宇佐神宮 2002.8.15(木)


こんにち八幡神宮もしくは八幡神社と呼ばれるものは、全国に一体いくつぐらいあるのだろうか?
諸縁起によれば、日本全国に八幡とつく神社は3万とも4万社とも言われているようだ。私の故郷にも「はちまんさん」と呼ばれる神社があり、それも一つだけではなかった様に思う。私の故郷は城下町だが、通った中学校は城跡で、そこからすぐの所に格式高そうな「八幡社」があったし、他にも幾つかの「はちまんさん」があった。小学生の頃はここで行われていた夜祭りに出かけ、露店で買う綿菓子やスルメくじに胸躍らせたものだが、夜祭りはいつの頃からかもう行われなくなった。

八幡神社の総本山という表記にしても、私が以前住んでいた京都府八幡市の「石清水八幡宮」にも、今回訪れた宇佐神宮にも、「全国八幡宮の総本山」という表記が見られるし、一体「八幡宮」というのはどんな神様で、どこから始まっているのだろうか。これは、神道関係によほど詳しい人でも無い限り、普通の人ならまず自然に抱く疑問だと思う。なぜ日本中に「はちまんさん」があり、我々日本人はなぜさしたる疑問も抱かずに、家の氏神様としてすんなり「はちまんさん」を受け入れているのだろうか?

【八幡宮は現在日本中で祀られ広く知られているが、もともとは宇佐周辺で信仰されていた「地方神」だった。宇佐に初めて八幡神が顕(あらわ)れたのは欽明天皇三十二年(571)で、宇佐の御許山(おもとさん)に顕れたと言う。その後宇佐地方の神として大神(おおが)氏と辛島(からしま)氏によって祀られた。しかし、その神が一体どんな神だったかについてはわかっていない。】

上記は、大分県立歴史博物館が発行している「総合案内」に書かれた「八幡神について」の部分に書かれた文章である。ここに言う大神氏、辛島氏とは一体何物なのか? またどうして「どんな神だったかについてはわかっていない。」のか。

欽明天皇と言えば、仏教伝来の時の天皇として古代史では有名である。伝来の年をめぐっても諸説あり、「日本書紀」では欽明十三年(552)とされ、また「元興寺縁起」では欽明七年の戊午年(538)となっているが、両書ともに仏教の伝来は「欽明天皇の御世」と、書かれているので、欽明天皇の時代に仏教が伝来してきたのは間違いないと思われる。日本書記によれば、欽明天皇の治世は32年間で、八幡神が出現した欽明天皇三十二年(571)に欽明天皇は没しているのである。

一説によれば、古来より豊前地域は秦氏やその一族である漢氏の居住していた地域とされ、新羅系加羅人と思われる秦氏の故地である「加羅」から、辛島(からしま)という名前も来ているという。辛島氏も秦氏一族なのだ。「八幡」は「はちまん」ではなく「やはた」が古名で、「八」は多さを表し「八咫の鏡」の「八」と同義だという。「幡」は「秦」とも「旗」とも言われる。八幡とは文字通り、多数の「秦氏」が住むところ、あるいは多数の「秦=旗」が立つ所なのだ。そして欽明の出自も豊前辺りだという。この説によれば、八幡神は新羅からの外来神で、宇佐においては新羅系加羅人の氏神だったという事になる。宇佐八幡神は新羅の神だったのだ。「どんな神だったかについてはわかっていない。」と書くはずである。
この説を信じれば、日本中が「新羅の神」を祀っていることになるのだ。

欽明天皇御代の国際的な記事として見逃せないのは「任那日本府」の滅亡である。「任那」という呼び方は日本書紀の中にしか現れず、中国・朝鮮の記録には一切その名前は出現しない。位置的には「書記」では伽耶とか加羅と呼ばれる、朝鮮半島南部中央部分を指すが、学者によっては「金官伽耶」と呼ばれる伽耶の中のごくごく一部の地域を指しているという意見もある。最近はこの「任那日本府」の存在そのものを否定する説もあるが、従来からの定説に従って「金官伽耶」の中に「任那日本府」が存在し、これが滅びたとすれば、その滅亡時に豊前へ逃れてきたという考えも成り立つ。いずれにしても、宇佐八幡神は宇佐地方の一地方神だったのである。記紀にも出てこない。


