11 18(木) 日比翁助とはどんな人 |
サムライ魂でデパートを創れ! 〜近代百貨店誕生物語〜 |
株式会社三越呉服店(現株式会社三越) 元会長 日比翁助氏 ◆◆ 日比翁助のデパート事業物語 ◆◆ 〜自ら新カテゴリーを創造し、フロントランナーになる〜 「三井呉服店の副支配人になってもらえないだろうか」 1898(明治31)年、三井銀行本店副支配人の日比翁助は、この言葉に自分の耳を疑った。声の主は三井呉服店理事、高橋義雄。高橋は三井呉服店の再建を任せられる人物を推薦してくれるよう翁助の上司である中上川彦次郎に頼みこんでいた。 三井家での大先輩にあたる高橋と聞いたときから何かあるとは思っていたが呉服屋とは。一瞬とまどったが翁助はきっぱりと断った。 「ありがたいですが、お受けするわけにはいきません。私は元はといえば久留米藩士のせがれ。侍気質が抜けず商売の道には疎く、おまけに田舎育ち。到底呉服店の番頭が務まる柄ではありません」 高橋も、今や三井の本流を歩む翁助がふたつ返事で聞き入れるとは思ってはおらず、奥の手を使った。 「私も水戸の士族の出。君とは同じです。今三井に必要なのは商才のある人物ではない。むしろ士魂を持った人物なのです」 高橋のこの一言が翁助の琴線に触れた。翁助は決意を固める。 ◆ 銀行から呉服屋へ 日比翁助は、1860(万延元年)、筑後(現在の福岡県)の久留米藩士、竹井安太郎の二男として生まれた。父が藩内では知られた剣道家だったことから翁助もまた剣の腕が立ち、また幼い頃から学問の道にも秀でていた。明治維新以降は、小学校の教師をしつつ新たな生き方を模索していたが、福沢諭吉の著作に触れ、ついに1880(明治13)年、上京、慶應義塾に入学する。在学中、同じく旧久留米藩士日比家の娘と結婚、入婿となった。1884(明治17)年、翁助は慶應義塾を卒業する。慶應で学んだ最も大切なことは、"刀ではなく事業が国を造る"ことだった。「身に前垂れを纏うとも、心のうちには兜を着ていることを忘れないようにせよ」、福沢のこの言葉は新時代を生きる士族の青年の心のよりどころとなった。1889(明治22)年、東京日本橋のモスリン商会に入社、翁助の仕事ぶりは目ざましく、業績も伸びる一方だった。1896(明治29)年、慶應の先輩でもある三井の幹部、三井中興の祖といわれた中上川彦次郎にも日比のうわさは届き、三井銀行にスカウトされる。中上川が入社後数ヶ月の翁助に命じたのが和歌山支店の再建。支店長として赴いた翁助は、乱れていた経営を整理、不正も一掃しに立て直しに成功、業績を上向かせ中上川の期待に応えた。しかも大なたを振るったにもかかわらず、私利私欲にとらわれない姿勢を貫いた翁助は誰からも恨まれず、逆に部下たちから慕われた。日比はその成果を引っさげ、東京に戻り三井での出世の道を歩み始めていた。 三越の前身、三井呉服店は、江戸時代に越後屋呉服店として出発、三井の原点だったが、幕末から明治期には何度か経営難に陥いり、三井家から分離されていた。以前の活気を取り戻した1896(明治29)年に、再び三井家の事業となり、この時三井から理事として送り込まれたのが高橋だった。高橋は当時勢いを伸ばしつつあった老舗の呉服店日本橋白木屋に対抗するため、呉服店の伝統的な販売方法だった座売りを改め、欧米流のガラスのショーケースを並べた陳列方式を導入、大福帳を廃止して洋式簿記を導入したりと大規模な改革を断行する。しかし高橋の性急な改革は古参の奉公人の反発を呼び、高橋が連れてきた新たな店員との対立が深刻化、三井呉服店は再び経営難に陥った。高橋は、この危機を乗り切るための人材をと、中上川ら三井の首脳に掛け合ったのだ。 恩師福沢の言葉に通じる高橋の熱意にほだされた翁助は、1898(明治31)年、新旧従業員が対立するギスギスとした雰囲気の中、三井呉服店副支配人に就任する。"今時勢に相応した改革を断行しなければ、三井呉服店の未来はない"、と反対派の説得を続けながら、次々と大胆な方策を打ち出す。まず取扱商品の幅を広げた。呉服に加えて雑貨も扱いだし、それを機に座売りを全廃、全て陳列方式とした。 滑り出しは順調だったが、興味本位の客が一通り来てしまうと、あとは客足が伸び悩んだ。それに追い討ちをかけるように、古くからの奉公人たちが"翁助流"に異議を唱え始め、なかなか好転しない業績に三井首脳陣からは再び三井呉服店を切り捨てるべし、という声も上がり始める。翁助は呉服店の枠の中での改革という発想では立ち行かないと、思い切った決断をする 。 ◆ 成功へのキラーパス:パラダイムシフト、呉服店からデパートメントストアへ 「株式会社三越呉服店をここに設立する」 まず翁助が取った道は、三井からの決別だった。1904(明治37)年12月、合名会社三井呉服店は越後屋創業以来230年にもおよぶ三井家の事業としての立場から決別、株式会社三越呉服店として独立、新たな一歩を踏み出した。翁助は専務取締役に就任、実質的な経営の先頭に立つ。最初に手を付けたのが、新旧従業員の対立の解消。そのためには働く意欲を与えること、と翁助は全社員に対して毎期の決算に当たって純利益の3割をまず賞与として支給する旨を確約する。さらに当時としては画期的な従業員持ち株制度も導入した。"働いたものは働いただけ報いられる"、社員たちは奮い立った。 社内の体制を整えると、翁助は誰もが考えなかった手を打つ。それは今まで日本人のほとんどが聞いたこともないデパートメントストアへの脱皮だった。 ■誰もが消費の快感を味わえる場を目指せ 翁助は内外に新たな決意を示すため、全国の新聞に大きな広告を載せる。それは三越呉服店開業の挨拶の体裁をとっているが、中身は新たにデパートとして再出発することを示した"デパートメントストア宣言"とも言うべきもの。 「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて御用弁じ相成候様設備致し、結局米国に行われるデパートメントストアの一部を実現致すべく候」 折りしも日露戦争の真っ只中、欧米の大国と肩を並べようとしている日本にも、これまでの商店とは全く異なるデパートメントストアを作ろう。時代の流れを読んだ翁助ならではの大胆な発想だった。 翁助はすぐさまロンドンに赴き自ら老舗のデパート「ハロッズ」を視察、店内を隈なく見て回った。さまざまな商品が華やかにディスプレイされ、ことにショウウインドウに陳列された商品は美術館さながらに見るものの気持ちを豊かにさせる。店員は豊富な商品知識で丁寧に応対してくれる。人々は買い物を楽しんでいた。"これだ。三越はこうあるべきだ"、翁助は言葉だけでなく、デパートの神髄をつかんだ思いだった。 帰国すると徹底した洋風の店舗作りを開始する。1908(明治41)年に完成した新店舗は、木造だったが延べ1,506坪、ルネッサンス式の3階建、各部の装飾にはヨーロッパの様式を取り入れ、1階には28間のショーウインドー、中央には十字型の池を持つ屋内庭園を配するという従来の呉服屋のイメージを根本から変えるもの。まさに誰もが買い物を楽しめる"社交場"だった。 新館のオープンと共に、翁助は品揃えも一新する。これまでの呉服と雑貨のほかに、貴金属、煙草、文房具など舶来の高級品を取り揃えた。さらに、毎年のように店員を欧米の都市に派遣し、当時まだ日本では珍しかった石鹸、時計、洋食器、万年筆、西洋人形などを買い付けさせた。 サービスが目に見えるようにする工夫もした。翁助が目をつけたのは日本に入ってきたばかりの自転車。1909(明治42)年には、日本で3番目の自転車を購入、配達に使用した。自転車が大変珍しかったこともあり、このサービスは評判を呼んだ。配達が2〜3日遅れても三越のマークを付けた自転車で配達して欲しい、という顧客が殺到、次第に上流階級の三越に対するロイヤリティは確実なものとなっていった。 翁助は"楽しむ"ことを知らずしてお客様にサービスを提供できない、と従業員へのサービスにも力を注ぐ。年1回全員が参加する大運動会を鎌倉で催した。その時ばかりは小僧も重役も心行くまでレジャーを楽しんだ。社内運動会の走りだった。 また、翁助は宮家をはじめ、伊藤博文、山縣有朋、井上馨などの明治の元勲、各国から訪れる王族や使節団を積極的に三越に招待した。翁助はVIPだけではなく一般客にも自ら店頭に立ち応対した。あまりに忙しい接客ぶりに、これでは業務を見るヒマがないのでは、という声も上がる。翁助はこう答えた。「日々の業務は他の連中が熱心にやってくれる。わたしはこの店に来て下さるお客様に満足していただければそれでよいのだ。三越は外交の殿堂だ。パブリックストアだ。あらゆる社会の人々の倶楽部になりうれば、望外の光栄だ」 ■ブランドを浸透させよ 当時、実業界はジャーナリズムに対する理解が低く、警戒感さえ持っていたため、なるたけ取材を受けないようにしていた。翁助は逆に積極的に取材やインタビューを受ける。次第に社長室にはいつでも記者が溜まるようなり、記者クラブのようになっていったが、三越の名がそしてデパートメントストアの様子が新聞紙上を賑わすことも多くなり、ますます三越のステイタスは高まっていく。 