08 05(日) 秋山郷 2 「津南町の赤沢河岸段丘の人々」 |
-------------------------------------------------------------------------------- 「若き日のために」という本がある、津南町出身で文学博士石田吉貞氏の顕彰記念誌である。この本の中で大変興味深い話が出ていたのでここで少し紹介しようと思います。(文は昭和59年11月2日津南町役場において講演会のテープを文章化したもので以下は本より抜粋) 立石と谷内の集落、このどこかに七堂伽藍の寺があったと伝えられている。 津南および秋山の歴史 谷内、赤沢の地には今から1千年ばかり前に京都から非常に身分の高い皇族、貴族達が来て、およそ300年間住み続けました。そして谷内の地に七堂伽藍のお寺がありました。 その証拠は谷内の藤木家にある古文書に「七堂伽藍を備えた寺があり、その名を龍池山泉秀院という。」(七堂伽藍とは金堂、塔、講堂、経堂、鐘楼、僧房、食堂を備えた大きな寺のこと。龍池山とは龍ヶ窪、泉秀院とはとはきれいな泉の湧くところの意味) この寺はずっと長く続いたのですが、後世、上杉氏のころ永生の乱【注1】で焼かれてしまいました。本尊様は、しばらく藤木家に安置されましたが、その後天正のころ大井平に移して禅宗に改宗されました。今の善福寺がそれだ、と書いてあります。そういう寺があったことからしても、此処に貴族が居たことははっきりしています。また枝村に立石という部落がありますが、京都ではお墓のことを「立石」と言います。これも泉秀院と関係があると思います。 次に谷内の地内に御所という地名があることです。「御所」とは天皇に関係のある人のいる所だけに付ける名であります。更に藤木という苗字は藤原氏から来ているものと考えられます。 今度は谷内を離れて県営牧場あたりに妙法院【注2】という寺がありました、叡山派の天台宗で京都にも妙法院があります。中世になると仏教はがらりと変わります、(1186年)浄土宗、禅宗、日蓮宗となってくるわけですがこちらの寺は天台宗、真言宗ですから、赤沢に来た人は平安朝の貴族だと言うことが判ります。それで平安朝の貴族が、どうして赤沢あたりまで来て住んだのか・・・。これは大変な疑問ですね。 そこで考えられるのは、保元の乱(1156年)【注3】です。京都で起こった戦乱は皇族、貴族、武士達がゴチャゴチャになって戦いました。血族同士の争いですから、負けたほうは処刑される、だから京都には居られない。しかも高位の人ほど危ないので、ずっと東国の方へ来て上州(群馬県)の 新田氏【注4】を頼った者が多かったわけです。新田氏も引き受けたけれども上州へ匿うわけにもいかない、そこで選ばれたのが赤沢平であります。 マウントパークから赤沢平の眺め、回りの絶壁が天然の要塞のようになっている。 赤沢平という所は、その回りがまるで石垣を築いたように切り立っており、聞くところによると太平洋戦争で本土決戦となった場合、その拠点地候補にあがったといわれといわれています。それほどの険祖なので、新田氏がここに平安貴族を匿うことにしたのも当然でしょう。 ところで、この地は新田氏の居る上州からも近いのです。ずっと昔から、上州の草津から秋山郷の切明まで、いわゆる「草津街道」がありました。この切明から中津川を少し下って、崖道を左に上がればそこはもう赤沢平です。 上州は縄文土器のあるところでは日本でも有数の地ですが、その時代からすでに往来があったでしょう。赤沢平にも縄文土器の出る有名な「沖野原遺跡」があります。そんな関係の土地ですから、新田氏はここに上げて匿った。しかも、天皇、摂政、関白というような身分の人たちもおられるから、本当に張り切って最大の待遇をしたと思うのです。七堂伽藍の建物を供えたお寺、御所を造営し谷内から上には貴族の邸宅を建て、そして草津街道を通じてあらゆる物資を運んで来たでしょう。 さて京都はと見ると、保元の乱以後ごちゃごちゃの世が続きます。まずすぐ後に平治の乱が起こる。次いで源平の争いがやってくる。飢饉で米がなくなる。地震が起きる。とにかく人間の住めないような状態でした。 京貴族がこの地に来て谷内に七堂伽藍がすぐに建ったとは思われない。10人ぐらい来たとしてもそんな大きな寺は要らないわけです。まあ、百人、二百人となると寺院の必要を感じるようになる。あの頃の貴族は、非常に神の力、仏の力にすがりたいという気持ちが強かったのです。ことに赤沢平あたりに来ていても、いつ京都から追っ手の軍勢が来るかわからないという不安があります。そこでお寺も必要となってくる。私は、最終的には、貴族方は家の数で五、六百軒、人の数で三千人くらい、もしくはそれ以上になったと思います。その人たちが谷内から上、岡、相吉、城原、中子に住んでいました。赤沢は別なのです、赤沢地内は武士の住まいに当てられていたのです。 更に北朝の勢力に対抗して、赤沢の本城をを中心に砦として今井城、小下里城、赤沢南城、宮野原城、小池城、穴藤城などを築きます。どんどん規模が広がるわけで、赤沢平だけでは間に合わなくなってくる。そこで陣場下、正面ヶ原まで、第2階級くらいの武家屋敷を造りました。中子から正面ヶ原までの建築工事で、いかに新田氏が勢力があったときの仕事とはいえ、これは非常な熱意がなくては出来ないことです。 現地で間に合わない物資は上州から馬の背に乗せ草津街道を通り、切明から秋山を経て、石坂あたりから赤沢平に来たものと思います。たくさんの馬がやってくると、どうしても中継所みたいな所が必要となってくる。そこが奥赤沢といわれ今の大赤沢にあたると思います。さて次は妙法院の方ですが、あのそばには大谷内という所があります。これは大赤沢をたとえて言えば谷内へ物資を運ぶ中継所ではないか、そう考えると筋が立つのであります。 津南町でも一番歴史のある赤沢集落 赤沢平には五、六百件の貴族が居た。その中には非常に地位の高い人もいたに相違ない。そうゆう人たちは京都におった時には一体どうして生活をしていたのかと申しますと、みんな荘園というのを持っていたのであります。主人の困っているときは、昔からの主従関係のよしみで相当の物資が集まり、平和な生活が続いたものと思います。 しかし世の中がうるさくなり、一大事となって赤沢平の平和も滅び去る時期がやって来ます。