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折々の記 2007 A

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】04/29〜        【 02 】05/05〜
【 03 】05/21〜        【 04 】06/04〜
【 05 】06/08〜        【 06 】06/23〜
【 07 】07/12〜        【 08 】07/17〜


【 04 】06/04〜

  06 04 柿の消毒
  06 06 <旅行記>山本勘助と岡崎城を訪ねて<旅行>
  06 06 山本勘助関係のデータ<旅行>

06 04(月) 柿の消毒

きのうは柿の消毒をした。250リットルで野菜なども消毒できたから、この分量で十分だろう。

06 06(木) 山本勘助と岡崎城を訪ねて 写真49枚

往路は水窪から中部天竜を経て国道151号線へ出て豊川市牛久保の長谷寺のコースをとった。 復路は国道151号線そのまま新野峠経由のコースをとった。

帯川から旦開(アサゲ)の道は帯川トンネルができたので、新野への往来はまったく苦にならなくなっていた。151号線も新野峠から豊根へ下る道の一部が工事中で、これも快適そのものとなっていた。 それに平井交差点から川田交差点まで新城町並みのバイパスができていて気持ちがよかった。

MapFan.Netの地図によって豊川IC を過ぎて高原交差点を右折し長谷寺に到着する。 こじんまりした道沿いのお寺でボランティアの人たちによる説明があった。 テレビによって来訪者が後をたたないようすだ。

寺内には勘助の守り本尊「木造摩利支天騎像」があり、寺の裏地には「山本勘助の遺髪塚」がある。この遺髪塚はちゃんとした五輪の塔が建てられている。 五輪の塔は上から順に、空(キャ)・風(カ)・火(ラ)・水(バ)・地(ア)を表しています。

   http://www.tctv.ne.jp/members/tobifudo/bonzisyo/aiue/index.html<梵字であいうえお>

   http://www.tctv.ne.jp/members/tobifudo/bonzisyo/bindex.html<梵字字典>

梵字は折々に見かけるけれど、まったく知識はなかった。 ところが、ひょんなことから上にある Web に出会った。 和尚さんでなくても、多少は知っていたほうがよさそう。


      卒塔婆と五輪の塔

 卒塔婆は古代インドで塔を意味する「ストゥーパ」という言葉を漢字に写したもので、略して塔婆と言っています。真言密教ではそれを立体的な「五輪の塔」で表現しますが、鎌倉時代になると「板碑塔婆」が、室町時代の終わりごろになると「木の柱のような塔婆」が、そして江戸時代になると、今日私たちが建立している木製の板の「塔婆」が一般的になっていきました。

 もともとは五輪の塔でしたので、その形も、上から「宝珠形」「半月」「三角」「円形」「方形」とされ、そこに「キャ」「カ」「ラ」「バ」「ア」と梵字が記されています。この形と文字はこの世界を構成する「空」「風」「火」「水」「地」の五つの要素(五大または五輪という)を表し、それはそのまま、ご本尊・大日如来さまを象徴しています。

 塔婆の表には、この梵字と、その下に、年回忌の十三仏の種字と戒名を書きます。これは、大日如来の大いなるいのちの世界で、故人が母親のふところに安らぐように、年回忌の本尊に見守られていることを意味しています。

 塔婆の裏には、大日如来の種字である「バン字」、その下に苦厄災難を除く「破地獄の真言」、そして大日如来を意味する「南無遍照金剛」と「年月日」、「施主名」を書きます。

 塔婆を建てる意味は亡き人を思う心情に合わせて自分の信仰心を深めていくことです。私たちも精霊もともにご本尊さまの大いなる恵みの中に生かされていることを願い、施主から精霊への心からの便りとなるものです。塔婆を一つ建てることは仏像を一体つくるのと同じくらいの功徳があるといわれています。


五輪の塔は古いお墓へ行くとき見かけることがある。このときに同行の人に説明できる程度は知っておくことがいい。

墓には石をのせた、それが塔であった。今でも墓石のことをふつうお石塔という。 真言密教では五輪の塔を置いた。(普通の人は墓石としてはお金もかかるし作らなかった。それでもある程度素封家だと思う人たちは五輪の塔を残すようになったものだろう)

五輪の塔の形は、上から「宝珠形」「半月形」「三角形」「円形」「正方形」であり、これはこの世界を構成する「空」「風」「火」「水」「地」の五つの要素(五輪)を表わし、そのまま、ご本尊・大日如来さまを象徴しているといいます。

また、五輪の塔とは、宇宙の万物が相反する二つの要素<陽>と<陰>の関わりの中で、統一され自然環境が成り立っているとされる「陰陽理論」と、地球を構成している<地・水・火・風・空>の五つの要素から成り立つという「五行理論」の構成要素を記したものが五輪の塔を形成させる原理であるいいます。

