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折々の記 2002 @
折々の記:…2002…【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】08/30〜
【 02 】09/10〜
【 03 】09/24〜
【 04 】10/06〜
【 05 】10/13〜
【 06 】10/24〜
【 07 】11/12〜
【 08 】12/01〜
【 06 】10/24〜
10 24(木)
ハウス第二柿干場
10 25(金)
隣組旅行…三方五湖 ●姉川古戦場跡●姉川古戦場跡での隣組
10 27(日)
初めて担任した生徒たちの同級会
10 29(火)
公述人 ●議員定数について
10 30(水)
当たり屋
10 31(木)
叔父のホームページ
11 02(土)
柿剥き最盛期
11 03(日)
柿剥き最盛期
11 10(日)
昭和33年3月卒業豊丘南中学校還暦同級会
10 24(木)第二柿干場
パイプハウスの中へ第二柿干場ができた。燻醸庫は1立方なので180×90×60=972000にする。なかなか手がかかる。どこの柿も今年は豊作のようだ。
行楽の秋になってテレビの映像にも高緯度地方からの紅葉が報じられ始めている。昨年の11月15日、湖東三山の寺巡りをしたが、殊に西明寺の紅葉はすばらしかった。今年は京都をねらっている。
旅行データ収集は次のようにしている。
◆「奈良・京都 花の名所案内」
次の「月刊 ぷるーと」
http://www.asahi-net.or.jp/~fk6n-ootk/index.htm
の中からバックナンバー〔1号〜49号〕を調べることができる。購読していたメルマガは今年の7月、第84号でストップしています。
◆「世界大百科事典」(日立デジタル平凡社)の CD-ROM から調べる方法
少々値段が張るが、万事に好都合であり一度手元におけば手放せないくらい重宝する。
◆その他の方法
いろいろの検索方法による方法、CD-ROM「京都・春夏秋冬」(見出し項目105)、解説している単行本などなど。
◆「Map Fannet」(一年間ごとの契約手数料を支払うが、まことに便利だからお勧めの逸品)
これはインターネット上での地図だが、旅行の時には目当ての地域を拡大しコピーして持参すれば、迷うことはない。車ならカーナビがあれば、もう万全でしょう。それほどに「Map Fannet」は役に立ちます。事前の旅行立案には欠かせない。
10 25(金)隣組旅行…三方五湖
隣組では一年おきに一泊旅行をしている。
組は7軒で参加者13名、運転は北原さん、総勢14名。
期日→10月18日〜19日、民宿→三方町小川の「松のや」
行程概要 §18日 鞍馬口辻→飯田IC→養老SA〈朝食〉→長浜IC→長浜城→国友鉄砲の里資料館→姉川古戦場跡→〈昼食〉→柴田氏庭園→レインボーライン→「松のや」《п@0770-47-1251》
§19日 「松のや」→御神島グラスボート一周→佐久間記念館→〈昼食・土産〉日本海魚街→〈夕食〉→鞍馬口辻
感想
*長浜城…昭和58年復元、歴史博物館として開館。パンフレットを見ればいい。
*国友鉄砲の里資料館…戦国時代の戦法一新として鉄砲の使用は否めない。鉄砲鍛冶の中心になっていた村である。次の姉川古戦場と共に見ておきたいところでしょう。
司馬遼太郎「街道をゆく」なかに、国友を訪れた感動がのっているという。その一説を紹介する文学碑が五箇所あるという。(パンフレットより)
*姉川古戦場跡…浅井朝倉軍と織田徳川軍との決戦場である。
お市の方の悲劇が脳裏をかすめる。
政略結婚によって浅井長政に嫁しづいた信長の妹お市の方が、今は苔むす小谷山城で過ごした10年ほどの歳月は、お市の生涯では幸せな時期だったと思う。
姉川の戦いが6月28日、小谷山城での浅井長政の自刃が8月28日、なぜか28日である。
今流でいえば長政自刃は30歳で、お市の方は26歳のことだった。お市の方は長政にさとされて、子供と共に城を脱出します。
長男 万福丸は密かに寺に預けられたが、後に秀吉につかまり殺されました。
長女 お茶々は秀吉の側室「淀殿」になります。
