04 13(金) Aお遍路のデータ |
No | 札 所 | 次まで の距離 | 車での 時間 | 予 定 時 刻 と 備 考 ( 納経は 7:00 から午後 5:00 まで) |
01 | 霊山寺 | 1.0 | 05 | 一日目 7:00 |
02 | 極楽寺 | 2.7 | 10 | 7:35 |
03 | 金泉寺 | 5.0 | 15 | 8:15 |
04 | 大日寺 | 2.0 | 10 | 9:00 |
05 | 地蔵寺 | 5.0 | 10 | 9:40 |
06 | 安楽寺 | 1.2 | 05 | 10:15 |
07 | 十楽寺 | 4.0 | 10 | 10:50 |
08 | 熊谷寺 | 2.7 | 10 | 11:30 |
09 | 法輪寺 | 5.0 | 15 | 12:10 お昼 |
10 | 切幡寺 | 10.0 | 25 | 1:25 |
11 | 藤井寺 | 12.0 | 120 | 2:20 |
12 | 焼山寺 | 30.0 | 60 | 4:50 |
13 | 大日寺 | 3.3 | 10 | 二日目 7:00 |
14 | 常楽寺 | 0.8 | 05 | 7:40 |
15 | 国分寺 | 2.2 | 15 | 8:15 |
16 | 観音寺 | 3.5 | 20 | 9:00 |
17 | 井戸寺 | 20.0 | 60 | 9:50 |
18 | 恩山寺 | 4.8 | 15 | 11:20 |
19 | 立江寺 | 13.8 | 30 | 12:05 お昼 |
20 | 鶴林寺 | 6.5 | 60 | 1:35 |
21 | 太龍寺 | 11.7 | 25 | 3:05 |
22 | 平等寺 | 21.0 | 30 | 4:00 |
23 | 薬王寺 | 77.0 | 120 | 5:00 |
24 | 最御崎寺 | 6.5 | 15 | 三日目 7:00 |
25 | 津照寺 | 4.0 | 20 | . |
26 | 金剛頂寺 | 29.0 | 90 | . |
27 | 神峰寺 | 40.0 | 60 | . |
28 | 大日寺 | 9.0 | 20 | . |
29 | 国分寺 | 7.0 | 30 | . |
30 | 善楽寺 | 7.0 | 20 | . |
31 | 竹林寺 | 6.0 | 20 | . |
32 | 禅師峰寺 | 7.0 | 30 | . |
33 | 雪蹊寺 | 6.5 | 20 | . |
34 | 種間寺 | 9.5 | 30 | . |
35 | 清滝寺 | 15.0 | 50 | . |
36 | 青龍寺 | 55.0 | 90 | . |
37 | 岩本寺 | 90.0 | 150 | . |
38 | 金剛福寺 | 56.0 | 120 | . |
39 | 延光寺 | 30.0 | 50 | . |
40 | 観自在寺 | 48.0 | 90 | . |
41 | 龍光寺 | 3.0 | 05 | . |
42 | 仏木寺 | 11.0 | 30 | . |
43 | 明石寺 | 70.0 | 120 | . |
44 | 大宝寺 | 12.0 | 20 | . |
45 | 岩屋寺 | 26.0 | 60 | . |
46 | 浄瑠璃寺 | 1.0 | 03 | . |
47 | 八坂寺 | 4.0 | 15 | . |
48 | 西林寺 | 3.0 | 10 | . |
49 | 浄土寺 | 1.6 | 05 | . |
50 | 繁多寺 | 2.7 | 10 | . |
51 | 石手寺 | 10.5 | 45 | . |
52 | 太山寺 | 2.5 | 10 | . |
53 | 円明寺 | 34.5 | 60 | . |
54 | 延命寺 | 4.0 | 15 | . |
55 | 南光坊 | 3.0 | 15 | . |
56 | 泰山寺 | 3.0 | 05 | . |
57 | 栄福寺 | 2.5 | 15 | . |
