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折々の記 2007 B

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】07/20〜        【 02 】08/04〜
【 03 】08/05〜        【 04 】08/06〜
【 05 】08/08〜        【 06 】08/18〜
【 07 】08/25〜        【 08 】08/30〜



【 02 】08/04〜

  08 04 <旅行記>秋山郷 1 「山路智恵の絵手紙美術館」

08 04(土) 秋山郷 1 「山路智恵の絵手紙美術館」

コピーの日にちを見てわかるが、秋山郷の訪問を考え始めていた。

8月2日〜3日に訪問したのだから、それまでは準備期間でした。 携帯した「秋山郷訪問」の冊子の内容は次のようなものである。


 秋山郷訪問 <津南町・栄村>

目次

  01  19号線小田切ダムから→栄村「切明」までの地図
  14  津南町・栄村の<秋山郷>
  16  「津南の歴史ロマン」……<津南出身文学博士石田吉貞の講演>
                  演題 『津南および秋山の歴史』
  28  秋山郷ドライブ
  33  秘湯・秋山郷の出湯
  40  秘境・秋山郷の旅
  42-1 秘境・秋山郷の旅
  43  栄村ホームページ
  57  栄村ものがたり
  60  栄村絵手紙のページ

行動計画
          永遠の美(towanobi)を訪ねて

         早朝に出発、上野原あたりで一泊
頁
01  犀川の小田切ダムから地図に従って進む。
   
08 さかえ倶楽部スキー場 <栄村国際絵手紙タイムカプセル館>
             <山路智恵絵手紙美術館>見学 
              「栄村ものがたり」を参照(57頁)

08 栄村役場 秋山郷の地図手配

09 もりみやのはら駅前<森宮野原駅交流館ふきのとう>
              特産品販売・
              二階は展示場「立川談慶の絵手紙展」

09 道の駅<信越さかえ>特産品販売・食事

09 宮野原 部落入り口に56軒の中村姓り(19頁)

09 大井平 善福寺 菩提寺(16,20,26頁) 祇園祭りの伝承あり(27頁)

09 マウンテンパーク津南  ここから赤沢平の撮影

09 津南町役場 津南町の地図手配 
        又は 15頁の「かねく」の場所で 1/25000地図「赤沢」購入

09 赤沢平の見学・写真  地図参照
13 赤沢平の見学・写真  地図参照

     神社名・熊野三社渡来 龍王大権現由来記(26頁)
        ・赤沢八幡社(村社赤沢神社) 大赤沢の八幡社と秋祭の祭日は
         九月十四・五日と同日(26頁)
        ・相吉の十二神社 相吉上の原にあった熊野三社を合祀(26頁)
        ・谷内の熊野神社には樹齢千年ほどの杉の御神木あり(26頁)

          赤沢館 殿様の居所 芦ヶ崎中学校(現在の農協選果場)付近(19頁)

          七堂伽藍の泉秀院 立石と谷内の集落のどこかにあった(16頁)

     お寺名 

     墓跡    赤沢館址の南西に集中 津南町史通史編上巻P172(26頁)
                  歴応四年六月、新田一族敗退後の建立はない(16頁)

     龍ヶ窪の水 及び 池、 天上山、
     
     谷内 ・藤木家の古文書に龍池山泉秀院(七堂伽藍)→永生の乱で焼失
         本尊は藤木家に安置、天正の頃大井平の善福寺に移す(16頁)
        ・谷内の旧字(アザナ)に御所、下御所、御所原、熊野原、大門、
         払沢、宮ノ下、観音堂原、立石という地名がある(26頁)
        ・寺内の南方4kmの山中、妙法育成牧場あたりに妙法院という
         寺がありました。(16頁)
         叡山派の天台宗で京都にも妙法院があります。中世になると
         仏教はがらりとかわり、浄土宗、禅宗、日蓮宗になるのに、
         赤沢に来た人は平安朝の貴族だということがわかります。
          ここで考えられるのは「保元の乱」で、敗れた貴族達の中
         には新田義貞を頼って東国へ逃れたものも多くいた。そこで
         選ばれたのは匿うのに絶好の地、赤沢平だった。(16頁)

     立石  京都ではお墓のことを「立石」という。
         芦ヶ崎小学校前桑畑の遺跡 阿部和孝調査(26頁)

