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折々の記 2002 @

【心に浮かぶよしなしごと】
by 下平好上

【 01 】08/30〜       【 02 】09/10〜
【 03 】09/24〜       【 04 】10/06〜
【 05 】10/13〜       【 06 】10/24〜
【 07 】11/12〜       【 08 】12/01〜


【 01 】08/30〜

  08 30(金) 近づいた長野県知事選挙
  08 31(土) 学校五日制がもたらす問題?
  09 01(日) 優の水泳&長野県知事が決まる
  09 02(月) 懐かしい弁天橋
  09 03(火) 秋の七草&異常気象
  09 04(水) 女郎花
  09 05(木) 県会議員の月額収入はこれでいいのか?
  09 06(金) 懐かしい「手合わせ唄」
  09 07(土) 花が意味するもの………
  09 08(日) 北海道の韮

荒城の月

「折々の記」2010/3/2 以降

「折々の記」2010/3/8 以降

 08 30(金)近づいた長野県知事選挙

 県知事選挙が明後日になりました。個人的に電話で候補者を推薦し投票を依頼してきたひとが数件ありましたが、話の内容は、受け売りしかなく意味はなかった。国でもそうだが先にたつて行政を導こうとしている人は、多額の借財をどうするかを考え方の一番の根っこに決めてかからなくてはならない。
 この根っこの部分の考えを明らかにしてから、将来像を描くことがよい。平和に対する論理構成も必要だし、人々の生活が目指すところの理想郷の想定も必要でしょう。日進月歩の科学の拡散にたいして生活の中へはどのように位置付けていくべきかも明らかにしておきたい。

 生きる環境が悪化していくなかで人をどう育てていくかを考えておくことは、わたしたちの最も重要な、そして人として最も基本的な課題であります。誰が考えても一致できるような論理構成が必要になってまいります。
 脱ダムにすれば3000億円の赤字になり、長野県財政は一挙に崩壊する、と知事不信任に投票した県会議員の人たちは言っている。県民の代表は市町村長であり、県議会議員であるという発想は、この前の選挙でその是非が正されたのに、またまた長谷川さんを擁立して大政翼賛会に擬せられた選挙運動を展開した。下諏訪町長選挙で示されたように、知事選挙においても脱ダムを支持し、田中康夫を支持する県民の意思が表明されるだろう。

 もしそうでない結果がでたとしたら、県民は何を考えていたのか、問わなくてはならない。

 それは、当選落選という問題のみではなく、日本が将来何に向ってどう進んだらよいのかを、もう一度長野県人は考え直さなくてはならないという問題なのである。

 県議会議員や土建屋ごのみの、隠れ蓑をした利害勘定や損得を宣伝する旧時代の機関決定に反対し、一人一人の意見が県政に反映できることを、皆で考えていかなくてはならない時がきている。バックボーンの位置づけと、意見反映の手法を作り出していくことが、長野県民として、大きな課題なのである。

 08 31(土)学校五日制がもたらす問題?

 学校の五日制について、今夜、PTA・部落代議員・公民館役員の人たちの会合があって、地域での奉仕活動というか学習活動というか、要するに学校を離れての地域活動のあり方を協議するという。一体これは何を意図するのだろうか。勤労の実体験をねらってのことなのか、地域の人々との連帯意識の醸成なのか。

 例えば、花壇の世話をして地域の環境美化に協力することもいい。料理教室を開いて男の子も女の子も料理の実体験を身につけることもいい。土中生物の観察をしたり、河川の生き物の観察をしたりして、生命の尊さを網膜にインプットすることもいい。椋鳩十さんのお話の中から、紙芝居を作っていき、保育園の子どもたちに見せてあげるようにすることもいい。また、稲作やさつまいも作りを土日の休みのときに作業し、収穫祝いまでのサイクルを体験することもいい。

 教育面では学力の低下が心配されている。世界的にみても、教育は国家の将来のために力を入れるようになった国が多いのである。最近も朝日新聞に世界のこどもの学力検査の結果と、各国の対応などが載っていた。

 日本のいわゆる「ゆとり」教育というのは、ずくなしの子どもに迎合したきらいがある。戦後20年代の英語教科書と、30年代、それ以後「指導要領」改訂ごとに、学習内容は低下してきている。マンガ的にまでなっているのは、教科書としての気品はなく、アメリカ的な学習資料としての位置づけに惰してしまったと考えざるを得ない。

 知的レベルの向上が国の将来にとって大切であるとするならば、知的レベルの向上を狙っての教育方法や手段を検討すべきであろう。やはり国家百年の大計は人づくりにある、教育にある、と考えるべきだろう。

