05 05(土) 子供の衣服になった端午の幟 |
憲法60年(下) 人権を守る思い新たに 信濃毎日新聞社説 5月5日(土) 妊娠できない娘の代わりに、祖母が孫を産む。夫婦の子どもがほしいと、代理母を求める−。新たな不妊医療が注目を集めている。 わが子を抱きたい気持ちは痛いほど分かる。だが、なぜ養子ではなく、血のつながった子でなくてはいけないのか…。ある産婦人科医師はそこに違和感を感じるという。 医療の進歩は人の幸せに役立つはずなのに、保守色の強まる雰囲気の中で、「跡継ぎ」を産めと女性を縛ることにならないか、と心配する。 戦前、結婚には戸主の同意が必要だった。夫が不倫をしても妻からは離婚を切り出せなかった。女性は自分の財産を管理する力も、子どもの親権も持てなかった。 1947年に施行された憲法で、法の上での男女平等が実現した。結婚は親が決めるのではなく、2人の同意で成立する。家長支配を否定し、個人の尊重が明文化された。 それから60年が過ぎた。 結婚の時期こそとやかく言われなくなり、男性と肩を並べて働く女性も増えた。 <男女平等になっても> しかし、「嫁に行く」という言葉は健在で、大半が夫の姓に変わる。妊娠すると7割の女性が仕事を辞めており、育児の負担は母親にのしかかる。離婚したくとも、経済的な面から尻込みする女性が多い。 憲法がうたう男女平等や個人の尊重の実現は、いまだおぼつかない。 その上、安倍政権下では「伝統的な家族」を重んじる発言や動きが強まっている。 その1つが、民法をめぐる国会の動きだ。 離婚した女性が産んだ子どもの戸籍の扱いをめぐる問題で、「貞操義務や性道徳を考えなければいけない」と、発言したのは長勢甚遠法務大臣である。離婚前に妊娠した子への救済策を否定している。 現在でも、旧憲法時代につくられた民法の規定が生きている。女性が離婚して300日以内に生まれた子は前夫の子とする規定は、子どもの父親を明確にするという当時の福祉の視点があった。 しかし、離婚後の妊娠でも早産で日数が足らない場合があるほか、家庭内の暴力などで、離婚より妊娠が先のケースも増えている。前夫の名前を戸籍に残すのがいやで、出生届を出さないままの子どももいる。 子どもの権利を守るために法律を変えるべきなのに、一部の政治家が抵抗を示すのはなぜか。この問題に手を付けると、女性の離婚禁止期間短縮や夫婦別姓など民法改正論議の再燃につながりかねないからだ。 法務省の法制審議会は、民法改正の答申を1996年にまとめている。しかし、自民党内の「夫婦別姓は家族のきずなを弱め、家族崩壊の芽をはらむ」との反対で、法案提出すらできなかった。 300日規定への対応では、自民党内に「家族」をめぐる法律を変えることへのアレルギーが、いまだに強いことが明らかになった。生まれてきた子どもの人権への配慮は、後回しにされている。 <「公益」優先では…> 個人の尊重が行き過ぎた自由主義になっている、よって勝手な行動を許さず、公に奉仕せよ−。そういった政権の思いが明らかなのが、昨年の教育基本法の見直しである。 憲法とセットで制定された前の基本法は、個人の価値の尊重と人格の完成を教育の目的に掲げていた。 改訂後の基本法は、教育の目標に「国と郷土を愛する態度」や「公共の精神」を入れ、個の尊重が薄まった。家庭教育の項目を新設し、家の中の教育に国が踏み込める枠組みができている。 そして問題の核心、憲法である。 自民党のプロジェクトチームは2004年、「家族や共同体の価値を重視する観点から」男女平等の規定の見直しを提言している。 