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折々の記 2007 B

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】07/20〜        【 02 】08/04〜
【 03 】08/05〜        【 04 】08/06〜
【 05 】08/08〜        【 06 】08/18〜
【 07 】08/25〜        【 08 】08/30〜



【 06 】08/18〜

  08 18 <旅行記>秋山郷 5 「秋山郷のため活躍した人々」
  08 19 猛暑(破滅の一途)と秋のはじまり
  08 20 「風林火山紀行」

08 18(土) 秋山郷 5 「秋山郷のため活躍した人々」

関谷さんの話によると、この和山地籍の人たちも天明の大飢饉のとき二人を残す後の人たちは飢餓に苦しんで餓死したという。 その場所をお聞きして見ていくとわかりました。 それは405号線の栃川温泉へ行く手前をそのまま和山へ少し進む(E138.37.49.4 N36.49.45.0)と、左側に2mくらい入ったところにあり、写真のような小祠でした。

       

浅間山の大爆発により火山灰がものすごく、大秋山村と矢櫃村はこのとき滅び去っています。 天保の飢饉のときには甘酒村も滅亡しています。 なんという悲しくも悲惨なことでしたでしょう。 秋山郷を調べている中にも鈴木牧之の名前は出てきていました。 関谷さんの話では鈴木牧之の「秋山記行」が秋山郷の歴史解明の先鞭となったことを改めてお伺いし、その限定出版の立派な装丁の本も見せていただきました。 

 【秋山郷・津南発】「ふるさと記行」阿部幸子 信越文彩舎 平成10年9月20日発行   関谷 猛 様より頂く
 「秋山記行」鈴木牧之 訳・解説磯辺定治 恒文社 1998年7月20日第1版第1刷     牧之記念館で購入
 「秋山記行・夜職草」鈴木牧之 東洋文庫 平凡社 昭和50年8月15日初版第4刷発行  旅行前注文→旅行後配本
 「北越雪譜」鈴木牧之 岩波文庫 岩波書店 1996年12月10日第50刷発行       旅行前注文→旅行後配本

和山温泉仁成館をお暇するとき、阿部幸子さんの【秋山郷・津南発】「ふるさと記行」を頂戴することになりました。 後になって、この本により片貝村(現・小千谷市)の佐藤佐平治や外丸村(現・津南町)の福原新左衛門の偉大な業績を知ることができました。

索引欄に佐藤佐平治を入力すると「伝えたいふるさとの100話」の中の【32 新潟県(小千谷市(おぢやし))】として<無償の愛で続けた救援活動>として佐藤佐平治が出ていました。


無償の愛で続けた救援活動     佐藤佐平治

 江戸時代、越後(えちご)(現在の新潟県)では凶作(きょうさく)と飢(き)きんが続いて、多くの人々が苦しみました。このようななか、長年にわたって救済(きゅうさい)活動にあたったのが三島郡片貝村(さんとうぐんかたかいむら)(現在の小千谷市片貝町(おぢやしかたかいまち))の佐藤家(さとうけ)です。佐藤家は、代々佐平治(さへいじ)を名のっていましたが、特に十九代と二十一代が行った大規模な救援(きゅうえん)活動は有名です。

 佐藤家は、最初の救援を寛文(かんぶん)八年(一六六八年)に行っています。その後も救済活動を続けてきましたが、地主と酒造業で蓄えたお金を、本格的に難民の救済にあてたのは天明(てんめい)三年(一七八三年)から続いた天明の大飢きんのときでした。第十九代の佐平治のときです。

 天明三年の夏、浅間山(あさまやま)が大噴火(だいふんか)しました。火山灰が降り続いて低温となり、折からの長雨による洪水で農作物が大不作になりました。

 多くの人が飢えに苦しみ、難民となって佐平治を頼ってやって来ました。近くの人はもちろん、五里(約二〇キロメートル)、十里(約四〇キロメートル)の遠くから、杖(つえ)にすがり手を引かれてやって来た人もいました。

 佐平治は、酒をつくるときに使う大きな釜(かま)で、粟(あわ)や稗(ひえ)を煮て、粥(かゆ)や雑炊(ぞうすい)をつくって施(ほどこ)しました。初めのうちは一日二〇〇人くらいでしたが、次第に人数が増えて、ついには一七〇〇人にもなりました。佐平治は、病人に古着や紙衣(かみこ)(紙製の雨具)なども与えました。毎日毎日多くの難民が来るので、人手不足になり助けを求めに来た人までが手伝ったといいます。

 天明六年(一七八六年)には、佐平治は酒づくりを中止して、多くの人々に米を安く売ってあげました。また天明七年にも、自宅で多くの難民に雑炊や紙衣を与え、小屋をつくって病人を収容し、治療しました。

