08 18(土) 秋山郷 5 「秋山郷のため活躍した人々」 |
江戸時代、越後(えちご)(現在の新潟県)では凶作(きょうさく)と飢(き)きんが続いて、多くの人々が苦しみました。このようななか、長年にわたって救済(きゅうさい)活動にあたったのが三島郡片貝村(さんとうぐんかたかいむら)(現在の小千谷市片貝町(おぢやしかたかいまち))の佐藤家(さとうけ)です。佐藤家は、代々佐平治(さへいじ)を名のっていましたが、特に十九代と二十一代が行った大規模な救援(きゅうえん)活動は有名です。 佐藤家は、最初の救援を寛文(かんぶん)八年(一六六八年)に行っています。その後も救済活動を続けてきましたが、地主と酒造業で蓄えたお金を、本格的に難民の救済にあてたのは天明(てんめい)三年(一七八三年)から続いた天明の大飢きんのときでした。第十九代の佐平治のときです。 天明三年の夏、浅間山(あさまやま)が大噴火(だいふんか)しました。火山灰が降り続いて低温となり、折からの長雨による洪水で農作物が大不作になりました。 多くの人が飢えに苦しみ、難民となって佐平治を頼ってやって来ました。近くの人はもちろん、五里(約二〇キロメートル)、十里(約四〇キロメートル)の遠くから、杖(つえ)にすがり手を引かれてやって来た人もいました。 佐平治は、酒をつくるときに使う大きな釜(かま)で、粟(あわ)や稗(ひえ)を煮て、粥(かゆ)や雑炊(ぞうすい)をつくって施(ほどこ)しました。初めのうちは一日二〇〇人くらいでしたが、次第に人数が増えて、ついには一七〇〇人にもなりました。佐平治は、病人に古着や紙衣(かみこ)(紙製の雨具)なども与えました。毎日毎日多くの難民が来るので、人手不足になり助けを求めに来た人までが手伝ったといいます。 天明六年(一七八六年)には、佐平治は酒づくりを中止して、多くの人々に米を安く売ってあげました。また天明七年にも、自宅で多くの難民に雑炊や紙衣を与え、小屋をつくって病人を収容し、治療しました。 佐平治の難民救済は、村人や小作人(こさくにん)に物を施すといったものと違いました。佐平治を頼って来るすべての人々に対する、無償の愛がありました。 佐平治の救援活動に対して、幕府の出雲崎(いずもざき)(現在の三島郡出雲崎町(いずもざきまち))代官所は、銀一〇枚の褒美(ほうび)を与え、一代限りの帯刀(たいとう)と末代までの苗字(みょうじ)(帯刀は刀を身に付けること。当時は帯刀も苗字も武士以外は許されていませんでした)を特別に許しました。 苗字と帯刀を許された佐平治は、少しもおごりませんでした。それからもいつも変わらずに質素に暮らして、非常用の粟や稗、味噌、昆布、干し大根などを蓄えました。 佐平治を慕(した)って集まった村人には、炉端(ろばた)で「忍(にん)」の一字を書いて、堪忍(かんにん)の心を説きました。そのため晩年の佐平治は、人々に忍字翁(にんじおう)と呼ばれて尊敬されたそうです。 佐藤家は、天明の飢きんの後も家業に励むとともに、酒づくりの利益と小作米を積み立てて非常時に備えました。それらは小屋や蔵に収めきれなくなりました。 二十一代佐平治は、蓄えた籾(もみ)、稗、昆布、味噌などに金三〇〇両を添えて、文化(ぶんか)十二年(一八一五年)に代官所に非常救援用として預けました。代官所はこの三〇〇両を他領の農民に貸し付けて、その利息を暮らしに困った人々に渡しました。この方法は、天保年間(てんぽうねんかん)(一八三〇年〜一八四四年)まで、三島郡、魚沼郡(うおぬまぐん)、頚城郡(くびきぐん)、刈羽郡(かりわぐん)で行われました。多い年には二〇〇人を超える人たちが、その恩恵を受けたといわれています。 二十一代佐平治は、天保の飢きんにも積極的な救援活動をしました。人々への米の安売りや病人の手当ての他、天明の飢きんのときと同じように、頼って来た人々には食べ物や着る物を分け与え、さらに秋山郷(あきやまごう)にも援助の手を差し伸べました。 秋山郷は北信州(きたしんしゅう)の高井郡箕作村(たかいぐんみづくりむら)(現在の長野県下水内郡栄村(しもみのちぐんさかえむら))から、中津川(なかつがわ)に沿って越後の魚沼郡結東村(けっとうむら)(現在の津南町結東(つなんまちけっとう))におよぶ小さな村むらのことです。