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折々の記 2006 B

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】09/01〜        【 02 】09/28〜
【 03 】10/09〜        【 04 】10/11〜
【 05 】10/17〜        【 06 】10/24〜
【 07 】11/01〜        【 08 】11/13〜


【 01 】09/01〜

  09 01 情報アンテナ;AAN=朝日新聞アジアネットワーク
  09 09 嵯峨野の秦氏と大分の宇佐神宮
  09 15 亀岡:嵯峨野の下見旅行
  09 21 安倍晋三自民党総裁
  09 22 安倍総裁留意点:国旗国歌への司法判断…(朝日社説)
  09 25 功名が辻:秀次切腹

09 01(金) 情報アンテナ;AAN=朝日新聞アジアネットワーク

日本を取り巻く政治と経済は常時胎動している。自分を取り巻く家、地域、国家として見ていくと、「経済活動をどうしていけばいいか」ということが中核になって政治が動いている。

これは基本的なことで、何も今更取り上げて言うことでもない。

ただ、大事なことは「情報をどうとらえるか」ということで、現在のように情報が渦巻いて飛び交う状況の中で、どの情報をキャッチしていればいいかが問題なのである。

今までの歴史を見てきて言えることは、人が求めていく文化が進展し拡散していくことと、殺戮を含む闘争が絶えずつづいてきた、ということだ。

戦争が終わったときには破壊や殺人を拒否し、それでいながら集団や国家の動向に再び操られて、自分の考えを通すことができず戦争に巻き込まれてきた。

経済問題の解決手段として戦争は位置づけられてきたものだから、経済問題の解決方法を当事者相互でみつけなければならないことになる。

このとき第一に気をつけたいことは「相手の立場に立てるかどうか」であり、第二に客観的で論理的な思考なしに自分が所属する側への応援感情で対処してはならないことである。

友人としての基本的なことを欠くようではいけない。

そんな意味も含めて、つぎのURLは立派なアンテナである。

<AAN=朝日新聞アジアネットワーク>

分量は多いが総てコピーし、参考にしたい。

記事は2003年から始まっているが、その一部として2006年の記事を見ると次のとおり。


 AANメンバーによる最新記事などです

  2006年8月
   エネルギー資源争奪症候群を問う(下) 8月30日
   エネルギー資源争奪症候群を問う(上) 8月29日
   幕末の志士から何を学ぶか 8月23日

  2006年7月
   普遍的価値、日米から深化を 7月19日

  2006年6月
   閉塞感破る指導力が必要 6月21日

  2006年6月
   日中韓合同シンポ/「政冷経熱」の日・中韓 和解し米と向き合う時 6月7日

  2006年5月
   人間性育み「魅力ある国」に 5月17日

  2006年4月
   中印、大国としての「責任」は 4月19日

  2006年3月
   「韓半島」解決は百年の計か 3月15日
   インドと日本の明日を考える(下) 3月15日
   インドと日本の明日を考える(上) 3月14日
   「認識の差」出発点に 3月8日

  2006年2月
   日米中の戦略対話実現を 2月15日

  2006年1月
   時空をこえて4:変貌する歴史都市 1月30日
   時空をこえて3:「親日」と「哈日」の間 1月23日
   日韓 国民レベルの連帯を 1月18日
   時空をこえて2:韓流と在日コリアン 1月16日
   時空をこえて1:タブーに挑む 1月9日


●きょうの信毎の社説には 信濃毎日新聞社説<村井新知事「有言実行」が試される>という記事が出ている。

信毎もいろいろと新知事への懸念があるようだ。

村井新知事は、最初の挨拶で市町村との連携を密にしていく、国から金をとってくる、というふうなことを言っていた。

長野県民の生活をどうしたいのか、経済事情をどう乗り切るのか、自分の考えは少しも出していない。いろいろと憂慮することが多い。

田中革新知事が誕生してから「K嬢日記」が始まったが、それは閉じられそうだ。

長野県公式ホームページの中に、「長野県政へのご意見ご質問などを『信州・フレッシュ目安箱』にお寄せください」= http://www.pref.nagano.jp/kikaku/callct/hotline/top2.htm というページがあるので、みんなで極力、質問や注文をするようにしたいものである。