 ドイツの教育はどうなるのか見ものだろう。

 日本も二の舞にならんとも限らない。どうしたものだろうか、現状から何が生まれてくるんだろうか。円周率に代表されるように、世界からの笑いものになりそうである。ことは、そう簡単なわけではない。私学振興が急務といえば急務かもしれない。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」式の間違った平等意識が戦後の日本全土を覆っている。困った現実である。いろいろの議論をかさねていって、そして、そして、その結論は、私学振興が急務であるということかもしれない。

 知的レベル向上という意味では、われわれは再度、吉田松陰を育てた玉木文之進やカール・ビッテを研究しなければならないし、グレン・ドーマンの手法やピアスの人間理解を研究しなければならない。

 09 01(日)優の水泳&長野県知事が決まる

 9月30日、小学校一二年生の水泳大会が行なわれたそうである。孫の優は一年生の女の子であるが、50メートル泳いだという。50メートル泳いだのは3人だったそうである。優、おめでとう!

 昨夜の会合は教育委員会の要請で9月14日に、各部落で部落じゅうを含めて児童生徒とともに教育懇談会を開いてほしいとのことだった。唐突で委員会の無策不手際という批判がでてきた。無理はない。
 旧来の行政スタイルがまたまた顔を出した。上から下へ……上から下へ……自分たちで決めるというやりかた、慣行を醸成していこうという気風が行政サイドにはなかなか見られないのである。学校の五日制の腹構えを自分たちで検討しようという立場をとらないのである。この五日制についても国自身がもともと、先生方の議論も教育関係者の議論もほとんどなしに、行政サイドからその方向がだされ、制度化してきたという基本的な欠陥があった。

 まあ、それはそれとして、
 なにをいおうとも………。今日、長野県知事が決まる……………。

 脱ダム論拠の応援の意図があったと思うが、夕べは信越放送でダム廃止の趨勢がわかりやすく報道された。メデアがこの時期に、この報道をしたことは、反田中陣営が憤慨して食ってかかるのではないか、と思う。真実をこそ公開すべし。個々の利害得失をはなれて、大所高所から冷静な論理の積み重ねによって、まっとうな行政に変貌していってもらいたい。

 さあ、結果を待つとしましょう…………………………。

      ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 ◇確定得票
 当 822,897 田中 康夫 無前    
   406,559 長谷川敬子 無新
    24,261 市川  周 無新
    15,255 中川 暢三 無新
     9,061 三上 誠三 無新
     2,058 福井 富男 無新(読売新聞)

私が見たのは、次のものである。

  http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=95992&start=11&log=200209&maxcount=20(K嬢の長野県政ウォッチング日記)
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020902-00000101-yom-pol(読売新聞)
  http://www.minamishinshu.co.jp/kensei.htm(南信州新聞)
  http://mytown.asahi.com/nagano/news01.asp?c=11&kiji=103(朝日新聞)
  http://www.shinmai.co.jp/senkyo/2002chijisen/(信濃毎日新聞)

   ああよかった……………………………! 

 テレビの字幕には8時過ぎ、田中康夫当確の文字が流れた。ああ、よかった……………。
 俊成一家が孫の授業参観の案内状をもってきてくれた。まだ7時過ぎだった。「当選祝いの乾杯をするぞ」といって焼酎を小さいグラスに注いで乾杯した。「2〜3割はおおいだろう」と予想していた。

 ところがである。対抗本命の長谷川さんを2倍の余ひきはなしていた。選挙は誰が勝つかではなく、誰がどんな方向を目指しているか、そのことがやっぱり中核になっていた、と私は理解したい。権力行使、利権癒着、議会と首長の馴合いなど一蓮托生の県政体質、それが問題であった。それに市町村の責任者が旧来のペコツキ根性が私たちには苦々しく感じられていたのである。長谷川さんも行政理念をもっと明確に自己内部に確立していなければ、田中さんを向こうにまわしての選挙は所詮無理であったと思う。旧勢力に応援されるようになっては………、旧体質にはみんな、ヘドがでるほどいやなのである。そこには『公僕』の姿勢がみえないからである。

 自分勝手の意見を書いたが、県民の感覚は素晴らしかったと思う。

 環境を憂え、世界平和を憂え、悪徳業者の横行を憂え、権力も何もない庶民の優しい平和を願う心に沿った行政を、私たちは腹の底から願っている。政治議論もそこから始めてほしいのである。

 田中さん、私たちのために頑張ってやってください。応援しています。(05:20)