それは南朝方の後醍醐天皇が鎌倉に幕府を置く北条氏を倒そうと、上州の新田義貞に倒幕を命じて来るわけです。しかし天下を実際に率いているのは北条氏、これに向かって「打ってしまえ!」と言うのですから無謀といえば無謀な話です。しかし、新田義貞はそれを拝命し受諾しているのです。つまり自分の所に預かっているのは南朝方の天子や身分の高い貴族方だから断るわけには行かない。そこで意を決して倒幕の軍を起こすわけです。その軍の中には越後妻有の荘の武士たち大井田、中条、烏山、羽川、田中等新田氏関連の氏族も加わります。 義貞は集まった倒幕の軍勢を率いて鎌倉に進みます。これは本当にのるか反るかの戦いでした。しかし作戦がうまくいって、最後は敵の虚を突いて江ノ島から攻め込み、この時味方の指揮を鼓舞するため、稲村ヶ崎で竜神に黄金造りの太刀を献じ、潮の満干に合わせた有名な話もありますが、とにかく鎌倉に攻め入って、直ちに火を放ちます。風が幸いして鎌倉の町は枯れ葉に火をつけた如く一挙に燃えてしまい、北条氏もあっけなく滅びてしまいます。 義貞はたちまち天下の英雄となって、召されて京へ上がり、凱旋将軍として非常にもてました。しかしそこへ足利尊氏がライバルとして現れます。同じ源氏の流れではありますが、両者は以前からことごとに敵対関係にあった。その尊氏が京にあって、御醍醐天皇に謀反の旗を挙げ義貞と争うようになります。しだいに義貞の方が戦いに敗れ京都から逃げ出します。北国を回って越後のほうへ帰ろうとしたのですが、越前の国の藤島で戦死してしまうのです。 御大将が戦死してしまったので、部下はどうしようもない、そのことが頻々と赤沢平の方にも響いて来たことでしょう。赤沢平の貴族や武士たちは大変な事になったと感じるわけですが、そのうち生き残りの人たちがポツポツ帰って来る。そうしてその人たちを中心に赤沢平の防備を固めるわけです。そうこうしているうちに、暦応4年(1341年)5月28日、北朝方の市川氏が攻め込んで来た。志久見川を越えて、赤沢の出城である宮野原城や小池城に攻め込む。両方とも小さな城でしたが、一度は防いだものの再度来攻して出城を破り、赤沢平に上がってきて、貴族屋敷には目もくれず、 赤沢館に攻め込み、同年6月3日までにこれを焼き払ってしまいます。 「赤沢館址」と刻まれた石碑、申し分けなさそうに敷地の隅に建っている。土台は除雪作業で少し傾いていた。 大日本史料という歴史書によると、それには赤沢の館とありますが、館というのは城じゃない。殿様のいるところで、足ヶ崎中学校(現在の農協の選果場や予冷庫)のあった場所が堀をめぐらした広大な屋敷になっていました。そこが焼かれたのです。 それから更に「赤沢南城落つ」とあります。今井城とか赤沢の下城は堅固に敵に対応していたのだけれども、あまり動かなかったようです。敵軍はそこに向かわないで、それより南を通ったわけですね。「赤沢南城落つ」これで三百年に及ぶ新田氏の経営は終わりになるんです。 まあ、大変なことではありますが、義貞は死ぬ、赤沢の館や南城は焼かれ、残った兵士は自分の国に帰る。しかしその時は谷内から上の方は焼かれなかったですね。七堂伽藍を備えた泉秀院の焼かれたのは、藤木家の文書を見ますとずっと後正の永正年間(1570年)です。谷内、岡、相吉、城原、中子などにあった貴族の邸宅などは勿体無いような家でしょう。それを焼いてしまうような馬鹿はない。信州から来た人達がそこへ入れるんだから。 ところで平安朝の京都から来た貴族方はその後どうなったのか・・五、六百軒の家にいた人たちは?その中で妙法院あたりから逃げ下りた一族だと言われている人達だけは宮野原にとどまったようです。今も宮野原へ上がった入り口近くに「中村」という姓の人たちが居ます。私は妙法院のことを知りたいので前の公民館長の樋口さんとお尋ねしたことがあります。五、六軒くらいの中村姓がありますが、大変豊かな暮らしぶりでした。 人間の性格とか能力というのは系統を引くものですね。その本家に上がって掛け物などをいろいろな品物を見せてもらいましたが、みんな平安朝のもので実にゆかしい感じがしました。系統と申しましたが中村一族には教育に従事する人が多いですね。つまり平安貴族の残った人たちは、それなりの生き方をすると判り興味を覚えました。 それはそれとして、赤沢平の貴族のことですが、新田氏の滅びたことによって、行くところもない。 結局みんな一緒に秋山の渓谷へなだれ落ちたわけです。 紅葉の秋山郷、後ろの絶壁の上が赤沢平。 秋山郷の貴族 現在の情報化社会では、世相も、人情も、風俗も急激に変化しておりますが、昔の人々の生活は少しずつ変化してきても、旧来の様式は長く尾を引いております。 皆さんもご存知の鈴木牧之が「北越雪譜」や「秋山紀行」の中で詳しく述べておりますね。牧之は塩沢の人で文政十一年(西暦1828〜、赤沢落城より四百八十七年後)の旧暦9月8日より14日まで、十二峠を越えて秋山郷を探訪しています。そして、その著書の中で京都貴族伝来の風俗、習慣と思われる事柄をいくつも書いています。そのことについてまず触れてみます。 (1)秋山郷では、昔から越後からの入り口・清水川原、信州からの入り口・切明と前後の戸を閉じて、その中にこもって生活している。婚姻は秋山郷内で行い、もし他郷の男と通じた女があれば、親戚縁者とても相手にしない。 どうしてこんなことになったのかを察しますに、赤沢平から落ちて来た貴族は藤原氏のあとだということを知らせたくない。それが知られると足利一党ににすぐつかまる。新田氏の世話になった、あるいは南朝の系統だと知られると、まあ20騎か30騎入ってきてもたちまち滅ぼされてしまう。それを恐れたのではないかと思うのです。 (2)大赤沢に行ったとき「道の左の方森々たる古木の中に一社あり、村人に尋ねれば八幡宮と唱う。中宮は左甚五郎作のよし申し伝えしとかや。ここにおいて予感疑わしきなり。そもそもこの秋山は平家の落人と申し伝うに秋山の中央の村に何ぞ源家宗廟を氏神に待つらんや」と牧之は不審がっていますが、新田義貞が鎌倉攻めのとき、妻有からの加勢の兵が鶴岡八幡宮の分影を奉じて赤沢八幡を祭ったという故事と関係があると思います。 (3)始めのお話で谷内にあった龍池山泉秀院の本尊様は後世天正のころ大井平の善福寺に移されたと申しましたが、秋山郷15ヶ村のうち寺や庵室、堂というものはなく、清水川原での牧之の問いに「菩提寺は上妻有大井平の善福寺なれども、引導様(死者を埋葬するときの僧侶)のことは冬・春は深雪の山路難所故、寺へは無沙汰」と答えています。その代わりに、大赤沢に如来様という家があり、そこには黒駒太子が乗っている像画いた軸がある。人が死ぬとそれを借りてきて、死骸の上にかざして拝ませる。それで弔いをしたことになるわけです。 (4)小赤沢では、市右衛門と言う人の家に宿っていますが、主人の言うには、「系図とやらは拙本家、平右衛門と申す家に伝わりたるが、此村によらず秋山中はあきめくらで、その主始め、なにを書きたる事やら知らず、ただ昔より開けて見ることならぬ大切な物とて、里の人が希に願うても見せ申さぬ。家のてっぺんに結い付けて、とても願うても見せない」と。これも外界と門戸を閉ざして先祖からの氏素性を隠した遺風とと言えましょう。 (5)また市右衛門の話に「百年前までは、苗字は福原と山田の氏のみ」とありますが、福原の語源は 藤原じゃないかと私は思うのです。秋山郷の話とちょっとそれますが、中子には赤沢と関係のある苗字がたくさんある。「関沢」「石沢」など、これは赤沢を「せきざわ」とも読めることから来たのでしょう。藤原から生まれた藤木、半戸(半藤)などもあります。これは赤沢を貴族を守る武士の地区にした。そうすると今まで赤沢にいた百姓はどこかに移らなければならない。そこで人口過疎の中子に移った。昔から中子は赤沢の枝郷と言われていますね。しかし赤沢の赤沢と言う名に愛着がある。そこで関沢、石沢と名乗った。涌井も赤沢に「涌井の池」という所があるところからだと思います。この例のように秋山でも藤原をわざわざ福原と名乗った、私はそう思うのですね。 (6)また、市右衛門の家に京美人の後裔を思わせるような姉妹の事も書いて「色白くして玉を並べたる美人なり。菓子を喰いながら顔見合して打笑みたる面差し、愛嬌こぼるるやうなり。かかる一双の玉を秋山の田夫が妻にせんは琴を薪としてすっぽんを煮るが如し」と言っています。また、和山でも三十歳ばかりの婦人の美しさを誉めて「破れたるを着ると言えどもその容 勝れ、鼻ほど良く高く、目細う、蛾に似たる眉墨、顔はいささか日に黒むと見ゆるども鉄水つかぬ歯は雪よりも白く、若人は一目に春心を動かす風情、あたかも泥中の蓮の如く、雨にほころぶ芍薬に似たり」 と書いてあります。 (7)秋山郷の人々の気風については「此地の人すべて篤実温厚にして、色欲に薄く博打を知らず、酒屋なければ酒飲む人なし。昔より、ワラ一すじにても盗みしたる人なしと言えり」したがって、どこの家でも戸に鍵をかけるということなく、「ただ、夜も昼も稼ぎを専らとする所と言うに、予もなおまた、秋山人の身にはつたなき俤なれども、追従、軽薄もなく、里人にお附合わず蝸牛の角の争いもなく、実に知足の賢者の栖とやいはん」と絶賛しています。 私は以上の事を持ってしても、赤沢平からこの谷に落ちた京貴族の気品や誇りが傳えつたえて、牧之探訪の時代まで綿々尽きなかったものと思うのであります。 さて、お話は前へ戻りますが、暦応四年(1341年)北朝方の市川倫房などの軍勢に、新田方が破れた後、赤沢平の約三千人の貴族の末路はどうなったか。赤沢の館も城も敵に火を放たれて、天を焦がすように燃えています。頼りの武士は居なくなる。結局、いたるところから秋山の谷に下りて来たものと思います。下りられるところはどんなところからでも、滑ったり転んだりして・・・。中には母の形見という琴や着物をくるんで奉公人に背負わせたかも知れません。手を引き腰を押し、泣きながら駆け下りて来た。 冬の見玉から秋山郷を望む、入り口の清水川原は、まだずっと奥にある。 時はまだ六月、今の八月でまだ寒くはないからいいけれど、そんなに大勢入ったのでは住む家が足りません。「少しでもいいから入れてください」と願って入ったと思うんです。しかし食べるものがない。そのうち雪の降る季節になると着るものがない。まあ、いわゆる秋山生活が始まったわけですね。これはまあ、あまりにも悲惨で私たちには想像もつかないことでありまして、過酷な自然にさらされて飢えと寒さにこごえ、そして病み、相抱きつつ死んでいく。私は、谷に落ちて後の五十年もたった秋山生活はもう目も当てられぬものだったと思うのであります。ようやく生き残った子孫が牧之の時代まで続いたのだと思います。 そこで秋山人の先祖はなんだろう、といろいろな論が出るわけです。まず、どこにもある平家の落人伝説、或いは秋田のマタギ説、それからアイヌ人ではないか。上州から祖税を逃れにきた人たちではないか等々。一番多い平家落人伝説では近くに小松原の地名をとって小松内大臣平重盛の屋敷あととしていますが、あんな湿地帯に人が住めるわけがない。 前にも述べたように、小赤沢では市右衛門という人の所へ泊まったのですが秋山でも裕福な家だった。そこで障子を見た。昔の障子とは部屋を隔てる板戸のことを言ったものです。そして、その奥の部屋には若い夫婦の寝る所と見えて、むしろが下げてある。今ならカーテンでしょうが昔の平安時代なら帷といった垂れ絹ですね。金襴緞子ならまだしも、帷の代わりに古いむしろをですね、私はちょっと哀れで涙が出たですね。とにかく平安朝のしきたりというか、香りというか、貴族の誇りをずーっと保っているのです。赤沢落城以来四百八十余年後多くの人たちがこの谷に下りて衣食なく餓死、凍死したであろうに、生き残りの人たちはまだその気風を伝えつたえて来たのですね。 私はこうも考えた。あの人たちは食う物もなくて死に絶えていった。もし積極的な人があって「源氏物語」でもよい「万葉集」でもでもよい。何十部か写本して、これを里に行って売ったなら、秋山に入った人たちが一ヶ月や二ヶ月生活できるだけの収入は十分得られる、と。ところがそうゆうことをしないのです。というのはこの金を得るために字を書くという職人みたいな仕事を京都からの貴族は賤しんだんですね。なにか秋山の人には誇りがある。自分達の昔のことを忘れない。そうゆう思想の背景がある。これが貴族の末路となるわけですね。 京都貴族の生活を、二つの面に分けることが出来ると思います。 一つは理想美の追求ですね。和歌をつくり、音楽を奏し、花の美しさ月の美しさを賞でる。恋の美しさにひたる。そしてそのために競いあう。