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折々の記 2007 B

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】07/20〜        【 02 】08/04〜
【 03 】08/05〜        【 04 】08/06〜
【 05 】08/08〜        【 06 】08/18〜
【 07 】08/25〜        【 08 】08/30〜



【 05 】08/08〜

  08 08 <旅行記>秋山郷 3 「赤沢河岸段丘」
  08 09 <旅行記>秋山郷 4 「秋山渓谷(秋山郷)」
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08 08(水) 秋山郷 3 「赤沢河岸段丘」


信濃川左岸の「津南マウンテンパーク」から、対岸の赤沢平を撮影。 中央奥深く山合いの谷間を流れるのが中津川で、この谷間が秋山渓谷である。

秋山渓谷の奥が「切明温泉」で、その川を遡っていくと群馬県六合村の野反湖で、昔は「草津街道」で人馬の行き来があったという。

このマウンテンパークはスキー場を含むレジャー施設で標高500m位で、そこからの眺めは素晴らしかった。南に広がる津南の赤沢平や十日町の河岸段丘はみごとだった。

ここを降りて117号を走り、中津川橋の手前を右折して赤沢平へ上がった。

いよいよ南朝の皇族方や貴族方が落ち延びた隠れ場、赤沢平である。 左手に農協の倉庫があり、そこで赤沢館址の石碑をお聞きしたら、若い人たちはわからなかった。 年配の人から、倉庫敷地の片隅に石碑があるがそこがそうじゃないか、とお聞きした。 時の流れを感ずる。



地図を見てお宮へ車を止めた。 1/25000 国土地理院の地図でみると、谷内の熊野神社であり、樹齢千年ほど周り八メートル余が印象的。

ことによれば熊野古道につながる信仰から皇族や公卿の発願によって分祀したものかもしれない。 この杉は滅多にあるものではない。

続いてお宮の前の道をすすみ、日本百名水・龍ヶ窪に出る。駐車場からさほど遠くはない。 さすがに水量は多い。 飲んでみると冷たくてうまい。 水を汲みにくる人たちが絶えることはないようだ。


   名水百選『竜ヶ窪の水』  昭和60年認定

 水量
 毎分30t、日量43,000t。沼は1日1回入れかわることになり、沼水を清冽な状態に保っている。
 沼の北東部から北へ向かって2本の用水となって流出している。

 水質
 水温は湧出口付近で最も低く6.5℃〜6.9℃、水面中央部で11.0℃、下記の表面水としては著しく低い。
 PHは6.6〜6.8で中性、DOは11.91〜14.44PPm。


 竜ヶ窪物語

 見附 藤野明美さん

 この物語は、昭和54年当時小学6年生だった頃、地域のお年寄りから聞いた話をもとに作成した物語です。これは
 学芸発表のときに行なった劇の脚本からあらすじをまとめたものです。

 むかし、越後の南のはずれに、妻有の里・芦ケ崎という村がありました。
 ある年、長い日照りが続き村人はヒエやアワどころか水一滴すらなく苦しい生活をしていました。 そんなある時、
 一人の青年が、天上山へ何か食べるものはないかと捜しにでかけたところ昼寝をしている龍を見つけました。そば
 に卵があったので龍が眠っているすきの卵を盗み出しました。そして、その大きな卵を村に持ち帰り、村人と相談
 した結果、せめて年寄りと子供にだけでも食べさせることにしました。

 卵を割り始めると、卵の中の龍の子が母親龍に助けを求めました。するとそこへ、怒り狂った龍が現れ、村人を食
 い殺そうとしました。庄屋をはじめ村人は必死に「子供だけは助けてほしい」と龍に頼みました。 龍はそんな必
 死の村人に心を打たれ、村人のために三日三晩雨を降らせ、池を作ってやりました。

 村人たちは喜んで龍に御礼をいうと、龍は「この池は、お前たちの美しい心の現れだ。しかし、人の心の 曇ると
 き、この池は涸れてしまうであろう」と言い残して消えてしまった。