批判を受けて、05年の憲法草案では見直しをとりあえず封印しているが、国民に保障された自由や権利の前に「公益や公秩序」を置いた。「公益」は聞こえのいい言葉だが、権力者の都合でいかようにも解釈できる。国民の自由を縛るあやうさが潜んでいる。 <個を大切にする国に> 個人として家族が大事と考えるのはいい。だが憲法に「家族が大事」と書くことは、女性に家庭を守る役割を押しつけかねない重大な問題である。 国があるべき家族の姿を強調すれば、事実婚やひとり親家庭など、多様な生き方を否定することにもなる。家族のきずなを強調するだけでは、少子化、子どもの荒れ、虐待といった問題は解決しない。 明治、大正、昭和の時代を生きた平塚らいてうは、女性の解放と子どもの権利擁護を訴えた。新憲法と女性参政権を得て「女性の心の底から、大きな、大きな太陽があがるのだ」と宣言した。世界平和の実現のためにも、「憲法を守り抜く」ことが遺言になった。 女性の権利だけが問題なのではない。1人ひとりを大切にするいまの憲法を守らなくては、こころ豊かな社会は築けない。 |
05 08(火) 乳がんの手術 |
05 09(水) 下伊那の城跡を訪ねて |
05 15(火) 名子城・台城 写真114枚 |
名子城蹟 平安末期(約八百年前)船山城の片桐氏の族、片桐景重が名子に分知して上野台に住み、名子氏を称したが、この名子城は非常時における要塞として築かれたものである。 その後名子氏は八代約四百五十年間相伝したが、天正十年二月織田氏の伊那郡攻略によって落城した。 現在、本郭と三つの副郭、土塁、空濠が残っている。本郭は東西七十米、南北は東が七二米、西が二九米で馬蹄形をなしている。副郭の中、よく原形を残しているのは北側のもので延長一一二米ある。老人福祉センターのあるあたりは西郭の跡で本郭との間に空濠が残っている。 本丸西方の小祠は城山稲荷で、祠前の石積は神饌所である。 |
金鶏伝説を伝える井戸跡 城の生命線ともいうべき飲料水を確保した井戸の跡で、本丸北方の断崖の下に往時のままの石組を残しています。 周囲を土塁で囲み、外部からは井戸が絶対に見えないようにしています。 大島城は天正十年(1582)織田氏の甲信侵攻により落城してしまいました。 落城の折、お姫様が黄金のにわとりを抱いてこの井戸に身を躍らせたという悲しい伝説が伝えられています。 元旦の早朝には井戸の底からにわとりの鳴く声が遠くかすかに聞こえるとも言われています。 ここに姫観音を建立し供養する。 平成五年五月 <姫観音の右下窪地に直径五尺ほどの石組井戸がある> |
松川町指定文化財 大島城跡 平安時代の末、南信濃源氏片桐氏は片桐郷の南に続く大島郷に分知しました。 それは片切兵庫助為行の八男の片桐八郎宗綱で、在名をもって大島八郎宗綱を名乗ったのが大島氏のはじめです。大島氏は鎌倉幕府に仕え、以後中世を通じてこの一帯を領有・統治し、大島城・北の城・沼の城などを築きました。 南信濃攻略をうかがっていた甲斐の武田氏は天文二三年(1554)一挙に伊那郡に侵入し、ここを手中にした晴信(信玄)は秋山信友を飯田城におき伊那谷を統治しました。 元亀二年(1571)、武田氏は大島城を東海地方攻略、ならびに京へ上るための拠点とするため、伊那郡代秋山信友に命じて大島城の大修築を行ないました。このとき、下伊那一九の郷民と二衆を城普請の人足として強制的に動員したことを記す武田氏の朱印状が残っています。 現在の大島城はこのときに構築されたもので、武田流築城法による馬出や三日月堀、三つの曲輪とそれを取り巻く迷路のような空堀が当時のまま残されています。 信玄亡き後の勝頼の代、天正十年(1582)織田氏が伊那郡に侵入したとき、大島城は信玄の弟の信廉が守っていましたが、信廉ら有力な武将は織田氏の進撃に驚き、夜中に逃亡したことが「信長記」に記されています。 城内からは建物の礎石や雨落溝の石列、陶磁器や古銭、焼米などが発見され、井戸跡には落城の際お姫様が金の鶏を抱いて身を投げたという悲しい伝説も伝えられています。 平成四年三月 松川町教育委員会 |