[  空  ]<キャ>[青][宝珠形]→空のように全の要素が有機的に組み合わされた性質 [東]
[  風  ]< カ >[黒][半月形]→風のように収縮作用を持つ性質 [北]
[  火  ]< ラ >[赤][三角形]→火のように燃え熱を持つ性質 [南]
[  水  ]< バ >[白][円 形]→水のように流れ収まる性質 [西]
[  地  ]< ア >[黄][正方形]→地のように堅い性質 [中心]
[ 納骨室 ]

今まで見たところでは、この「宝珠形」と「半月」は別々の石ではなく一つの石彫りとなっているものが多い。

          

          山本勘助の墓                   東照宮遺訓の石碑

勘助の墓には豊川市教育委員会の説明板が立ててあった。 それには要領よく勘助の概要がつかめるような解説をしてある。


      山本勘助の墓
                           豊川市指定史跡 四十七年十一月三十日指定

戦国の昔、武田信玄の名軍師として有名な山本勘助は、明応九年(1500)八月十五日八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)の山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と名のっていました。

勘助は十五歳の正月に牛久保の牧野家家臣大林勘左衛門定次の養子となり、大林勘助貞幸と名を改め、二十六歳の時に、武者修行のため諸国を歴遊し武名を高めて、三十五歳の冬に大林家に帰ってきたところ、勘左衛門に実子が生まれていたため、父子の縁を切り、養家をはなれて関東の地を歴遊し、四十五歳のときに甲斐国(山梨県)の武田信玄に仕え、智謀をもって忠誠をつくし永禄四年(1561)川中島の合戦で討死しました。

その後、牛久保在住以来勘助と親交のあった長谷寺(チョウコクジ)の念宗(ネンシュウ)和尚がその死を悼み、彼の遺髪を埋めて建立したのがこの五重塔だと伝えられています。

また、勘助の守り本尊であったとされる摩利支天像(マリシテンゾウ)(市指定)が、今なお長谷寺に安置されています。
                                  豊川市教育委員会


ここ牛久保では養家先の大林勘左衛門貞次屋敷跡、今川義元の胴塚、牛久保城址の三箇所を見てまわった。

長谷寺見学の後、国道一号線で岡崎城へ行き豪壮な城址を見る。 上の画像は城の手前にあり、「人の一生は重荷を負ひて遠き道を行くが如し……」で始まるよく知られている家康の「遺訓」だ。 大きな亀の彫物だが、亀はさぞ重い遺訓だと思っていることでしょう。


       東照宮遺訓

人の一生は重荷を負ひて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。勝つ事ばかり知りて負くるを知らざれば害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり。


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別のことだが、パソコンを見ていると、こんなことも出てくる

            「東照宮御遺訓」

PM 6:00。
雨が降ってきました。
空を見上げれば月が浮かんでいます。たぶん、すぐ止むのだろうな・・・と思った瞬間でした。

これから一雨ごとに寒くなっていくのでしょう。
寒さに弱い、私にとっては嫌な季節が近づいてきます。

さて、「東照宮御遺訓」って知っていますか?
徳川家康が、自ら書いた教訓と言うことで、有名なものがあります。たぶん、皆様聞けば、「あぁ、それね」と思う文です。

「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し、いそぐべからず、不自由を常と思へば不足なし、こころに望おこらば、困窮したる時を思ひ出すべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ、勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる、おのれを責めて、人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりもまされり」

大変いい文章ですよね。
幼い頃から、人質となり、苦労を重ね、最終的に天下を取った家康の、人の人生とは、と思わせる文章だと思いませんか?
私、結構好きなんです、この言葉。
苦労人である、家康の言葉としても納得でき、なるほどと思わせる言葉だとも思っていました。

ところがです・・・・・!

昨夜、これが違っていたと言うことを知ったのです!
チョット驚きでした。と言うよりも、まあ、そんなものか・・・と言う気持ちも湧きましたが・・・

先日紹介した「徳川家の内緒話」、読み終わりました。その最後に近いところで、こんな項目が・・・

有名な「東照宮御遺訓」が贋物だと証明したのは、徳川家の人だった

  「あの言葉だよね?」

  「マジですか?」

と、思いながら読みました。

これは、関ヶ原から三年後、家康63歳の正月に書き残したものと言われていました。花押もちゃんと入っていたそうです。
ところがです、この文章は後世の人が家康らしい教訓にしようと創作したものだったそうです。

「えぇ!?マジですか!」
つくったのは旧幕臣・池田松之助。
明治11年頃だったそうです。
この方、旧幕臣を励ますつもりで贋物を制作し、日光や久能山の東照宮に奉納したそうです。この奉納には勝海舟、山岡鉄舟まで関わったそうです・・・・

「おいおい、お二人さん、解かってやったの?」
と思ってしまいます。勝さん絡むと何故か怪しさが感じられます。

この偽書は、水戸黄門で知られる、徳川光圀作として伝えられてきた「一人のいましめ」と言う教訓が元になっていたそうです。これが、江戸の末期には勘違いで、家康の言葉となってしまったそうです。 しかし、この文章の内容の事は、家康が他で書いていたり、言っていたのでまんざら嘘ではないということでもありますが・・・