     
09 沖の原遺跡撮影  撮影後405号線へ出る

09 秋山郷とは中津川の谷合の12の集落の総称である。 全線舗装完了

 下流から行くと、津南町

   見玉 ミダマ   2軒の土産屋と食堂あり。
    (41頁)   ・高橋屋 24種類の漬物あり、饅頭おやきも。
           いろいろのお茶もある。目薬の木あり。
          ・見玉不動尊 眼病に霊験あらたかという。
   穴藤
   逆巻 サカサマキ   猿飛橋からの眺望は佳。
    (42-1頁)   左岸に逆巻温泉・川津屋あり。蔓籠を売っている。   
   見倉/清水川原
   結東 ケットウ  ・「栃の実会即売所」栃餅や煎餅などいろいろ販売。
    (42-2頁)  ・広い駐車場の下が「かたくりの宿」
          ・ここを出て左折し折りきった所が「見倉橋」
           新潟の名橋50選に入っている吊橋。
           この橋を渡って行くと見倉集落に入る。
          ・(萌木の里)秋山郷一番の観光施設あり。 
           「栃の実館」はレストラン、工芸品販売、温泉もあ
           る。
   前倉 マエクラ   前倉橋を渡ると「平家茶屋」があり、岩魚の塩焼き
    (42-3頁)   の匂いが香ばしい。
   大赤沢 オオアカサワ 大赤沢八幡宮の参拝
    (42-4頁)   山源木工の木彫り製品の展示販売。
           「蛇淵の滝」撮影

 ここから栄村になる

   小赤沢 コアカサワ ・小赤沢温泉 楽養館     (42-4頁)   天下の赤い湯、療養泉            小赤沢温泉・楽養館     (33,38頁)   泉質/含鉄−ナトリウム・カルシウム−塩化物泉 45度            小赤沢集落は信州秋山郷でも入口にあり、苗場山登山口            にもなっているためハイカーや登山者はここにある民宿            を利用している。全国的にも珍しい鉄分を多く含んだ赤            い湯。その濃度は一般療養泉の倍以上という。かぶり湯            ・打たせ湯・圧注浴・寝湯で健康づくりに最適。            入浴500円 10:00〜8:00(5〜10月) 無休(5〜10月)     (30頁)   ・「民族資料館」数百点展示、無休 350円           ・「秋山郷総合センター(とねんぼ)」とねんぼとは、            一つにまとまる意味の方言。役場、郵便局など公共            施設が集まっている。     (31頁)   ・「秋山郷保存民家」福原家(藤原家)の総本家が残されて            いる。

   屋敷 ヤシキ    屋敷温泉(33,36頁)            秋山歴史民族資料館    上野原 ウエノハラ  上野原温泉・牧之の宿(のよさの里)     (33,39頁)   開放的な露天風呂からは男性的な荒々した標高2038     (30頁)    mの鳥甲山が目前に迫り、何時間湯に浸かっていても飽            きないパノラマは、この温泉以外には見当たらない。前            に紹介した真っ赤な湯の小赤沢から車で20分ともかか            らない位置にあるのに泉質はまったく異なる。作家鈴木            牧之に因み、建物は秋山郷の文化と伝統をそのまま再現            された民家造りの牧之の宿として本家、分家式になって            いる。施設内には囲炉裏もあり、時間が止まったのでは            と思うほどの秋山郷らしい湯宿だ。            村営施設 入浴300円 10:30〜6:30 無休            キャンプ場 駐車料3000円    和山/栃川高原  和山 ワヤマ 温泉      (33頁)    泉質/カルシウム・ナトリウム−硫酸塩・塩化物泉 49度            屋敷部落から北へ1km、布岩の断層崖下に栗の木があ            り、その下に墓石や石仏がある。天明の大飢饉の時、村            人全員が死んだ大秋山村の墓地である。            栃川高原            キャンプ場 駐車料2000円    切明 キリアケ   切明温泉・雄川閣     (42-5頁)   雄川閣は村の保養センターだが、宿泊も出来るので四季     (33,35頁)   を通して訪れる人が後を絶たない。            江戸中期(1700年頃)に箕作村(現:栄村箕作地区)の            名主「島田三左エ門」がこの温泉を発見し、秋山郷の産            業の一つに活用できるようにと代官に願い出て営業を開            始したと言われている。            しかし、江戸後期には、洪水により宿が流されたが復旧            されなかった。それから250年余りたった昭和47年            に村営の宿として営業を開始した。            温泉は無色透明で、毎分200?の湯量があり、源泉の            温度は54℃ある。            大きな窓からは渓谷がパノラマのように望まれる。            村営施設 入浴300円 無休