 村人はこの池を『竜ヶ窪』と名づけてたいせつにし、神社を建てて龍神様をおまつりしたそうです。

もと来た道に戻って南へすすむと、右手に芦ヶ崎小学校がありその先は窪地となって湿地帯らしい。 道から下方を見ると畑地になっているから排水を考えてあるようだ。

20〜30mの窪地を抜けると岡地籍になり、右手に諏訪宮がある。 どのように分祀したのかはわからない。 少し進むと相吉地籍の右曲がりの直角道で、それを進むと城原地籍の畑地となる。 

適当な家に立寄っていろいろお聞きしたほうがよかった。

ここに300年ほど住み着いた皇族、公卿などの子孫は<08 05 秋山郷 2 「津南町の赤沢河岸段丘の人々」>のデータにあるように『暦応四年(1341年)北朝方の市川倫房【注1】などの軍勢に、新田方が破れた後、 赤沢平の約三千人の貴族の末路』を迎えることになったのです。

この戦いは5月28日から6月3日というから、赤沢平から秋山渓谷への逃避行は、5月中下旬のことだったに違いない。

【注1】  市川倫房

検索によると一件のみ検出、次に挙げる。


城下町ふらり 歴史探訪 http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/kanko/rekishi/pg/r57.html

歴史探訪は米沢に残る遺跡などをわかりやすく説明したもので、
平成5年4月から平成10年4月まで広報よねざわに連載されものを収録しています。


西条天満宮



 西条家が後醍醐天皇より賜った菅原道真画像を祀る

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今月は門東町三丁目の天満神社を訪ねました。平和通り駐車場の隣、米沢城三の丸土手跡の上に建っている神社です。もともとは米沢藩の重臣西条家で祀っていた社で「西条天神」とも呼ばれています。

西条家は信州の武士市川家の一族で、建武中興に功績があって信州埴科郡西条の領主(地頭)となり、西条を名乗ったといいます。また、その功績は次のように伝えられています。

西条家の始祖市川倫房(ミチフサ?)は故あって流浪し、隠岐の千波湊(ちぶりみなと=知夫里島)で船頭をしていました。時に元弘2年(1332)、鎌倉幕府の執権北条高時は倒幕を企てた後醍醐天皇を隠岐に流しましたが、天皇は翌春に行在所(あんざいしょ)を脱出、千波湊に着き船頭の市川倫房に伯耆(ほうき=鳥取県)の豪族、名和長年の所に送ることを頼みました。倫房は天皇を船底に隠して追手をかわし無事に送り届け、天皇から自筆の天神(菅原道真)画像と直垂(ひたたれ)を賜り、舟の櫂の家紋を許されたといいます。

この後、後醍醐天皇は名和長年のもとで全国に倒幕の号令を発し、これに呼応した足利尊氏等によって鎌倉幕府は倒されました。後醍醐天皇は建武新政を始め、倫房は西条の地を賜わり、その地に菅原道真画像を祀る天満神社を建てたということです。

 西条から上杉氏に従って米沢へ

その後、西条家は新田氏や関東管領上杉氏、武田氏などに仕え、武田氏滅亡後は上杉景勝の家臣となり、景勝が越後から会津、米沢に移ると西条家も神宝の菅原道真画像を携え米沢に移りました。

米沢時代の西条家は上級家臣団の侍組に属し門東町に住み、当初は花沢の下屋敷に天満神社を建て、後に屋敷裏の三の丸土手上に移しました。以後、西条家ならび門東町の鎮守として信仰を集め、近隣からも学問成就などを祈願して石灯篭や絵馬が奉納されました。現在の社殿は、大正6年の米沢大火で類焼した後、多くの浄財が集められ同11年に再建されたものです。

隠岐で後醍醐天皇を助けたことで賜わり、信濃の西条を経て米沢に来たという数奇な運命を辿った菅原道真画像。永い年月を経て傷みが激しくなりましたが、かすかに威厳ある容貌が偲ばれます。


市川倫房を見ると南朝を支持している点、新田義貞と敵対関係ではない。なぜ市川倫房が新田の勢力地に侵攻したのかおかしくなる。 それで調べていると次(<新田義貞 Wikipedia>)のことがわかってきた。


