10 17(火) 写真仕上げ完了 |
10 19(木) 麻生外相とライス米国務長官 |
千人塚の由来 今からおよそ八百年程前船山城主の臣、上沼氏がここに城を構え、北村城(北山城)といった。この下の水田地帯に城下町の町張、店町等の地名が残っている。 戦国時代、天正十(1582)年二月、織田信忠の伊那路攻略の際、上沼左近の守ったこの城は落ち、敵味方の遺骸武具一切を埋めて塚としたと伝えられている。 その後時々悪疫が流行したため、霊の祟りを恐れ、天保十五(1844)年甲辰六月千九人童子の碑を建て、以来毎年春秋二回供養を続けてきたものである。 城ヶ池はもと城の空掘で、昭和九年国の灌漑事業の一環として土手を築き水を湛えたもので、現在は水面約三、三ヘクタール、水深は深い所で十メートルに近い。 |
10 21(土) 政治ニュース |
10 22(日) 政治ニュース |
10 23(月) ‘うたき’と‘おたき’ |
●うたき【御岳】 沖縄地方で、村の中心となる聖地。老木の生い茂った森に自然石などがあり、祝女(のろ)が神に祈る場所とされている。おたけ。 ●御岳 おたけ 一般に〈うたき〉とよばれる。沖縄の人々のあいだで信仰されている聖なる森。 本土の鎮守の森に似た聖地で,沖縄本島では,御嶽のなかに拝所(うがんじゆ)が設けられ,ここで祈願がおこなわれている。 八重山の島々では,沖縄本島の御嶽にあたる聖地がウガンとかワン,オンとよばれている。 御嶽の中心はイベまたはイビとよばれ,そこに自然石などがまつられ,その前に香炉が置かれている。のろ,根神,ツカサなどの女性神役以外は,そこに近づくことが禁じられているが,御嶽で枯木を拾うこともタブーになっている。 御嶽にまつられている神々はさまざまで,太陽神とか天神,地神,水神,火の神,農業神,村の創始者などがまつられている。なかには,祭神の不明な御嶽もある。 一般に御嶽には,これを崇拝する祭祀団体があって,その代表者として選ばれた女性神役は,毎年,御嶽で稲や麦,アワなどの農作物の豊穣の祈願や感謝,あるいは人々の健康祈願,悪霊駆除の祈願などを定期的におこなっている。⇒沖縄 ●祝女 のろ 奄美,沖縄で村落の神人を支配し公的祭祀をつかさどる神女。 ノロはノロ殿内(どんち)に住み,火の神や御嶽(おたけ‖うたき)の神の祭祀を通して領内の人々の繁栄や平和を祈る。 早く伊波普旨(いはふゆう),柳田国男,折口信夫らが日本の古い宗教形態を示すものとして注目した。ごく古い時代には,その村落の草分けの家の主人が根人(につちゆ),その姉妹が根神(にがみ)として祭祀を主宰していたと考えられる。 8,9世紀以降にこのなかから複数の村落を支配する按司(あじ)が出現すると,その姉妹はノロと呼ばれ祭祀を統轄するようになる。 さらに地方に割拠する按司を統一して15世紀末に尚王朝が確立すると,首里王府はそれら旧来の組織を利用しながら公的祭祀をつかさどる公儀ノロを任命し,辞令,勾玉,俸禄などを給して,王国の政治宗教的組織の一部に組み込んだ。 各地域のノロの頂点には,国王の姉妹である聞得大君(きこえおおぎみ)が立った。 現在ではこのヒエラルヒーは崩壊し,ノロは村落の主要な年中行事の主宰者として機能している。 奄美大島にも琉球王朝の支配時代にこの制度が導入され,今日でもそのなごりがみられる。また宮古,八重山地方ではツカサ(司)とよばれる神女がノロに対応する存在とされている。⇒ゆた ●ゆた 沖縄本島を中心に南西諸島で活躍する民間巫女。 同じ部類に宮古島の〈かんかかりや〉,八重山群島の〈むぬち〉〈にがいび〉などがあり,〈ときゆ た〉ともいわれる。 語源は明らかでないが,よくしゃべることを〈ゆた口〉とか〈ゆたゆん〉ということから,神ダーリ(神がかり)にはいり,あらぬことをしきりに口走る様相をいい表したともいわれる。 ウラル・アルタイ地方のシャーマンのユタカンに由来するとの説もある。 ゆたは神ダーリの巫病にかかり巫家を歴訪し,ウタキ(御嶽),グスク(城)などの聖地を巡って捜神の遍歴をつづけるうちに巫神の憑依をうけて成巫となる。 人々の依頼によって卜占,祈願,信仰治療を行うが,霊魂の統御に力を発揮し,身体から脱出した生霊を旧に復する〈マブイグミ〉によって病気を治したり,死霊の口寄せ〈マブイワカシ〉の巫法を施すなど,霊界との交流をこころみる。 |