 佐平治の難民救済は、村人や小作人(こさくにん)に物を施すといったものと違いました。佐平治を頼って来るすべての人々に対する、無償の愛がありました。

 佐平治の救援活動に対して、幕府の出雲崎(いずもざき)(現在の三島郡出雲崎町(いずもざきまち))代官所は、銀一〇枚の褒美(ほうび)を与え、一代限りの帯刀(たいとう)と末代までの苗字(みょうじ)(帯刀は刀を身に付けること。当時は帯刀も苗字も武士以外は許されていませんでした)を特別に許しました。

 苗字と帯刀を許された佐平治は、少しもおごりませんでした。それからもいつも変わらずに質素に暮らして、非常用の粟や稗、味噌、昆布、干し大根などを蓄えました。

 佐平治を慕(した)って集まった村人には、炉端(ろばた)で「忍(にん)」の一字を書いて、堪忍(かんにん)の心を説きました。そのため晩年の佐平治は、人々に忍字翁(にんじおう)と呼ばれて尊敬されたそうです。

 佐藤家は、天明の飢きんの後も家業に励むとともに、酒づくりの利益と小作米を積み立てて非常時に備えました。それらは小屋や蔵に収めきれなくなりました。

 二十一代佐平治は、蓄えた籾(もみ)、稗、昆布、味噌などに金三〇〇両を添えて、文化(ぶんか)十二年(一八一五年)に代官所に非常救援用として預けました。代官所はこの三〇〇両を他領の農民に貸し付けて、その利息を暮らしに困った人々に渡しました。この方法は、天保年間(てんぽうねんかん)(一八三〇年〜一八四四年)まで、三島郡、魚沼郡(うおぬまぐん)、頚城郡(くびきぐん)、刈羽郡(かりわぐん)で行われました。多い年には二〇〇人を超える人たちが、その恩恵を受けたといわれています。

 二十一代佐平治は、天保の飢きんにも積極的な救援活動をしました。人々への米の安売りや病人の手当ての他、天明の飢きんのときと同じように、頼って来た人々には食べ物や着る物を分け与え、さらに秋山郷(あきやまごう)にも援助の手を差し伸べました。

 秋山郷は北信州(きたしんしゅう)の高井郡箕作村(たかいぐんみづくりむら)(現在の長野県下水内郡栄村(しもみのちぐんさかえむら))から、中津川(なかつがわ)に沿って越後の魚沼郡結東村(けっとうむら)(現在の津南町結東(つなんまちけっとう))におよぶ小さな村むらのことです。この地域はこのころ水田がほとんどなくて米はとれず、焼畑(やきはた)で粟・稗・黍(きび)を栽培し、栗や栃(とち)の実(み)も食べて暮らしていました。このため、餓死(がし)した人や全滅した村もあり、飢きんの深刻さは特別でした。

 この地域を代表していた外丸村(とまるむら)(現在の津南町外丸(とまる))の庄屋福原新左衛門(しょうやふくはらしんざえもん)の救援要請(ようせい)を快く引き受けた佐平治は、籾や稗、お金を送りました。なかでも天保四年(一八三三年)には、秋山郷の農民が、雪のなかを必死の思いで佐平治の家と村を往復して救援物資を運びました。こうして、秋山郷の飢きんは被害を少なくできたのでした。このとき、佐平治から秋山郷の結東村に金三両二分が送られました。貨幣(かへい)の形態は変わりましたが、このお金は、昭和四十二年(一九六七年)の二十六代佐平治まで一三五年間送り続けられたのでした。

 津南町結東に佐藤佐平治の記念碑(ひ)があります。昭和六十一年(一九八六年)八月、記念碑の前で「第一回佐平治祭」が行われました。それから毎年、佐藤家や福原家の子孫、片貝町や結東地区の人たちと栄村の人たちが参加して祭りが開催されています。

【出典、参考文献】
「小千谷市史 上巻」/「天明・天保の飢饉ー酒造家佐藤家の救援活動」田所和雄(農村漁村文化協会「人づくり風土記一五 新潟」所収)


それにしても佐藤佐平治という人は偉い人でした。 昔の豪商とか豪農とか言う人は旧体制の下で豊かな経済力を手に入れた人々だが、自分だけではなく世の中の人の役に立つものに金銭を投入してきた人が多い。

「ふるさと記行」172頁に<我独り楽しむと、衆と楽しむといずれ楽しき>の言葉は、宮沢賢治の<世界中の人の幸福がない限り自分の幸福はない>の言葉に共通するもので、生きざまの哲理に達した人でした。