58 | 仙遊寺 | 6.0 | 30 | . |
59 | 国分寺 | 25.0 | 100 | . |
60 | 横峰寺 | 9.5 | 75 | . |
61 | 香園寺 | 2.0 | 05 | . |
62 | 宝寿寺 | 1.5 | 05 | . |
63 | 吉祥寺 | 3.5 | 15 | . |
64 | 前神寺 | 45.0 | 60 | . |
65 | 三角寺 | 20.5 | 60 | . |
66 | 雲辺寺 | 10.0 | 20 | . |
67 | 大興寺 | 8.5 | 20 | . |
68 | 神恵院 | 0.0 | 00 | . |
69 | 観音寺 | 4.7 | 10 | . |
70 | 本山寺 | 13.0 | 30 | . |
71 | 弥谷寺 | 5.0 | 10 | . |
72 | 曼荼羅寺 | 0.5 | 01 | . |
73 | 出釈迦寺 | 3.3 | 10 | . |
74 | 甲山寺 | 2.0 | 05 | . |
75 | 善通寺 | 4.0 | 10 | . |
76 | 金倉寺 | 4.0 | 10 | . |
77 | 道隆寺 | 7.0 | 15 | . |
78 | 郷照寺 | 6.5 | 15 | . |
79 | 高照院 | 7.0 | 15 | . |
80 | 国分寺 | 7.0 | 30 | . |
81 | 白峯寺 | 5.0 | 20 | . |
82 | 根香寺 | 13.5 | 30 | . |
83 | 一宮寺 | 14.0 | 40 | . |
84 | 屋島寺 | 8.0 | 20 | . |
85 | 八栗寺 | 7.5 | 20 | . |
86 | 志度寺 | 7.0 | 20 | . |
87 | 長尾寺 | 13.0 | 60 | . |
88 | 大窪寺 | . | . | . |
長宗我部氏の誕生 秦氏 秦(はた)氏は、古墳時代に中国大陸から朝鮮半島を経由して日本にやって来た有力な渡来人の一族で、紀元前の中国を支配した秦の始皇帝の末裔だと伝えられている。彼らは、山城国の葛野(かどの)郡一帯を領し、太秦(うずまさ)の地を本拠に綿、糸、絹の生産を行う一方で、広く全国各地に散らばって、先進的な大陸の文化や技術を浸透させるという役割を担ってきた。そして、飛鳥時代、推古天皇の頃に一族から秦河勝(はたのかわかつ)を輩出し、彼が聖徳太子の参謀として仕えるようになってからは、朝廷内でも少しずつ地位が向上。物部守屋(もののべのもりや)討伐や、広隆寺の建立等で、太子の信頼に応えて多大な功績を挙げたことから、恩賞として新たに信濃国を賜った。以後、河勝は息子の広国を派遣して信濃の統治に当たらせ、その子孫らは代々この地の豪族として定着していったが、鎌倉時代初頭、始皇帝から数えて26世の子孫と称せられた能俊(よしとし)の代に至って土佐へと移住。これが、戦国時代を席捲した四国の雄・長宗我部(ちょうそかべ)氏の始まりとなった。 長宗我部姓の由来 土佐に入った能俊は、国分川下流、穀倉地帯として名高い香長平野にある長岡郡宗部郷(宗我部郷)に腰を据えた。そして、これを機に改姓することにし、その地名を取って宗我部と名乗るようになった。ところが、近隣にある香美郡にも同じく宗我部氏を名乗る一族があったため名字が重複。そこで、お互いを区別するため、香美郡の宗我部氏は香美郡の1文字を冠に香宗我部(こうそかべ)と改姓し、能俊も長岡郡の1文字から、長宗我部と称するようになった。また、能俊は、国分川沿いにある丘陵・岡豊(おこう)山に目をつけ、わざわざ山頂の豊岡上天(とよおかかみてん)神社を麓に移して岡豊城を築城。この城を代々の居城と定めた。その後、長宗我部氏は江村、久礼田(くれだ)氏といった庶流を生み出し、さらに、能俊から数えて7代目の当主・兼光(かねみつ)の頃に、広井、中島、野田、大黒、中野氏と、細かく枝分かれして発展した。