次女 お初は京極高次のつまとなります。
三女 お江は徳川秀忠の正室となりました。
この橋の袂に、わずかばかりであるが、合戦跡としての碑文を建てた公園がある。
碑文には次のように記されている。
…………………………………………………………………
元亀元(1570)年6月28日
戦いは午前五時ごろに始まり
午後2時ごろには終わった。
この姉川をはさんで北に陣取る浅井、朝倉連合軍は約18000人、かたや南に織田、徳川連合軍も約28000人でした。
徳川方から仕掛けられたこの戦いは最初浅井、朝倉両軍の方が優勢でした。織田軍は、13段構えの陣を11段まで突破され、信長の面前に刀、槍が突き出るまでにいたりました。しかし徳川軍の力戦によって朝倉軍が後退したため、浅井軍は右翼から崩れ始めこれに力を得た織田軍も総攻撃に転じついに浅井、朝倉軍は小谷城へ敗走することとなりました。
この戦いによる戦死者は、浅井、朝倉軍が1700余人織田、徳川軍も800余人とみられ、負傷者は、その3倍にもおよび、清らかな姉川の流れも数多くの死傷者によって赤く血に染まったと伝えられています。
当時、浅井長政26歳、織田信長39歳でした。この後、一時和議が成立しましたが、天正元(1573)年8月浅井氏は小谷城において滅びました。
この戦いは、信長の天下統一のきっかけと言われています。左の図は、この戦いの各軍配置図ですが、これにも各種の説がありこれはその一つです。
(姉川合戦各軍配置図…省略)
…………………………………………………………………
悲運の方「お市の方」については次のページを見ていくといい。
http://www.niji.or.jp/home/hadime/pg-rekisi-oichi.htm〔戦国時代の女達〕
北陸自動車道を進んでいくと右のほうに「小谷城址」の看板が山麓に望見することができる。
前に訪れたとき、時代の流れと国全体の価値観の推移を痛感し、ここで倒れた人々への愛惜絶ちがたいものがあった。夕方だったせいもあって亡霊の呼び声すら感じても不思議ではなかった。
*姉川古戦場跡での隣組
フリーズの際、消滅しました。
悪しからず。
立っている左の人から2人ずつ
原 みね 原 嘉博
原 一也 原 勝利
奥山 忠重 原 実
奥山 好子 下平 好上
しゃがんでいる人たち
原 紘恵 原 悦子
原 智子 下平 秀
*柴田氏庭園…敦賀市にあるが、侘しさの象徴として見るにはいいが、特別のことはない。だれ一人管理する人もいなければ、参観者もない。
*レインボウライン…特別のことはない。
*民宿「松のや」…小川部落にあるが、この西海岸の先端常神部落まで、どこの民宿も秋の魚は格別のようである。漁師部落だから当然と言えば当然かもしれない。
*御神島グラスボート一周…先ずは乗る価値もない。
*佐久間記念館…是非一見したい。《人事を尽くして天命を待つ》この言葉は戦前の教育を受けた人たちの脳裏には、沈没した潜水艇の艇長「佐久間勉」の名前と共に収まっている。
見学するには町の教育委員会( 0770-45-2222)へ事前連絡し開錠してもらう必要がある。親切には感謝する。貴重なパンフレットと陳列品の説明により、この地の出身者佐久間勉の様子が理解できる。
歴史は人が作る、という言葉がある。非凡なる心根を自分の糧として学ばなければならない。
次のサイトが参考になる。
http://www.komusyoukai.com/point/teityou/〔佐久間記念館〕
略地図あり
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/navy-rokugo.htm〔第六号潜水艇〕
*日本海魚街…敦賀方面でお土産を買うんならここがよい。
敦賀ICから国道8号線、27号線で西に向う。黒河川を過ぎて直ぐ右側に「日本海魚街」があるので、直ぐわかる。うるめいわしが美味い。
10 27(日)初めて担任した生徒たちの同級会
還暦を迎えたときの同級会から6年経っている。場所は龍峡亭で一泊とのこと。局に勤めていたという当番の嶋岡史農夫君から丁寧な手紙や連絡を頂いていた。