09 09(土) 嵯峨野の秦氏と大分の宇佐神宮

旅行の準備として調べていると、好奇心をくすぐることが幾つも出てくる。その一つが秦氏のルーツの広がりであった。京都嵯峨野一帯かと思っていたら、大阪の寝屋川に秦河勝の墓があり、さらに邪馬台国にも関係してきているという。八幡様の元として宇佐八幡と耳に聞いたことがあったが、へたをすれば伊勢神宮よりも渡来民に関わっている古来からのお宮であるらしい。

宇佐神宮を調べていると、驚くばかりのことに出会ってウゥーン!! と考え込んでしまう。

今その調べたものをコピーしてまとめた<目次><宇佐神宮>を、ここへ挙げておくのでジャンプしてみると良い。

09 15(金) 亀岡:嵯峨野の下見旅行

家内が12日13日金沢へ旅行に行くというので、かねての予定、京都の下見に行くことにした。

保津川下りは目下落石取り除きのため運休中、仕方がないので予定変更。まず老ノ坂峠と首塚へ行く。

嵯峨野へ降りて車を預けレンタサイクルにて大悲閣、大堰の嵐山灌漑用水取入口を見学。雨が降り始めたので自転車を返し、葛野大堰碑を撮影、時雨殿へ入る。宝厳院前と天竜寺参道を経て、野宮神社参詣。トロッコ嵐山駅を見て常寂光寺を見学。ここで昼飯のおむすびを食べる。

向井去来の楽柿舎、去来の墓を見、壇林寺前を通って祇王寺、滝口寺を見学。坂道を下って丁字路から北へ向かう。なるほど国の「重要伝統的建造物群保存地区」の感が強いところ。三叉路の角には八体地蔵石仏がある。

更に進むと左登りの石段があり仏野(化野)念仏寺となる。登り坂ではもう一歩も足を動かせない。タクシーで愛宕念仏寺へ行く。帰りもタクシーで清涼寺へ行く。

嵯峨野を終えて京都堀川通りの晴明神社に関係の深い、陰陽師・安部晴明が修行したという亀岡の西山(安行山=アンギョウザン)に登った。頂上に小さい祠の「亀岡晴明神社」があり、「安行山磐榮稲荷宮」もある。

13日は朝から小雨の天気でした。篠村八幡宮は足利高氏の旗揚げ八幡として知られていた。それから松尾大社を見学し大覚寺へ直行した。ここはとても落ち着いたところだった。ゆっくり見学した。大沢池も蓮の花が咲いており、百人一首の「名古曽瀧阯」も見てきた。

天候の具合がよくなかったのでそれで京都を引き上げた。

09 21(木) 安倍晋三自民党総裁

きのう自民党の総裁選挙が行なわれた。

今いちばん心配なのは、教育基本法をいじること、憲法をいじること、戦争責任を認めないこと、弱者の声を聞かないこと、などである。

今暁の毎日新聞ニュース(03:07)は次のように報じている。


<安倍新総裁>得票率7割に届かず 微妙な勝利の評価

 安倍晋三君267票――。自民党総裁選の投開票が行われた党本部8階のホール。選管委員長の臼井日出男が最初に安倍の国会議員票を読み上げた瞬間、「ふーん」と低い響きの反応が会場内に広がった。

 財務相の谷垣禎一の時は「ほー」、外相の麻生太郎は「おー」。この対照的な反応が、「圧勝」が伝えられながら得票率が目標の7割に届かなかった安倍の微妙な勝利の評価を物語っていた。

 会場中央、前から4列目に座っていた安倍は立ち上がって、後ろ、右、前、左の順に深々と頭を下げたが、表情は硬いまま。着席してしばらくしてようやく笑みがのぞいたが、満面の笑みにはほど遠かった。