また、"学俗協同"のスローガンのもと、新渡戸稲造や佐々木信綱など当時一流の知識人を三越に招き、毎月3回座談会を催したりした。 翁助はこんな宣伝・広告を打ったことさえある。全国紙に1ページを使い、"明日ここに見逃すべからず広告が掲載されます"とだけ記し、翌日バーゲンの広告を打つという当時としては前例の無い手法で人々の度肝を抜いたのだ。また、東京市内のできたばかりの電柱や、市電のつり革に広告を出したり、新しく建てられた帝国劇場に三越の名を入れた緞帳を収めたりした。さらに三越のマークと十二支を染め抜いた風呂敷を作り、顧客に配った。翁助は店員に、「これをもっている人を市電の中で見かけたら、席を譲るように」と命じ、単に宣伝効果だけでなく、顧客サービスも徹底させた。 PR用の日刊新聞"みつこしタイムス"を発行し、新しい商品の情報やバーゲン情報を顧客に提供することを始めたのも翁助。この新聞から、"今日は帝劇、明日は三越"をはじめ、"新橋と上野の中の呉服屋、どちらからきても橋を三越"などの有名なコピーが生まれた。 三越少年音楽隊が組織されたのもこの頃。その可愛らしい吹奏楽の音色に三越を訪れる人々は魅了され、たちまち東京中の人気をさらう。翁助はたびたび稽古場を訪れては、一人一人に菓子袋を与え、暖かく励まして回ったという。 大正に入ると、三越は飛躍的な発展を遂げていく。その集大成が1914(大正3)年に完成したルネサンス式鉄筋5階建ての新本店。日本で最初のエレベーター、全館暖房、スプリンクラーが完備され、翁助の言う「客をして頗る居心地がよく、恰も楽園を逍遥するが如く、自己の存在を忘れせしめよ」という売り場作りがなされ、新聞紙上で"スエズ運河以東第1の建築物"と評された。 翁助は大正4年、病床に倒れ実務を退いたが、三越は日本のデパート業界を引っ張るトップとして順調に発展していった。大正時代、売上は伸び続け、従業員数も明治41年当時891名だったのが、大正13年には4,599名となった。翁助は後にこう述べている。「昔と今とは商売の仕振りが違ってきた。昔、客が来るのは唯、その需要を満たす為のみであった。所が世が進歩すると共に、そう単純に行かなくなった。即ち客の要求が殖えて来たのである。即ち客は品物を手に入れると言ふ当面の目的よりも(買い物を楽しむ)この快感に接すると言ふことをむしろ主として居る。是が顧客の新要求で、この新要求は品物を買ふことよりも大なる勢力を有している」 翁助は三越の発展を見届けたかのように、1931(昭和6)年、70歳でこの世を去った。 |
11 21(日) 「生きているのが丸儲け」 |
11 22(月) キトラ古墳と古代文化 |
11 23(火) 小泉首相の靖国問題 |
首相「継続…言わぬ」 小泉純一郎首相と中国の胡錦濤国家主席が二十一日、チリで約一年ぶりに、会談した。胡主席は「障害」と厳しい表現で首相の靖国神社参拝を初めて直接的に批判、参拝中止を求めた。強硬姿勢の背景には「歴史問題」を政権への求心力にしたい内政上の思惑がありそうだ。首相はその後、来年以降の参拝継続について「触れない」と踏み込むことを避けた。会談は日中関係好転の契機とはならず、首相は引き続き中国側の出方や国内世論をにらみながら対中関係を模索することを迫られる。 ◇ 【サンティアゴ=佐々木類】二十一日夜(日本時間二十二日午前)にサンティアゴ市内のホテルで行われた小泉首相と中国の胡主席との会談は予定を大幅に上回り約一時間に及んだ。 日中双方の説明を総合すると、会談で胡主席は「(日中間の)障害は、日本の指導者が靖国神社を参拝していることだ」と指摘。さらに「歴史を避けては通れない。適切に対処してほしい。来年は反ファシスト勝利六十年の敏感な年だ」という表現まで使って参拝中止を迫った。 小泉首相は「誠意をもって受け止める」としながらも「心ならずも戦場に行かざるを得なかった方々へ哀悼の誠をささげ、二度と戦争を起こしてはならないという決意で参拝している」と参拝の趣旨を説明した。 一方、首相は中国原子力潜水艦の領海侵犯事件に言及し、「今後、再発防止が特に重要だ」と要請したが、胡主席は事件そのものについて言及を避け、再発防止の確約はとれなかった。 ただ、双方は経済的交流の増大を踏まえた関係発展の重要性と、北朝鮮問題をめぐる六カ国協議の早期再開の必要性では一致。胡主席は台湾問題で「独立をもくろんでおり座視できない」と強調、首相は「独立は支持しない」との従来の見解を示した。 