これらの家は、長宗我部一門衆を形成し、惣領家の発展に大きく貢献していった。 戦国時代に至るまで 南北朝時代に入ると、11代当主・信能(のぶよし)は、足利尊氏配下の細川氏に属して南朝方と戦い活躍し、細川氏との結び付きを強くしていった。その縁から、信能の息子・兼能(かねよし)は、吸江庵(ぎゅうこうあん)(夢窓疎石(むそうそせき)が五台山の麓に開いた庵。室町幕府開祖・足利尊氏が疎石に帰依したことから、庵は瞬く間に有名となり、その名は広く明国にまで知れ渡った。)の寺奉行という重要なポストを担当。四国、中国、近畿地方のうちの7ヶ国の守護を務める室町幕府きっての権力者・細川氏の強力な後ろ盾のもと、長年に渡ってその地位を確立していった。しかし、1467年に始まった応仁の乱の影響で、土佐守護代・細川勝益(ほそかわかつます)が帰京してしまうと、土佐における細川氏の権威は徐々に低下。守護領国支配体制の衰退は秩序の乱れを呼び、豪族達は互いの勢力を競っていがみ合うようになっていった。そこで、16代・文兼(ふみかね)は、応仁の乱の難を逃れて都から下向してきた名門・一条氏を土佐の国司として仰ぎ、その下知のもと行動すれば争いは無くなると各豪族に提案。豪族達がこの案を承認したので、土佐には一時平穏が戻った。そして以後、17代・元門(もとかど)、18代・雄親(かつちか)、19代・兼序(かねつぐ)と当主が続くのだが、この兼序の頃には、古くより細川氏の庇護下で寺奉行の地位を保持してきた故の、強い慢心が生じていた。この慢心は、周辺豪族達の恨みをジワジワと蓄積させていく原因となり、長宗我部氏は他家との折り合いを欠いた状態で、波乱の戦国期を迎えるに至るのだった。 元親の祖父・兼序の時代 乱世の産声 元親(もとちか)の祖父に当たる第19代当主・兼序(かねつぐ)の生きた時代は、全国各地の豪族達が旧来の支配体制の殻を打ち破り、徐々に自立に目覚めていく戦国の入り口の時代であった。土佐国内でも、応仁の乱の影響を受けて、室町幕府きっての権力者・細川氏の権威が失墜し、かつての支配力が衰退していくと共に、各豪族間の争いが表面化。国司の一条氏に加え、長宗我部(ちょうそかべ)、大平、本山、吉良、津野、安芸、香宗我部(こうそかべ)氏といった「土佐の七雄」と呼ばれる有力勢力が台頭し、群雄割拠する舞台へと、次第にその姿を変えていった。 慢心が生んだ孤立 兼序は、家臣からの信望も厚く、孫呉の兵法を熟読して妙術を得る等、武勇、知略共に卓越した能力の持ち主だった。しかし、その性格には、長年に渡る細川氏の庇護を笠に着た「虎の威を借る狐」といった要素が強く滲み出ており、日頃の振る舞いが非常に横柄であったため、周辺豪族達からは陰で恨みを買うこともしばしばだった。そのため、この時期の長宗我部氏と周辺豪族達との折り合いは、年を追うごとにひどくなっていく細川氏の衰退も相まって、実に微妙なバランスの上に成り立っていた。ところが、1507年、都にて細川宗家の当主・政元が、息子達の家督争いに巻き込まれ、入浴中に暗殺されるという事件が発生するや、それまでの状況はガラリと一変。宗家のゴタゴタの影響から、土佐をはじめ各地の細川一門が次々と帰京したため、今まで衰退の一途を辿ってきた守護領国支配体制は、ここへ来て一気に崩壊を迎えてしまった。これにより、もはや後ろ盾が無力化した長宗我部氏は途端に立場が悪くなり、今まで友好的だった豪族達ですら離れていくほど、周囲から浮き上がった存在となっていった。そして、翌1508年、かねてより横柄な態度や領民間の争い等で兼序に強い憎しみを抱いていた近隣の本山梅渓(もとやまばいけい)は、今が好機とばかりに反・長宗我部軍を結成。これに、梅渓の呼び掛けに応じた大平氏、吉良氏、山田氏ら諸豪族の兵が加わり、総勢3000余の大軍となって、長宗我部氏の居城・岡豊(おこう)城へと進軍を開始した。今まで古い権力に固執し続けてきた長宗我部氏に、そのツケを払う時がとうとうやって来たのである。