これが代表的な思想で、赤沢平での生活もこれであったでしょう。 二つ目は、滅びこそ美しいという生活態度です。名門に生まれながら出家して幽玄境地を生んだ西行 「山家集等」同じく仏門に入って「新古今集」「小倉百人一首」その他数々の著作を残した藤原定家 、江戸時代の中期にはその流れをくんで「わび」「しおり」「さび」の実践者・俳人松雄芭蕉が、末期には大愚といって「任運」を唱えた良寛和尚が現れています。いずれも、滅びこそ自然であり心理である。このなかにこそ永遠がある、という考え方です。秋山の谷に落ちた貴族はこの滅びの思想に素直に従ったのです。 良寛はこの滅びの美を最後に完成した人でありましょう。こういう詩を詠ってあります。「袋中三升の米、炉辺一の薪、夜雨草庵の内、両足を縁に伸し・・・」つまり袋の中には米は三升しかないが草庵に寝て、目覚めれば一晩中木の枝を焚いて古人の詩を読む・・・これなどは秋山の生活に非常に似ているではないですか。 秋山人の生活を、ボロを着て人の口にとうてい入らないものまで食べ、裸足で猿のように走る。まるでけだもののようだ。なんだかその元が判らない。だからアイヌの子孫だとか、秋田マタギが定住したのだと言う人がいますが、これほど秋山渓谷に住む人を侮辱した話はない。鈴木牧之の書いた「北越雪譜」や「秋山紀行」にうそはない。村々を歴訪して真実そのものを書いています。その書物の行間ににじみ出ている秋山の人たちの心の中に入ってみると、私は平安朝の貴族そのものの心に触れるのです。 つまり滅びこそは真である。滅びこそは永遠である。という思想。飢餓に襲われ相抱いて死に絶えてゆく村人が、人のものはワラ一すじも盗むものがなかったという、そのなんとも言えない素直さ、これを私は本当に貴いと思うのであります。 さてこの辺で私の話を締めくくらせてもらいますが、まことに申しにくいことではありますが、ここで 津南の皆様に厳重に抗議申し上げたい。 赤沢の元の芦ヶ崎中学校の跡地はどうなっているか、ということです。妻有荘防衛の最先端として、新田一族の本処であった。「館の内」(立ノ内)はどうしました。土手を崩し、堀を埋め、すっかり痕跡を無くしているではありませんか。 農業は大事、農協設備も必要、私もこの地に生を受けた一人としてそれはよく判っています。しかし、土地は別の場所にいくらでもあるでしょう。過去があっての今日なのに「歴史なんてどうでもよい」そうした考えをもっている人が居るに違いない。恐ろしいのはそれを黙っている津南精神の中にある「ゆるみ」であります。 老人が変なことを申しまして済みませんが、保養基地も出来ている今日です。館の中は大聖寺も含めて一大公園を作り、そこに名彫刻家の成した「もののふ」(武士)という銅像でも建てたらどうですか。山は青く水は清き、この土地の他の名所・旧跡もこれに加えたら人はどんどん入ってくる。その人たちに人間精神の真髄に触れてもらいたい。自分たち一門に懸けられた寄託に報いるため、一族挙げて滅びていった。「もののふ」の赤心を知ってもらいたいです。 秋山郷もおそらく今より有名になるでしょう。昔日、文化の最先端の思想をもった三千人もの貴族が惨酷な権勢と不幸な環境に虐げられながら、少しもそれに反抗せず、素直に滅びていった美しい人間の生きざまが多くの人の関心をひいて、観光地としても大きく伸びるでしょう。津南町が皆さんの努力によって全ての面でますます栄えて行きますように、そのためには美しい自然を汚すことなく、美しい歴史を守り伝えてゆくことが現代に生きる町民の義務だと思います。 どうも失礼いたしました。 津南の歴史ロマン-2 -------------------------------------------------------------------------------- 見倉は秋山郷の中では一番昔の面影が残っている所。 滅びの美学と秋山(秋山賛歌) 昭和59年12月15日十日町新聞 平安の貴族三千人が滅びた渓谷として、秋山の歴史は一挙に描き変えられなければならないことになったが、ここにもう一つ書き加えたいことは、秋山に滅びた貴族が、きわめて優れた滅びの美学をしっかり所有していたということである。彼らがあのように悲惨な滅びにさらされながら、一人として強盗匪賊の類とならず、また号泣哀哭の醜態をさらさず温和従順に滅びていったのは、ひとえに彼らのなかに、世界でも比類の少ない西行美学を持っていたからであった。いわば彼らは優れた日本美学の使徒であったのだ。いまそのことを記して、秋山の歴史の新しい夜明けの前に贈りたいと思う。 平安朝の終わり中世の始め頃、この国には恐ろしい死の思想の襲来があった。無常思想が中核となりそれに世紀末思想が加わって形成されたもので、生あるものは必ず死ぬ、一寸一刻の猶予も許されないという恐怖に満ちたものであり、この国の人々は戦慄に戦慄を重ね、宗教も芸術もその防衛に大童になった。宗教の方では法然の浄土宗が現れて、念仏さえ唱えれば極楽往生が出来るとして死の恐怖をやわらげ、また道元の禅宗が現れて、死と生は結局同一のものであるとして、万有一元の思想から死の恐怖を和らげようとした。 これに対し文学芸術の方では藤原定家の幽玄妖艶の美学が現れて死の恐怖を和らげようとした。 西行は無情の思想を素直に受け取り、無常を永遠の真理と考え、枯れた草、破壊された城、滅びた国、そうゆうもののなかに深い真実を見出し、無常を恐れるよりは、逆にそれを美しい美としたのである。この西行の美学は利休の茶を生み、芭蕉の俳諧を生み、晩翠の「荒城の月」を生み、シルクロードの大荒廃美を生み、とどまることを知らざる大きな美となって現在も流れている。 国道沿いにある今井城址の石碑。 この定家のさんらん美と西行の滅びの美とは中世の初めに創められたもので、中世のはじめ頃は、もっとも生気に満ちていたが、赤沢高原に逃れてきた京都貴族は、ちょうど中世の始め頃に最も大量に流れて来たのであるから、彼らはこの二つの美学を最も強度に持っていたわけである。したがって彼らが赤沢高原から秋山渓谷へ転落したのは、燦爛たる幽玄美の絶頂から、滅びの美学を抱いて滅びの谷へ転落したもので、日本の美学史の上において、たぐいの少ない例といわなければならない。 西行美学では、粗末な草庵を愛し、食も無いほどの貧しさを愛し、原始自然を愛し、夜の焚き火を愛し、例えば良寛の如く、その焚き火にあたっていることをこよなく愛した。