政府内での事前の予想に反して胡主席が靖国問題で強硬な主張を展開したことで、首相が来年も参拝を続けるかどうかが日中関係の今後を占う焦点となる。 これについて首相は二十二日朝(日本時間同日夜)、同行記者団と懇談し、「首脳会談では(来年の参拝について)一切触れなかった。これからはどんな質問にも触れないことにした」と述べ、靖国問題に言及することで関係をこじらせないようにしたいとの配慮は示した。 さらに、「日中関係は靖国問題だけではない。対立点だけをとりあげてもしかたがない」として、経済関係の発展を念頭に靖国問題にこれ以上スポットが当たらないようにしたいとの考えを示した。 首相は十八日の国会答弁で「死者に対する慰霊の考え方が違うから『よろしくない』といわれ『はい、そうですか』と従っていいのか疑問だ」と参拝はやめない姿勢を貫いていた。 だが、首脳会談で直接中止を要求されたことで考えを変えたかどうかについて、懇談では「何も申し上げない」と述べるにとどめた。 ◇ ≪歴史カード 求心力に利用≫ 【北京=伊藤正】日中首脳会談で胡主席が小泉首相の靖国神社参拝を初めて直接批判、来年の参拝中止を要求した背景には、国内各地で暴動や紛争が頻発するなど社会の不満が広がり、反日世論が政権批判に転じることへの懸念もあったとみられる。中国側は首相の参拝はなお続くと分析、歴史問題を政権への求心力に利用する構えも見せ始めた。 胡政権の対日政策は、歴史問題で内政干渉を繰り返した江沢民前政権時代と一線を画し、国益重視の現実主義を前面に出した。胡主席自身、過去二度の日中首脳会談では「歴史を鑑(かがみ)に未来に向かう」などの原則論にとどめ、靖国問題に言及しなかった。 しかし昨年後半以降、幾つかの事件を契機にネットサイトで反日世論が高まり、今年元日の首相の靖国参拝で激化。今夏のサッカー・アジア杯での反日騒動の背景になった。中国当局は反日行動の責任は日本側にもあるとし、靖国参拝に代表される歴史問題で日本への批判を繰り返した。 「親民路線」を掲げる胡政権はネット世論を民意の反映として重視しているが、前政権の反日愛国主義教育を受けた世代は当局の姿勢を「弱腰」と攻撃するのが常だ。この夏、複数の過激な反日サイトを閉鎖したことにも批判が起こった。 こうした中で、中国国内では、土地収用、賃金未払いや官僚の腐敗などに対する集団の抗議行動が続発、社会不安が広がった。政府は最近、報道管制を強化したが、ネットサイトでは地方政府批判の形を取った政権批判が急増、その中には対日政策批判も含まれる。 胡主席が九月末に河野洋平衆院議長との会談で靖国参拝を初批判したのに続き、首脳会談で直接批判したのは、靖国問題で毅然(きぜん)とした姿勢を示し、反日世論に配慮したものとみられる。 歴史問題は対日外交カードと同時に政権への求心力を高める手段でもある。江前政権は愛国主義の高揚に歴史問題を利用してきたが、胡政権も国内の不満を抑え、求心力を高めるのに歴史教育を強化する可能性がある。 南京の「大虐殺記念館」が拡充、無料化されたのに続き、北京の抗日戦争記念館の改装・拡充も決定するなど、愛国主義教育復活の動きが始まっている。反日風潮の高まりが懸念される。 (産経新聞) - 11月23日3時12分更新 |
(大原康男:国学院大学教授) 問題の発端 (1)戦後の歴代首相のうち、吉田茂(5回)、岸信介(2回)、池田勇人(5回)、佐藤栄作(11回)、田中角栄(5回)まではすべて公式参拝で、この四半世紀の間は、内外ともに何ら問題とされなかった。昭和50年、三木武夫首相になって初めて「私的参拝」と言い出し、主として憲法問題から公式か私的かの論議が紛糾、中曽根康弘首相が「閣僚の靖国神社の参拝問題に関する懇談会」の答申を経て、参拝合憲の結論を出す。(資料@) (2)昭和60年8月15日、中曽根首相が三木首相以来10年間途絶えていた靖国神社に対する公式参拝を行なったところ、同年9月20日、中国外務省が同神社に“A級戦犯”が合祀されているとして「我が国人民の感情を傷つけた」と抗議。(資料A) 以後、中曽根首相は参拝を取り止め、竹下・宇野・海部・宮澤・細川・羽田・村山各首相もこれに倣う。平成8年7月27日、橋本龍太郎首相が11年ぶりに靖国神社に参拝(公私を明らかにせず)、再び中国の抗議を受け、予定していた秋の参拝を中止する。続く、小渕・森首相も参拝せず今日に至る。 いわゆる「A級戦犯」合祀の経緯 (1)占領終了後、靖国神社合祀の迅速化を求める戦没者の遺族の要望に応えるために、昭和31年4月19日、遺族援護行政を所管する厚生省引揚援護局長は「靖国神社合祀事務に関する協力について」と題する通知を発し、都道府県に対して合祀事務に協力するよう指示。