   北陸落ちと最期

湊川の戦いの後、比叡山に逃れた宮方は、足利方に奪還された京都を取り戻すために賀茂糺河原などに攻め下るが阻まれる。後醍醐天皇は足利方との和議を進め、義貞を切り捨てて比叡山から下山しようとしたが、義貞の一族家臣堀口貞満が後醍醐に、「当家累年の忠義を捨てて足利に降伏されるなら義貞以下一族全員の首をはねてお出ましあるべし」と奏上し、直前に阻止した。後醍醐天皇は朝敵となる可能性の出た義貞に対し、皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任し官軍であることを担保することで決着し下山。義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み、越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入るが、まもなく高師泰・斯波高経率いる軍勢により包囲される。義貞、義助は杣山城(福井県南条郡南越前町)に脱出し、杣山城主瓜生保と協力して金ヶ崎城の包囲陣を破ろうとするが失敗する。金ヶ崎城は延元2年/建武4年(1337年)3月6日落城し、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送される。

同年夏になると義貞は勢いを盛り返し、鯖江合戦で斯波高経に勝利し、越前府中を奪い、金ヶ崎城も奪還する。翌延元3年/建武5年(1338年)閏7月、武家方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かうが、越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し戦闘の末戦死した。『太平記』においては、乗っていた馬が矢を受けて弱っていたため堀を飛び越えられず転倒し、左足が馬の下敷きになったところに流れ矢を眉間に受け、自分で首を掻き切ったと記述されている。義貞がここで戦死したことは史実であるが、この死に方は事実とは考えられず、『平家物語』の義仲の最期の記述にヒントを得た『太平記』作者の創作であると思われる。首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である名刀鬼切丸もこの時足利氏の手に渡ったという。

なお、江戸時代の明暦2年(1656年)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、領主である福井藩主松平光通に献上した。象嵌が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として松平家にて保管された。明治維新の後、義貞を祀る藤島神社を創建した際、越前松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納された。戦前は国宝、現在、国の重要文化財に指定されている。

法名:源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位。  墓所:福井県坂井市の長林山称念寺。


このいきさつを見ると、後醍醐天皇は恒良親王と尊良親王を委任し官軍であることを担保したのにもかかわらず、高師泰・斯波高経をつかわして新田義貞を追討している。 明らかに南朝は新田氏を邪魔者として除外したのである。

こうしてみると、市川倫房は南朝派であるから新田の勢力地を侵攻することになり、南朝の皇族方・公卿方はあらぬ方向へ進まざるを得なくなったものと察する。

08 09(水) 秋山郷 4 「秋山渓谷」

いよいよ秋山の谷に入る。 赤沢平の部落から東へ行くと水田はなくなり、牧畜地籍になる。 この河岸段丘を降りると中津川になる。 しばらく上流へ走ると、渓谷の入り口「見玉」地籍となる。

ここにある見玉不動尊へお参りする。 ちゃんとした仁王門をくぐって行くと右手に勢いよく流れる石組の滝があり、ひんやりして気持ちいい。 そこの石段を少し登ると本堂がある。 

   

秋山渓谷一帯は急峻で地盤が硬くなっており、雑木がよく育ち湧水が涸れることはないようだ。 平地が急に斜面となり、しかもこの写真のような岩を清流が駆け下りてくる。

参詣を済ませて、門前左手のお店に入る。 おばあちゃんが目薬のお茶を勧めてくれた。 言われるままに二杯頂く。 なにやら効き目がありそうだ。 ここのお宮の本尊は見玉不動というが、目玉によく効く「めぐすりの木」が昔から多かったのだろう。

ここから先はいよいよ中津川の両岸は岸辺さえない切り立った地形になる。 清水川原橋を渡って右側へ移ると道はぐんぐん急坂になって高いところをくねくねと右に曲がり左に曲がって進む。 結東地区を過ぎると家も見当たらず深い谷を右に見ながら右曲し左曲してしばらく進む。 前倉地籍は集落を迂回して進むので家の姿は見えない。 