地図08頁の青倉トンネルを過ぎてから「さかえ倶楽部スキー場」という入口標識が目についた。 スキー場と美術館の案内に従ってゆくとアッという間もなく着いた。

9:30頃である。 開館は10:00になっていたが、親切に開館してくれた。 

  山路智恵絵手紙美術館 〒389-2702 長野県下水内郡栄村大字北信2503
                  TEL 0269-87-1920
                  ホームページ http://www.etegami-goods.co.jp/
                  開館時間/午前10時〜午後5時
                  休館日/2007年11月まで無休
                  入館料/一般・大学800円 小中高生400円

一人だけだったのでゆっくり見学できた。

  

   はじめて すみをすって

   ふでで絵も字もかきました

   2じかん 30ぷんも かきました

   おなか ぺこぺこ

   むね どきどき
                      ともえ
       一九九○年二月十六日
  

この画像は「もしも〜し小池先生」68頁に載っている画像です。(帰宅後デジカメで撮影)

展示室内を見ていって、この絵を前にして一瞬私の目は釘づけされていた。

「凄ィ!」 この絵が小学校二年生三学期に描かれているのです!

お母さんの助言や生活の姿から智恵さんはすくすく伸びていったのです!  凄ィ!

私の願っている「0歳教育」そのものの実態が目の前にあるのです!

私の気持ちはとても落ち着いていましたが、もの凄い感動をうけました!

"ともえ"さんは書いています、「2時間30分も描きました  おなかペコペコ」と。 小学二年生が目に浮かぶのです、そして本人は満足しきっていますね。 とにかく凄ィのです!
    

   やったよ 絵手紙 千日目

   先生 わかって この気もち

   うれしい うれしい

   うれしいよ

                 ともえ
        1990.12.31
  


この画像は「もしも〜し小池先生」59頁や、<http://www.etegami-goods.co.jp/timecapsule/yamaji.htm>に載っている画像です。

1990.12.31というから、小学校三年の大晦日の日の作品です。

●山路智恵絵手紙美術館で絵手紙株式会社発行の「もしも〜し小池先生」を購入した。 山路智恵さんの概要を知るのに格好な本である。

117頁以降の解説を参考のために転載します。


 山路智恵 「夢おいかけて」
                                杉内俊彦

ちっちゃな村の絵千紙旋風

 それは、新潟県境に位置する長野県の山深い小さな村が舞台となった。
 入口わずか二千九百人、豪雪地帯の過疎の村として知られる長野県下水内郡栄村は、近くを千曲川が流れる大自然に包まれた山村である。村内にあるJR飯山線・森宮野原駅は、七・八メートルの鉄道の駅での日本で最高の積雪記録を持つ。
 その村に突然、人口の四倍強、一万二千人もの観客が押し寄せたのである。それも、ごくごく、普通の少女、一人の小学生の絵手紙展にである。
 東京・三鷹市に住む、その少女の名は山路智恵さん。小学校入学の日から毎日欠かさず絵千紙をかき続け、六年生になった九月に二千枚を達成した。これを記念した智恵さんの『なんなんなんと二OOO日展が、平成七年にこの村で開かれたのだ。

  感動を伝えたい

 きっかけは、同村の公社職員である斎藤貞子さんが、上京した折に智恵さんの絵手紙展を見たことだった。大感激した斎藤さんは、「この素晴らしい作品を村の人たちに見せたい。この感動をどうしても伝えたい。実際に見たらどんなに村の人は喜ぶだろう」という情熱で、困難を極めながらも村とかけあい、予算や会場スペースを確保したのだった。まさに、岩をも通す一念。そんな心の奥底を揺さぶるまでの感動が、智恵さんの絵手紙にはある。
 当時の同村には智恵さんの作品を飾るスペースがなかったため、急きょ村内の物産館が会場にあてられた。実行委員会が組織され、あれやこれやアイデアを出しあいながらの手作りイベントの準備がスタートした。