(資料B) それは、祭神の選考は厚生省・都道府県が行ない、祭神の合祀は靖国神社が行なうという官民一体の共同作業で、祭神選考は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」に原則的に依拠している。そして、先の大戦が総力戦であったことで法の適用対象が拡大し、それによって祭神の範囲も拡大。例えば、徴用された船舶の乗組員・警防団員・国民義勇隊員など。 (2)一方、昭和27年4月28日に発効した対日講和条約第11条(資料C)によって、それ以後も引き続いて服役しなければならない1224名の「戦犯」に国民の同情が集まり、その早期釈放を求める一大国民運動が同年7月から起こる。(最終的には約4000万人の署名が集まる。) (3)この国民世論を背景にして、国会で昭和28年8月から「戦傷病者戦没者遺族等援護法」および「恩給法」の改正が重ねられ、「戦犯」の遺族も戦没者の遺族と同様に遺族年金・弔意金・扶助料などが支給され、さらに受刑者本人に対する恩給も支給されるようになる。(資料D) そこにはA級とB・C級の区別はなく、また、国内法の犯罪者とはみなさず、恩給権の消滅や選挙権・被選挙権の剥奪もない。(刑死者は「法務死」と呼称)(資料E) (4)こうして「戦犯」関係にも「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」が適用されたことで、靖国神社の祭神選考の対象となり、昭和34年3月10日付「日本国との平和条約第11条関係合祀者祭神名票送付について」(引揚援護局長通知)によって送付された祭神名票に基づいて最初の「戦犯」合祀がなされた。 「A級戦犯」14人については、昭和41年2月8日付「靖国神社未合祀戦争裁判関係死没者に関する祭神名票について」(引揚援護局調査課長通知)によって祭神名票が送付され、昭和46年の崇敬者総代会で了承、昭和53年秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀される。 一般に知られたのは翌54年4月19日の新聞報道だが、太平正芳首相は従前通り参拝。(資料F) 政府・自民党の対応 (1)以上の経緯から明らかなように、靖国神社への「A級戦犯」合祀は、講和条約発効直後から起こった。「戦犯」釈放運動に端を発する国民世論を背景にして、国会での法改正に基づくものであって、靖国神社の恣意によって行われたものではない。また、厚生省・都道府県による合祀への協力も日中国交正常化より16年も前から厚生行政の一環として行なってきた、あくまでも我が国の純然たる国内問題であるにもかかわらず、そうした事実を十分に調査することなく、政府・自民党は中国の内政不干渉的要求に屈服、さらには合祀の取り下げ、分祀まで計画するに至る。(資料G、H) なお、分祀論は平成11年になって野中広務官房長官の発言を契機に再燃。(資料I) (2)他方、毎年、日本武道館で営まれる「全国戦没者追悼式」の対象は空襲の犠牲者や終戦時の民間人自決者などをも含むすべての戦争死没者であって(靖国神社の祭神より広い)、その中には「戦犯」も含まれているが(遺族が招待されている)、歴代の首相は主催者として参列し、追悼の意を表してきたという事実がある。 (3)また、政府・自民党の中には、「A級戦犯」合祀は「極東国際軍事裁判」を受諾した対日講和条約に抵触するかのような言説を述べる者がいるが、(資料J、K、L)この「裁判」に当たる英語の原文はJudgmentであり、本来は「判決」と翻訳すべきものであって、その趣旨は条約発効後も判決の効力を維持し、赦免・減刑・仮出獄などについては、連合国の同意を得て行なわなければならないということ以上のまたそれ以下ものではなく、「戦犯」合祀問題とは何の関係もない。(資料M) もしも「A級戦犯」合祀が講和条約に抵触するならば、出獄して外相となった重光葵、同じく法相となった賀屋興宣両氏の復権も問題となろう。 中華人民共和国政府はサンフランシスコ講和会議に招請されておらず、従って出席も調印もしていないから、本条約を楯に取って権利を主張することはできない。もちろん、日中平和友好条約にも「戦犯」条項は存在しない。 中国側の反応の問題点 (1)「A級戦犯」合祀が明らかになった直後の大平首相の参拝の際には何らの意志表示もせず、6年後の中曽根首相になって初めて抗議したことの不可解さ。