が考えてみると昔の秋山の人々の生活は、そのような生活によく似ているではないか。彼らはそのような生活にむしろ、静けさ、平和、真実を感じ、そのような生活のひだひだに、最高に近い美を感じていたのではないか。秋山に西行美が埋まっていることを信じる私はそのように感じないではいられないのである。 私はもう一度秋山に入って、残っている村の跡、傾いている墓の前に、心から「国破れて山河あり」という詩を捧げたいと強く思っている。 ふるさとよ永遠にいのち若けれ 吉貞 プロフィール 石田吉貞氏は、明治二十三年当町反里の長男としてに生まれ、村の小学校に学ぶ頃から学問を志しますが、家の事情から進学は望めず、独学で小学校の先生になりました。 八十八歳で大学教授を辞職するまで、地元小学校並びに県内小・中学校に勤める傍ら、さらに上級の検定を次々と突破し、横浜浅野学園高校はじめ、大正大学、早稲田大学、神奈川大学、昭和女子大等の教壇に立ちながら中世文学の研究に励み、昭和三十年、六十四歳の時に「藤原定家の研究」で文学博士の称号を受けられました。 先生は昭和六十二年、九十七歳で逝去されるまで研究一途の生涯でしたが、その間、ふるさと津南町をこよなく愛し、津南音頭や町内のほとんどの学校の校歌の作詞者としても知られています。 ご講演の記録者として 島田 仁 (前文は省略させていただきました) さて、先生がお年九十三歳で来町され、「死ぬ前にどうしても郷土の皆さんに伝えておかなければならないことがある」と、情熱を傾けられ長講二時間のおよぶお話を、立ちつづけでなされたのが「津南および秋山の歴史」でありました。 このご講演は、直ちに各報道紙に取り上げられ、また聴講者はむろん、行政当局者にも大きな関心を呼び起こし、お話の裏付け研究を改めてすることともなり、先生のお話の真実性が次々と証明されています。私の知る主な事柄を記してみます。 (一) 龍王大権現由来記(赤沢の古文書より抽出)天上山や龍ヶ窪と関連して熊野三社渡来、中古より人家段々開け、郷土の長者は七堂伽藍を建立、繁華盛んなること都と等し。 (二) 古器物発掘の誌(赤沢・谷内両校統合に尽力した元芦ヶ崎村長内山之成記述文より)新校舎建築の地ならしの際、石器・土器類出土、伝うる所に依れば往昔この付近に真言の大寺院あり七堂伽藍も具はりたるものなりしが永正四年焼失したりと伝う・・・(昭和四年記) (三) 桑畑の底に石畳(仏閣・墓石に専門知識の阿部和孝調査)昭和三十二年当時、芦ヶ崎小学校前に桑畑あり、その底は広い石畳、所どころばらばらになった五輪塔があり底が石畳のものもあった(元芦ヶ崎教師) (四) 谷内に真言宗の龍池山泉秀院あり、永正の乱で焼失、大井平善福寺開山のとき、泉秀院の本尊・聖観音も藤木氏から寄進(津南町史通史編上巻P181〜237) (五) 中世の墓石である宝きょう印塔や五輪塔は、中魚・十日町区域ではほとんど津南町に見られ、特に赤沢館址の南西に集中、貴族・高僧・上級武士たちが多く長く居住していたことを物語っている。歴応四年六月、新田一族敗退後の建立は見られない(前記P172〜) (六) 赤沢八幡社(村社赤沢神社)(新田義貞鎌倉攻めの際)源氏の守護神鶴ヶ丘八幡宮の御分影を奉じ来て大井田の居館(赤沢の館)の坤位に祭った。後年、今の宮之前の地に奉遷。大赤沢八幡社と以前は秋の祭日は九月十四・五日と同日。 (七) 相吉より平成四年、平安時代の住居址を発掘。なお相吉字上の原にも以前より熊野三社を祭ってあったが昭和二十七年、本部落相吉の十二神社と合祀する。 (八) 谷内、熊野神社には周八メートル余の、樹齢千年ほどの御神木(杉)あり。 (九) 谷内の旧字名に、御所・下御所・御所原・熊の原・大門・払沢・宮の下・観音堂原・立石 などあり。 (十) 大谷内、地宝院は和歌山県内の熊野三社を支配する聖御院系統の修験宗、神仏混交の山伏院。 (十一) 高野山(こうやさん・こうのやま)は弘法大師空海開山の真言宗の根元道場、金剛峰寺のあるところ(和歌山県)赤沢平上の高野山(こうのやま)中腹の横根部落には、水にまつわる大師の伝説話しが昔からある。 (十二) 秋山郷が俗化される以前は言葉も京言葉が残り、舞茸など発見者が目印をすると、取る者はなかった。 以上、御講和と係わりありそうな若干を挙げてみました。(以下省略) 最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。 皆さんはどう感じられましたか?思い当たるふしがあるのではないでしょうか・・・。 そういえば、大井平には祇園祭という行事がありますね。それも京都と関係があるのではないでしょうか? それと私の赤沢平方面の友人の顔を思い出すと、皆、細おもての顔立ちで眉が薄く、目は切れ長というのに気が付きました。 友人の一人は高校時代、眉に養毛剤を塗っていたくらいで、いわゆる「しょうゆ顔」と呼ばれるタイプです。このタイプは「弥生人系」の大陸から入ってきた渡来人の顔ではないでしょうか? 残念ながら私は縄文系ですが、母親は岡の出で、藤木姓でした。もしや、私にも「もののふ」の血が少し混じっているのでは・・・などと考えるとまた面白いものです。 他にも津南町の歴史を語る貴重な話はまだまだありますが、いずれ近いうちに載せたいと思います。 ご意見、情報をお待ちしております。 石田吉貞氏の「若き日のために」は津南・中里・十日町の書店で扱っていますが、文化センターの図書室にもあります。(一応貸し出し禁止だが短期間なら大丈夫だと思います) 図書室には石田氏の中世研究書の他、2階ホワイエには石田氏直筆の原稿などが展示してあります。 |
