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折々の記 2007 B

【心に浮かぶよしなしごと】

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【 04 】08/06〜

  08 06 広島原爆投下・62周年
  08 07 木の葉が落ちる

08 06(月) 広島原爆投下・62周年

きょうの広島市のホームページには次のような記事が載っている。
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平和宣言



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広島市は毎年8月6日に、原爆死没者への追悼とともに核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願って平和記念式典を行い、広島市長が「平和宣言」を世界に向けて発表しています。広島・長崎の悲惨な体験を再び世界の人々が経験することのないよう、核兵器をこの地球上からなくし、いつまでも続く平和な世界を確立しようと、これからも平和宣言は訴え続けていきます。

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 平 和 宣 言 


運命の夏、8時15分。朝凪(あさなぎ)を破るB-29の爆音。青空に開く「落下傘」。そして閃光(せんこう)、轟音(ごうおん)――静寂――阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)。

落下傘を見た少女たちの眼(まなこ)は焼かれ顔は爛(ただ)れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝(つ)き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰(つぶ)れた家の下敷になり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人――辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨(うらや)むほどの「地獄」でした。

14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病、甲状腺癌(こうじょうせんがん)等、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。

それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。

しかし、その中から生れたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、忘れてしまいたい体験を語り続け、三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来(みらい)永劫(えいごう)忘れてはなりません。

こうした被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのままに膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕(ひん)しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、未だに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。

しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。かつての植民地は独立し、民主的な政治が世界に定着しました。さらに人類は、歴史からの教訓を汲んで、非戦闘員への攻撃や非人道的兵器の使用を禁ずる国際ルールを築き、国連を国際紛争解決の手段として育ててきました。そして今や、市民と共に歩み、悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、人類の叡智(えいち)を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしています。

世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までの核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。

我がヒロシマは、全米101都市での原爆展開催や世界の大学での「広島・長崎講座」普及など、被爆体験を世界と共有するための努力を続けています。アメリカの市長たちは「都市を攻撃目標にするな」プロジェクトの先頭に立ち、チェコの市長たちはミサイル防衛に反対しています。ゲルニカ市長は国際政治への倫理の再登場を呼び掛け、イーペル市長は平和市長会議の国際事務局を提供し、ベルギーの市長たちが資金を集める等、世界中の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には、地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは、人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。

唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。また、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、平均年齢が74歳を超えた被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた伊藤前長崎市長の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することをここに誓います。

2007年(平成19年)8月6日
広島市長 秋 葉 忠 利

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■平和宣言について

広島市が世界最初の原子爆弾の惨禍を経験し、2年目の昭和22年(1947年)に、永遠の平和を確立しようという広島市民の願いを全世界の人々に伝え、世界的行事の一つにまで発展させたいと念願して、平和祭が行われることになりました。

平和祭は、同年8月5日から3日間行われましたが、6日には現在の平和記念公園の広場で式典が開かれ、この中で初めての平和宣言が浜井信三市長によって読み上げられました。この時の平和宣言は、


「この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた。すなわちこれによって原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめたからである。これこそ絶対平和の創造であり、新しい人生と世界の誕生を物語るものでなくてはならない」
「今われわれが為すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁進し、もって新しい文明へのさきがけとなることでなければならない。
この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。
ここに平和塔の下、われわれはかくのごとく平和を宣言する」


と述べています。

このように戦争を否定し、平和を求める広島市民の心の底からの叫びが、一つの形となって表れました。

平和宣言は、広島市長が毎年8月6日の平和記念式典において発表していますが、その表現や内容には、その時代が反映されています。原水爆禁止の文字が平和宣言に初めて現れたのは、第1回原水爆禁止世界大会が開かれた翌年、昭和31年(1956年)の渡辺忠雄市長のときでした。また、戦後26年目の昭和46年(1971年)、山田節男市長は「次の世代に戦争と平和の意義を正しく継承するための平和教育」を平和宣言に明示し、昭和57年(1982年)荒木武市長は、6月の第2回国連軍縮特別総会で提唱した平和のための世界的な都市連帯の呼びかけを、その年の平和宣言に取り入れました。今日では、この都市連帯の輪は、平和市長会議として世界119か国・地域の1,403都市(平成18年7月21日現在)に大きく広がっています。

