08 08(水) 秋山郷 3 「赤沢河岸段丘」 |
名水百選『竜ヶ窪の水』 昭和60年認定 水量 毎分30t、日量43,000t。沼は1日1回入れかわることになり、沼水を清冽な状態に保っている。 沼の北東部から北へ向かって2本の用水となって流出している。 水質 水温は湧出口付近で最も低く6.5℃〜6.9℃、水面中央部で11.0℃、下記の表面水としては著しく低い。 PHは6.6〜6.8で中性、DOは11.91〜14.44PPm。 竜ヶ窪物語 見附 藤野明美さん この物語は、昭和54年当時小学6年生だった頃、地域のお年寄りから聞いた話をもとに作成した物語です。これは 学芸発表のときに行なった劇の脚本からあらすじをまとめたものです。 むかし、越後の南のはずれに、妻有の里・芦ケ崎という村がありました。 ある年、長い日照りが続き村人はヒエやアワどころか水一滴すらなく苦しい生活をしていました。 そんなある時、 一人の青年が、天上山へ何か食べるものはないかと捜しにでかけたところ昼寝をしている龍を見つけました。そば に卵があったので龍が眠っているすきの卵を盗み出しました。そして、その大きな卵を村に持ち帰り、村人と相談 した結果、せめて年寄りと子供にだけでも食べさせることにしました。 卵を割り始めると、卵の中の龍の子が母親龍に助けを求めました。するとそこへ、怒り狂った龍が現れ、村人を食 い殺そうとしました。庄屋をはじめ村人は必死に「子供だけは助けてほしい」と龍に頼みました。 龍はそんな必 死の村人に心を打たれ、村人のために三日三晩雨を降らせ、池を作ってやりました。 村人たちは喜んで龍に御礼をいうと、龍は「この池は、お前たちの美しい心の現れだ。しかし、人の心の 曇ると き、この池は涸れてしまうであろう」と言い残して消えてしまった。 村人はこの池を『竜ヶ窪』と名づけてたいせつにし、神社を建てて龍神様をおまつりしたそうです。 |
歴史探訪は米沢に残る遺跡などをわかりやすく説明したもので、 平成5年4月から平成10年4月まで広報よねざわに連載されものを収録しています。 西条天満宮 西条家が後醍醐天皇より賜った菅原道真画像を祀る -------------------------------------------------------------------------------- 今月は門東町三丁目の天満神社を訪ねました。平和通り駐車場の隣、米沢城三の丸土手跡の上に建っている神社です。もともとは米沢藩の重臣西条家で祀っていた社で「西条天神」とも呼ばれています。 西条家は信州の武士市川家の一族で、建武中興に功績があって信州埴科郡西条の領主(地頭)となり、西条を名乗ったといいます。また、その功績は次のように伝えられています。 西条家の始祖市川倫房(ミチフサ?)は故あって流浪し、隠岐の千波湊(ちぶりみなと=知夫里島)で船頭をしていました。時に元弘2年(1332)、鎌倉幕府の執権北条高時は倒幕を企てた後醍醐天皇を隠岐に流しましたが、天皇は翌春に行在所(あんざいしょ)を脱出、千波湊に着き船頭の市川倫房に伯耆(ほうき=鳥取県)の豪族、名和長年の所に送ることを頼みました。倫房は天皇を船底に隠して追手をかわし無事に送り届け、天皇から自筆の天神(菅原道真)画像と直垂(ひたたれ)を賜り、舟の櫂の家紋を許されたといいます。 この後、後醍醐天皇は名和長年のもとで全国に倒幕の号令を発し、これに呼応した足利尊氏等によって鎌倉幕府は倒されました。後醍醐天皇は建武新政を始め、倫房は西条の地を賜わり、その地に菅原道真画像を祀る天満神社を建てたということです。 西条から上杉氏に従って米沢へ その後、西条家は新田氏や関東管領上杉氏、武田氏などに仕え、武田氏滅亡後は上杉景勝の家臣となり、景勝が越後から会津、米沢に移ると西条家も神宝の菅原道真画像を携え米沢に移りました。 米沢時代の西条家は上級家臣団の侍組に属し門東町に住み、当初は花沢の下屋敷に天満神社を建て、後に屋敷裏の三の丸土手上に移しました。以後、西条家ならび門東町の鎮守として信仰を集め、近隣からも学問成就などを祈願して石灯篭や絵馬が奉納されました。現在の社殿は、大正6年の米沢大火で類焼した後、多くの浄財が集められ同11年に再建されたものです。 隠岐で後醍醐天皇を助けたことで賜わり、信濃の西条を経て米沢に来たという数奇な運命を辿った菅原道真画像。永い年月を経て傷みが激しくなりましたが、かすかに威厳ある容貌が偲ばれます。 |
北陸落ちと最期 湊川の戦いの後、比叡山に逃れた宮方は、足利方に奪還された京都を取り戻すために賀茂糺河原などに攻め下るが阻まれる。後醍醐天皇は足利方との和議を進め、義貞を切り捨てて比叡山から下山しようとしたが、義貞の一族家臣堀口貞満が後醍醐に、「当家累年の忠義を捨てて足利に降伏されるなら義貞以下一族全員の首をはねてお出ましあるべし」と奏上し、直前に阻止した。後醍醐天皇は朝敵となる可能性の出た義貞に対し、皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任し官軍であることを担保することで決着し下山。義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み、越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入るが、まもなく高師泰・斯波高経率いる軍勢により包囲される。義貞、義助は杣山城(福井県南条郡南越前町)に脱出し、杣山城主瓜生保と協力して金ヶ崎城の包囲陣を破ろうとするが失敗する。金ヶ崎城は延元2年/建武4年(1337年)3月6日落城し、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送される。 同年夏になると義貞は勢いを盛り返し、鯖江合戦で斯波高経に勝利し、越前府中を奪い、金ヶ崎城も奪還する。翌延元3年/建武5年(1338年)閏7月、武家方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かうが、越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し戦闘の末戦死した。『太平記』においては、乗っていた馬が矢を受けて弱っていたため堀を飛び越えられず転倒し、左足が馬の下敷きになったところに流れ矢を眉間に受け、自分で首を掻き切ったと記述されている。義貞がここで戦死したことは史実であるが、この死に方は事実とは考えられず、『平家物語』の義仲の最期の記述にヒントを得た『太平記』作者の創作であると思われる。首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である名刀鬼切丸もこの時足利氏の手に渡ったという。 なお、江戸時代の明暦2年(1656年)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、領主である福井藩主松平光通に献上した。象嵌が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として松平家にて保管された。明治維新の後、義貞を祀る藤島神社を創建した際、越前松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納された。戦前は国宝、現在、国の重要文化財に指定されている。 法名:源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位。 墓所:福井県坂井市の長林山称念寺。 |
08 09(水) 秋山郷 4 「秋山渓谷」 |