 安倍陣営は投票前、自民党本部に近い赤坂プリンスホテルで、必勝出陣式を開いた。出陣式を「最後の踏み絵」とする思惑もあり、お知らせの紙に「必ず議員ご本人の出席を」とのただし書きを入れた。陣営幹部は手分けして各議員に出席要請の電話も入れた。

 結局、出席者は議員266人(含む代理出席15人)。選対本部長代理の町村信孝(前外相)は「もうちょっと来ると思ったが」と不安げな表情を見せたが、安倍の議員票はくしくもこの数字とほぼ符合した。

 町村をはじめ、選対本部長の柳沢伯夫(党税調会長)、事務局長の甘利明(元労相)らは20日夜、東京・赤坂の料亭で慰労会を開いた。

 「あれだけ電話して、入れてくれると言っていたのになあ」。だれかれとなくぼやきが相次ぎ、町村は「森(喜朗前首相)さんに280は下回らないと報告したのに」と肩を落とした。出席者によると、お通夜のようだったという。(敬称略)

(毎日新聞) - 9月21日3時7分更新



09 22(金) 安倍総裁留意点:国旗国歌への司法判断…(朝日社説)

九月下旬になってヤマブドーの収穫時期となった。なかなか大変な作業である。

小泉政権から阿部政権へ移行することになるが、外交面での課題は大きいし、内政面の締め付けは経済的な面と思想信条という個人内面的な面の課題も大きい。

戦前の日本の悪弊がチラホラと頭を持ち上げてきそうな感じがする。日本人は日本人同士でまとまりたいという潜在的な気持ちがありそうだ。排他的な考え方にはともかく注意し、警鐘を鳴らし続けなければならない。

今朝のアサヒコムから社説をコピーしておく。

  【社説】2006年09月21日(木曜日)

安倍新総裁 不安いっぱいの船出

 自民党総裁選は、予想通り安倍晋三氏の圧勝に終わった。今日の誕生日で52歳。戦後最年少、初の戦後生まれの首相が誕生する。

 英国のブレア氏が首相になったのは43歳、クリントン米大統領は46歳だった。それに比べれば、特に若さが際だつわけではない。でも、日本の一般的な企業社会で言えば、若手の部長が社長に抜擢(ばってき)されたような、世代を一気に飛び越えた感があるのは間違いない。

 それなのに、これから新時代の政治が始まるという新鮮さがあまりわきあがってこないのはなぜだろうか。

 安倍氏が前面に掲げたのは「戦後体制からの脱却」であり、祖父である岸信介元首相譲りの憲法改正だった。戦後生まれが戦後の歩みを否定するかのようなレトリックを駆使する。そのちぐはぐさに復古色がにじむからかもしれない。

 「戦後体制からの脱却」と言えば、中曽根康弘元首相の「戦後政治の総決算」を思い起こす。

 ともに熱心な憲法改正論者。保守主義を標榜(ひょうぼう)し、伝統や国家を重んじる。そんなスタンスで安倍氏と中曽根氏は似通うが、大きな違いもある。

 防衛庁長官、党総務会長、幹事長などを歴任した中曽根氏は、初当選から首相になるまで35年。30冊ものノートに政策や心構えを書きためた。政権に就いた時には「頭の中には政策の貯金がいっぱいあった」と回顧録で語っている。

 一方、安倍氏の議員歴はわずか13年。選挙向けの「顔」として幹事長に起用されたが、閣僚経験は官房長官だけだ。

●自民党の人材枯渇

 この1年、小泉氏の退陣は既定路線だったのに、結局、安倍氏を脅かすライバルは現れなかった。それどころか、政策も発表しない段階から党内の大勢は安倍支持へ雪崩を打った。自民党の人材枯渇と活力のなさを思わずにはいられない。

 自民党総裁の選ばれ方がさま変わりしたのだ。政策や経験よりも、次の選挙に勝てる「顔」かどうかが最優先される。昨年の総選挙で見せた小泉人気の破壊力はそれほど大きかった。

 議院内閣制の下での間接的な首相選びは、国民の意思が直接反映されないもどかしさの半面、「人気投票的な要素に流されない」利点があると言われてきた。もはやそれが通用しない時代に入ったということかもしれない。