【大宝戸籍・豊前の国風土記逸文】 豊の国、特にその北側は、朝鮮半島や大陸に近いと言うことで、古くから渡来人達が住み着いていた事は想像に難くない。一般に、玄界灘沿岸地方から熊本県北部を流れる菊池川流域あたりまでに、渡来人の痕跡が多く残っているのはよく知られているが、正倉院に残る「大宝戸籍」(大宝2年: 702)は、仲津郡丁里など豊前地域の3つの村に住む683人を記載している。このうち秦氏(はたし)や勝姓(すぐりのかばね)といった、渡来系と思われる人たちの割合は83%と極めて高い。一方「新羅の神」が祀られていたことを伝える「豊前の国風土記」逸文の記述は、渡来系の人たちが様々な信仰を持ち込んでいた事を示唆している。田川郡香春郷(かわらのさと)に、新羅の神が祀られてあったと記述する。「日本書紀」には、天皇の病気を治すために、「豊国奇巫」(とよのくにのあやしきかんなぎ)や「豊国法師」という人物が招かれたとあるが、これも豊の国の渡来人である可能性が高い。


   【写真1】


そんな地方の神に過ぎない宇佐八幡神が、一躍全国的な神へ展開していく画期が訪れる。養老四年( 720)の大和朝廷による隼人出兵である。隼人出兵にあたって朝廷は八幡神を守護神とするが、この出兵が朝廷の勝利に終わり、八幡神は朝廷の守護神となるのである。
その後の藤原広嗣(ひろつぐ)の乱などにおいても守護神として敬われ、中央神としての性格を持つようになる。そして天平勝宝元年( 749)の東大寺大仏造営を援助した功績で、八幡神は皇族に与えられる一品(いっぽん)という位を得た。皇族と同等のあつかいを受けることになった八幡神は、やがて大帯(おおたらし)姫神が息長帯(おきがなたらし)姫、つまり神功皇后に擬せられ、その結果として八幡大神は神功皇后の子・応神天皇と認識されるようになった。なぜ応神天皇とその母である神功皇后を、近畿地方でなく、宇佐で祭るのか。
宇佐八幡宮の祭神は、延喜式(905〜927年撰述)によれば、八幡大菩薩宇佐大神、大帯姫神、比刀i姫)神の三神とある。最後の比盗_とは宇佐地方・御許山の神であるが、宗像の三姫神と対比して論じられる事もある。比淘蜷_は三人の真ん中に鎮座していて、主神の扱いである。この神は一体どんな神なのか。宗像三女神といわれるのは、日本書紀の「一書」にあるだけである。なぜここに祭られているのか?

時代はくだり都が平安京へ移ると、八幡神は都の西南の男山に勧請(かんじょう:遷座)された。石清水八幡宮の創設である。現在の京都府八幡市だ。我々家族はこの男山団地に7年住んだ。幼い子ども達の手を引いて、タケノコ林の裏山を歩いてよく石清水八幡宮へ遊びに来たものだ。
さらに武士の頭領たる源氏が八幡神を信仰し、康平六年(1063)には鎌倉へ勧請して、鶴岡八幡宮を創設した。こうして八幡神は、時の権力と結びついて全国展開を遂げてゆくのであるが、その過程で宇佐神宮は石清水八幡宮の支配下となり、九州の有力神社という立場になっていった。鎌倉幕府の成立により、地頭が諸国へ派遣され、各地に源氏が信仰する八幡神を祀った。こうして全国に広まった鎮守としての八幡宮は、やがて「ムラの守護神」となっていき、村人達から「五穀豊穣」、生活の「安穏」を祈る神として信仰されたのである。
一方で、特に武士の間でも、守護神あるいは武運の神としての崇敬は続き、「南無八幡大菩薩」(なむはちまんだいぼさつ)の名号は戦場で武士達によって唱えられた。鎌倉時代後半の「蒙古襲来」においても、戦いの勝利は神仏の加護によるとされ、なかでも八幡神の霊験は広く崇められた。こうして、武士、農民を問わず八幡神は、あまねく我が国の津々浦々にまで行き渡り、広く国土と国民を守護する国家神となったのである。