下り坂になってから前倉橋を渡る。 結構りっぱな橋である。 渡るとすぐ「平家茶屋」がある。 やまめの塩焼きは一度干ぼししてあって気に入ったうまさだ。

ここを少し登ると大赤沢の集落となる。 

   

八幡様の祠は見たとおり小さいものだ。 山源という栃の木細工の店はすぐわかった。 テーブルなど立派な製品がたくさん展示してある。 こんな栃の木がどこにあったんだろうか。

硫黄川を境にして栄村の秋山郷になる。 この川が中津川へ注ぐ手前に蛇淵の滝があるが、聞いてみると下りはいいが、登りがえらいというので見ることはやめる。

さて、秋山郷では一番上流にある切明へいく。 切明の橋を渡ると志賀高原や野沢温泉村へ通ずる。 途中から栄村へ下りる道もあるがなかなか大変だ。 秋山郷への出入りは中津川沿いの道がいいようだ。

   

http://www.naganoken.net/ideyu/yutanpo/nagano1/yusen.htm を開くと次の説明がある。

  切明温泉・雄川閣

  信濃路の最北にある豪雪地栄村にあって、秋山郷は更に山の奥深い場所にある。切明温泉は魚野
  川と雑魚川の合流地点の渓谷にある。雄川閣は村の保養センターだが、宿泊も出来るので四季を
  通して訪れる人が後を絶たない。ここ切明地区の歴史は、江戸時代に遡る。江戸中期(1700年頃)
  に箕作村(現:栄村箕作地区)の名主「島田三左エ門」がこの温泉を発見し、秋山郷の産業の一
  つに活用できるようにと代官に願い出て営業を開始したと言われている。しかし、江戸後期には、
  洪水により宿が流されたが復旧されなかった。それから250年余りたった昭和47年に村営の
  宿として営業を開始した。

  温泉は無色透明で、毎分200?の湯量があり、源泉の温度は54℃ある。部屋は旅館というより
  「山小屋」のような印象を持ち、ギシギシ音がする廊下や隣室の声も聞こえるという。部屋から
  見えるものは山だけで、ときたま野生動物を見る事もあると言う。浴室は岩風呂風の内湯、混浴
  の露天風呂と貸切風呂がある。露天風呂は内湯の手前の出入り口から外にでて、魚野川の渓谷間
  近まで下っていったところにある。何の遮りもないため河原で遊ぶ人からもよく見える。景観は
  岩風呂の内湯もひけをとらない。大きな窓からは渓谷がパノラマのように望まれる。湯上り後は
  テラスで大自然の空気と冷えたビールを味わえば最高の気分だ。

切明温泉へ300円払ってはいる。 一人だけで温泉につかる。 ここから和山温泉へ下りる。 

http://www.naganoken.net/ideyu/yutanpo/nagano1/jinseikan.htm を開くと次の説明がある。

  和山温泉・仁成館

  和山温泉は鳥甲山を真正面に望む景勝の地。その山麓の中津川渓谷の斜面に寄りそうように数軒の
  宿がある。仁成館はその一番奥の川沿いにぽつんと1軒だけ佇む。鳥甲山の登山口にもなっている
  ので、登山客には格好の宿にもなっている。露天風呂は混浴だが、女性には無料で湯タオルを貸し
  てくれるので、安心?して入浴できる。湯船には桧笠も幾つか置いてあるので、雨や雪の日と晴天
  時の日除けにも重宝だ。また内湯も広く、窓を空ければ鳥甲山の勇姿を望むことができる。
  昭和57年には現皇太子殿下も登山の際宿泊され、当時の写真がロビーに飾られている。

ここのご主人関谷猛さんからいろいろと詳しいお話を聞くことができた。 ことに秋山郷がすばらしい文化を担ってきた人々の末裔であることを村を挙げて研究し、文化の誇りを持ちたいという点に至っては、私自身の存念とそっくり同じであった。 この度の秋山探訪の目的は南朝の皇族や公卿の生きのびてきた遺蹟を偲び、心の糧にしたかったところにあった。

こうした想いからご主人の関谷猛さんには心から感謝します。 

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