 人気は安倍氏の最大の強みであると同時に、不安のもとでもある。彼の人気の源泉は靖国や拉致問題で見せた、北朝鮮や中国などに対する強硬な言動だ。それが世の中に広まるナショナリズムの風潮にふわりと乗った。

 その前段には、駆け出し議員のころから歴史教科書や慰安婦、歴史認識問題などで政府や党の姿勢を批判してきた過去がある。

 若い政治家が過激な発言で注目を集めることは珍しくない。だが、経験を重ねる中で、積み上げられた政府見解や外交の重さを学び、修正していく。それが自民党の政治家養成法でもあった。

 あっという間に階段を駆けあがった安倍氏に、そんな時間は乏しかった。若いころの生硬な言動を含めて「毅然(きぜん)とした態度」こそが自らの人気の源と見る限り、首相という大きな衣に体が合わないという違和感は続くだろう。

●地位が人を育てるか

 その表れが、歴史認識などで明確な発言を避ける「あいまい戦略」に違いない。首相になればそんなごまかしが通用するとは思えない。

 人気は民主主義の大事な要素だ。国民に負担を求め、痛みを分かち合う上でリーダーに欠かせぬものだろう。だが、頼みの人気が陰った時、さらにナショナリズムのアクセルを踏み込みはしないか。冷戦後の複雑化する世界を冷静に、したたかに乗り切れるか。不安は募る。

 地位が人を育てるということもある。英知を結集することで、不安を希望に変える。そんな船出であってほしい。


はじめて東京都のやり方へ違憲判決が言い渡された。ヤットのことである。

  【社説】2006年09月22日(金曜日)

国旗・国歌 「強制は違憲」の重み

 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである――。

 学校教育が軍国主義の支えになった戦前の反省から、戦後にできた教育基本法はこう定めている。

 この「不当な支配」に当たるとして、国旗掲揚や国歌斉唱をめぐる東京都教育委員会の通達や指導が、東京地裁で違法とされた。

 都教委は都立高校の校長らに対し、卒業式などで教職員を国旗に向かって起立させ、国歌を斉唱させよと命じた。処分を振りかざして起立させ、斉唱させるのは、思想・良心の自由を侵害して違憲であり、「不当な支配」に当たる。それが判決の論理だ。

 教育委員会の指導を「不当な支配」と指摘した判断は昨年、福岡地裁でも示された。その一方で、公務員の仕事の公共性を考慮すれば命令に従うべきだという判断も東京高裁などで出ており、裁判所の考え方は分かれている。

 私たちはこれまで社説で、「処分をしてまで国旗や国歌を強制するのは行き過ぎだ」と批判してきた。今回の判決は高く評価できるものであり、こうした司法判断の流れを支持する。

 日の丸や君が代はかつて軍国主義の精神的支柱として利用された。いまだにだれもが素直に受け入れられるものにはなっていない。教職員は式を妨害したりするのは許されないが、自らの思想や良心の自由に基づいて国旗掲揚や国歌斉唱を拒む自由を持っている。判決はこのように指摘した。

 判決は「掲揚や斉唱の方法まで細かく定めた通達や指導は、現場に裁量を許さず、強制するものだ」と批判した。そのうえで、「教職員は、違法な通達に基づく校長の命令に従う義務はなく、都教委はいかなる処分もしてはならない」とくぎを刺した。原告の精神的苦痛に対する賠償まで都に命じた。

 都教委の通達が出てから、東京の都立学校では、ぎすぎすした息苦しい卒業式が続いてきた。

 だが、都教委は強硬になるばかりだ。今春も生徒への「適正な指導」を徹底させる通達を新たに出した。生徒が起立しなければ、教師が処分されかねない。

 通達と職務命令で教師をがんじがらめにする。いわば教師を人質にして、生徒もむりやり従わせる。そんなやり方は、今回の判決で指摘されるまでもなく、学校にふさわしいものではない。