 09 02(月)懐かしい弁天橋

 今日は田中知事再選を祝うかのようにすてきな晴天になった。七草の撮影にでかけた。
     〔天竜川〕
〔弁天橋川原より上流に向けて撮影〕

 雲ひとつない。碧空、青すぎる。
 ここは昔、少年の頃よく水泳をしたところで網膜に残っている残像とは多少ことなっているが、天地の情景は変わりがない。

 ただ、変わっているのは自分のみ。世の変転を流し去って悠然たるものは水と空のみ。

 水の質は不変であるのに、川は流れ、雲はいずくにか去る。


  蝸牛角上争何事  白居易
  石火光中度此生
  随貧随富且歓楽
  不開口笑是痴人

今日になってのテレビや新聞の情報を見聞きしてみると、不信任を提出した人たちの言葉の不一致がことに見苦しい。同じ県政会の人の中でも二人の方は辞職すると言っている。この人たちは筋が通っていて気持ちがいい。だが、共産党を除く県議会議員すべて、今回のできごとの全責任を背負うべきである。まだまだ、ことの重大さには気づかず、自己弁護の言辞が後を絶たない。長谷川さんも鼎の軽重判断には事欠くものがある。

 09 03(火)秋の七草&異常気象

      〔葛〕
 〔伊久間原にて撮影〕

 葛(クズ)の花…秋の七草@

 咲き始めは、もっと美しかったはず。それでも、人知れず一面にクズの蔓はのびてその気になって、カメラを用意していないと通り過ぎてしまうのではないかと思う。

 秋の七草は、萩 薄 葛 撫子 女郎花 藤袴 桔梗

 異常気象という言葉が使われなくなってきた。喉元すぎれば……という言葉どおり、地球温暖化という現象は承知はしていても、課題解決に寄せる意識が忘れ去られようとするのである。アフリカでサミットが開かれている。自分でできることは何か……それを見つけて行動する、これしかない。

ともかく暑いのである。昨日の長野市では観測史上の気温だったと報じていた。35度を越えていた。ヨーロッパの史上に例のない洪水も、おそらく温暖化の結果であろう。年配者は後少ないと言えば言えるが、100年単位でものを考えるなら、早急に解決の第一歩を踏み出さなければならない。

自分は何をしたらいい……。浪費を省くこと、質素倹約にはげむこと、エネルギー資源や光熱資源の倹約に励むこと、自分がそれを行なうこと……そのことが大事だ。

 参考となる本……
  「沈黙の春」
  「メス化する自然」
  「奪われし未来」
  「環境ホルモンとは何か」
  「地球汚染@」
  「地球汚染A」
  「ダイオキシン汚染のすべて」
  「生命の多様性T」
  「生命の多様性U」
  「ダイオキシン汚染列島日本への警告」、
  数年前の朝日新聞連載の「異常気象関係や地球汚染関係の記事の切り取り」

これらの本は手元にあります。借りて読みたい本は貸し出します。
この他にいろいろの出版物があると思います。「知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」……このことも大事なことですから、いろいろと勉強していきたい。

 09 04(水)女郎花

     〔女郎花〕
〔家にて撮影〕

 女郎花(オミナエシ)の花…秋の七草A

 7月から咲き始めてよく咲いている。それによく見ると、萎え花になったものがないのが不思議である。

 子供の頃には、野山のあちこちに咲いていたものだ。この花を「お盆花」と呼んでいた。

 撮影の角度はもう少し俯角から撮ったほうがよかった。

 今日は孫たち(友美‥小学四年生;優‥一年生)の授業参観日である。共に二時間ずつの参観計画があり、そのあとに校長先生の話があるという。

二人とも教室の案内図をたんねんに書いて渡してくれた。友美の授業は一時間目は習字で、二時間目が「昔の遊び」だという。優は生活という時間で「うちわづくり」だそうで、祖父母は木槌を持ってきて一緒に作ってほしいという計画。二時間目が国語で「おおきなかぶ」をよく読めるようにしてきなさいと指示されていた。

 09 05(木)県会議員の月額収入はこれでいいのか?

     〔桔梗〕
 桔梗(キキョウ)の花…秋の七草B

 野にある桔梗は見つからないので、筒井園芸の圃場にある観賞用の桔梗である。

 この紫色はやはり高貴を象徴する色なのかな。

 昨日の県政会ほか不信任案を提出した各派の責任問題を協議する情報がテレビ放映された。組織の長や役員が刷新されるのはいい。だが、問題は次のような意識なり体質とでもいうのか、辞任していく人たちの言葉である。この期に及んですら、不信任案の提出は間違いではない、といっている。県民の理解がえられなかった、その通りであるが、利益共同体のような県議の方々の話では困る。旧体質は変わらない。