平成3年(1991年)平岡敬市長は、「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人々に、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」と述べました。また、平成8年(1996年)の平和宣言では、包括的核実験禁止条約の合意が「核実験の全面禁止につながること」への期待を表明するとともに、被爆の実相を語り継ぎ、広く伝えていくために「平和文化の創造」と「被爆資料の集大成」を求めました。平成9年度の平和宣言では、核兵器のない世界を実現するために、日本政府に対して「「核の傘」に頼らない安全保障体制構築への努力」を求めると同時に、私たちが言語・宗教・習俗などの違いをこえて世界の人々と率直な対話を進めることの必要性を訴えました。

平成11年(1999年)2月に就任した秋葉忠利市長は、同年の平和宣言で、被爆者が原爆の惨苦や絶望を乗り越え、ひたむきに核兵器の廃絶を訴え続けてきた足跡を称えた上で、核兵器は人類滅亡を引き起こす絶対悪であるとの真実に基づき、核兵器を廃絶する強い意志を持つことが何よりも大切であることを訴えました。また、宣言の歴史で初めて「です・ます調」の文体を用いました。

平成12年(2000年)の平和宣言では、戦争と科学技術の世紀であった20世紀を振り返り、憎しみや暴力の連鎖を断ち「和解」への道を拓くよう訴えるとともに、広島が世界に和解を広める都市、科学技術を人間的目的に用いるモデル都市になりたいとの決意を表明しました。

平成13年(2001年)には、21世紀最初の平和宣言として、21世紀を核兵器のない「平和と人道の世紀」にするため、和解や人道を重視する勇気を持つよう訴えるとともに、広島を「人道都市」、「万人のための故郷」にしたいとの決意を表明しました。

平成14年(2002年)の平和宣言では、報復の連鎖や力の論理が蔓延する世界情勢を踏まえ、人類共有の記憶を貴び「平和と人道の世紀」を創造することを誓うとともに、時代への警鐘や広島の決意を表明し、とりわけアメリカ政府・国民に対し批判や要請を一歩進めるメッセージとしました。

平成15年(2003年)の平和宣言では、力の支配が蔓延する世界情勢を踏まえ、自国中心主義を押し進める米国の政策を強く批判するとともに、2005年のNPT再検討会議に向け、平和市長会議加盟都市に核兵器廃絶のための緊急行動を呼び掛けたほか、日本政府に対し、「作らせず、持たせず、使わせない」を内容とする「新・非核三原則」を国是とするよう要求しました。

平成16年(2004年)の平和宣言では、被爆後75年目に当る2020年までに地球上から全ての核兵器を廃絶するために、2005年8月9日までを「核兵器のない世界を創るための記憶と行動の一年」と位置付けて、被爆者の証言を世界に届け、「広島・長崎講座」の普及や被爆体験記を読み語るプロジェクトを展開するとともに、NPT再検討会議に向け、「核兵器廃絶のための緊急行動」への支持を訴えました。

平成17年(2005年)の平和宣言では、2006年8月9日までを「継承と目覚め、決意の年」と位置付けて、世界の多くの国、NGOや大多数の市民と共に、核兵器廃絶に向けた多様なキャンペーンを展開することを表明するとともに、国連総会の第一委員会が核兵器のない世界の実現と維持とを検討する特別委員会を設置するよう提案しました。

平成18年(2006年)の平和宣言では、「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に違反する」とした国際司法裁判所(ICJ)による勧告的意見から10周年を迎えたことを踏まえ、核軍縮に向けた「誠実な交渉義務」を果たすよう求めるキャンペーン(Good Faith Challenge)を「2020ビジョン(核兵器廃絶のための緊急行動)」の第二期として位置付け展開するとともに、核保有国に対して、都市を核攻撃の目標にしないよう求める「都市を攻撃目標にするな(Cities Are Not Targets(CANT))プロジェクト」に取り組むことを呼びかけました。

広島・長崎の悲惨な体験を再び世界の人々が経験することのないよう、核兵器をこの地上からなくし、いつまでも続く平和な世界を確立しようと、これからも平和宣言は訴え続けていきます。