この地域はこのころ水田がほとんどなくて米はとれず、焼畑(やきはた)で粟・稗・黍(きび)を栽培し、栗や栃(とち)の実(み)も食べて暮らしていました。このため、餓死(がし)した人や全滅した村もあり、飢きんの深刻さは特別でした。 この地域を代表していた外丸村(とまるむら)(現在の津南町外丸(とまる))の庄屋福原新左衛門(しょうやふくはらしんざえもん)の救援要請(ようせい)を快く引き受けた佐平治は、籾や稗、お金を送りました。なかでも天保四年(一八三三年)には、秋山郷の農民が、雪のなかを必死の思いで佐平治の家と村を往復して救援物資を運びました。こうして、秋山郷の飢きんは被害を少なくできたのでした。このとき、佐平治から秋山郷の結東村に金三両二分が送られました。貨幣(かへい)の形態は変わりましたが、このお金は、昭和四十二年(一九六七年)の二十六代佐平治まで一三五年間送り続けられたのでした。 津南町結東に佐藤佐平治の記念碑(ひ)があります。昭和六十一年(一九八六年)八月、記念碑の前で「第一回佐平治祭」が行われました。それから毎年、佐藤家や福原家の子孫、片貝町や結東地区の人たちと栄村の人たちが参加して祭りが開催されています。 【出典、参考文献】 「小千谷市史 上巻」/「天明・天保の飢饉ー酒造家佐藤家の救援活動」田所和雄(農村漁村文化協会「人づくり風土記一五 新潟」所収) |
鈴木牧之 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 鈴木 牧之(すずき ぼくし、明和7年1月27日(1770年2月22日) - 天保13年5月15日(1842年6月23日))は、江戸時代後期の商人、俳人。幼名は弥太郎。通称は儀三治(ぎそうじ)。牧之は俳号。屋号は「鈴木屋」。雅号は他に「秋月庵」「螺耳」など。父は鈴木恒右衛門(俳号は「牧水」)、母はとよ。 明和7年(1770年)越後国魚沼郡の塩沢で生まれる。鈴木屋の家業は地元名産の小千谷縮の仲買と、質屋の経営であった。地元では有数の豪商であり、三国街道を往来する各地の文人も立ち寄り、父・牧水もそれらと交流した。牧之もその影響を受け、幼少から俳諧や書画をたしなむ。 19歳の時、縮80反を売却するため初めて江戸に上り、江戸の人々が越後の雪の多さを知らないことに驚き、雪を主題とした随筆で地元を紹介しようと決意。帰郷し執筆した作品を寛政10年(1798年)、戯作者山東京伝に添削を依頼し、出版しようと試みたが果たせず、その後も滝沢馬琴や岡田玉山、鈴木芙蓉らを頼って出版を依頼するが、なかなか実現できなかった。 しかしようやく、山東京伝の弟山東京山の協力を得て、天保8年(1837年)『北越雪譜』初版3巻を刊行、好評を得た。続いて天保13年(1842年)にも4巻を刊行した。同書は雪の結晶、雪国独特の習俗・行事・遊び・伝承や、大雪災害の記事、雪国ならではの苦悩など、地方発信の科学・民俗学上の貴重な資料となった。著作は他に十返舎一九の勧めで書いた『秋山記行』や、『夜職草(よなべぐさ)』などがある。また画も巧みで、馬琴の『南総里見八犬伝』の挿絵の一部に採用されたり、牧之の山水画に良寛が賛を添えられたりしている。 文筆業だけでなく、家業の縮の商いにも精を出し、一代で家産を3倍にしたという商売上手でもあった。また貧民の救済も行い、小千谷の陣屋から褒賞を受けている。 天保13年(1842年)、死去。享年73。墓は新潟県南魚沼市長恩寺。同市には鈴木牧之記念館がある。 |
08 19(日) 猛暑(破滅の一途)と秋のはじまり |
08 20(日) 「風林火山紀行」 |
鎌倉時代から、越後と関東を結ぶ街道沿いの宿場町として栄えた街。坂戸城は、長尾景虎と越後統一を争った長尾政景の本城だった。その政景に、景虎の姉・仙桃院(せんとういん)は、和睦(わぼく)の証として自ら嫁いでいったと伝えられている。仙桃院は、後に景虎の養子となり、上杉家を継ぐ景勝を生むことになる。南魚沼市は、一族の繁栄を願った仙桃院のゆかりの地である。 アクセス JR「六日町」下車、徒歩30分 |