10 22(金) カインズヘレジィ ●イワンのばか |
カインは旧約聖書、『創世記』に登場する人物。地上で誕生した最初の子供として初めの人間夫婦アダムとエバに生まれた子。アベルの兄。 カインは土を耕す者となり、その 『土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。』(創世記4章3節−5節) その後、神に省みられなかったと感じたカインは弟アベルを野原で襲い、殺した。人類史上最初の殺人ということになる。その罪はすぐに神の知るところとなり、断罪される。 『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。』 『今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。』 『土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。』(創世記4章10-12節) 神はカインを死に至らしめることはせず、むしろ 『主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられ』(創世記4章15節) 守られた。その後、カインは神の前を去り、エデンの園の東、ノド(さすらい)の地に住んだ。そこで妻を娶り、息子エノクを授かった。カインは町を建て、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。 |
『旧約聖書』の「創世記」4章に登場するアダムとエバ(イブ)の長子。アベルはその弟。カインは土を耕し、アベルは羊を飼った。2人が収穫物を神ヤーウェへ捧(ささ)げると、神はアベルの供え物だけを喜んだ。カインにおちどはないが、神はカインの反応を試したのである。「罪が門口に待ち伏せしている。……あなたはそれを治めねばなりません」。しかし、カインはアベルを憎み殺害した。人類最初の殺人事件である。その血を吸った大地は耕しても実らず、カインは呪(のろ)われて放浪の身となった。そのとき神は、カインを助ける別の手段を考えた。カインを殺す者は7倍の復讐(ふくしゅう)を受けるであろう、と。かくして、カインは神の前を去って、エデンの園の東にあるノドの地に住み、妻をめとって一子エノクをもうけた。この物語の背景には、農耕定住民と牧羊移動民との対立があり、イスラエルの神は、後者の生活様式とその祭儀に高い価値を与えたと考えることができよう。[市川 裕] 青字にしたのは私だが、『旧約聖書』によればアダムとイブが地上で初めて産んだ子が殺人第一号になっている。だからカインは歓迎される名前ではないのだが、あえて“カインの異説”としたのは、農耕定住の始まりを意味するものとして、この命題が出てきているのだろう。 |
旧約聖書の創世記に記されるアダムとイブとの長子。自分の献物が神に退けられたのを恨み、弟アベルを殺した。 |
有島武郎(たけお)の短編小説。1917年(大正6)7月『新小説』に発表。一部改稿して、翌年2月新潮社刊『有島武郎著作集』第3集に収録。「自己を描出したに外ならない『カインの末裔』」(1919・1『新潮』)で作者自身が述べているように、無知で野性的な主人公仁右衛門が、「生きねばならぬ激しい衝動」に動かされて、農場社会からは疎外され、北海道の過酷な自然とも闘って敗れる「苦しい生活の姿」を描く。主人公には、実際に有島農場で働いていたモデルが確認されているが、作者自身の「生に対する執着」という人間認識を仮託した人物であることは、自註(じちゅう)に明らかである。このほか、聖書に取材した神話的な題名の問題や、農場問題との関係など、多様な側面をもっている。[山田俊治] |
1960年代、アメリカ合衆国では、青年層を中心にして既成の社会体制と価値観からの離脱を目ざす対抗文化countercultureの運動が生じた。この運動とそれを担った人々をヒッピーという。アメリカと同様に高度な産業化を実現したイギリス、フランス、日本などにも波及した。ことばの由来に定説はないが、音楽とくにジャズやブルースに熱狂して忘我状態に陥ることを黒人の俗語でhip, hepといい、ここから派生した。 産業社会の豊かさは、主要な支持層である中産階級に、合理的で物質主義的な生活様式と生き方をもたらした。ヒッピーは彼らをスクウェア(堅物)とよび、主流文化からのドロップアウトを図った。なによりも自由と愛という人間的な価値を尊重するヒッピーは、自分自身のために生きるため、原始的共同生活を営んだ。男たちは、ひげを伸ばし、長髪を好み、ジーンズをはいた。女たちも、長い髪にミニスカートをはき、ペンダントをかけたり、サンダルを履いた。