宇佐神宮の由緒書きにも「宇佐の地方神であった八幡神が八世紀には朝廷と結びつき、国家神にまでになった」と記されている様に、八幡神は突如全国版になった神だ。これには、従来から宇佐神宮の祭祀に関わっていた渡来系の大神・辛嶋両氏と、宇佐氏のいち早い仏教の受容も影響している。菩薩という呼び方はそもそも、仏教で悟りを開いた仏につけるものであるが、八幡神は外来神かどうかは置くとして、そもそも地方の一氏神である。これを一緒にして「八幡大菩薩」(はちまんだいぼさつ)と呼んだところに、八幡神と仏教の融合いわゆる「神仏習合」が見られる。加えて、大和朝廷の九州南部の平定、大仏の造営に大きい寄与を果たした事による尊崇、源氏による信仰等々が、八幡神を全国神に押し上げた原因である。

宇佐神宮にはほかの神社とは違った参拝の作法がある。“二拝四拍手一拝”と言って他の神社とは違うのだ。上宮も下宮も同じ作法で拝み、向かって左の一之御殿→二之御殿→三之御殿の順に参拝する。四拍手するところが古儀だそうである。四拍手を打つ神社はここと出雲大社くらいで、その由来をめぐる議論も盛んである。また、比売大神をめぐっても宗像大社の三女神との対比や、ヒメ大神という名前から、比売=ヒメ=姫子=日女子(=天照大神)=卑弥呼という図式を根拠に、「邪馬台国宇佐説」もまだまだ根強い。


【邪馬台国宇佐説】

富来隆に始まる邪馬台国=豊前宇佐論(「邪馬台 女王国」(関書院)、「卑弥呼」(学生社))。倭人伝の方位記事は、南が東にズレている、一月は一日の誤り、諸国名は九州地名に比定できる等々とし、「水行」とあるのは筑後川を遡ったのだと言う。方位と里程記事を読みなおせば、邪馬台国は宇佐地方を指していると唱えた。久保泉も、天照大神は卑弥呼をモデルに創作されたものだとして、富来と同様倭人伝の方位記事は全体にズレがあり、北とあるのは西北、南は東南などと修正して、大分県のほぼ全域と福岡県東北部域をふくむ地域を邪馬台国にあてた(「邪馬台国の所在とゆくえ」)。
そういう中にあって、高木彬光の小説「邪馬台国の秘密」は、宇佐神宮の亀山が前方後円墳であり、これが卑弥呼の墓であると書き、上宮の三之神殿の手前の白砂の中に、卑弥呼の棺が眠っていると熱っぽくと説いているため、現在でも熱心な信奉者がいる。他にも、 安藤輝国「邪馬台国と豊王国」(ナニワ社)、重松明久「邪馬台国の研究」(白陵社)、中野幡能 「八幡信仰史の研究」、山本武夫など、邪馬台国を宇佐、或いは周辺の豊の国一帯とする提唱者は少なくない。「豊の国」とは、「台与の国」であるというのだ。

これは、原始八幡神の成立過程、後続する時代の渡来人の多さ、古墳の多さ等々に触発されて、邪馬台国を宇佐あるいはその周辺にあてたものと思われるが、しかし「魏志」倭人伝の方位や里程記事の理解、宇佐神宮の弥生遺跡としての検証など、他の多くの説と同様に、推論の上になりたった論法である事は否定できない。

確かに、宇佐が古代九州内において特異な存在であった事を示す根拠は数多く存在しているが、それは3世紀に諸国を連合していた証拠ではない。考古学的にも、今のところ3世紀の宇佐地方が北部九州(博多湾岸・有明海北岸地域・甘木朝倉地方等々)以上の文化的水準を持ち、他の諸国にぬきんでた首長を輩出していた様な痕跡は見いだされていない。神聖な領域なので学術調査は当分不可能と思われるし、この説の信憑性が高まるには今後の検証を待つしかない。


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【宇佐神宮(宇佐八幡宮)】

・所在地: 〒872-0102 大分県宇佐市南宇佐字亀山2859 TEL 0978-37-0001
・祭 神: 応神天皇(誉田別命:ほんだわけのみこと)
      比売大神 … 多岐津姫命(たぎつひめのみこと)
      市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
      多紀理姫命(たぎりひめのみこと)
      神功皇后(息長帯姫命:おきながたらしひめのみこと)
・由 緒: 全国四万余社の八幡宮の総本宮。宇佐に初めて八幡神が顕れたのは
      欽明天皇の御代で、御許山(おおもとさん)に鎮座。同天皇三十二
      年(571)に現本殿のある亀山の麓の菱形池の辺に神霊が顕れ、
      「我は誉田天皇広幡八幡麻呂(ほんだのすめらみことひろはたのや
      はたまろ)なり」と告げたので、この地に祀られた。これが宇佐神
  宮の始まりという。延喜式神名帳には八幡大菩薩宇佐宮、比売大神、
      大帯姫廟神社の三座として名神大社とある。
・行き方: JR宇佐駅から大分交通バス中津行きで10分、宇佐八幡下車、徒歩10分。
・その他: 駐車場:500台 宝物館入館料:300円 開館時間:8時30分〜16時30分