と同時に、それは、土佐の地が争乱で血に染まる戦国乱世の時代に突入したのだという確かな合図でもあった。 篭城、そして敗死 兼序は、本山氏の連合軍襲来の報を聞くや、「城に攻め込まれるのは武門の恥。」とばかりに岡豊城から500の兵を率いて打って出て、国分川を背に戦闘を開始。多勢の敵軍を相手に果敢な戦闘を繰り広げた。だが、しばらくすると兼序は、突如軍を反転し、国分川の浅瀬を渡って城へ引き揚げる構えを見せた。その様子を見た敵兵は、今がチャンスと背を向けた長宗我部軍に追いすがったが、これは兼序にとっては計算通りの動きであった。果たして、川が全体的に浅いと勘違いした敵兵は、長宗我部軍が浅瀬だけを選んで後退していたことに気付きもせずどんどんと深い淵にはまって身動きが取れなくなり、兼序はそれを攻めて大打撃を与えることに成功した。しかし、局地戦に勝利したとはいえ、それでも所詮は多勢に無勢である。結局、戦力差から兼序は篭城を余儀無くされ、岡豊城へと退却。城は完全に囲まれてしまう。そのうえ、補給線も寸断されて物資が不足したため、奮戦の甲斐も無くついに万事休す。もはやこれまでと悟った兼序は、家臣らや妻子を一堂に集めて、「ものども、ここは一所に討死して、来世でも再び同じ道に生まれようぞ。」と餞別に舞を披露し、翌日、妻子と共に自刃してこの世を去った。時に兼序43歳。その後、家臣らも城に火を放ってお互いに刺し違えて殉死したので、岡豊城はついに落城。長宗我部氏は滅亡した・・・かのように見えた。だが、兼序の代で長宗我部氏が終わることはなかった。なぜなら、6歳になる兼序の息子・千雄丸(せんゆうまる)(後の国親(くにちか))は、落城前、家臣・近藤某に背負われ密かに脱出し、無事に難を逃れていたからである。こうして、居城を奪われ、没落した長宗我部氏の命運は、一縷の光となった幼い千雄丸の手に託されたのだった。 元親の父・国親の雄姿 落城 1508年、長宗我部(ちょうそかべ)氏の居城・岡豊(おこう)城は、本山氏ら豪族連合軍に攻撃を受けて落城した。その際、当主・兼序(かねつぐ)は、6歳になる我が子・千雄丸(せんゆうまる)を密かに逃がし、未来を託した。家臣に手を引かれた千雄丸は、無事に落ち延びて、土佐国司・一条氏のもとへと辿り着き、以後、その庇護下で養育されることになる。その童子こそが、後に長宗我部氏を再興し、元親(もとちか)の父となる、第20代当主・国親(くにちか)である。その眼差しは凡人にあらず、成人すれば必ずや大成するであろうと言われた偉才の持ち主だった。 一条房家との逸話 千雄丸が7歳の頃のある日、屋敷の2階で納涼の酒宴を開いていた一条当主・房家(ふさいえ)は、戯れに「2階から飛び降りれば、お前の家の再興を手伝ってやるぞ。」と、千雄丸をからかった。当然、本気ではない。しかし、驚くべきことに千雄丸は、次の瞬間、あっさり身を乗り出すと、そのまま真下へ飛び降りてしまったのである。突然のことで、房家は仰天した。と同時に、千雄丸の再興への思いの強さを知り、その真摯な心意気に感動もした。以後、房家は、長宗我部氏の再興に尽力することを約束。1518年、それを守った房家の調停工作が功を奏し、ついに岡豊城への復帰が叶った。千雄丸は、元服して名も国親と改め、約10年ぶりに、故郷の土を踏むのだった。 勢力拡大 こうして、無事に返り咲きを果たし、父の仇討ちに執念を燃やす国親だったが、それを遂げる国力は無かった。そこで、かねてより知勇兼備の武将として評判の高かった近隣の吉田孝頼(よしだたかより)を後見に迎え、その指導のもと、富国強兵に時間を費やした。また、本山氏に娘を嫁がせ、とりあえず表向きの間柄の悪化を防いだ。結果、国力は充実。そのうえ、かつての旧臣達の帰参も手伝ったので、長宗我部氏は、見違えるような勢力となった。そして、さらに領土を広げるべく近隣へ進出し、次々と併呑。こうして、勢力を伸張させた国親は、いよいよ、父を死に追いやった連合軍の1人・山田氏の討伐を計画。強大な山田氏を、謀略を駆使して内部から崩した後、1549年に攻め落とし、その領地を自らに加えた。