ボヘミアン的ライフスタイルと平和主義を象徴するものとして、彼らは好んでハトや花のシンボルを使用した。他方ではまた、テクノクラシーの基盤をなしている客観的知識=科学と理性に疑いを表明した。彼らは理性の尊重よりも感性の解放を求め、音楽、ドラッグ(LSD、マリファナ)、東洋の神秘主義思想(禅や道教)などによる意識の拡大化と変革を志向した。詩人のA・ギンズバーグは、これらの優れた実践者、導師として彼らの尊敬を集めた。 ヒッピー運動は、イデオロギーに基づく社会変革よりも、個人の意識変革を目ざす文化運動であった。1960年代後半には、人種問題、ベトナム反戦などの社会運動と呼応して盛り上がりをみせたが、70年代に入ると急速に終息した。しかし、彼らの思想や風俗は、その後、主流文化に浸透するとともに、エコロジー運動、反核運動、ニューサイエンスなどに受け継がれている。[亀山佳明] |
1967年頃アメリカによく見られた若者たち。「自然にかえれ」を主張とし、月並みな社会生活を避ける。 ヒッピー族 ヒッピー族が、長髪にボロをまとったり、花飾りに鎖のベルトやブーツあるいはボディ・ペインティングといった風変わりなスタイルをするところから、これらの風俗をいう。ヒッピー・スタイル |
正しくはボヘミアン・ルックのこと。本来ボヘミアンとは「ボヘミア地方の」という意味。自由な放浪生活を送るジプシーたちの装いをボヘミアン・ルックとよぶことが多く、2002年春夏から秋冬にかけても、1960〜70年代のヒッピーたちが好んで取り入れていたジプシー・ルックをこのようによぶケースが多かった。ただし、ボヘミアンにはこのほかにもボヘミア地方の民俗的スタイルをさす場合や、第2次世界大戦前のパリの芸術家たちが着ていたスモック風ブラウスをさす場合もあるので、注意したい。 |
いま是が非でも必要なのは、私たちがふだん考えなれているよりはるかに長い時間に基づいた知識と実践的倫理である。理想的な倫理とは、日常会話の次元を越えて、はるか未来を見越した解決目標を置き、この複雑で遠大な問題に立ち向かうための一連のルールを作り出すことだ。環境問題とは本質的には倫理の問題なのである。 そこに必要なのは短期的ばかりでなく長期的に将来を見ることのできる視野だ。今このとき社会と個人に利益になることでも、これから先十年の間に有害になることなどざらにあるだろうし、この先数十年にわたって理想的と思われることが、未来の世代を亡ぼす結果になることもありうる。 近い将来遠い将来の両方に最善のことを選ぼうというのは、まさに至難のわざである。それはしばしば互いに矛盾して見えるうえ、ほとんどがまだ書かれたことのない知識や倫理規範を必要とするからだ。 |
ある命題とその否定命題が、ともに論理的に同等と思われる論拠をもって主張されているとする。これらの二つの命題が成り立つと結論する推論のなかに誤りが含まれていることを明確に指摘することができないとき、これら二つの命題を、パラドックス、逆理または逆説という。以下にその有名な例をあげる。 エピメニデスEpimenidesのパラドックス(前6世紀ごろ)は、表現はいろいろあるが、たとえば「クレタ人はうそつきであるとあるクレタ人はいった」という命題をいう。「クレタ人はうそつきである」という小命題が正しければそのクレタ人はうそをいったことになり、小命題がうそであればそのクレタ人はうそをいっていないことになり、いずれにしても全体の命題は成立しない。 |
《原題、(ロシア) Skazkaob Ivane-durake》レフ=トルストイの創作民話。一八八五年刊。ロシアの民話を素材に、地主の三人息子のうち、正直で働き者の末弟イワンが、最後には悪魔にも勝って幸福になる物語。 |
Сказка об Иване‐дураке / Skazka ob Ivane-durake ロシアの作家L・N・トルストイのもっとも有名な創作民話。1885年作。正式には『イワンの馬鹿(ばか)とその2人の兄弟、軍人のセミョーンと太鼓腹のタラースと唖(おし)の妹マラーニヤと、老悪魔と三匹の小悪魔の話』。基本的なロシア民話ではイワンは働き者の2人の兄たちと違い「ものぐさ太郎」だが、最後に幸運を手中にする。このタイプは農奴制的労働の不生産性に対する民衆の健全な判断力の表れであろうが、この筋書きをトルストイは鋭く転回させ、イワンを勤勉な地主の三男に仕立て、長兄の収奪的なミリタリズム、次兄の独占資本主義的な商行為を批判する。それと同時に、貨幣の要らない無政府的原始共同体の幻想をも理想化した。[法橋和彦] ■中村白葉訳『イワンのばか他八編』(岩波文庫) 【格言など】人生を愛し人生になやみ苦しみつつも/八十三年の人生を味わい深く生きたりと/自負する男ここに眠る(墓碑銘) ■金子幸彦訳『イワンのばか』(岩波少年文庫) |
10 26(火) 良寛 |