  口コミの広がり

 展覧会は、もちろん世界展などと銘打つメジャーなものではない。にもかかわらず、初日に村の人口の一割強となる三百人の来場者を迎えて以来、口コミでその感動が広がり、最終日は千六百人もの来場者を記録するほど盛況だった。
 車で三、四時間もかけて、遠方から来た人もいる。また、狭い会場は身動きが苦しいほど混雑し、駐車場では二時間待ちという事態も。しかし作品を見た人は一様に「本当に素晴らしいものを見せてもらった」「ずいふん長い時間待たされたけど、見に来てよかった」と満足げな表情を浮かべ帰ったのである。
 たった一人の少女の作品がこれほどの感動を呼び、村に絵手紙旋風をもたらしたのである。
 その後村は、全国から一万二千五百点の応募を受けて、二万人以上の人が足を運んだ、「小ちゃなしあわせ絵手紙展」を開催したほか、長野五輪に合わせた「絵手紙世界展」には百ヶ国を超す国々から八万点の出品作が集まるなど、名実ともに絵手紙の村となった。
 智恵さんの絵手紙が村を再生させたばかりか、奇跡を起こしたといっても過言ではない。

  絵手紙との出会い

 日頃の生活の中で目にするダイコンや魚、季節の花たち・・・山路智恵さんの絵手紙には、そんな暮らしのひとコマヘの独自の観察眼が光る。
 「どんずりすわった大根どん/あんまりいい顔してるんで/今日は早めにまなの上」「明日のゆめでは飛びたいな」「こでまりさん/こでまりさん/こどもにまりつきおしえよか/それとも春をおしえよか」
 時に繊細で、時に大胆なほどの迫力を持つ筆致で描かれた絵。それに添えられたリズムのあるやさしい言葉からは、智恵さんの心までもが伝わってきて、ほのぼのとした感動を生む。
 そんな智恵さんと絵手紙との出会いは、四歳までさかのぼる。

  やってみたい!

 母親である典子さんが絵手紙の創始者である小池邦夫さんの講習に参加し、仕事と家事に追われるかたわら、時々絵筆を手にした際に、智恵さんがそばで「わたしもやってみたい」とマジックを手にした。
 しかし、二千日、三千日と、絵手紙の長いマラソンがスタートしたのはそれから二年後、小学校入学の日だった。当時のことを典子さんは「親子の思い出づくりのためだった」と話す。 仕事にせかされているだけの母親ではなく、小さい時お母さんとこんなことをしたいなあという、思い出に残るものとして絵手紙という手段を選んだ。
 絵手紙ならり受け取ってくれる相手がいる。時に励ましの言葉がもらえれば、少しは長く続くかも、と講習会で一度会っただけの小池邦夫さんに受け手をお願いしたのである。 

    第1号の絵手紙

 昭和六十三年四月六日、小学校入学式当日、智恵さんの記念すべき絵手紙第一号は「おばあさんどこいくの」だった。黒マジックでかかれたこの作品は、ごく普通の小学一年生の絵である。
 この日から、親子で共有できる夕食後の大切なひとときを図書館から借りてきた本の読み聞かせと、その中で一番好きな絵を写すという、絵手紙づくりがスタートした。それが四千日もの長い間続くことになろうとは、母親の典子さんも、小池さんも、ましてや当の智恵さんも、思ってはいなかった。
 その後、マジックからクレヨン、色鉛筆、水彩絵の具と画材の変遷や、粘土にようじで彫った「はんこ」など、子どもを飽きさせないよう機転のきく母親の配慮や、小池さんからの温かい励ましで一年、また一年と記録が更新されていく。

  人も作品も成長

 二年生になると、野菜や果物、魚など、対象をよく見つめ大きく描くようになると同時に、じっくり観察することで言葉にリズムが生まれ、感性の光る表現が見られるようになってきた。
 三年生になると半紙大の和紙を使い、筆や顔彩をそろえ、四年生では五十×四十センチの紙、五年生では一・五メートルもの紙にもかくようになった。
 さらにこの間、棟方志功やルオー、デュフィなどの展覧会を見るたびに触発を受け、滋養をたっぷり吸い込んだ木々のように絵手紙が変化を見せていった。
 この智恵さんの観察力やみずみずしい感性を研ぎ澄ませていく過程が、作品を追っていくことで手にとるようにわかる。一人の少女が人間的に豐かになっていき、まっすぐに成長していくさまが、作品を通してひしと感じられるのである。