佐藤佐平治の生誕地は「ふるさと記行」169頁に写真(小千谷市片貝)で紹介され、続いて菩提寺(願誓寺=長岡市深沢町)も写真で紹介されているのに、小千谷市のホームページではどう探しても佐藤佐平治の業績が出ていません。 先人をだいじにする視点からは行政の迂闊さが指摘され、怠慢が責められてしかるべきものと思います。

出身地で業績を尋ね遺徳を偲ぶとしても、何の案内もないのです。 地図を頼って現地で尋ねまわるほかありません。

   

最初の予定では、山路智恵絵手紙美術館・マウンテンパーク津南から赤沢平の河岸段丘の景観撮影・宮野原・大井平の善福寺・赤沢平各地籍と赤沢館址碑、龍ヶ窪の水、お宮・秋山郷の各地と温泉、お宮などを見て回るつもりであった。

秋山郷を世に紹介したのは鈴木牧之であることをはっきり知り、塩沢に立派な記念館があるということも関谷さんからお聞きしたので、鈴木牧之記念館へ行くことにした。

この写真が記念館です。 後でわかったのですが、塩沢というのは苗場山から北北東へ伸びている稜線というか山なみを一つ越した17号線沿いの魚沼市にありました。 

行くときは353号線でしたが、帰りは76号線から信濃川沿いの117号線へ出ました。

塩沢のある魚野川流域は広大な景観の豊かな田園が広がっているところでした。 場所は知らなかったので尋ねていったのだが、みんな親切に教えてくださった。 新潟の人たちは心豊かで温かい。

塩沢村は合併して南魚沼市になっている。

鈴木牧之記念館は商工会の隣にあった。 その建物は雪国に適応した建て方になっていた。 開館30分ほど前であったが、絵手紙美術館と同じように、快く入館させてくれた。 ゆっくり見て回った。 殊に感心したのは筆字のすばらしさであった。

須坂の田中本家を訪問したときも、人は幼少時の環境によって基本的な資質が創られることを痛感した。 ここでもまったく同じことに胸を打たれた。 


      鈴木牧之  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鈴木 牧之(すずき ぼくし、明和7年1月27日(1770年2月22日) - 天保13年5月15日(1842年6月23日))は、江戸時代後期の商人、俳人。幼名は弥太郎。通称は儀三治(ぎそうじ)。牧之は俳号。屋号は「鈴木屋」。雅号は他に「秋月庵」「螺耳」など。父は鈴木恒右衛門(俳号は「牧水」)、母はとよ。

明和7年(1770年)越後国魚沼郡の塩沢で生まれる。鈴木屋の家業は地元名産の小千谷縮の仲買と、質屋の経営であった。地元では有数の豪商であり、三国街道を往来する各地の文人も立ち寄り、父・牧水もそれらと交流した。牧之もその影響を受け、幼少から俳諧や書画をたしなむ。

19歳の時、縮80反を売却するため初めて江戸に上り、江戸の人々が越後の雪の多さを知らないことに驚き、雪を主題とした随筆で地元を紹介しようと決意。帰郷し執筆した作品を寛政10年(1798年)、戯作者山東京伝に添削を依頼し、出版しようと試みたが果たせず、その後も滝沢馬琴や岡田玉山、鈴木芙蓉らを頼って出版を依頼するが、なかなか実現できなかった。

しかしようやく、山東京伝の弟山東京山の協力を得て、天保8年(1837年)『北越雪譜』初版3巻を刊行、好評を得た。続いて天保13年(1842年)にも4巻を刊行した。同書は雪の結晶、雪国独特の習俗・行事・遊び・伝承や、大雪災害の記事、雪国ならではの苦悩など、地方発信の科学・民俗学上の貴重な資料となった。著作は他に十返舎一九の勧めで書いた『秋山記行』や、『夜職草(よなべぐさ)』などがある。また画も巧みで、馬琴の『南総里見八犬伝』の挿絵の一部に採用されたり、牧之の山水画に良寛が賛を添えられたりしている。

文筆業だけでなく、家業の縮の商いにも精を出し、一代で家産を3倍にしたという商売上手でもあった。また貧民の救済も行い、小千谷の陣屋から褒賞を受けている。

天保13年(1842年)、死去。享年73。墓は新潟県南魚沼市長恩寺。同市には鈴木牧之記念館がある。


●以上で秋山郷の旅を終わります。

 参考になったものは次の通りでした。

  HP
  ・ 「津南の歴史ロマン」<津南町出身石田吉貞氏の講演会のテープ>
  ・ <秘境・秋山郷の旅>
  ・ <秘湯・秋山郷の出湯>
  ・ <秋山郷ドライブ>
  ・ <栄村ホームページ>
  ・ <栄村の絵手紙ページ>
  単行本
  ・ 「ふるさと記行」阿部幸子
  ・ 「秋山記行」鈴木牧之 訳・解説磯辺定治
  ・ 「秋山記行・夜職草」鈴木牧之
  ・ 「北越雪譜」鈴木牧之
  * 「若き日のために」石田吉貞……基本になるデータだが、まだ手に入っていない
  その他
  ・ 「栄村管内図」建設省国土地理院発行の1/25000地図より一枚に複製したもの
  ・ 「MapFan.Net」必要箇所をコピー