いや、中曽根首相は公式参拝だったが、大平首相は私的参拝にとどまったと強弁するならば、公式参拝を名言しなかった橋本首相の参拝になぜ反対したのか。 (2)中曽根首相参拝当時の章曙日中国大使は、「A級戦犯」問題さえ処理できれば、ことは解決すると述べたが、(資料N)それは参拝直後の「人民日報」がB・C級を含むすべての「戦犯」に言及したこと(資料O)と矛盾する。平成11年11月12日付中国官営英字紙「チャイナ・デイリー」が同旨の見解を述べたことによって、中国が「A級戦犯」だけを問題にしているのではないことが改めて判明。(資料P) (3)日本国内で日本の首相が靖国参拝することが「中国人民の感情を傷つけた」というが、中台統一の橋渡しのために、中国の指導者が新台湾派の重鎮である岸信介元首相(A級戦犯で拘禁)を「友人として」招待しようとしたのは「中国人民の感情を傷つける」ことにはならないのか。(資料Q) (4)訪中した日本の国会議員が「死者をムチ打たず、墓を暴かず」という日本の伝統を紹介したことに対して、中国の要人は「役に立たない風俗習慣には従わない方がよい」と答えたが、これは他国の文化に対する不当な干渉ではないか。(資料R) その他の参考とすべき事実 (1)1985年のボンサミットに出席した米国のレーガン大統領がビットブルグの旧独軍将兵らの墓に詣でた際、そこにナチス親衛隊兵士も埋葬されていることが分かって、ユダヤ系米国民などから激しく反発されたが、同行したコール首相の参詣には何の抗議もなかった。日本の首相の靖国参拝もこれと同じことではないか。(資料S) (2)「A級戦犯」合祀が明らかになってからも外国要人・外交官・駐在武官・軍隊などの靖国参拝は少なからずある。それらの国々は、インドネシア・スリランカ・タイ・インド・ドイツ・スイス・フィンランド・ポーランド・ルーマニア・リトアニア・スロベニア・ロシア・エジプト・イスラエル・トルコ・アメリカ・チリ・ブラジル・オーストラリア等々、全世界にまたがっており、これを見ても靖国神社に敵意を抱いている国がごく限られていることは明らかである。 結語 (1)以上、述べてきたように、靖国神社への「A級戦犯」の合祀は、国民の代表である国会での「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」の改正の趣旨に沿って、厚生省・都道府県と靖国神社が共同して行なった戦没者合祀作業の一例にすぎない。政府レベルで言えば、厚生行政の一環として位置づけられる。 (2)同時に、それは日中国交正常化以前から続けられてきた純然たる国内問題であって、外国から干渉を受ける筋合いのものでは決してない。にもかかわらず、当時の政府・自民党の不見識から誤って外交問題にされてしまった。しかも、最も執拗に反対している中国政府の主張には矛盾やご都合主義のものが少なくない。 (3)よって、本件に関する正しい事実をあらためて認識した上で、あくまでも国内問題であるという原点に立ち戻って、毅然とした態度でことを処するべきである。 《参考資料》 資料@歴代首相の靖国神社参拝 東久邇宮稔彦王(1回)、幣原喜重郎(2回)、吉田茂(5回)、岸信介(2回)、池田勇人(5回)、佐藤栄作(11回)、田中角栄(5回)、三木武夫(3回)、福田赳夫(4回)、太平正芳(3回)、鈴木善幸(8回)、中曽根康弘(10回)、橋本龍太郎(1回) 資料A中国外務省談話 「A級戦犯もまつる靖国神社への日本内閣構成員の公式参拝については、日本政府にわが国の立場を伝え、同時に行事を慎重にするよう要求した。・・・わが国のこの友好的な勧告にもかかわらず、公式参拝が行われ、わが国人民の感情を傷つけた」 資料B靖国神社合祀事務に対する協力について(昭和31年4月19日 援発3025号引揚援護局長通知) 標記について、別冊「靖国神社合祀事務協力要項」及び「昭和31年度における旧陸軍関係靖国神社合祀事務に協力するための都道府県事務要項」により処理せられたく通知いたします。(別冊省略) 資料C対日講和条約第11条 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限[赦免し、減刑し、及び仮出獄させる]は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。 