折々の記へ
折々の記 2002 @
折々の記:…2002…【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】08/30〜
【 02 】09/10〜
【 03 】09/24〜
【 04 】10/06〜
【 05 】10/13〜
【 06 】10/24〜
【 07 】11/12〜
【 08 】12/01〜
【 04 】10/06〜
10 06(日) 金木犀と秋祭
10 07(月) 五味子の季節
10 08(火) 転機の教育
10 09(水) 佐久間艇長
10 10(木) 小諸市中棚荘 ●千曲川旅情の歌
秋の象徴として目にはマンジュシャゲ、芳香としては金木犀である。前者はやはり秋のお彼岸前後に道の土手や田んぼの土手に咲き乱れる。それでも今も色褪せてはいるが、独特の形をした花は天に向かってがんばっている。
金木犀は十月上旬、今を盛りにその芳香を報せてくれる。わずかに開いた車の中でも、「あれっ、きんもくせいだ」とその香りは分かる。秋がきている、間違いなく秋なんだ、感覚の世界を豊かにしてくれることを感謝したい、金木犀の花の香りをかぐと、こうした思いが強くなる。自然は美しい………言葉は要らない、心の癒しである。
広辞苑で調べてみると次のように紹介している。
きん‐もくせい【金木犀】
モクセイ科の常緑小高木。中国原産の観賞用植物で、古くから庭木とされる。高さ約三メートル。葉は狭い長楕円形、革質で堅い。雌雄異株。わが国のものはすべて雄株で結実しない。秋、橙黄色で強烈な芳香を放つ小花多数を開く。漢名、丹桂。季・秋
ぎん‐もくせい【銀木犀】
モクセイ科の常緑小高木。中国原産の観賞用植物で、庭木とされる。高さ三メートル余。葉はキンモクセイより鋸歯が明瞭。一○月ごろ小白花を葉のつけ根に叢生、芳香を放つ。雌雄異株。木犀。漢名、銀桂。季・秋
図ぎんもくせい
街の中では知らずに過ごしてしまいますから、田舎道を走っていますときっとこの芳香が漂ってまいります。空気もよくなってきましたから、折々は外へ出てみることがいい。
4日と5日(土日)は、産土様としての韓郷社の秋祭りである。
この神社の由来については、何も残っていないから、憶測する以外に手はない。私は社名からみても帰化系の人々が奉じてきた社(やしろ)だと思っている。
神社庁の資料で調べてみると、韓という文字を使っている神社は日本海側に多い。
埼玉県の高麗神社を訪問して宮司(日本の朝廷から許された、高麗という姓の末孫)からお聞きしてみると、高麗が中国の唐の侵攻を受けて滅びるまえに、日本海を渡って多くの人が日本に渡来していると言っています。さらに神社の名前としては白髭神社他いろいろの名前あるという。
韓郷社については別にまとめたいと考えている。
これも広辞苑を調べてみると、次のように解説している。
こうくり【高句麗・高勾麗】カウ‥
古代朝鮮の国名。三国の一。紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙(東明王)の建国という。中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、四世紀広開土王の時に全盛。都は二○九年より丸都城、四二七年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。高麗(コマ)。(―668)
→朱蒙
→高麗(コウライ)
しゅ‐もう【朱蒙】
高句麗国の始祖。別名、鄒牟・鄒蒙。諡、東明聖王。三国史記に前三七年即位という。(前58前19)
こま【高麗・狛】
〓高句麗(コウクリ)の称。また、高句麗からの渡来人の氏称。〈和名抄五〉
〓高麗(コウライ)の称。また、高麗から伝来したもの、舶来のものの意を表す語。「―錦(ニシキ)」
こうらい【高麗】カウ‥
〓朝鮮王朝の一。王建が九一八年王位につき建国、九三六年半島を統一。都は開城(旧名、松岳・松都)。仏教全盛下に建築・美術も栄え、後期には元に服属、三四世で李成桂に滅ぼされた。
高麗(コマ)。(9181392)
〓高句麗(コウクリ)。また、一般に朝鮮の称。
《高麗という文字を使った言葉》→これらの言葉は広辞苑に解説されている。
→〓―‐うぐいす【高麗鶯】カウ‥ウグヒス →〓―‐がき【高麗垣】カウ‥
→〓―‐がらす【高麗烏】カウ‥ →〓―‐きじ【高麗雉】カウ‥
→〓―‐し【高麗史】カウ‥ →〓―‐しば【高麗芝】カウ‥
→〓―‐じょく【高麗卓】カウ‥ →〓―‐せいじ【高麗青磁】カウ‥
→〓―‐せんべい【高麗煎餅】カウ‥ →〓―‐だいす【高麗台子】カウ‥
→〓―‐だいぞうきょう【高麗大蔵経】→〓―‐ぢゃわん【高麗茶碗】カウ‥