議会議員が貰っている、所謂、月額報酬は、選挙戦の折に田中知事が「みなさん、いくらもらっているか、ご存知ですか」とちょっとこぼしていたが、おおよそ調べてみると月額180万円以上です。いまどき月給180万以上の勤め人がいますか。自分の懐に入るものは知らん振りです。この  『議員の報酬』 を見てください。

驚きじゃありませんか。情報はすべからく公開しなければなりません。公僕という名前が泣く云々どころか、公僕に反する考え方を、私たちは排除しなければなりません。

 09 06(金)懐かしい「手合わせ唄」

      〔萩〕
 萩(ハギ)の花…秋の七草C

 昔からお盆がくると、萩はススキとともに長さ3尺幅尺五寸位のムシロに編んで所見机の上に敷き、お位牌といろいろな野菜を供えたものでした。

 お盆にはお線香をたてることは勿論だが茄子に割り箸4本を刺して馬形とし、ウドンを乗せて供えたっけ。

 お盆過ぎには、萩・ススキのゴザに、お供え物すべて包んで橋の上から川へ流してお送りした。そしてその送りものを、天龍川の童子カッパは中を開いて、モモやスイカを頂戴したこともあったっけ。

 弁天橋の上で、女の子と一緒に男の子も歌った歌をいま調べて見ると 『手合わせ唄』 で鹿児島県各地で歌われたものに類似しているんだが、「一かけ二かけて……」と歌ったものでした。

  一かけ 二かけて 三かけて
  四かけ 五かけて 橋かけて
  橋の欄干腰をかけ 遥か向うを眺むれば
  十七八の姉さんが  花と線香手に持って

  姉さん 姉さん どこへ行く
  わたしは九州 鹿児島の
  西郷隆盛 娘です
  明治十年戦役に 切腹なされた父上の
  お墓参りに まいります

  お墓の前で 手を合わせ
  なむあみだぶつでジャンケンポン

 09 07(土)花が意味するもの

      〔薄〕
 薄(ススキ)…秋の七草D

 ススキといえばお団子とともに名月だろう。日本には「活け花」という華道がある。

 なんで「花」か。見た目に美しいから接客の意味もあって、玄関やお座敷に花をかざる。そういえばその通りでしょう。でも葬儀の式場には、季節の如何を問わず花が盛られる。

 末期の水はあっても末期の花とはいわない。

 ところが病室見舞いには花である。なんで「花」か。花は生命力の象徴というより、むしろはかなさ(儚さ)の象徴とおもう。葬儀の花と病室の花、なんだろうか。

花と自分、何が違うというのだろうか、よくよく考えてみますと、元の部分命の一生という部分では何ら異なるところはないというのが結論である。

命の終焉を知るということは…花の華麗さと凋落、それは人の活躍期と終焉という命の実相を悟る、という意味が込められているのではないだろうか。

悟る、という言葉は、誰もわかっていても使いたくない言葉なんです。

それでは、病室の花は死を悟りなさいというのか。生命の真実を悟るということは、自分が生きてきたというより、生かされてきたという真実を悟ると共に、花のように人のために華麗な時期もあった、すべては相依性の高い生涯であったことを感謝したい、自分も皆のためになってきたんだ、そのことを知るという、きわめて仏教的な願いが込められていると思います。

野趣に満ちた野の草花、それは園芸店で販売している花とはちがって、パッと見は派手ないけれども、目にとまらない身近な優しい花である。
私は殊に待宵草(普通ヨイマチグサという)が好きだ。天龍河畔に多く咲いていたからかもしれない。子どもの心に深く染み込んだに相違ない。咲いたばかりのような短黄色の優しさが染み込んだに相違ない。歌詞を見たい方は次をどうぞ。《月見草》
合歓も好きな花だ。緑と紅色のコントラストが独特な雰囲気を作り上げるのです。これは園芸店ではなく野山の自然の中でなければ味わえないものです。

 09 08(日)北海道の韮

      〔韮〕
 韮の花 作り畑のあちこちに咲いている。

 韮については、懐かしい思い出がある。

 戦時中援農隊として北海道の釧路、鶴居村の岡田國男さん宅で三ヶ月間お手伝いをしたことがある。若奥さんは折々お勝手口から出た近くにあった韮を摘み取ってきてはお 汁の実にしていたのである。 

 さてさて、都合のいい野菜かなァと感心し帰りには少し株分けして、家へ持ち帰ったのである。この得体の知れないものは、摘み取ってほったらかしておくと、また、元のようになるのである。都合のいい野菜だな、とその当時は思っていたので、やくやく北海道から持ち帰ったのである。

実はそれがニラなるもので、昔からこの地方にもあったのだという。知らないということは、屈託もないことでおかしなものである。

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