資料D堤ツルヨ衆院議員の発言(昭和28年7月9日 衆院厚生委員会) 「処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、留守家族の対象になって保護されておるのに(注 既に成立している未帰還者留守家族援護法の適用を受けているの意)」、早く殺されたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。しかもその英霊は靖国神社の中にさえ入れてもらえないというようなことを今日の遺族は非常に嘆いておられます。・・・遺族援護法の改正された中に、当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのが当然であると思います。」 資料E連合国の軍事裁判により刑を処せられた者の国内法上の取り扱いについて(昭和27年5月1日) 「さきに昭和25年7月8日附をもって『人の資格(任命若しくは就職又は罷免若しくは失職等にかかる条件又は許可、認可、登録若しくはその取消又は業務の停止等にかかる条件を含む)に関する法令の適用については、軍事裁判により刑に処せられた者は、日本の裁判所においてその刑に相当する刑に処せられた者と同様に扱うべきものとする』旨の解釈を参考のため御通知したが、この解釈は、もともと総司令部当局の要請に基づいたものであり、平和条約の効力の発生とともに撤回されたものとするのが相当と思料するので、この旨御了承の上、貴部内閣関係機関にも徹底せしめられたい」 恩給法 第9条「恩給権の消滅事由」@年金タル恩給ヲ受クルノ権利有スル者左ノ各号ノ1,2ニ該当スルトキハ其ノ権利消滅ス 1、死亡シタルトキ 2、死刑又ハ無期若ハ3年ヲ超ユル懲役若ハ禁錮ノ刑ニ処セラレタルトキ 公職選挙法(選挙権及び被選挙権を有しない者) 第11条 @次に掲げる者は、選挙権及び被選挙権を有しない 1、禁治産者 2、禁錮以上の刑に処せられその執行を終わるまでの者 3、禁錮以上の刑に処せられその執行を受けることがなくなるまでの者(刑の執行猶予中を除く。) 資料F大平正芳首相の見解 「人がどう見るか、私の気持ちで行くのだから批判はその人に任せる」(記者団に対して)「A級戦犯あるいは大東亜戦争というものに対する審判は歴史がいたすであろうというように私は考えています。」(昭和54年6月5日 参院内閣委員会) 資料G日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約(昭和53年8月12日) 第3条 両締約国は、善隣友好の精神に基づき、かつ、平等及び互恵並びに内政に関する相互不干渉の原則に従い、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流の促進のために努力する。 資料H中曽根康弘首相の見解 「この参拝が中国の内部の権力闘争に援用され、特定政治家の失脚につながる危険があるという情報を聞き、日中友好を維持するために参拝は行わなかった」(平成4年8月14日 読売) 「現中国政府が必ずしも磐石の体制ではなく、自分として中国政府の立場を危うくする様なことは何としても避けねばならないという判断で、万やむを得ず取り止めたのだ。・・・我が国にとって最大の脅威はソ連であって、我が国の平和を確保するためには何としてでもソ連を封じ込めておかねばならない。そのためには中国が1枚岩で安定していることが絶対条件で、ケ小平体制を危うくすることはどうしてもしてはならないとの考えで、敢えて中止に踏み切った」(平沼赳夫『国を憂いて』) 資料I野中広務官房長官の発言(平成11年8月6日 読売) 「A級戦犯を分祀し、(あるいは)靖国が宗教法人格を外して純粋な特殊法人として国家の犠牲になった人々を国家の責任においてお祀りし、国民全体が慰霊を行い、各国首脳に献花してもらえる環境を作るべきではないか」 資料J桜内義雄衆院議員の発言 「日本国際貿易促進協会訪中団の団長として中国を訪れていた桜内義雄衆院議員(前外相)は、4日、呉学謙中国外相と北京で会談したあと記者会見し、靖国神社へのA級戦犯合祀は、戦犯を認めたサンフランシスコ平和条約第11条からみて問題があるとの見解を示した。・・・桜内氏は靖国神社公式参拝が日中間の問題になった遠因について、日本遺族会が7年前に目立たない形で戦犯合祀をしたことを挙げ、戦犯合祀が当時表立って行われていれば、平和条約11条を指摘する政治家がいて、合祀は行われなかっただろうとの考えを述べた」 資料K後藤田正晴官房長官の答弁(昭和61年8月19日 衆院内閣委員会) 「対戦中のわが国の行為が侵略であるという厳しい国際批判があるのは事実であり、政府としてはこうした事実を認識する必要がある。