 「不当な支配」と指摘された都教委は率直に反省しなければならない。国旗や国歌に関する通達を撤回すべきだ。これまでの処分も見直す必要がある。

 卒業式などで都教委と同じような職務命令を校長に出させている教育委員会はほかにもある。

 国旗や国歌は国民に強制するのではなく、自然のうちに定着させるというのが国旗・国歌法の趣旨だ。そう指摘した今回の判決に耳を傾けてもらいたい。


09 25(月) 功名が辻:秀次切腹

ゆうべは「功名が辻」をみた。秀吉は姉の子、甥の秀次を切腹に追いやった経緯が出ていた。

秀次は瑞泉寺に葬られているという。けさ調べてみると、とんでもないことが出ていた。先ずはそれらの記事を次のウェブで見るとよい。

人の生涯というものは、ミクロで見てもマクロで見ても、長明の言うごとく‘淀みにうかぶうたかた’に如かずである。小学唱歌に出てくる「鎌倉」の“興亡すべて 夢に似て”である。

更に言えば、‘生あるものは滅し’‘形あるものみな消滅する’、草花の生涯や蝉の生涯とかわるところがない。

京都へ行ったら手を合わせよう。

瑞泉寺 ……… ウェブ 三条瑞泉寺 の検索結果 約 9,460 件中 1 - 10 件目 (0.07 秒)………


山根咲栄のとっておき京都「木屋町&先斗町界隈」京を歩こう!・京都 ...
木屋町通り南へ歩いて行くと三条大橋西畔に「瑞泉寺」があります。これはもしかして 見逃すかもわかりませんが、木屋町三条の信号を下がって2軒目です。 この小さなお寺 は由緒正しい歴史あるお寺として有名であの豊臣秀次公のお墓があります。 イラスト ...
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木屋町通り南へ歩いて行くと三条大橋西畔に「瑞泉寺」があります。これはもしかして見逃すかもわかりませんが、木屋町三条の信号を下がって2軒目です。 この小さなお寺は由緒正しい歴史あるお寺として有名であの豊臣秀次公のお墓があります。

普段は何気なく前を通りすぎているのですが、立ち止まってみて見ると歴史の奥深さが身にしみます。 無念の最期をとげた罪なき秀次公ご一族の運命は他に例をみないとほど痛ましい事件だったのです・・・。 荒れ果てた加茂川にあった塚にもはや1本の花をたむける人もいなかったのですが、その16年後高瀬川を開く工事を進めてこの地に来た角倉了以が参拝しようとしました。

 あまりの荒廃に同情した了以翁が墓域を整理、ようやく70年後に寄贈した巨材で現在の寺を建立、一族の墓所となったのです。 このお寺にしても高瀬川にしても角倉了以さまがいらっしゃらなければ無かったものなのですね・・・。 素晴らしい!(写真は省略)


3.瑞泉寺
京の場合は、次回にお話する六条河原が暗い面の一つだが、先斗町を北に突き当たった ところにある瑞泉寺(写真)も、過去の悲劇をひっそりと ... そればかりか、その妻妾子供 三十九人は三条大橋西南の河原で白昼、衆人環視の中、無残にも次々と斬殺されていった。 ...
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瑞泉寺 豊臣秀次一族を弔う寺 京都観光文化写真集 フォト京都.com
京都三条大橋の東端から鴨川の対岸を見ると、飲食街のビルの谷間にお寺の屋根が見えます が、ここが豊臣秀次公と一族の墓所である瑞泉寺です。。写真右側には三条大橋が写って います。瑞泉寺の左側(南)は先斗町(ぽんとちょう)と呼ばれる花街(かがい) ...
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 京都観光文化写真集 フォト京都.com

