06 04(月) 柿の消毒 |
06 06(木) 山本勘助と岡崎城を訪ねて 写真49枚 |
卒塔婆と五輪の塔 卒塔婆は古代インドで塔を意味する「ストゥーパ」という言葉を漢字に写したもので、略して塔婆と言っています。真言密教ではそれを立体的な「五輪の塔」で表現しますが、鎌倉時代になると「板碑塔婆」が、室町時代の終わりごろになると「木の柱のような塔婆」が、そして江戸時代になると、今日私たちが建立している木製の板の「塔婆」が一般的になっていきました。 もともとは五輪の塔でしたので、その形も、上から「宝珠形」「半月」「三角」「円形」「方形」とされ、そこに「キャ」「カ」「ラ」「バ」「ア」と梵字が記されています。この形と文字はこの世界を構成する「空」「風」「火」「水」「地」の五つの要素(五大または五輪という)を表し、それはそのまま、ご本尊・大日如来さまを象徴しています。 塔婆の表には、この梵字と、その下に、年回忌の十三仏の種字と戒名を書きます。これは、大日如来の大いなるいのちの世界で、故人が母親のふところに安らぐように、年回忌の本尊に見守られていることを意味しています。 塔婆の裏には、大日如来の種字である「バン字」、その下に苦厄災難を除く「破地獄の真言」、そして大日如来を意味する「南無遍照金剛」と「年月日」、「施主名」を書きます。 塔婆を建てる意味は亡き人を思う心情に合わせて自分の信仰心を深めていくことです。私たちも精霊もともにご本尊さまの大いなる恵みの中に生かされていることを願い、施主から精霊への心からの便りとなるものです。塔婆を一つ建てることは仏像を一体つくるのと同じくらいの功徳があるといわれています。 |
山本勘助の墓 豊川市指定史跡 四十七年十一月三十日指定 戦国の昔、武田信玄の名軍師として有名な山本勘助は、明応九年(1500)八月十五日八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)の山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と名のっていました。 勘助は十五歳の正月に牛久保の牧野家家臣大林勘左衛門定次の養子となり、大林勘助貞幸と名を改め、二十六歳の時に、武者修行のため諸国を歴遊し武名を高めて、三十五歳の冬に大林家に帰ってきたところ、勘左衛門に実子が生まれていたため、父子の縁を切り、養家をはなれて関東の地を歴遊し、四十五歳のときに甲斐国(山梨県)の武田信玄に仕え、智謀をもって忠誠をつくし永禄四年(1561)川中島の合戦で討死しました。 その後、牛久保在住以来勘助と親交のあった長谷寺(チョウコクジ)の念宗(ネンシュウ)和尚がその死を悼み、彼の遺髪を埋めて建立したのがこの五重塔だと伝えられています。 また、勘助の守り本尊であったとされる摩利支天像(マリシテンゾウ)(市指定)が、今なお長谷寺に安置されています。 豊川市教育委員会 |
東照宮遺訓 人の一生は重荷を負ひて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。勝つ事ばかり知りて負くるを知らざれば害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり。 |
家康公遺言 わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安し。 されども将軍の政道その理にかなはず、億兆の民艱難するにあらんには、たれにても其の任に変らるべし。 天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり。たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかも、うらみに思ふことなし。 元和二年四月十七日 家康公甍七十五才於駿府城 大樹寺五十七世 宏 天 謹 書 |
06 06(木) 山本勘助関係のデータ |
山本勘助は明応九年八月十五日(1500)八名郡賀茂村(現在の豊橋市賀茂町)に生まる。 その祖清和天皇の後、森羅三郎義光の三世山本遠江守義定より出で世々駿河国富士郡に住居し、山本伝次郎幸綱に至りて三河国八名郡賀茂の荘二千五百石を賜る。 これ山本家の第一代となる。 第二代山本帯刀、第三代を山本藤七郎光幸といい、三子あり三男を源助と言う。 勘助即ち是なり。 勘助十五才の正月十五日、牛久保城主牧野家の臣大林勘左衛門貞次の養子となり、大林勘助貞幸と改む。 資性武事を好み、壮年にして父母に暇を請い飄然として郷里を出でて山越武者修行をなし遍く剣士の道場を訪問す。 二十五歳にして高野山に登り摩利支天堂に一、七日夜参籠して武術の上達を祈願せり。 霊験ありて満願の夜、夢の中に弘法大師の作なる摩利支天の像を受く。 身長一寸三分なり。 勘助これを襟にかけ身の守護となし、四国、九州、山陰、山陽を順遊し毛利氏、尼子氏に仕う。 三十五才の冬故郷牛久保に帰りしが、養家大林勘左衛門に実子生まれたる為、父子の縁を切り山本に帰る。 ここにおいて東関東に歴遊す。 小田原に至り北條氏康の武術の師松平七郎左衛門によりて氏康に謁す。 氏康その容貌の醜なるを見て用いず、勘助鎌倉に至り扇谷上杉憲政の許にあること数ヶ月。 去りて上州倉ヶ野越中守が家中に止まること三ヶ月。 信州岩尾の城主真田一徳斉幸隆を訪うて、その共に語るべき者なるを知り、十余日にして再会を約して去る。 〔これより「天文十二年冬十二月 実母の従弟庵原安房守忠房」によるデータ〕 忠房は今川義元の長臣にて勘助を義元に薦む。 義元その風采のあがらざるを見て用いず。 よって忠房、武田信玄の家臣甘利備前守虎泰に託して信玄に仕えしめんと計る。 当時牛久保城主牧野家の臣真木伝右衛門の一子、念宗法印、大和長谷寺の住職なりしも職を辞し、同木同作の観世音像を奉持して故郷牛久保に帰り、一宇を建立して観世音像を安置し長谷堂と称す。 現在の長谷寺の開山なり。 勘助日頃念宗法印の徳を慕い、甲斐に赴くに先立ち念宗法印に暇を乞い、襟掛の守護本尊摩利支天の像を奉り、行末を依頼し薙髪して道鬼入道と号し、また道鬼斉と名のり甲斐に出立す。 時、天文十四年春勘助四十四歳なり。 勘助人となり身短く眇目跛足なり。 信玄晴信之を見て大いに悦んで曰く「容貌具(ソナ)わらず奇才あらん」と、知行二百貫文を与え、名を晴幸と賜る。 天文二十二年(1553)十一月、上杉・武田の両将信州川中島に陣し、所謂川中島の合戦始まる。 これ最も勘助の力を振るいし処にして、知略絶倫謀を善くし、後世武田の兵法をいうもの旨晴幸を以って宗となす。 |