●愛宕神社 京都市右京区,愛宕山上に鎮座。旧府社。 火防の神といわれ,全国約800社の根本社として尊崇されている。 本宮に伊弉丑(いざなみ)尊,埴山姫命,天熊人(あめくまうし)命,稚産霊(わくむすび)神,豊宇気毘売神,若宮に雷神,梼遇故(かぐつち)命,破无(はむ)神をまつる。 社伝によると,大宝年間(701‐704)に役行者(えんのぎようじや),雲遍上人が洛北鷹峰に創祀し,781年(天応1)和気清麻呂,僧慶俊が〈愛当護大権現〉として,今の山上に移したものという。 《三代実録》によると864年(貞観6)従五位下に昇叙。 中世神仏習合の進展にともなって愛宕権現太郎坊と呼ばれ祭神を天狗として畏怖されたが,別に地蔵を本宮にまつり,〈勝軍地蔵〉と称して,武門守護のため武家に崇敬された。 このほか威徳大善寺,別当寺,教学院,福寿院,長康坊など多くの寺坊を擁し,中国五台山を模した愛宕五峰がある。 《延喜式》所載の〈阿多古神社〉(丹波国桑田郡)は当神社をさすといわれる。当時愛宕山は丹波に属していたためであろう。 応仁の乱後細川勝元が社殿を修復し,織田・豊臣2氏は社地を寄進,徳川氏も朱印地を寄せている。 明治維新後権現号や別当,供僧を廃した。 俚謡に〈伊勢へ七度,熊野へ三度,愛宕さんへは月参り〉などと謡われ,〈千日詣〉の8月1日に参詣すると千日分に相当すると喧伝され,たいへんなにぎわいをみせた。 例祭日9月28日。別に4月24日鎮火祭が行われる。⇒愛宕信仰 ●愛宕山 京都市右京区北西部にある山。標高924m。 古生層からなり,周囲の標高500〜600m の山地の面の上に突出している。 山城国と丹波国との国境に位置し,山頂の愛宕神社は全国的な信仰圏をもっている火難よけの神の総本社。 現在,8月1日の千日詣,11月の亥猪祭などがにぎわうが,かつて山上の行事であった柱松明は山下の嵯峨清凉寺で行われている。 南東麓の清滝は愛宕神社の鳥居前町として起こり,いまは紅葉の名所として有名。 [信仰] 愛宕山は火防の神を祭る山として広範な地域から信仰を集めている。 《愛宕山縁起》によると,役行者(えんのぎようじや),雲遍上人(泰澄)を開祖,慶俊を中興の祖とし,和気清麻呂が唐の五台山を模して朝日,大鷲,高見,竜上,賀魔蔵の五峰に寺を建て愛宕五台山としたという。 五ヵ寺の歴史は明らかではないが,朝日峰の白雲寺が本地仏勝軍(将軍)地蔵を祭り,京都東山の将軍塚 とともに京を守護する塞(さえ)の神(勝軍は塞の神の変化と考えられている)を祭る山として信仰されてきた。 また天狗伝承も愛宕山を特色づけている信仰の一つで,愛宕山の天狗は太郎坊と呼ばれ,日本第一の天狗と位置づけられている。⇒愛宕信仰 |
同じ重さの荷物をはこぶロバとラバ ロバ(→詳細)とラバ(→詳細)がならんで歩いていました。 ロバは自分がはこんでいる荷物と、ラバの荷物とが同じなのを見て、 「これじゃあ、ひどいなあ。ラバくんは、ぼくの2倍ものエサをいつももらっているのに、荷物はぼくよりちっとも重くないなんて、不公平だなあ」 と、ぶつぶついいました。 けれども、しばらくいくうちに、ロバひきは、ロバがひどくつかれているのに気がついて、ロバの荷物をすこしラバの背なかにうつしました。 また、しばらくいくうちに、ロバがまえよりもいっそうつかれているのを見たロバひきは、ロバの荷物をまたへらして、ラバにうつしました。 そして、しまいには、ロバの荷物ののこりぜんぶを、ラバにうつしてしまいました。 そのとき、ラバはロバの顔を見て、 「どうだい、きみ。ぼくがきみの2倍のエサをもらうのは、とうぜんだと思わないかい」 わたしたちも他人を判断するときは、はじめだけでなく、おわりまでよく見てからにしましょう。 おしまい |