05 18(金) 吉田城山城・松岡城跡・座光寺北本城・松尾城跡・鈴岡城跡【 05 08 訪問 】 写真86枚 |
松岡氏は陸奥の安倍貞任の後裔で、前九年の役(1051)で安倍一族が源頼義に敗れ、貞任の二男仙千代が乳母と共に漂白の末、松岡城のある市田郷に移ってきたといわれる。 当初は「古城」に居館を構え、南北朝時代に要害の地を求め、松岡城を築いたとされる。当時は小笠原氏と共に北朝方として天竜川西岸をまとめ、東岸南朝方の知久氏や香坂氏等と対峙した。 室町時代に松岡氏は最盛期を迎え、現在の市田、山吹、座光寺、上郷の一部を支配し、現在も家臣の居館や見張り台といわれる所が点在する。 戦国期武田信玄が伊那に侵入してくると、松岡氏は降服し、飯富三郎兵衛(山県昌景)の配下に属した。 織田信長の死後、伊那は徳川領になったが、豊臣方に通じていた松岡氏は改易を命ぜられ、松岡城は廃城となった。 天竜川段丘崖を利用した城で、北は間ヶ沢、南は銚子ヶ洞の谷によって区切られており、西方が段丘上の平地につながっている。 |
松岡氏の始祖である安倍貞任の二男仙千代が最初に居館を構えた所といわれる。ただ、その推定地は他にもあり、ここは見張所であるともいわれる。 現在は「夫婦杉」の大木と松岡氏の妻といわれる雲龍院殿の石碑があるだけである。 場所は松岡城の城下町があったといわれる場所の中心地付近で、松源寺からフルーツラインを越えて約100m入ったところにある。 |
上野城ともよばれる座光寺北本城、南本城は、座光寺氏によって築城されたといわれるが築城時期は定かではない。 松川町の船山城主清和源氏片桐氏の庶流片桐河内守が上野城に拠って、座光寺氏を称したといわれるが、これも諸説ある。 座光寺氏が文献に現れるのは応永年間(1394〜1427)で、この頃には既にかなりの勢力を持った豪族となっていた。 その後、松岡城に拠る松岡氏の配下や 神之峰城の知久氏の配下となっている。 武田氏滅亡後、豊臣方に通じていた松岡氏に反し、家臣であった座光寺氏は徳川方に通じ、江戸期には旗本として現在の高森町に山吹陣屋を構えた。 |
長野県史跡 鈴岡城跡 昭和四十六年五月二十七日指定 この城跡は、飯田市駄科の西北部にある段丘の東突端、標高約四九〇メートルにあり、自然の地形を巧みに利用して構築された平山城跡で、いくつかの空堀で区切られた本丸、二の丸、出丸及び二つの外郭並びに西方高地ににある遠見原の要害からなっている。 築城は、小笠原貞宗の第二子宗政が、松尾家から分家して鈴岡家を始めた頃といわれている。宗政は貞和元年(1345)天竜寺供養の際髄兵を勤めているが、子孫は判明していない。 築城以来、松尾・鈴岡・深志の小笠原三家の間において、しばしば不運な争いが起こり消長を重ねたが、天文二十三年(1554)八月武田晴信(信玄)の伊那進攻により松尾城の支城となり、天正十八年(1590)廃城となった。 鈴岡小笠原家は、一時期には宗家の松尾小笠原家に代わって南伊那を治めており、同家の居城であった。 この城跡は、幾多の攻防の歴史を秘めてほぼ原形に近い形で保存されており、中世の南信濃における平山城の遺構を探る上で貴重な城跡である。 |