1556年には、日頃の国親の勢力拡大に恐れを抱いた香宗我部親秀(こうそかべちかひで)が、交戦を主張する弟を殺害して、国親の息子を養子に迎え入れたいと言ってきた。国親は三男・親泰(ちかやす)を送り、1558年、親泰が香宗我部の家督を相続。これにより、香宗我部氏の領地は、事実上、国親のものになったも同然だった。この頃には、長宗我部氏の台頭をはじめ、土佐の勢力図は大きく変化しており、かつて「土佐の七雄」と呼ばれた大家の内で、残ったのは長宗我部氏を除いて、安芸氏、本山氏だけになっていた。これに、国司の一条氏を含め、もはや、土佐国内の主要な勢力は、この4家に絞られた。国親の次なる標的は、娘を嫁がせて身内になっていたとはいえ、やはり父を攻めた連合軍の首謀者・本山氏だった。 国親、最後の戦い その後、国親は、土佐郡中央部へと進出し、本山氏に加担する小豪族を次々と破っていった。しかし、これには本山氏も黙っておらず、1560年、国親の輸送船を襲撃、積み荷を奪って報復してきた。それを受けた国親は、さらにその報復にと、長浜城を奪取。本山氏が直ちに兵を急行させたため、ついに、長浜戸の本で両軍は激突した。いよいよ、宿敵との本格的な対決である。この合戦に、国親は嫡男・元親を連れてきていた。本日、初陣を飾らせるためである。ただ、国親は心配だった。なぜなら、元親は「姫若子(ひめわこ)」のアダ名で呼ばれるほどの軟弱者だったからである。しかし、いざ合戦が始まると、予想に反して、元親は大奮戦。本山勢を少数で突き崩すと、勢いに乗って、敵の支城・潮江(うしおえ)城まで奪取してしまったのである。これには、さすがの本山勢も敗走し、後方の浦戸城へと退却、篭城するしか道は無かった。今こそ絶好の好機と見た国親は、即座に浦戸城を包囲して、糧道を寸断。一兵も逃がさぬ構えで、じりじりと本山勢を圧迫した。しかし、そんな矢先に国親の体調が突然悪化、無念にも囲みを解いて、対岸の種崎へと陣を移した。そして、しばらくはこの種崎で休養したものの、一向に良化の兆しは無く、岡豊城に帰城。その後も治療を重ねたが、ついに回復することもなく、その年の6月、国親は他界した。享年57歳であった。死に際して国親は、元親を枕元に呼び、「我にとっては、本山氏を駆逐することが1番の供養になると心得よ。我の死に気遣いせず、軍議を専らとせよ。我、軍神となりて守るべし。」と言い残した。こうして、その波乱の生涯を終えた国親の意志を継ぎ、いよいよ元親が、表舞台に登場するのである。 土佐統一戦線(1) 姫若子 後に四国覇者として乱世に名を馳せることになる英雄・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、長宗我部20代目の当主・国親(くにちか)の長男として、1539年に誕生した。幼名は弥三郎。幼い頃から背が高く、いかにも器量ありげな体格の持ち主だったが、反面、お姫様みたいに色白で、性格は無口でおとなしく、必要なこと以外はロクに喋ろうともせず、家臣らの挨拶にもまともに返事をしないほどだった。そのうえ、日頃から部屋の奥に篭ってじっとしていることが多く、本格的に兵法を学び始めたのも18歳の頃と、武将としての芽生えも普通より随分と遅かった。そのため、家中では「姫若子(ひめわこ)」と陰で囁かれ、物笑いの種となっていた。この点は、幼少より素質の片鱗を見せた父・国親と大きく異なる部分である。父も、我が子の行く末をひどく心配した。 初陣は、父の配慮があってか遅くなり、元親が22歳の時に起こった長浜戸の本での本山氏との合戦だった。この時も、合戦前に1人でウロウロ歩いたり、敵前でぼんやり座ったりして、父に「うつけ者め。捨ておいて打ち殺されてしまえ!!」と怒鳴られる始末で、あげく、槍の突き方や大将の心得を今頃になって家臣の秦泉寺豊後(じんぜんじぶんご)に質問し、「槍は敵の目を狙って突くものです。」「大将とは、掛かって行かぬ者、逃げぬ者にござります。」