   【写真2】


【奈多宮木造八幡三神像】
左から八幡神、比売神、大帯姫をあらわす。いずれも榧(かや)材の一木造りである。僧形の八幡神像は、衣に朱の彩色が残る。顎下に三道、胸部に膨らみの線を残すところなどは、神像というより仏像に近い。大帯姫像とともに12世紀前半頃の作と見られる。この2体と比べてやや小振りな比売神像はその後の製作と見られる。この三神像は、行幸会の終着点であった杵築市の奈多宮に伝わるものである。


   【写真3】


【行幸会(ぎょうこうえ)】
宇佐神宮に朝廷や公家から「神装・神宝」が奉納されると、それを摂社・末社に披露し、同時に、古い「御験」を最終訪問地の八幡奈多宮に納めると言うのが「行幸会」である。天平神護元年(749)に始まったと言われる。当初は4年に1度だったが、平安時代の初め頃からは、6年に1度行われた。古代は豊前国「薦神社」(中津市)の「三角池」で刈り取られた「真薦」(まこも)で作られた「薦枕」(こもまくら)が御験だったようだ。豊前、豊後の両国の人々が参加する「官民合同の行事」だったようである。
元和2年(1616)の行幸会には2000人の供、800人の出迎えがあった。費用も莫大なもので、豊前・豊後・日向からの年貢で賄(まかな)われていたと言う。本来行幸とは、天皇が館を出てどこかへ出向くことを言うが、八幡神は応神天皇と見なされた事からこの名があるものと思われる。


   【写真4】


参道は国道10号線に面し、宇佐八幡バスターミナルから、大鳥居が見える。この鳥居は宇佐古来の形式をもつ鳥居として有名で、西大門前にある木造鳥居は宇佐鳥居(八幡鳥居)と呼ばれ県指定有形文化財に指定されている。


   【写真5】


大鳥居をくぐり、玉砂利の参道を歩いていくと、ほどなく上宮にのぼる階段にたどり着く。


   【写真6】


上宮の西側に若宮神社(上左)がある。仁寿二年(852)に造営され、応神天皇の子にあたる神々[大鷦鷯命(おおさぎのみこと:仁徳天皇)、大葉枝皇子(おおばえのみこ)、小葉枝皇子(ここばえのみこ)、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)、雌姫皇女(めどりのみこ)]を祀っているため、若宮(皇子)神社と呼ばれる。ここで、亀の甲を焼き吉凶を占っていたと言う。


   【写真7】


階段を登りきると、西大門である。同じ八幡神社とはいえ、石清水八幡宮の中門と全く同じなのには驚いた。西大門をくぐると、八幡造の本殿の側面に西中門(さいちゅうもん)がある。


   【写真8】


◆上宮(じょうぐう)
南中楼門。勅使参向の時参入するので、勅使門とも言う。国宝本殿の前にあり、通常は開かずの門である。正月の三が日と神宮の行事のときのみ開門する。上宮の本殿は「八幡造り」と呼ばれる様式の建物で、国宝に指定されている。本殿は3つの建物からなり、第1殿に八幡大神(応神天皇)、第2殿に比売大神(三女神)、第3殿には息長帯姫命(神功皇后)を祀っている。檜皮葺白壁、朱漆柱の壮麗な建造物である。上宮が鎮座されている小椋山は亀山ともいい、亀山の山神がまつられている場所とされ、邪馬台国宇佐説の人の中には、ここを亀山古墳と呼び卑弥呼の墓と特定している人もいるが、ここが自然丘陵なのは確認されている。