 京都千一夜物語 目次 
 奥深い京都のお話を写真で紹介します。相当ロングランとなることを覚悟しています。
 順序は行き当たりばったりです。
 項 番 目   次 要            点
 0001 天野屋利兵衛 実在?フィクション?天野屋利兵衛は男でご座る
 0002 姉小路公知 姉小路公知は京都御所の鬼門で暗殺された
 0003 高山彦九郎 待ち合わせ場所は京阪三条駅の土下座像前
 0004 新撰組の刀傷 三条大橋と島原角屋に今も残る刀傷
 0005 方広寺の大梵鐘 大梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」が豊臣家滅亡の引き金
 0006 耳塚(鼻塚) 豊臣秀吉の晩年を汚す朝鮮出兵の負の遺産・・耳塚について
 0007 豊臣秀次一族虐殺 豊臣秀吉の横暴を象徴する女子供39名惨殺の記録
 0008 御土居(おどい) 豊臣秀吉が築いた総延長23kmの城砦堤防
 http://www.photokyoto.com/kyoto/08SenIchiya/SenIchiyaTop/SenIchiyaTop.htm


都市史22 高瀬川
一之舟入 中京区木屋町通二条下る西側; 水の堰止めの石 中京区木屋町通御池下る西側; 角倉邸跡 中京区木屋町通二条下る東側; 二尊院 右京区嵯峨二尊院門前長神町; 高瀬舟模型 中京区寺町通御池上る(京都市役所内); 瑞泉寺 中京区木屋町通三条下る ...
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi22.html - 12k - キャッシュ - 関連ページ

ねこづらどき: 豊臣秀次の菩提寺・慈船山 瑞泉寺 〜功名が辻〜
瑞泉寺は三条木屋町という繁華街の中にありながら、あまりその存在を知られていない 寺です。境内も狭く、大勢で押しかけるには向きません。しかし、その反面、とても町中 にあるとは思えない静かな寺であり、秀次とその一族を襲った悲劇を偲ぶには ...
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京都観光・グルメー京都散策 戦国時代の京都 瑞泉寺〜本能寺〜霊光殿 ...
瑞泉寺 境内自由 JR京都駅から市バス17番で河原町三条下車 三条通りを東へ行き 木屋町通りで右折すぐ、 徒歩約2分. 本能寺 地下鉄東西線京都市役所前下車すぐ. 霊光殿 地下鉄烏丸線今出川下車、今出川を西へ行き 新町通りで左折、徒歩約4分 ...
http://homepage2.nifty.com/zip/sansaku101205.htm - 25k - キャッシュ - 関連ページ

「送り火」と「送り酒」(お盆の行事と酒)
慈舟山瑞泉寺 豊臣秀吉の甥の豊臣秀次と一族の菩提を弔う寺院。高瀬川を開削した角倉 了以により1611年(慶長16年)建立。慈舟山の山号は、二条と伏見の間を行き来した高瀬舟 にちなんで名付けられた。三条通りの南側、鴨川と高瀬川の間に位置し、京都一の ...
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月〜金曜日 20時54分〜21時00分
京阪電鉄三条駅下車徒歩10分。 土佐藩邸跡、 鳥彌三(とりやさ)、 瑞泉寺、cafe&dinner mix, 阪急電鉄京都線河原町駅下車徒歩5分。 京都市バス四条河原町下車徒歩5分。 京阪電鉄四条駅下車徒歩10分。 ◇問い合わせ先◇ ...
http://www.asahi.co.jp/rekishi/2006-05-08/01.htm - 26k - キャッシュ - 関連ページ

豊臣秀次 - Wikipedia
内大臣如元。 1592年(文禄元)1月29日、左大臣に転任。関白如元。 1595年(文禄4)7 月8日、出家。 7月15日、没す。法名:瑞泉寺殿前関白秀次入道高巌道意尊儀。 墓所: 京都市中京区木屋町三条下ルの慈舟山瑞泉寺。 京都市左京区岡崎東福ノ川町の善正寺。 ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀次 - 29k - キャッシュ - 関連ページ

豊臣秀次菩提寺
京都三条、高瀬川沿いの瑞泉寺に「豊臣秀次」の墓がある。秀次は高野山で自害させられ 首がここに運ばれた。秀次の妻子、 側室達あわせて39人も、この寺の裏手「三条河原」 で打ち首になった。後年、菩提を弔うために角倉了以がここに寺を作った。 ...
http://inoues.net/club/hidetugu.html - 3k - キャッシュ - 関連ページ


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