保元の乱(1156) f-anecs<http://www.ffortune.net/index.htm> ↓ 歴史<http://www.ffortune.net/social/history/index.htm> ↓ 保元の乱<http://www.ffortune.net/social/history/nihon-heian/hogen.htm> 保元元年(1156)7月11日未明、後白河天皇の命を受けた平清盛・源義朝らが崇徳上皇の命を受けて事を起こそうとしていた源為義・源為朝・平忠正らの集結場所を急襲。これを制しました。 これが世に名高い保元の乱で、これにより長く続いた平安の世は終りを告げ、武家の政治へと時代は動いていきます。 ここに至るまでの約80年間の動きを順に見ていってみましょう。 (1)院政の再開 藤原一族の権力は道長・頼道親子の時に最高を極めますが、頼道が1074年に死去すると、それに匹敵するほどの政治力の持主は藤原家には居ませんでした。そこで時の白河天皇は政治権力を天皇側に戻すため、約200年振りの院政をしくことを決意、1086年にまだ7歳の子供善仁親王に譲位(堀河天皇)、善仁が1107 年に亡くなると更に4歳の孫宗仁親王を帝位に付け(鳥羽天皇)、宗仁が成人して扱いにくくなると更にそれを退位させて1123年ひ孫で4歳の顕仁を即位させます。これが問題の崇徳天皇です。 72白河−−73堀河−−74鳥羽−−75崇徳 (2)鳥羽上皇の院政 1129年に白河上皇が亡くなると、20歳の若さで退位させられて不満この上なかった鳥羽上皇が代って権力をにぎり、白河院と同じことを始めます。1141年 22歳になった崇徳天皇を退位させて2歳の体仁親王を帝位に付けるのです。さて、その近衛天皇は1155年にわずか16歳で亡くなります。 待賢門院璋子 ‖ +−−75崇徳−−−重仁親王 ‖−−+ ‖ +−−77後白河−−守仁親王(78二条) 74鳥羽 ‖ ‖−−−−−76近衛 ‖ 美福門院得子 (3)皇位継承の行方 当時の朝廷内の実力者は鳥羽上皇皇后で近衛天皇母の美福門院得子でした。 近衛天皇はまだ子供はありませんでしたので、次期皇位継承者としては崇徳の子の重仁親王と、崇徳の同母弟雅仁親王の子の守仁親王が考えられました。 ここで守仁親王の生母は早逝していて得子が守仁を養育しておりました。更に崇徳上皇は自分から帝位を奪った近衛とその生母得子を当然心良くは思ってはいません。更に守仁はまだ12歳とはいえ、大勢の皇子の中でもひときわ聡明な皇子として評判でした。そこで皇位継承者は守仁親王と決りそうになります。 ところがここで異論が出て、守仁の父の雅仁がまだ健在なのに、どうして、その子供を天皇にするのだ、という議論になります。院政により天皇は子供という常識になっていて気が付かなかったものの言われてみればもっとも。 では、仕方ないから一時的に天皇にしてしまえ、ということで棚ボタ式に「遊芸の皇子」雅仁が天皇になってしまいます。これが後白河天皇です。 この結論に一番驚いたのは後白河自身だったでしょう。むろん、同時に守仁が皇太子になります。当然すぐ皇位は守仁に譲られる筈でした。後白河天皇28歳。文にも非ず・武にも非ずと評された、とんでもない人物が帝位についたのです。 納まらないのは崇徳上皇です。折角次は自分の息子かと思ったらとても天皇の器とは思えない、品格の悪い弟が後を継ぎ、その子供が皇太子になってしまったのです。下手すると自分は埋没していくだけかも知れない。不満と怒りの種は膨らみつつありました。 (4)藤原家内部の争い ところで同じ頃藤原摂関家でも家督争いが起きていました。藤原忠実は長男の忠通より次男の頼長の方を愛した為、一度は忠通に家督を継がせ近衛天皇在任中忠通が関白を務めますが、事ある毎に引退をすすめます。むろん忠通は拒否。 そしてとうとう1150年、忠実は忠通を勘当して藤原家の氏長者の地位を剥奪、頼長をその地位に付け翌年無理を通して頼長を内覧にしてしまいます。かくして、関白の忠通がいるのに別に内覧もいるという変則的な事態が発生します。 しかし頼長はこの折角の地位をうまく活用できません。その年の夏鳥羽上皇の寵臣である中納言家成と喧嘩し、乱闘騒ぎまで起こして鳥羽の信を失ってしまいます。更に1155年、近衛の後継者をめぐっては兄の忠通が推薦した後白河天皇が即位。そしてその年の暮、頼長が権力の拠り所としていた妹で鳥羽上皇妃の高陽院泰子が死んでしまいます。 更に悪いことは続いて、どこからともなく近衛天皇が死んだのは忠実・頼長の親子が呪詛を掛けたからだ、などという噂が流れます。頼長の地位は風前の灯になろうとしていました。 (5)零落する武士 かつて源義家は「天下第一の武者」と言われ、たいへんな評価を受けていましたが、その子孫の為義の代になると、清和源氏の地位はかなり凋落し不遇の状態にありました。1154年には息子の源為朝の乱暴が過ぎるとして為義の官位が召し上げになるという事件もありました。 (6)保元の乱 こうして平安時代の終章の幕開けとなる保元の乱が勃発しました。 1156年7月2日。鳥羽上皇が死去。後事を得子と忠通に託します。 翌7月3日。崇徳上皇側に不穏な動きがあります。後白河天皇は崇徳側の勢力が結集するという噂を聞いた場所を先手を打って押えてしまいますが7月5日、崇徳上皇は実際に兵力を集め始めます。 源為義・為朝親子や平忠正らが参じました。為義は1143年頃から頼長の侍になっていました。7月9日夜半から10日夕方に掛けて兵力の集結はピークとなり1000騎に達したといいます。 一方藤原忠通は鳥羽上皇の前で後白河天皇に忠義を誓ってくれていた源義朝や平清盛らを呼び集め、宮中の警備をさせます。決戦は避けられない情勢になってきます。 7月11日未明。後白河天皇側は機先を制して崇徳側の集結場所を急襲。不意を突かれた崇徳側はなすすべなく、戦いは4〜5時間で決着。午前8時頃にはもう全てが終っていました。 この時実は崇徳側の武士たちの間でも夜明けに相手方を奇襲しようという話が出たらしいのですが、誰かが「それは武士の道に反する」と言って、その意見が通ってしまったのだそうです。しかし後白河側は若い武士が集まっていましたので、そういう「道」より目的達成が優先であるとして、夜明けの奇襲を敢行しました。 なお、藤原頼長はこの戦いで矢にあたって死亡。源為義・平忠正は処刑、源為朝は伊豆大島に流されます(後自害)。そして崇徳上皇も讃岐に流されました。 なお、源為義は源義朝の父、為朝は弟、平忠正は平清盛の叔父で、武家側も肉親同士の戦いでした。 (7)崇徳の出生問題 以上は正史に見られる保元の乱の経緯ですが、ここに1つの俗説があります。それは崇徳は実は鳥羽の子ではなく、鳥羽の祖父・白河上皇の子供ではないかという説です。(古事談) 年齢的なものを見てみると、崇徳が生まれたのは鳥羽が16歳の時。