卒業式が済んで、初めて担任した生徒たちを教室から送り出したあと、ひとり呆然と教卓に佇んで溢れる涙をのみこんでいた、あの情景は今も脳裏にある。
宮本武蔵の話をしたり、給食の食函と弁当をもって裏山へキノコ狩りにいったりしたこともあった。休みの時には生徒たちが下宿の通称「さかや」へ押しかけてきて、遊び興じてコタツの周りに車座に寝たこともある。有志の子どもたちをつれて西駒登山に出かけ、千畳敷の山小屋で「イシゴダン」が可笑しいといってクックといって笑いを堪えたこともあったっけ。ぎちがたした今の教師像からはまるで外れていたようだ。生徒には申し訳なかったのかもしれない。
吉川英治の三国志も松島純男君から借りて読んだ。文学全集の購入を始めたのも千代中学時代である。シオジの机を都築大工さんに注文して作ってもらい、当時一万円支払いしたのも思い出す。リコーのかめらもその当時一万円で、他の物価から考えてみると随分高い買い物だった。
下宿の大平訓子さまはとても上品な方で、諏訪神社の禰宜さまの出身だとかお聞していた。大平小州の生家で豪宅といえば豪宅そのものだった。泰久、規矩子は第一に人柄が明るくわだかまりのない気持ちのいい子どもたちだった。ヒノキ作りの湯船は忘れられないし、囲炉裏の大きさや流しの大きさも懐かしいものだ。
ともあれ、今日集まる卒業生はみんなそれぞれ苦節を重ねて親行も済ませた人たちだ。
人生は悲喜こもごもだが、歩んできた道は尊い。それぞれの人生観とか、自分の基本的基盤とか、孫子へ寄せる思いとか、話は尽きないことだろう。
10 29(火)公述人
町村合併の課題ではいろいろの考え方があり、まだ村として草案のまとめやその提示はされていない。これとは一応別問題だが、議員定数の課題が持ちあがっている。
財政赤字をどうするかという大きな課題をかかえて、全国の各市町村で各種の考え方が浮上してきている。
その一つとして、議員定数削減の方法が検討されている。
議員定数の問題が財政の逼迫から生まれてきたとすると、問題解決の対策は議員の報酬削減の方法と定数削減の方法の二つの方法に大別される。
削減が可能だったとすれば、それまでの定数は、必要以上の出費だったという論理もでてくる。だが、財政の理由から論ずると報酬を削減していく方法検討を優先させて論議をすることとなる。
私は喬木村村会議員定数についての公述人となっている。
定数問題が財政上の理由からだとすれば、次の二点、報酬の削減と定数の削減からの口述をすることが要請される。
@報酬の削減…可能である。
議員報酬の根拠を明示しなければならない。退職金とか年金についても特典があると聞いていますが、もしそうなら根拠を明示しなければならない。
村民の代表として活動する議会人としては、公僕としての立場を逸脱してはいけない。
みんなのために活動するということが第一の心構えだとすれば、普通の人の日当程度で活動する、というのが本義ではないのだろうか。おそらく今後はこうした方向をたどることと思う。
A定数の削減…可能である。
三人寄れば文殊の智慧という言葉がある。委員会が四つであれば12人でよい。
「赤信号 みんなで渡れば……」式の決め方、他町村の定数を参考として決める従来の方法は唾棄すべきであろう。相対価値観には私自身も毒されています。複数思考を基としてはいけない。
【議員活動に関しての要望】
*議員活動が村民にはわからない。
議員と村民とのパイプはできていない。国政や県政の反省から議会議員と住民の意見交換がいかに大事であるか、多くの人々が痛感している。この意見交換のパイプができていないのです。具体的な方法について論議を進め、実現の方向を決め出していただきたい。
*議員活動の記録と情報公開をお願いしたい。
長野オリンピックの会計が公示されなかったことは、政治家への不信を高めた。県民は無党派になって自らの立場を確保しなければならなくなった。国も県も喬木村も同じなのである。記録の機能と情報公開がない場合には、たとえ政党に所属していないといっても同穴の弊害に陥る。
10 30(水)当たり屋
昨夜、息子から次のような連絡がありました。
…………………………………………………………………………………
当たり屋グループが来ました。
気をつけて運転してください!