■平和宣言の歴史

平和宣言は、1947年(昭和22年)以来、1950年(昭和25年)を除き毎年8月6日に広島市長によって発表さ
れてきました。主な年の特徴は次のとおりです。
  
1947年 第1回平和祭で最初の平和宣言 
1950年 朝鮮戦争勃発のため、第4回平和祭が中止となり、平和宣言をしていない 
1951年 平和宣言の代わりに市長あいさつ 
1954年 歴代最短(320字) 
1955年 初めて被爆者の窮状に触れる 
1956年 初めて「原水爆禁止」の文字が登場 
1958年 初めて明確に原水爆禁止を主張 
1962年 被爆体験の継承の必要性 
1963年 部分的核実験停止条約締結の評価 
1965年 「原水爆の禁止」と「戦争の完全放棄」/ベトナム戦争への憂慮 
1968年 明確な核抑止論批判 
1971年 平和教育の必要性 
1972年 初めて国連に言及/初めて戦争以外の環境・資源問題を取り上げる/初めて「ヒロシマの心」とい
    う表現を使用 
1973年 核保有国を厳しく非難 
1974年 核拡散防止を中心テーマ/初めて具体的な国際政治(国連)への提唱 
1975年 詳細に被害の実相 
1977年 広島・長崎両市長の国連訪問の成果を報告 
1978年 国連軍縮特別総会開催の評価 
1979年 放射線被曝の問題を指摘/初めて飢餓・貧困問題に触れる/初めて原爆被爆者援護対策に触れる 
1980年 中東や東南アジアの紛争により生じた難民問題を憂慮/原爆被爆者援護対策の法制化を念願 
1981年 初めて「非核三原則」に触れる 
1982年 広島市長の国連特別総会での訴えを報告/都市連帯の提唱/広島への国際的な平和研究機関の設置
    を提唱 
1983年 広島・長崎両市長の「世界平和都市連帯」の呼び掛けを報告 
1985年 「世界平和連帯都市市長会議」開催を報告/国際青年年に当たり青少年への期待 
1986年 ソ連のチェルノブイリ原発事故に言及/人権抑圧問題に触れる 
1987年 国連軍縮週間創設十周年と翌年の第3回国連軍縮特別総会への期待 
1988年 第3回国連軍縮特別総会の成果報告 
1989年 「第2回世界平和連帯都市市長会議」開催報告 
1990年 核軍縮の評価と要望/非核三原則の法制化/アジア・太平洋地域の非核化/初めて外国人被爆者の
    援護に言及 
1991年 アジア・太平洋地域の人々への謝罪(95年まで毎年)/初めて「被爆者援護法」という表現を使用
    /初めて「ヒバクシャ」という表現を使用/湾岸戦争を憂慮 
1992年 核抑止論の明確な否定/国連軍縮広島会議の報告 
1993年 核拡散防止条約の無期限延長の動きに対する危惧/戦後処理問題に速やかな決着をつけるよう日本
    政府に決断を求める 
1994年 原爆ドームの世界遺産化の意味/核拡散防止条約の無期限延長に反対 
1995年 原子爆弾は明らかに国際法に違反する非人道的兵器である/アジア・太平洋における新たな非核地
    帯の設定を求める/共通の歴史認識を持つために被害と加害の両面から戦争を直視すべき1996年 
    国際司法裁判所が「核兵器使用の違法性」を明言/包括的核実験禁止条約への期待/被爆の惨禍が
    生んだ広島の生と死の経験を平和文化として永遠の人類共有財産に/多様な被爆資料の集大成が必
    要 
1997年 科学技術文明の未来に大きな不安/米国の「臨界前核実験」に抗議/日本政府に対し「核の傘」に
    頼らない安全保障体制構築への努力を要求 
1998年 インド、パキスタンの核実験強行に抗議/世界各国へ「核兵器禁止条約」の締結を呼び掛け/広島
    平和研究所の設置に言及 
1999年 ヒロシマのたどった歩みを振り返り、被爆者の足跡を称える/世界の指導者が核兵器を廃絶する意
    志を持つことが何よりも大切であることを訴える 
2000年 戦争と科学技術の世紀であった20世紀を振り返り、憎しみや暴力の連鎖を断ち「和解」への道を拓
    くよう訴える/広島が世界に和解を広める都市、科学技術を人間的目的に用いるモデル都市とす
    る決意を表明 
2001年 21世紀最初の宣言として、21世紀を核兵器のない「平和と人道の世紀」にするため、和解や人道を
    重視する勇気を持つよう訴える/広島を「人道都市」、「万人のための故郷」とする決意を表明 
2002年 報復の連鎖や力の論理が蔓延する現在の世界情勢に大きな不安/広島を「万人のための故郷」とし
    人類共有の記憶を貴び「平和と人道の世紀」を創造する決意を表明/米国政府・国民に対し、力
    の論理からの脱却を説得/日本政府に対し、戦争のできる「普通の国」にならないよう要求 
2003年 力の支配が蔓延する現在の世界情勢に大きな不安/自国中心主義を押し進める米国の政策を強く批
    判/2005年のNPT再検討会議に向け、平和市長会議加盟都市に、核兵器廃絶のための緊急行動
    を呼び掛け/世界中の影響力を持つリーダーに、核兵器廃絶のため、日常のレベルで祈り、発言
    し、行動することを呼び掛け/日本政府に対し、「作らせず、持たせず、使わせない」を内容と
    する「新・非核三原則」を国是とするよう要求/初めて「黒い雨降雨地域」の被爆者援護に言及
2004年  2005年8月9日までを「核兵器のない世界を創るための記憶と行動の一年」とすることを宣言/20
    20年までの核兵器廃絶を決意/米国市民に人類愛の観点から唯一の超大国として核兵器廃絶の責
    任を果たすように期待/被爆者の証言を世界に届け、「広島・長崎講座」の普及や被爆体験記を
    読み語るプロジェクトを展開/日本政府に対し、平和憲法の擁護、戦争並びに核兵器容認の風潮
    を匡すよう要請/NPT再検討会議に向け、「核兵器廃絶のための緊急行動」への支持を訴え
2005年 未来世代への責務として、「汝殺すなかれ」特に「子ども殺すなかれ」を人類最優先の公理とし
    て確立する必要を訴え/2006年8月9日までを「継承と目覚め、決意の年」と位置付けて、核兵器
    廃絶に向けた多様なキャンペーンを展開することを表明/国連総会の第一委員会が核兵器のない
    世界の実現と維持とを検討する特別委員会を設置するよう提案
2006年 「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に違反する」とした国際司法裁判所(ICJ)による勧告的
    意見から10周年を迎えたが核軍縮の義務は果たされていないことを訴え/核軍縮に向けた「誠実
    な交渉義務」を果たすよう求めるキャンペーン(Good Faith Challenge)や、核保有国に対して都
    市を核攻撃の目標にしないよう求める「都市を攻撃目標にするな(Cities Are Not Targets
    (=CANT))プロジェクト」に取り組むことを表明