非常に若い時の子ということになりますが、後白河も16歳で子供の二条を作っていますから、ありえないことではないでしょう。(もっとも後白河は遊び人ですが) 若干怪しいのは、璋子は鳥羽に嫁ぐまで白河の「養女」であったということでしょうか。また鳥羽・白河・璋子は非常によく3人セットで行動していたという記録もあります。 この問題の真偽は今となってはもう分からないでしょう。しかし、もし本当に崇徳が白河の子であれば、鳥羽から見ると崇徳は不義の子であるとともに自分から皇位を奪った者という二重に憎き相手ということになるかも知れません。 (8)讃岐での崇徳上皇 崇徳上皇は讃岐に流された後、後白河朝廷に対する激しい恨みをあからさまに表現します。 「我魔性となり王を奪って下民となし下民をとって王となし、この国に世々乱をなさん」と言い、自らの血で大乗経を書き、「この写経の功力を三悪道に投げ込み、その力をもって日本国の大魔縁とならん」と言って、その経を瀬戸内海に沈めて呪詛をしたと言います。そしてその後、爪も髪も切らずに、日々凄まじい形相になっていったと言います。 都では上皇の不穏な動きを聞くに付け、状況調査の為平康頼を派遣しますが、康頼は「院は生きながら天狗となられた」と報告しています。 (9)暗殺? 崇徳上皇は保元の乱の9年後に45歳で没しています。死因は特に語られていませんので病死と思われますが、ここに暗殺説というのが昔からあります。 伝説によれば暗殺を実行したのは二条天皇の命を受けた讃岐の武士三木近保であったとされます。(讃州府誌) 崇徳上皇は最初長命寺に居ましたが、3年目に木丸殿に移っています。刺客が襲って来たとき上皇は柳の洞穴に隠れますが、三木近保は池に映る御姿を見て、切り付け弑し奉ったといいます。その地はその事から柳田といいます。 上皇の遺体は葬儀に関する指示を待つ間八十場の霊泉に20日間漬けていたとされますが、その間全く様子が変わらず生きているかのようであったといいます。こういう話が伝わるのも如何に上皇の怨念が凄まじかったかということを伝えるものでしょう。 (10)雨月物語・白峯 雨月物語の冒頭「白峯」の章では、崇徳天皇陵(81番札所)にやってきた西行法師が読経をし、魂をなぐさめるために和歌を詠むと崇徳の霊が現れて会話をするという場面が見られます。 重なる恨みを語る崇徳に対して仏法で理論的に反論する西行。二人の会話は噛み合わないまま夜は更けていきます。既に大魔王のような風をしていたという崇徳ですが、少しでも魂のやすらぎになったでしょうか。 (11)後白河という人 保元の乱を見ていると、崇徳・頼長側というのは、どうもゆったりした動きをしているのに対し、後白河・忠通側は常に先手・先手を打つ決断と行動力を見せます。のちの平清盛・源頼朝などとの渡り合いなどを見ても、たとえ初期に忠通の適切な助言があったとはいえ、後白河という人は非文非武どころか、若いうちから非常に老練な人物だったのではないかと思わせます。 【白河天皇シラカワ(72)貞仁 】1053-1129 在位1072-1086。後三条天皇の第一皇子。 【堀河天皇ホリカワ(73)善仁タルヒト】1079-1107 在位1086-1107。白河天皇第二皇子。 【鳥羽天皇トバ (74)宗仁ムネヒト】1103-1156 在位1107-1123。堀河天皇第一皇子。 【崇徳天皇ストク (75)顕仁アキヒト】1119-1164 在位1123-1141。鳥羽天皇第一皇子。 【近衛天皇コノエ (76)体仁ナリヒト】1139-1155 在位1141-1155。鳥羽天皇の皇子。 【後白河天皇ゴシラカワ(77)雅仁】1127-1192 在位1155-1158。鳥羽天皇の第四皇子。 【二条天皇ニジョウ(78)守仁モリヒト】1143-1165 在位1158-1165。後白河天皇第一皇子。 【藤原忠通タダミチ 】1097-1164 忠実の長子。摂政・関白、太政大臣。 【藤原忠実タダザネ】1078-1162 師通の子。摂政・関白。 【藤原頼長ヨリナガ 】1120-1156 忠実の二男。左大臣。通称、悪左府・宇治左大臣。 【源為義タメヨシ】1096-1156 義家の孫。義朝・為朝・行家の父。六条判官。 【源為朝タメトモ】1139-1170 為義の八男、義朝の弟。鎮西八郎。 【源義朝ヨシトモ】1123-1160 為義の長男、為朝・行家の兄。 【平清盛キヨモリ】1118-1181 忠盛の長男。白河法皇の落胤との説あり。 【美福門院ビフクモンイン得子】1117-1160 鳥羽天皇の皇后。藤原長実の娘。近衛天皇の母。 【皇嘉門院コウカモンイン 聖子】1121-1181 崇徳天皇の皇后。藤原忠通の娘。 藤原忠通−−皇嘉門院聖子 ‖ 待賢門院璋子 ‖ ‖ +−−75崇徳−−−−重仁親王 ‖−−+ ‖ +−−77後白河−−−守仁親王(78二条) 72白河−−73堀河−−−74鳥羽 | ‖ +−79高倉−−80安徳 ‖−−−−−76近衛 ‖ 美福門院得子 源為義−−義朝−−−頼朝 | | 藤原忠実−−−忠通 平正盛−−忠盛−−清盛 +−為朝 +−義経 | | | +−頼長 +−忠正 +−義賢−−−義仲 |
保元の乱 保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代の1156年(保元元年)に崇徳上皇と後白河天皇が対立し、上皇側に天皇側が奇襲を仕掛けた事件である。 目次 1 乱の原因 2 合戦の経過 3 戦後 4 参加者一覧 5 文学作品 5.1 物語 5.2 俳句 6 関連項目 7 外部リンク 1 乱の原因 1141年、鳥羽法皇は待賢門院との子である崇徳天皇を退位させ、美福門院との子である躰仁親王(崇徳上皇の弟)を即位させた(近衛天皇)。崇徳天皇が鳥羽法皇の祖父白河法皇の子だとする風説が流布されており、鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたとされている。しかし、これは『古事談』のみの記述であり、信憑性を疑問視する学説もある。 1155年に近衛天皇が崩御すると崇徳上皇は御子の重仁親王の即位を望むが、父・鳥羽法皇は美福門院や近臣の信西の推す雅仁親王(崇徳上皇のもう一人の弟)を後白河天皇として即位させてしまう。崇徳上皇は深くこれを怨んだ。摂関家でも関白藤原忠通と左大臣藤原頼長の兄弟が争い、忠通は後白河天皇に、頼長は崇徳上皇に接近した。 