などのアドバイスを受けるという体たらくだった。しかし、いざ合戦が始まると、豊後のアドバイスのおかげか、先刻までの姫若子振りはなりを潜め、元親はわずかな手勢を率いて多勢の本山軍に攻め掛かり、自身も槍をふるって敵2人を突き伏せ奮戦し、みるみる大軍を突き崩して大活躍を収める。途中、敵に囲まれて窮地に陥り、父の「元親を討たすな!!」の声に奮起した味方に救われる一幕もあったが、元親のおかげで戦況は味方有利のままに進み、結果、長宗我部軍は快勝した。そのうえ、続く潮江(うしおえ)城の攻略でも、攻城戦に備えて慎重になっている家臣達を尻目に的確に状況を分析し、「この城は空城である。急ぎ攻め入れ。」と城内に突入。元親の見抜いた通り城内に敵兵の姿は無く、その勇猛才智に家臣団の誰もが驚愕した。そして、この日を境にめでたく「姫若子」のアダ名は撤回され、以後は「鬼若子(おにわこ)」「土佐の出来人(とさのできびと)」等と呼ばれ、賞賛される存在となった。 進撃 その後、国親が病を得て急死したことから、元親は長宗我部の家督を継いで第21目の当主となる。今や姫若子ではなくなった元親を、家臣らはもちろんのこと、父も臨終の際に「元親の振る舞いや武者遣いには、もはや何の問題も無い。」と言って誉め称え、全幅の信頼を寄せてこの世を去った。元親は、父の成し得なかった宿敵・本山氏の打倒を第一の目標とし、長宗我部氏のさらなる繁栄を目指して、家臣らと一丸となり邁進することを固く誓った。 そして、父との別れも束の間、元親は即座に喪服を脱ぎ去り本山氏の支城の攻略に取り掛かかる。長浜戸の本の合戦における勝利は、長年強敵として立ちはだかってきた本山氏を滅ぼす恰好の突破口となったからである。この、元親率いる長宗我部軍の進撃は非常に強力であり、家督を継いだ1560年からほんの数年の間に多数の敵支城を落として大幅に勢力図を塗り替え、「土佐の出来人」の実力が単なるまぐれでは無いことを証明した。そのうえ、1562年には、本山氏の重要拠点の1つ・朝倉城を攻撃するところにまで漕ぎ着けることが出来た。しかし、堅城で知られる朝倉城の攻略は困難を極め、一時は元親が敗走する等、互いに一進一退を繰り返した。結局、勝敗は決まらずのままで、被害の拡大を懸念した元親は居城・岡豊(おこう)城へと引き上げることにし、連年続いた本山氏への直接攻撃は、これにてひとまず休止となった。ただし、直接攻撃は、である。 元親の結婚 元親は、翌年の1563年に結婚した。相手は、美濃の武将・斎藤利賢(さいとうとしかた)の娘である。近隣の家と姻戚関係を結んで地固めを行うのが一般的な時代に、わざわざ遠方の美濃(現在の岐阜県)から嫁をもらうあたり、この当時から、すでに土佐国内の統一はおろか、四国統一、果ては天下統一すら視野に入っていたであろう元親の野望の一端が伺える。ちなみに、この美濃の斎藤家は、武門の家として有名で、戦国期、多数の勇士を輩出している。元親の妻の兄に当たる斎藤利三(さいとうとしみつ)も、非常に優れた勇士であり、後に織田信長の臣・明智光秀の筆頭家老を務めたほどだった。また、その利三の娘・おふく(元親から見て、義理の姪)は、江戸時代に徳川3代将軍・家光の乳母として大奥で絶大な権勢を誇った、あの春日局(かすがのつぼね)である。さらに余談になるが、筆者のハンドルネーム「としゾー」は、この斎藤利三の「利三」の字に、幕末の新撰組副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)の読み「としぞう」を宛がったもので、普段は簡略にしているが、正確には名字も含めて「秦野利三(はたのとしぞう)」と表記するのが正しい。・・・別にどーでも良い話だが。 本山氏崩壊 この結婚の前後ですら、元親は本山氏打倒のために抜け目無い攻撃を続けていた。ただし、直接攻撃ではない。配下に対しての離反工作である。前回の朝倉城攻めはお互いに痛み分けのような結果に終わったものの、元親が快進撃を続けるごとに本山氏の勢いが急速に減退していることは、今や誰が見ても明らかだった。