−お問い合わせ− 
企画総務局 国際平和推進部 平和推進担当 
082-242‐7831 
082-242-7452 
peace@city.hiroshima.jp 

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テレビを見ていた人なら、平和宣言を朗読した秋葉市長の落ち着いた自信のある声に、絶大な信頼を寄せたに違いない。

このことは、昨年も同じことが言えた。これに反し、昨年の小泉総理の話は内容に自信もなく軽薄な作文の域を脱せず哀れなものであった。

今年の阿部総理の話を聞くことができず残念だったが、作文の域を脱せず絶大な信頼を受けるものとは程遠いものであったであろう。(七日早朝、首相官邸ホームページに式典挨拶が載せられている。)

われわれは、この地球上から国家間の人殺し…戦争を、手を取り合って拒否しなければならない

●時事通信は次のように伝えていた。

憎しみ連鎖断ち切る強さを=「市民の力で核廃絶」−62回目原爆の日・広島  8月6日9時1分配信 時事通信

 広島は6日、62回目の「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園では市主催の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、被爆者や遺族、安倍晋三首相ら約4万人が参列した。秋葉忠利市長は平和宣言を読み上げ、政府に「米国の誤った政策には『ノー』と言うべきだ」と要求。子供代表は「平和な世界をつくるためには、憎しみの連鎖を断ち切る強さと優しさが必要」と訴えた。式典は午前8時に開始。この1年間に死亡が確認された5221人の名前を記した原爆死没者名簿3冊が慰霊碑に納められた。名簿は91冊、死没者は25万3008人となった。 

08 06(月) 木の葉が落ちる

私も、わびさびという滅びの理(コトワリ)が、自ずと受け入れられるような年配になった。

滅びの理を受け入れ物事に執着せず、あるがままに暮らすことこそ、自然に同化した暮しである、と思うようになった。

若くしてこの哲理に気づき、その広がりを求めていた人たちがいた。 その道の先達である。

西行、利休や芭蕉、良寛の道がある。 無情思想が無常思想に移りかわり、木の葉が落ち花が枯れていくそういう滅びゆく無常を永遠の真実ととらえ、逆にその生滅の相(スガタ)を美しいものとしたのである。 ここに滅びの美学、安住の美学がある。

花散りて涙し、風の音をめで、幼な子と戯れる、食べるものは自分で作る、それでいいじゃないか。

瑠璃の床でなくても、星の瞬きが似合う羽生の宿、それでいいじゃないか。

すべてを美しいものとしてとらえることができれば、それでいいじゃないか。

滅びの美学は、実は生滅を愛でる心の持ち方なのである。

花が散り、彼が逝く、木の葉が落ち、われが逝く、それでいいじゃないか。




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