっていたところである。 城跡は、下伊那郡松川町城の集落とその東方に延びた河岸段丘の先端の地形を利用して構築されている。 南は南沢の渓谷、北は天神平の急斜面で上伊那郡中川村南田島に面し、天竜川及び天竜川東の丘陵地帯を展望できる要害の地に位置している。 また西方より東方に細長く突出した形状が、船を山上に置いたごとくに見えることから、船山城の呼称が起きたものであろう。 城跡の規模は、出丸と呼ぶ船山一帯の郭地域(中世前期)、及び城畑一帯の本城地域(中世後期)の二地域で、城には大規模な二つの郭が、出丸には大小四つの郭が設けられている。 城内の北隅には守護神の御射山神社を祀り、城外に接して瑞応寺(元は宝珠院)があり、一帯は古城館跡の遺構をよく残しておりこの地方の代表的な中世城館跡である。 長野県教育委員会 |
雲雀沢の古城 (八幡神社 摂社諏訪神社) 国指定・重要文化財 今から六○○年ほど前、武田氏の一門、下条伊豆守源頼氏が甲斐国下条郷(現在の韮崎市の西南)から大沢の地に入り、ここに城を築いたとき鎮守として現時の氏神である八幡社を勧請した。 文明七年(1475)六代康氏のとき、ここが狭く諸事に不便となり城を北方の吉岡に移した後、ここを古城と称し、重臣・佐々木帯刀(タケワキ)が守った。 七代家氏がこの地を拡張して八幡神社〔祭神・誉田別命=第十五代応神天皇〕本殿〔一間社流造(イッケンシャナガレヅクリ)、こけら葺(フキ)〕と信州の地主神として諏訪明神〔祭神・建御名方神〕を勧請し、摂社諏訪神社本殿〔一間社流造(イッケンシャナガレヅクリ)、こけら葺(フキ)〕を整えた。 これらの造営には京都から大工の吉村惣右衛門らを招いてあたらせたといわれ、下条氏滅亡後も人々の尊崇により今日にいたり、昭和五年(1930)五月二十三日、国の重要文化財に指定された。 平成三年(1991)から平成五年にかけて解体修理(総事業費7164万円)が行なわれた。その折、永禄十二年(1569)、寛永元年(1624)、正徳二年(1712)、元文三年(1738)の棟札が確認され、これらの時期にも修理があったことが推定できる。 平成八年(1996)三月吉日 阿南町教育委員会 |
吉岡城と下条氏 吉岡城は文明七年(1475)室町時代中期、下条氏第六代康氏によって築城され、以降七代百十二年間、本拠地とした城である。 城郭は下條氏の勢力拡大に伴って拡張し完成された。形状は連郭式平山城で、東西約七○○メートル、南北約三○〜二○○メートルに及び、中世後期の城としては規模も大きく、その特徴を有している。 城跡は部分的には埋没し崩されているが、当時の輪郭を十分伝えている。 遺構は空堀による四つの郭と城下町・馬場・弓場等からなり、枡形 上町 屋敷町 大手 大手裏 竪町 横町 等の地名と、井戸 四脚門 が残っている。 下條氏は甲斐源氏小笠原氏の庶流である。 初代頼氏 室町時代初期、小笠原氏の麾下として大沢(古城)に来たり、この地方を支配したが、五代にしてその系は絶えた。 六代康氏 松本小笠原政康の子 文明二年(1470)下条家を継ぐ。 居城を大沢から吉岡に移し根拠地とした。 下条氏中興の祖である。 文亀三年(1503)没。 七代家氏 信濃守護小笠原氏の代官として治世を安定させ、中央の文化を招来し、重要文化財大山田神社社殿等、今日にその偉業を伝えている。 天文三年(1534)没。 八代時氏 松本小笠原氏と謀り、松尾小笠原氏・新野の関氏を攻略し、武田信玄の妹を妻に迎え、信玄の伊那先方衆として武功を立てるが、天正十年(1582)二月、織田信長の信濃攻略に際し家老の謀反にあい、長男信正(十代)と共に三河に逃れたが、彼の地に没した。 十一代頼安 信氏の二男、天正十年六月二日本能寺の変に乗じ、徳川家康の助勢を得て吉岡城を奪回したが、天正十二年正月松尾城において謀殺された。 十二代牛千代 八代時氏の長男信正(十代)の長男 家康に従属したが家中の内紛や謀反が家康の詮議を招き、天正十五年(1587)三月改易となり、下條氏は事実上滅亡し、一族郎党は諸方の大名家に仕え四散するところとなった。 その後吉岡城は幕府領の代官所等にあてられていたが、寛永年間、旗本知久氏によって取壊された。 平成二年三月 下条村教育委員会 |
兜 塚 兜塚の由来は明らかではないが、江戸時代に書かれた書物によると、築城のとき石室の塚があり、兜と鎧の札(キレ)を掘り出したとあるから、吉兆として城の聖地に祀り、その名をつけたものであろう。 他にいくつかの伝説がある。 昭和二十年頃まで円形の塚があって沢山の南天が繁っていた。 下条村教育委員会 |
05 28(月) 足神神社、青崩峠 写真103枚 |
足神神社由来 昔、諸国行脚の途時、この秋葉街道で不幸にして脚を病い辛うじて池島に辿り着いた鎌倉の北條時頼の脚を数日にわたって治療し、全快せしめた池島庄屋地の(現在大屋)五代目守屋辰次郎を、彼亡き後、時頼の命により村民が霊神として祠を建て祀ったのがこの足神神社である。 これは遠く1250年代のことである。 当神社は全国にも希な神社であり、遠近各地の参詣者は多数である。 |
静岡県指定史跡 青 崩 峠 海抜 1082メートル 平成八年三月十二日 静岡県指定文化財史跡 青崩峠は、遠州と信州の国境にあって古くからある信州街道(秋葉街道ともいう)の峠である。 この道は昔から海の幸や山の幸が馬や人の背によってこの峠を越して運ばれたことから「塩の道」ともいわれている道である。 また、戦国時代、武田信玄の軍勢が南攻のためこの峠を越えたと伝えられ、近世には多くの人々が信州、遠州、三河の神社、仏閣に参詣するためにこの峠を越した。 近代においては、可憐な少女達が製糸工女として他郷で働くために越した峠でもあり、多くのロマンと歴史を刻む峠である。 平成十年三月一日 水窪町教育委員会 |
06 02(土) 飛騨の濁河温泉 写真21枚 |
ちょうど20年前,1984年(昭和59年)9月14日午前8時48分のことである。長野県王滝村は突如激しい揺れに襲われた。至るところで山崩れが発生,29人が土石流などに呑み込まれて亡くなった。御嶽山付近を震源とするマグニチュード6.8の長野県西部地震で,最大の被害を出したのが南麓に位置する王滝村だった。 |
星降る宿 霊峰御岳山六合目 標高 1800m の日本一高所に湧く 飛騨小阪・濁河温泉 澄みきった空気と晴れわたる空 日暮れと共に輝きを増す満天の星 ここは湯の谷・星の降る荘(ヤド) |