 調べておいて、もう一度訪ねたいと思っている。

08 19(日) 猛暑(破滅の一途)と秋のはじまり


      温暖化による猛暑には心を寒々とさせるが、この事実こそ人の性の実相であり、

      文化・文明・科学の発展・幸福の追求などの言葉が意味するところの人間の追

      究する世界は破滅の一途をたどっている。………………………………………


      人の性のなれの果ては破滅しかない。 その胎動は大河の流れるのとひとしく、

      動かざる泰山に見えたとしてもその実、徐々に破滅への一歩をたどっている。


      親から子への伝承にしても、徐々によいと思われる方向への実現と見えるのだ

      が、やはり破滅の一途をたどる人間の動きに同調していく。……………………


照見五蘊皆空 度一切苦厄 (= 五蘊皆空であることをはっきりと悟りましょう。 そして、一切の苦厄を乗越えましょう )

この釈迦の考え方は、洗礼を受けるキリストの考え方とはずいぶん違っています。

とすると、眼横鼻直・柳緑花紅・即天去私の境地は釈迦の境地にひとしい。 

鴨長明の「方丈記」・「平家物語」・吉田兼好の「徒然草」の文学作品にみられる無常観もこれに通ずるものがある。

西行・芭蕉・良寛もこれに通ずるものがある。

破滅の一途をたどるのも実相なのだろう。 余命は少ないにしても、この一点には眼にとどめていこう。

●今朝はことに涼しい。 ゆうべは秋の虫の声がはっきり耳に響いた。 立秋の8日にはじめて鳴き声をきいた。 気温がどのくらいに下がれば虫達は鳴き始めるのだろうか。

08 20(日) 「風林火山紀行」

NHKの<大河ドラマ「風林火山」>を開いて、そこにある「風林火山紀行」へジャンプすると<そこ>に、


第33回 坂戸城館跡へ』  新潟県南魚沼市

鎌倉時代から、越後と関東を結ぶ街道沿いの宿場町として栄えた街。坂戸城は、長尾景虎と越後統一を争った長尾政景の本城だった。その政景に、景虎の姉・仙桃院(せんとういん)は、和睦(わぼく)の証として自ら嫁いでいったと伝えられている。仙桃院は、後に景虎の養子となり、上杉家を継ぐ景勝を生むことになる。南魚沼市は、一族の繁栄を願った仙桃院のゆかりの地である。

アクセス  JR「六日町」下車、徒歩30分


とあり、第1回からの「風林火山紀行」がみんな出ている。

それぞれの紀行地についての概要説明は簡単なものだから、詳しくは一つ一つを調べないとわからない。 <第33回坂戸城館跡へ>を調べるとすると、概要説明のポイントになる @長尾景虎 A長尾政景 B仙桃院 C新潟県南魚沼市 この四つを調べて膨らませていけばよい。  場所にかかわる C新潟県南魚沼市 はすべて MapFan.Net を利用するとよい。

@長尾景虎 (Google検索)

【 上杉謙信 - Wikipedia ・ 長尾氏 - Wikipedia ・ 上杉家と上杉謙信 ・ う/戦国時代人物名鑑 ・ 春日山林泉寺 ・ 春日山城 埋もれた古城 】 など自分で見たいと思うHPを調べる。 同様にして………

A長尾政景 (Google検索)

【 長尾政景 - Wikipedia ・ 政景暗殺事件?/越後の虎 ・ 武家家伝_上田長尾氏 ・ 坂戸城 埋もれた古城 】

B仙桃院 (Google検索)

【 仙桃院 - Wikipedia ・ 越後上杉氏-謙信不犯伝説 ・ 戦国浪漫・女性編 ・ Be Organic ・ 樺沢城跡保存会(→樺野沢城 埋もれた古城) 】

C新潟県南魚沼市 など地図上の場所はすべて MapFan.Net を利用

@、A、B、Cを調べていると、これは参考になるぞと思う項目が出てきます。 そんなときは気楽にジャンプしたりコピーをとったりしていくと楽しいものです。 

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秋山郷にもう一度行ってみたいと思っていたので、ちょうど坂戸城址は「鈴木牧之記念館」のすぐ近くにあって見学するのに好都合です。

これから具体的に調べることにします。

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