元親は、そういった世間の風評を敏感に察知し、タイミング良く誘いの使者を派遣していったのである。当然、ぞろぞろと寝返る者が続出したのは言うまでもないだろう。こうして、戦わずして多数の将兵を失った本山氏は、もはや拠点である朝倉城を維持することも困難な状態だと判断し、自ら城に火を放って後方にある本拠地・本山城に退却。しかし、そんなことで事態が良化するはずも無く、結局は本山城すら放棄して、さらに後方の瓜生野(うりうの)へと移り、以後、この地で数年にも渡る熾烈な抵抗戦を繰り広げた。だが、本山氏の命運はもはや尽きたのか、その最中に当主・茂辰(しげとき)が病死してしまい、将兵達の士気は急速に低下。その跡を継いだ茂辰の長男・親茂(ちかしげ)も、瓜生野の谷口に要塞を構えて若武者ながらによく防いだが、1度崩れ始めた体勢を立て直すには至らなかった。そして、1568年の冬、散々に攻撃されて力尽きた本山氏はとうとう降伏。祖父・兼序(かねつぐ)の時代より延々と続いた因縁の対決は、元親の活躍によってついにその幕を降ろし、本山氏の領地を吸収した長宗我部氏の勢力範囲はまた一段と広がることとなった。これにより、土佐国内の大家は、東の安芸氏、西の一条氏、そして中央の長宗我部氏と、大きくこの3つの勢力に分かれるのみとなったのである。元親の土佐統一の時は、着実に近づいてきていた。 |
04 22(日) 長崎市長凶弾に倒れる |
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<長崎市長>銃撃され心肺停止、組幹部を逮捕 選挙事務所前 4月17日20時26分配信 毎日新聞 17日午後7時50分ごろ、長崎市大黒町のJR長崎駅前で、同市の伊藤一長(いっちょう)市長(61)が男に撃たれた。救急車で同市の長崎大付属病院に運ばれたが、意識不明で心肺停止の状態。男は現場付近で選挙事務所関係者に取り押さえられ、長崎県警が殺人未遂容疑で逮捕した。男は「殺してやろうと思った。撃ったのは間違いありません」と殺意を認める供述をしているという。 逮捕されたのは同市風頭町、指定暴力団山口組系水心会幹部、城尾(しろお)哲弥容疑者(59)。県警は長崎署に捜査本部を設置、動機について本格的に追及する。また、回転式拳銃1丁を押収。近く同市内の水心会事務所を家宅捜索する方針。 調べでは、伊藤市長は街頭活動から選挙事務所に戻り、選挙カーから降りて選挙事務所に入ろうとしたところを、数メートル離れた背後から、2発撃たれた。 城尾容疑者は数年前、工事中の市道で自分の車が路面の穴にはまり、破損する事故を起こしており、市に抗議するトラブルを起こしていた。この件で伊藤市長を刑事告発していたが、長崎地検は04年に不起訴としている。このほか、城尾容疑者の知人が経営する建設会社が市の中小企業関連融資を受けられなかったことを恨んでいたという。最近、知人の弁護士らに「(市の)公共工事から外された。一発ぶちかましたら動機を発表してほしい」と市長への恨みを漏らしていたという。 伊藤市長は22日投開票の同市長選に、4選を目指して立候補していた。ほかにはいずれも新人の無所属2人、共産党公認1人が立候補している。 伊藤市長は、長崎市出身。早稲田大政経学部を卒業後、市開発公社に勤務した後、市議2期、県議3期を経て、95年4月の市長選で初当選。4年前の統一地方選で連続3選を果たした。九州市長会長、世界120カ国1608都市が加盟する「平和市長会議」の副会長などを務めている。 警察庁によると、伊藤市長は警察による警護の対象ではなかった。長崎市幹部によると、城尾容疑者は、しばしば市議会の傍聴に訪れていたが、特に騒ぐこともなく、静かに聞いていたという。 長崎市では90年1月、当時の本島等市長が右翼団体幹部に撃たれて重傷を負う事件が起きている。 現場のJR長崎駅前はホテル、ショッピングセンター、NHK放送局などが集まり、人通りが多い繁華街の一角。 |