@ 下記のナンバーの車が接触した場合は、その場で示談にせずに、直ちに警察に連絡
すること。
*運悪く当たった場合には、警察に連絡すると同時に、この資料をチェックするだけで逃
げていくケースもあるそうです。
A 警察が到着する前には、自分の勤務先や氏名、電話番号は絶対に言わないこと。
B このコピーを車内に備え付けておくこと。
C 知人、友人にも知らせてあげてください。
D 下記のナンバーが前を走っているときは、急に止まっても当たらない車間距離を保っ
てください。
また、後の車が異常に接近してきたときは、十分注意してください。
E 当たり車は
サイドブレーキで止まるので、ストップランプは点きません。
F 山口ナンバーほか、関西方面の車には気をつけてください。
●ナンバー
山口 33 8148 山口 33 808 なにわ ち 33 2621
山口 33 3124 山口 33 2188 水戸 33 7880
山口 33 7480 山口 33 52xx 泉 33 3277
山口 33 2920 山口 33 9910 泉 33 x722
山口 33 3475 山口 33 3131 神戸 ち 33 9034
山口 33 8889 山口 33 8113 神戸 に 33 5828
山口 33 839 山口 33 7181 神戸 ふ 33 722
山口 33 5320 山口 33 98xx 神戸 ち 33 5540
山口 33 898 大阪 に 38 917x 不明 不明 9348
山口 33 2590 大阪 33 5757 姫路 33 5958
姫路 33 605
姫路 33 4548
○3、5、8、9 の数字が、元の印刷が不鮮明であるため、判読して記載してあります。
それですから、全体から判断してください。
…………………………………………………………………………………
とんでもない人がいたものですが、酒気帯び運転と同時に「当たり屋」にも注意しなければなりませんね。このコピーを万一のために準備しておくことがいい。このチラシは、下伊那の企業へ配布されたものです。
今日から柿剥きを始めました。急に冷えこんだせいもあるのか、伊久間原の柿は熟度がまして、収穫の適期を迎えました。老夫妻ふたりだから、ゆっくりするつもりだが、所謂ジュクシになってしまっては大変で、せいぜい頑張りたい。
この地方の特産だから、よい製品に仕上げたいと願っている。
10 31(木)叔父のホームページ
昨日、叔父からホームページ開設の連絡があった。
http://www9.ocn.ne.jp/~suwacho/
見ていただくとわかるが、水彩画の製作に精魂をこめて精進している。まったく驚く以外のなにものでもない。長年郵便局に勤め局長としても活躍されていた。
退職後、生来好きだった水彩画をはじめ、下島常二先生、南島金平先生などに師事しこんにちに到っている。退職後16年になる、78歳の高齢である。数年前体調を崩して入院し、しばらくは絵筆をとるエネルギーも失せて製作から遠ざかっていた。
それなのに、体調が回復してきたら、猛然として製作に取り掛かり、本年しばらくぶりに個展を開くにいたった。驚くべき精神力である。水彩画に寄せるエネルギーに敬服する。
ホームページはこれから順次修正したり、追加したりするそうですから、今後あらたに掲載される絵を楽しみにして待っています。
11 02(土)柿剥き最盛期
31日に平沢夫妻が柿取りにきてくれた。ほんとうに助かる。
コンテナーへ午前中に16ケース、午後10ケース。驚くほど手早い。
俊成一家、二泊三日でディズニーランドへ今日出かける。バスで行くという。
今日、2日、平沢夫妻午後は用事があるということで、午前中に柿取り20ケース。ほんとうに有り難い。
11 03(日)柿剥き最盛期
風越山の中腹まで雪で白くなっていた。文化の日にこれほど寒いのは記憶にない。
孫たちの飼っている兎「さくら」を朝晩飼いにいっているが、生き物を飼うということは良いことだ。明日帰ってくるから、「小学生」を用意しておかなくてはならない。
11 10(日)昭和33年3月卒業豊丘南中学校還暦同級会
神稲の教え子たちの同級会はよくよく行なわれてきた。今回は還暦を迎えての集まりだった。 8日に木下隆夫先生と丸岡の家へ一泊させていただいた。ご母堂様は12月14日に85歳になられるという。細君の「せつ」さまは、心づくしの品々で接待してくれ感謝のきわみであった。
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