崇徳上皇と後白河天皇の対立は深まり、両派はそれぞれ武士を集める。上皇方には源為義、源頼賢、源為朝、源頼憲(多田頼憲)、平忠正らが、天皇方には、源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)らが味方する。兵力的には天皇方が優勢であった。 1156年7月2日、鳥羽法皇が崩御すると、両派の衝突は不可避の情勢となった。 2 合戦の経過 1156年7月6日、宇治の警護にあたっていた平基盛(清盛の次男)が、上皇方に参陣しようとしていた大和源氏の源親治(宇野親治)を捕える。 7月10日、両軍は賀茂川を挟んで対峙、上皇方は白河北殿、天皇方は東三条殿に本陣を置き、後白河天皇は高松殿にあった。上皇方では為朝が高松殿を夜討して天皇を奪うことを献策したが、頼長が皇位をかけた戦いは白昼堂々と行うものだとしてこれを退けた。(愚管抄では為義が先手を打って内裏を占領するなど三策を献策したことになっている。)一方、天皇方の軍議では義朝が夜討を献策してこれが容れられる。 7月11日未明、天皇方は清盛300余騎、義朝200余騎、義康100余騎の3隊に分かれて白河北殿を奇襲。清盛が為朝の守る西門を攻めるが、為朝の強弓の前に打ち負かされる。代わって義朝が西門を攻めるも、これまた為朝の強弓に撃退される。天皇方は頼政、源重成、平信兼らの軍兵を投入するが、上皇方は各門で奮戦して激闘が続く。 義朝は後白河天皇に火攻の勅許を求め、これが許されると天皇方は白河北殿の西隣にある藤原家成邸に放火、火が燃え移ったため上皇方の兵は先を争って白河北殿から逃走。戦闘は終結する。 3 戦後 7月27日、天皇方が上皇方の公卿・武士らの罪を定めた。 7月28日、平清盛が六波羅で 平忠正 平長盛 平忠綱 平正綱 忠正の郎等道行 を斬る。 7月30日、源義康が大江山で 平家弘 平康弘 平盛弘 平光弘 平頼弘 平安弘 を斬る。 同日源義朝が船岡で 源為義 源頼賢 源頼仲 源為成 源為宗 源為仲 を斬る。 子が親を斬り、甥が叔父を斬るというむごい仕打ちが行われた。そもそも死罪は薬子の変以来200年以上行われていなかったが、信西が復活させたものである。『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断には反対するものはなかった。 また、崇徳上皇も讃岐に流され、京に帰れぬまま不遇の最期を遂げた。為朝は逃れたが、後に捕まり、自慢の弓を射ることができないよう、左腕の筋を抜かれてから伊豆大島に流されたと言われている。 こうして後白河天皇は反対派の排除に成功した。しかし、宮廷の対立が戦闘によって解決したこと、とりわけ京都市街を戦場とし、数百年ぶりに死刑が執行されたことは、当時の人々に大きな衝撃を与え、貴族から庶民まで武士の力を強く印象づけることとなった。鎌倉時代の歴史書『愚管抄』は、この乱が「武者ノ世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。 この乱は、3年後の平治の乱の遠因ともなり、さらには日本最初の武士政権である平氏政権の成立、また関東武士団を基盤とする鎌倉幕府の成立をもたらすこととなる。 4 参加者一覧 天皇方 後白河天皇 藤原信西 藤原実能…北家閑院流。徳大寺家の祖。 平清盛…伊勢平氏の棟梁。 平重盛…清盛長男。 平基盛…清盛次男。 平信兼…伊勢平氏の一族。 平惟繁 平実俊 源義朝…河内源氏の棟梁。 源義平…源義朝の長男。 源義康…河内源氏の一族(足利氏) 足利義清…義康の子。 源重実…尾張源氏、源義朝の配下 源重成…尾張源氏、重実の子。源義朝の配下。 源季実…文徳源氏。 源頼政…摂津源氏の棟梁。 源光保…美濃源氏。 渡辺省…源頼政の郎党。嵯峨源氏渡辺党。 渡辺競…源頼政の郎党。嵯峨源氏渡辺党。 鎌田政清…源義朝の郎党、源義朝の乳兄弟で第一の郎党。 河内経国…源義朝の配下、源義朝の叔父で義朝の後見人。 千葉常胤…源義朝の郎党、下総の平氏の大豪族。 上総広常…源義朝の郎党、上総の平氏の大豪族。 佐々木秀義…源義朝の郎党。 佐竹昌義…源義朝の配下。常陸源氏の当主。 熊谷直実…源義朝の郎党、平直方の子孫。 波多野義通…源義朝の郎党。 大庭景親…源義朝の郎党。鎌倉景正の子孫。 平山季重…源義朝の郎党。 海老名季貞…源義朝の郎党。 斎藤実盛…源義朝の郎党。 猪俣範綱…源義朝の郎党、武蔵七党のひとつ猪俣党の棟梁。 久下直光…源義朝の郎党。 八田知家…源義朝の郎党。宇都宮朝綱の弟。 根井行親…源義朝の郎党。 金子家忠…源義朝の郎党。 首藤資通…源義朝の郎党。 岡部忠澄…源義朝の郎党。 狩野茂光…源義朝の郎党。 上皇方 崇徳上皇 藤原頼長 藤原教長…左京大夫。 源成雅…頼長の義兄弟。左近権少将。 藤原成隆…頼長の従兄弟。四位少将。 藤原盛憲…頼長の従兄弟。上杉氏の遠祖。 藤原経憲…盛憲の弟。 平忠正…清盛の叔父。 平長盛…忠正の長男。 平忠綱…忠正の次男。 平正綱…忠正の三男。 平通正…忠正の四男。 平家弘…伊勢平氏の一族。 源為義…河内源氏の前棟梁。源義朝の父。 源頼賢…為義四男。 源頼仲…為義五男。 源為宗…為義六男。 源為成…為義七男。 源為朝…為義八男(鎮西八郎)。 源為仲…為義九男。 源頼憲…摂津源氏(多田源氏系)。 源盛綱…頼憲の子。 源親治…大和源氏の棟梁。 村上為国…信州村上氏。 村上基国…信州村上氏。為国の子。 信実…興福寺上座。 尋範…法印。権大僧都。頼長の大叔父。 5 文学作品 5.1 物語 『保元物語』は保元の乱を題材にした軍記物文学。作者不明で全三巻。鎌倉時代に成立したと考えられている。 『雨月物語』に含まれる小説「白峰」は、保元の乱に敗れた崇徳上皇の亡霊を題材にした怪談。作者は上田秋成 という人物。江戸時代に書かれた。 5.2 俳句 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 与謝蕪村 6 関連項目 日本史の出来事一覧 日本の合戦一覧 7 外部リンク ふょーどるの文学の冒険 保元物語、平治物語の現代語訳 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1" より作成 |