→〓―‐ばし【高麗端】カウ‥ →〓―‐ばん【高麗版・高麗板】カウ‥
→〓―‐べり【高麗縁】カウ‥ →〓―‐ほうとう【高麗宝塔】カウ‥タフ
→〓―‐もん【高麗門】カウ‥ →〓―‐やき【高麗焼】カウ‥
五味子は野生種だけにワインの効用とは一段とちがっていると思われる。
ワインというと、一般にはどこどこ産だとか、何年ものとか、味わいがどうのとか、ソムリエ【sommelier フランス】まがいの味わい方があるが、私は一向にそんなことには関心がない。飲んでみて美味ければいい。それでは何が問題かというと、五味子と人体との関係がだいじな問題なのである。
沖縄の垣花樋川の湧水が実は長命を支えた大きな理由であったことが、一昨夜のTVに報道されていた。沖縄は沖縄石灰岩でできている。玉泉洞のような鍾乳洞はもっと発見されてもふしぎではない。姫百合の塔など洞窟はあちこちにある。
さて沖縄の水と長寿、それが問題なのである。カルシュウムの含有量が抜群に多いことが、長寿の要因かもしれない。
日本は一般に降水量が多く地中のカルシュウム分は急峻な地形のせいもあって流失する割合が大きいという。ヨーロッパの野菜のカルシュウム含有量にくらべて、日本の野菜はCaがすくないという。食材と健康は深い関係にあると認めざるを得ない。
五味子はどうなんだろうか。
広辞苑のお世話になってみると、次のように解説されている。
ごみ‐し【五味子】
チョウセンゴミシの成熟した果実を乾燥した生薬。果実の皮肉は甘酸、中核は辛苦、全体には塩味があるので、この名がある。強壮・鎮咳・収斂(シユウレン)剤。北五味子。
普通の葡萄とくらべてみると、とにかく酸味がつよい。それに粒が小さいので五味子酒をつくるのにとっても手間がかかる。
さて、健康効用を調べてみよう。
朝日新聞10月6日(日)に「競争加速」“転機の教育”@が掲載された。
タイトルは【「脱画一化」各地でうねり】として第一面へ載せている。8面には教育特区を特集している。
昨年末にOECD(経済協力開発機構)初の学力調査によって、その結果が公表された。転機の教育というのは、それを受けて朝日新聞では連載第一期として<転機の教育>1〜4(04/06〜)を掲載、第二期として<ニッポンの学力>1〜13(07/21〜)を掲載、そして今回の第三期の<転機の教育>掲載となったのである。
第一期のデータは、下記アサヒコムのサイトから、「クラブA&A」に入会して“メールマガジン”で調べることができる。
第二期の「ニッポンの学力@〜L」は、次のURLで見ることができる。ぜひ一読したい。
http://www.asahi.com/edu/tenki/index.html (アサヒコム>教育>転機の教育)
私たちは、時の政権の行財政について関心を寄せることが大事な心がけであるが、百年の大系といわれる教育の方向性にもアンテナを張っておって情報収集を怠らないようにしたい。
ともかく、昨今は文部科学省の学校制度を変えたこと…五日制と学習量三割減…に対する非難の声が各地からまた各層からあがっていることは事実である。
「学力低下は国力低下を招く」このことはシンガポールの教育重視の理由を見ればそれが理解できる。今回の結果によるドイツの驚きよう(ドイツは20位よりあと)は私たちの想像を絶するといってもいいし、それだけにドイツが学力低下に関して緊急事態と認識し対応しているのは当然といえば当然のことである。いまや学力低下の問題は世界の第一級の緊急課題となっているといえよう。
日本はどうなんだろうか。
日本における教育の危機感を、私は次のように表現してもいいと思う。
@過去の素晴らしい藩校と現代の教育感覚
幕末から明治初期の藩校からは多くの異彩を放つ人物が輩出している。松下村塾であり、長野県でいえば高遠藩の藩校進徳館をみればわかる。当時の塾生または藩校の子弟は、正座して姿勢をただし書見台に本をおいて学んでいる。その気骨たるや「三歩下がって師の影を踏まず」が髣髴されるような気構えであっただろうと思う。その姿は今はない。
十一歳にして藩公の前で兵学を進講した松蔭をみて、「あんなに小さいうちから教育をすることはない」と評した人に対して、松蔭を養育した玉木文之進という人は、こう応えたという。「あなたは馬の調教を知らないのです」と。
A教科書のレベルダウン
戦後の英語の教科書について述べてみよう。
指導要領というものは、教育内容や方法などにわたり一定の基準を示したものですが、その指導要領の改訂のたびに、内容がレベルダウンしてきていました。実際の教科書を見てもらえば一目瞭然で、皆さんは驚くでしょう。たとえば、昔は分詞構文や話法転換まで学習していたのに、それがだんだんと高校へ移行していってしまった。最近は驚くなかれ、「ヤン坊」「マー坊」まがいの挿絵が教科書に登場しているのである。子どもにとって興味を引くことが大事だという、子どもにこびた編集にまでなり下がっている。