世界に広がる感動

 入と入は、出会うことから始まる。そこには不思議な偶然がつきまとう。

  出会い次々と

 智恵さんを一躍時の人にしたのが大崎ウエストギャラリーの島田幸吉さん。現在の日本絵手紙協会の事務局長である。小池さんが、島田さんの本質を見極めた独自の画廊運営に賛同し、智恵さんを紹介した。
 さらに、島田さんは後に絵手紙の、世界への橋渡しの一翼を担う外国人とひょんなことで出会う。日本文化を学びに来たアーサーさんだ。
 アーサーさんが画廊に出入りするようになったある日、彼が祖父がわりに思っているアメリカの版画家エミール・ウェディッジュさんを紹介してくれることになった。パリにアトリエを持ち、著作『リトグラフィー』は全米の大学で教科書に採用され、ミシガン大学の名誉教授を務める人だ。
 そのエミールさんが来日し、画廊を訪れたのが、偶然にも五年生になった智恵さんの「てのひら童話展」最終日だった。
 エミールさんは画廊に人るなり、「これは素晴らしい。天真らんまんな作品だ」と、大きな衝撃を受けた。さらにアーサーさんの通訳により添えられた言葉を理解すると、「日本の子どもの教育は画一的で似たようなことをやっていると聞いたが、この絵と言葉の統一美は驚くべきことだ。ひらめきと洞察力に富み、芸術の普遍性にしっかりと根付いている」と絶賛した。

  アメリカ展実現

 帰国後、エミールさんが準備を進め、アメリカでの智恵さんの個展が実現することになった。平成六年のことである。
 このアメリカ展は、ミシガン州とオハィオ州の二会場で開かれ、現地の新聞やテレビに「詩と絵の天才」として取り上げらねるなど、たいへんな成功をおさめた。
 なかでも、あたかも、ジャズのように大勢の人たちが見守る中での絵手紙のデモンストレーションは、アメリカ人を驚かせた。筆を持ち対象を見つめ、一瞬の静寂から一転して大胆に、和紙からはみ出しそうな勢いで、太筆でみるみる描かれていく構図。そのスリルとスピードは、国境を越えても見るものを感動させた。

  心の通う交流に

 このアメリカ展が好評で、翌年は再度、今度はニューヨークでの展覧会が実現した。この時、耳の聞こえない学生との絵手紙教室が開かれた。智恵さんはJRC部で活躍していたこともあつて、多少の手話も体得していた。六年生の時のボランティア標語コンクールでは、「助けられたり、助けたり、長い入生あいこでしょ」という作品か最優秀賞に輝いたこともある。老人ホーム慰問や身体障害者との交流など、さまざまな奉仕活動もしてきている。
 こうしたボランテア経験もあってか、絵手紙を通じて、現地の生徒たちと心の通った交流が生まれた。聾学校の教師たちは「自分の生徒にこんな素晴らしい才能があったとは」と感激し、今後は絵手紙の時間を設けようということにもなった。その後もルクセンブルクへの絵手紙遣欧使など、智恵さんの活躍はととまるところをしらない。
 一枚のはがきは、とても小さな世界。しかし、ポストに入れることで、それは世界のいたるところにつながる。ましてや、絵手紙という心をその小さなカンバスに表すことで、人類や国境の垣根を越えた感動を、共同体験できるものなのだ。

夢おいかけて

 中学・高校生になった智恵さんは、一日一枚から、かける時にかくことを心がけている。陶芸を始め、日本の伝統や、古い建物などにも興味をもつようになり、畳大の絵手紙もかくようになった。
 特に松本城から始まった建物シリーズや、寒中に川越に通い続けての五百羅漢シリーズは、小池邦夫さんを喜び驚かせた。
今春から大学生になる智恵さんは「二OOO年は燃えて燃えて墨になりたい」と元旦の.小池さん宛の絵手紙にかいている。さらなる飛躍を期待したい。


●美術館の見学を終えて栄え村役場へ立寄る。 ここで栄村の地図を手に入れるつもりだった。 幸便にも日本地理院複製のI/25000、栄村一枚の地図が手に入った。


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