でもね・・・信じていたのに、この言葉・・・
チョットしたショックがありました。その場ですぐに思ったのは、

「明日のネタはこれだ!!」という事です。

良いのか、悪いのか・・・哀しいのか何なのか・・・
チョットため息です。

そうそう、この事を明らかにしたのは、尾張徳川家の当主・徳川義宣氏だそうです。

この尾張徳川家の名宝は名古屋の徳川美術館で見れます。
これがすごいんですよ〜〜私は大好きな美術館です。昨年、逢佐文庫と館内が続き、益々立派にきれいになりました。所蔵品の見事さは一口では言い表せません。ぜひ、皆様機会があれば、見に行って欲しいものです。

「東照宮御遺訓」、信じていたのに・・・・
でも、いい言葉であることには変わりはありません。
人が生きていく為の教訓の一つとして、すばらしいものだと思います。

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東照宮遺訓の石碑の近くに「家康公遺言」という石碑も建てられている。


       家康公遺言

わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安し。
されども将軍の政道その理にかなはず、億兆の民艱難するにあらんには、たれにても其の任に変らるべし。
天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり。たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかも、うらみに思ふことなし。
  元和二年四月十七日
     家康公甍七十五才於駿府城      大樹寺五十七世
                                宏 天 謹 書


ちなみに、大樹寺の宏天和尚が書いたというので、岡崎市のホームページをみると、寺社めぐりの始めにこの大樹寺が出てきます。この寺は家康より五代前の松平親忠が文明7年(1475)2月22日創建した浄土宗の寺院であり、松平家・徳川将軍家の菩提寺になっております。

06 06(木) 山本勘助関係のデータ

01 軍師山本勘助と長谷寺

山本勘助は明応九年八月十五日(1500)八名郡賀茂村(現在の豊橋市賀茂町)に生まる。 その祖清和天皇の後、森羅三郎義光の三世山本遠江守義定より出で世々駿河国富士郡に住居し、山本伝次郎幸綱に至りて三河国八名郡賀茂の荘二千五百石を賜る。 これ山本家の第一代となる。 第二代山本帯刀、第三代を山本藤七郎光幸といい、三子あり三男を源助と言う。 勘助即ち是なり。 勘助十五才の正月十五日、牛久保城主牧野家の臣大林勘左衛門貞次の養子となり、大林勘助貞幸と改む。 資性武事を好み、壮年にして父母に暇を請い飄然として郷里を出でて山越武者修行をなし遍く剣士の道場を訪問す。  二十五歳にして高野山に登り摩利支天堂に一、七日夜参籠して武術の上達を祈願せり。 霊験ありて満願の夜、夢の中に弘法大師の作なる摩利支天の像を受く。 身長一寸三分なり。 勘助これを襟にかけ身の守護となし、四国、九州、山陰、山陽を順遊し毛利氏、尼子氏に仕う。 三十五才の冬故郷牛久保に帰りしが、養家大林勘左衛門に実子生まれたる為、父子の縁を切り山本に帰る。 ここにおいて東関東に歴遊す。 小田原に至り北條氏康の武術の師松平七郎左衛門によりて氏康に謁す。 氏康その容貌の醜なるを見て用いず、勘助鎌倉に至り扇谷上杉憲政の許にあること数ヶ月。 去りて上州倉ヶ野越中守が家中に止まること三ヶ月。 信州岩尾の城主真田一徳斉幸隆を訪うて、その共に語るべき者なるを知り、十余日にして再会を約して去る。 〔これより「天文十二年冬十二月 実母の従弟庵原安房守忠房」によるデータ〕 忠房は今川義元の長臣にて勘助を義元に薦む。 義元その風采のあがらざるを見て用いず。 よって忠房、武田信玄の家臣甘利備前守虎泰に託して信玄に仕えしめんと計る。 当時牛久保城主牧野家の臣真木伝右衛門の一子、念宗法印、大和長谷寺の住職なりしも職を辞し、同木同作の観世音像を奉持して故郷牛久保に帰り、一宇を建立して観世音像を安置し長谷堂と称す。 現在の長谷寺の開山なり。  勘助日頃念宗法印の徳を慕い、甲斐に赴くに先立ち念宗法印に暇を乞い、襟掛の守護本尊摩利支天の像を奉り、行末を依頼し薙髪して道鬼入道と号し、また道鬼斉と名のり甲斐に出立す。 時、天文十四年春勘助四十四歳なり。 勘助人となり身短く眇目跛足なり。 信玄晴信之を見て大いに悦んで曰く「容貌具(ソナ)わらず奇才あらん」と、知行二百貫文を与え、名を晴幸と賜る。 天文二十二年(1553)十一月、上杉・武田の両将信州川中島に陣し、所謂川中島の合戦始まる。 これ最も勘助の力を振るいし処にして、知略絶倫謀を善くし、後世武田の兵法をいうもの旨晴幸を以って宗となす。

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