東京裁判についてはいろいろな意見があるが、日本政府はサンフランシスコ講和条約で、東京裁判の結果を受諾している」 資料L中曽根首相の答弁(昭和61年9月18日 衆院内閣委員会) 「極東国際軍事裁判については、我が国は過去においてアジアの国々を中心とする多数の人々に多大な苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って、平和国家としての道を今歩んでおるわけであります。そして、先ほど申し上げましたように、サンフランシスコ平和条約第11条によって極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しております」 資料M西村熊雄外務省条約局長の答弁(昭和26年10月17日 衆院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会) 「第11条は戦犯に関する規定であります。戦犯に関しましては、平和条約に特別の規定を置かない限り、平和条約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向かって効力を失い、裁判がまだ終わっていない者は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。従って、11条はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第1段におきまして、日本国は極東軍事裁判所その他連合国の軍事裁判所によってなした判決を受諾するということになっております」 資料N章曙駐日中国大使の発言(昭和60年12月27日 日本記者クラブでの講演) 「A級戦犯合祀との関連でかつての戦争をいかに正しく認識し、アジア諸国の人民の感情を傷つけないようにするか。この問題さえ解決されるなら(靖国問題の)解決策を見いだすことは決して難しくない」 資料O「人民日報」の記事(昭和60年8月15日) 「靖国神社は、これまでの侵略戦争における東條英機を含む1000人以上の(戦争)犯罪人を祀っているのだから、政府の公職にある者が参拝することは、日本軍国主義による侵略戦争の害を深く受けたアジアの近隣各国と日本人民の感情を傷つけるものだ」 資料P「チャイナ・デイリー」の記事(平成11年11月12日) 「靖国神社は、普通の宗教的な場所ではない。そこには260万人の日本軍兵士にまざって、悪名高き東條英機を含む1000人以上のA級およびB級戦犯が祀られているからだ」 資料Q伊藤潔「東南アジアに残留の『戦犯』にも目を向けよう」(「亜細亜大学アジア研究所所報」第41号) 「『戦犯』に対する外国の対応には大きな開きがある。先年、中国の指導者が『(A級戦犯容疑者・元首相)岸信介先生を新たな友人として中国訪問に招待したい』と表明したが、岸元首相の都合で実現しなかったことは関係者の知るところである」 資料R「東京新聞」の記事(昭和60年9月17日) 同記事によれば、自民党田中派の国会議員団と会見した彭真中国人民大会委員長に対し、訪中団の長田裕二団長が、“A級戦犯”合祀問題について「過去の悪を忘れるわけではないが、日本には『死者をムチ打たず、墓を暴かず』という考えも定着している」と述べ、平安時代に反乱を起こした平将門が「死後は関東一円の神社に祀られ、民衆に親しまれている」という例を挙げたところ、彭真氏は「日本の風俗習慣もあろうが、役に立たない場合は従わない方がよい。小異を残して大同につくべきだ」と答えた。 資料S「朝日新聞」の記事(昭和60年5月6日) 「サミット(主要先進国首脳会議)出席後、西独を公式訪問中のレーガン大統領は5日、コール首相西独首相とともに、ルクセンブルグとの国境沿いの町、ビットブルグにある旧独軍将兵らの墓にもうで、眠る将兵たちに花輪を捧げ、霊を慰めた。ここに埋葬されている約2000人の将兵らの中にナチス親衛隊(SS)隊員48名が含まれていることが分かり、ユダヤ系米国人などが激しく反発、一時は訪問取り止め寸前に追い込まれるなど、レーガン政権は苦境に立たれた。 しかし、この日ビットブルグ訪問に先立って行われたユダヤ人虐殺の強制収容所ベルゲン・ベルゼン訪問と合わせ、ドイツ降伏40周年に当たって、レーガン大統領の『ドイツとの和解』の象徴的政治行事が決行されたわけである」 |