   【写真9】


宇佐神宮の本殿は、一之御殿、二之御殿、三之御殿とそれぞれ八幡大神、比売大神、息長帯姫命が祀られているのだが、その配置は少々おかしいという意見がある。八幡神(応神天皇)を一番に祀っているにも関わらず、比売大神を中央に配置している。これは比売大神が一番格上となってしまうというのである。実はこの比売大神は、何者なのかよく分かっていない。日本書紀には宇佐嶋に降り立った三女神のことが記述してあるが、「宇佐嶋」というのは宇佐のことであり、比売大神とは三女神のことであるといわれるが、比売大神が三女神であるという確たる根拠はないようである。

上宮の脇から、石段を下っていくと下宮に着く。外宮、御炊宮とも言う。上宮と同じ祭神が祀られている。


   【写真10】

   【写真11】


八坂神社の西側に、昔の神宮寺弥勒寺の金堂や講堂の旧蹟がある。礎石の跡や柱跡が残っていて保存されているが、草ぼうぼうの荒れ放題である。


   【写真12】


【和気清麻呂・道鏡事件】

和気清麻呂は天宝5年( 733)現在の岡山県和気町藤野に生まれ、姉の広虫とともに平城京へ上る。姉の広虫は朝廷で孝謙女帝の信任を得ていたため、弟の清麻呂は異例の出世を重ね、33才で従六位上右兵衛少尉となる。孝謙女帝は、淳仁天皇に譲位し上皇となるが、「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」後天皇を廃帝、重祚(ちょうそ)し称徳天皇となる。そして寵愛の道鏡を天皇の座につけようと考える。その時、太宰府から「道鏡が皇位に就ければ、天下は太平になるであろう」という宇佐八幡の神託があったと上奏してきた。その真偽を確かめる為、和気清麻呂が神護景雲3年(769)宇佐八幡へ派遣されるのである。

清麻呂は、宇佐八幡で「臣は皇統には入れず。退けよ。」という託宣を受けたと報告し、称徳天皇の怒りを買う。清麻呂は穢麻呂(きたなまろ)と名を変えられ大隅へ流される。広虫もまた狭虫(さむし)と名を変えられ、備後へ配流されてしまう。しかし天皇と言えども神託は覆せず、称徳天皇・道鏡の野望は泡と消える。称徳天皇の失望、怒りは深く、宝亀元年( 770)女帝は、失意の内に53才で崩御する。後ろ楯を失った道鏡は下野国(栃木県)薬師寺の別当に左遷され、3年後にこの地で没した。そして清麻呂と広虫は都に呼び戻され復帰するのである。清麻呂は桓武天皇に遷都を提言し、その推進責任者となって、長岡京、平安京と遷都を実現した。
延暦13年(794)平安遷都。清麻呂は遷都の2年後、平安京造営太夫となるが、延暦18年(799)67歳で没した。ここから華麗な平安時代が幕を開ける。


   【写真13】

   【写真14】


清麻呂が、なぜ伊勢神宮でなく宇佐神宮へ来たのかをめぐっても論議は絶えない。宇佐に天皇家の宗廟が置かれているのはなぜなのか。宇佐地方は、天皇家にとって、古代にどれほどの聖地であったのか。平城京から近いのは伊勢神宮のはずなのに、清麻呂が伊勢神宮には寄らず、まっすぐ九州に向かうのはどうしてなのか? どうして伊勢に行かず、わざわざ宇佐まで来たのか?万世一系が途絶えるかもしれないお国の一大事に、と言うわけだ。日本史は謎だらけで、ほんとに面白いったらありゃしない。

道鏡の野望を退け、国体を鎮護した功績により、和気清麻呂は朝廷より崇敬されるようになった。以来宇佐神宮への勅使は「宇佐使」と呼ばれ、天皇の即位奉告の勅使には代々「和気氏」が任命された。その後も朝廷から宇佐への勅使参向は連綿と続き、平成7年10月には、第254回の勅祭が執り行われている。

宇佐神宮近くに和気と言う地名の場所がある.清麻呂が船でこの地まで入り、船を繋いだという言い伝えに基づいて「清麻呂の船つなぎ石」と呼ばれる所がある。功績を称え、そばには功績碑と祠が造られている。また、皇国の救い主として和気清麻呂は、明治23年(1890)以来戦前(昭和14年:1939)まで、一貫して十円札の肖像画に描かれていた。


   【写真15】

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宇佐からの帰り、またまたカッコいい電車に乗った。なんかJR九州は民営化してからどんどんカッコよくなるぞ!でも儲かってんかな?

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【参考資料】  ・大分県立歴史博物館「総合案内」 平成12年7月1日発行 他
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