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折々の記 2002 @

折々の記:…2002…【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】08/30〜       【 02 】09/10〜
【 03 】09/24〜       【 04 】10/06〜
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【 07 】11/12〜       【 08 】12/01〜


【 08 】12/01〜

  12 01(日) 誕生日の月
  12 05(木) 雨がやんで晴れた
  12 17(火) オカシイことがいっぱ―い!
  12 29(日) 柿を竜洋町へ ●兵越峠●熊野の長藤●熊野御前の墓石
  12 30(月) 柿を竜洋町へ ●天竜川渡船跡石碑

 12 01(日)誕生日の月

我が家では12月生まれにかかわる人が五人いる。

私     12月08日
長男    12月17日
次男妻   12月30日
次男長女  12月12日
次男次女  12月03日

孫たち二人は小学生で、一年生と四年生の女の子である。今年の誕生日には二人に百人一首を贈りたい。パソコンのソフトもと思い調べているがまだ見つからない。

日本古来の優雅な遊びだから、ぼちぼち触れさせてやりたい。

 12 05(木)雨がやんで晴れた

 12 17(火)オカシイことがいっぱ―い!

北朝鮮の核開発凍結解除

韓国女子学生死亡、米軍軍事法廷では無罪

イージス艦のインド洋派遣

民主党代表の決定

学力問題

町村合併

とにかく問題と思われることが一杯出てきている。目下干柿づくりで猫の手も借りたいいそがしさである。年末まではこのページへの書き込みはしておれない。

 12 29(日)柿を竜洋町へ ●兵越峠 ●熊野の長藤 ●熊野御前の墓石

*兵越峠


 フリーズしたときに消滅。
 悪しからず。



飯田から浜松へ行く最短ルートは、この兵越峠を通るのが一番である。
戦国時代に武田信玄が浜松にいる徳川家康を討とうとして通ったのがこのルートだ。
峠に建てられている「兵越峠の由来」を読んでみると次の通り。

この峠を兵越峠と名づけたのは武田信玄が、上洛を志ざし元亀三年(1573)十月三日(新暦十一月十八日)約二萬五千の大軍を率いて信濃国遠山領を通って、青崩峠の少し手前で分隊し、一隊はこの兵越峠を越したと言われている。
信玄が上洛のため信濃国、遠江国の峠を越すことに意を決めたのは、信玄の家来秋山信友が、永禄十一年(1568)、遠江国、奥山、天野の両氏を味方につけるためこの峠を越し、探索ののち五年後、天野氏を道案内として、天野氏居城へ向ったのである。
この国境にある二つの峠は、青崩峠方面奥領家の谷は距離が短いため信玄の本体が通ったとしているが、兵越峠方面地頭方の谷は、北遠の穀庫といわれる谷で戦力を増すため、雑兵、荷運搬馬は勿論の事、馬の餌、馬の草履、兵の草履、乾食糧などの徴発や、敵が潜んでいるのを予想してこの峠を越したもので両峠は十月十日(新暦十一月二十五日)に越し南下したのである。
この峠は信玄の兵が越したと言われるゆかりの峠である。

世の中の進歩が歴史の道を、そして峠を忘却の彼方に押し流そうとしている。それがどんなに歴史的な意義があろうがなかろうが………

標札は古びていたがこのように読み取れた。

実は26日に、私はこの峠を越えて竜洋町へ行ってきた。国の賄いがえらい赤字で三遠南信自動車道はまずはストップし続けるだろうから、しばらくはこの細い山道を通るしかあるまい。だが、この山道は考えようによっては自然と旧道路に接するイヤシの道である。

*熊野の長藤

 東海道五十三宿ゆかりの解説したものの中に天竜川左岸にある行興寺がのっている。

 この寺には、謡曲熊野の物語に登場する才色兼備の熊野御前(ゆやごぜん)の墓があるというのだ。

 御前が愛した長藤は「熊野の長藤」と呼ばれ、国の天然記念物に指定されている。なるほど、みれば大変な藤の木である。

 熊野(ゆや)とは《平家物語》巻十〈海道下〉に登場する遠江池田宿の遊女の長の名前である。

 平重衡(しげひら)が捕らえられて関東に下る途中この宿に泊まり、その長の娘の侍従という女から歌を贈られるが、その女は兄宗盛に召されたことのある海道一の歌人であった。

*熊野御前の墓石

 これを原拠として、その女の名を熊野とした能が出来上がったという。

 能での、遠江池田宿の長の熊野は、平宗盛の側に仕えて久しく都住まいだった。

 ある日国元から侍女の朝顔なるものがきて、老母の重病を伝える。熊野は宗盛に母の文を披露して暇を願う。

 宗盛は許さず、かえって花見の供を命ずる。東山へ赴く花見の車の中から見ると、道行く人々はみな春の装いに色めき立っているが、熊野の心は重かった。

 東山では酒宴が始まり、熊野はしぶしぶ立って舞を舞った。そのうち村雨が降り出して花が散りかかるのを見ると、また母の命が思いやられ、熊野は涙ながらにその気持ちを詠んだ和歌を短冊にしたため宗盛に見せた。

宗盛もさすがに哀れを催して帰国を許したので、熊野は飛び立つように東国へ急いで帰った。

文の段、車の道行き、舞、村雨の場面から短冊の段、帰国の喜び、と見せ場が多い華麗な能で、主人公の哀れさもよく描けているので、昔も今も人気の高い能である。(世界大百科事典の説明)

広い藤棚の裏手のほうに、野外客席とした立派な能舞台がある。

 12 30(月)柿を竜洋町へ ●天竜川渡船跡石碑

*天竜川渡船跡石碑

 喬木村と竜洋町は姉妹町村である。

 昔天竜川を利用した帆船による交易友好が深かったからだ。年末に一度は所用があって竜洋町へ行く。

 天竜市から平地になって川幅も広くなるのだが、河口までには九つの橋がかかっている。鉄道の橋も三つある。見事な景観である。

 天竜川渡船跡石碑は新天竜川橋の北400m左岸の堤防内側にあった。豊田町長書による新しい石碑である。

対岸にも舟橋跡と天竜川木橋跡と書かれた1m余の柱が二本立てられている。昔は大変だったと思う。東街道の裏街道として姫街道があったというが、豊田町の石碑へ通ずる細い道に木の標柱がみつかった。

「熊野の長藤」からは100mほどの場所にあるから、みる時は一緒にすると良い。

出かけたときの参考になるのは「マップファン」で、実に都合がいい。手に入れたい場合は次のところから申し込んで利用すればいい。

 http://www.mapfan.net/

随時更新されるし、ともかく詳細な地図を提供してくれる。旅行の必携品の一つといえる。

対岸にも舟橋跡と天竜川木橋跡と書かれた1m余の柱が堤防道の道端に建っている。

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