国定教科書の弊害は歴史教科書だけではなかった。画一的な考え方への批判欠如は教育者自身の責任でもあった。国体擁護の姿勢は、日本人自身のグローバル化を阻害してきたことを思うと、基本的な過ちだったといわざるを得ない。私達自身の中に多少とも他国との協調性が欠けたものがあるとすれば、画一的な文教政策もその責任の一端を負うべきであろう。
B教育計画の基本的欠陥
「子どもの興味関心がなければ学習効果が上がらない」という幼稚というほかにない論理によって、小中学生の授業がだんだんおかしくなってきていた。指導理念が画一化してきたと言ってもいい。このような寄らば大樹式の思考世界には、馬の調教も、鍛冶屋の鉄打ちも、完全に無視されて、授業設定にも多彩な論理の片鱗すら現われなかったし、もしこうした考えが出されたとしても一蹴されるのが落ちであった。
イートンスクールが堅持してきたという「昔よかったものは今でもよい」という、いわば伝統を重んずる流れは日本においては軽視され、教育者自身の口角泡を飛ばす教育理論に関する討論も枝葉末節の有様となっていったと思う。私自身もその加害者であったと言わなくてはならない。
C親の考え方の変化
「親に似ぬ子は鬼子」たしかにその通りである。すべては興味関心と真似から始まる。まね…まね…まね…、それがあって初めて思考パターンと行動パターン、それを統括する価値観が三歳の幼児に完成していく。三歳以降も同様にしてまね…まね…まね…が続いて、親の生き様は、ますますわが子に伝承されていく。親に似ない子なんてこの世の中には一人としていないのは当然なのである。
親の子どもに対する養育観、世界観、倫理観、価値観、言葉て言えばすべてにわたることになるが、わが身に合わないものでも手に入れたい物質への欲望とか、寄らば大樹とか、みんなで渡れば云々とか、優越感や劣等感とか、比較思考による没個性とか、………生活できないような貧困から開放されたが最後、健全な形而上の倫理観は影をひそめ、物欲への計画設計はできても、子育てへの内面的な躾教育も薄れ、平等の名のもとに精神的な向上心を失い、さても一人よがりの発想から「いじめ」や「虐待」にまで心の生活は堕落し、ミーちゃんハーちゃんのステージに心を奪われ、「一億総白痴化」の様相を呈してきている。
親がこんなようでは、学力は確実に低下していく。間違いないことである。学業にして然り、躾において然り。何たることだろうか。
私は日本における教育の危機感をこのように感じています。
………………………………………………………………………
一人一人が子育ての根幹に迫り、考え方や生活を変えることが急務となった。《0歳教育》は緊急課題なのである。
具体的提案は、みんなで出し合っていかなければならない。時間はかかるだろうけれど、教育の国家管理ではなく国家による教育援助のしくみを創りだしていかなければならない。まさに情報収集による思考、討議によって「知識を世界に求め……」望ましい教育制度、仕組みを創らなければならない。今後に課せられた国民の課題である。
親孝行について一言。
韓国や中国に見られる、親に対する孝心は、日本人から見れば古いタイプの考え方だとでも言うのだろうか。もし、そんな感覚が頭のすみに少しでもあるとすれば、それはおかしい。もしそうだとすれば、私たちは安穏とした生活に浸っていて心眼に濁りを生じ、一番の恩義を受けてきた親への孝心を失ったこととなる。
私たちは何か間違ってきたんだと思っているのなら、自分を変えていくことが大事なこととなる。それは心がけと実行から始めることができる。例えば、家計の実情からということで、安易に親を施設に預けないことだ。貧乏してもいいではないか。私の周りには、親孝行を通してきた頭の下がる人がいます。それは人として立派な方と言わなくてはならない。親孝行をしたからこそ立派なんです。着るものは、みやましいものを着てはいませんけれども、言葉づかいも他の人と変わってはいませんけれども、親孝行をしたから立派なんです。親孝行ができない人は人としての品格もなにもありません。
政治家はよく福祉政策をとくとくとして演説していますが、私は福祉政策の多くの主張の中に、人間の野性的なエネルギーをなくしていく危険性を感ずるのです。「イワンのバカ」とさげすみ、金を手にして安穏の生活を願うようになると、それはどだいおかしくなるのです。「作らざる者は食らうべからず」という言葉も絵に書いた餅となってしまう。「目には目を」あの対人関係の基本原則も絵の餅になってしまうのです。「イワンのバカ」それは素晴らしい人なんです。
介護保険制度、善意に解釈すればいいことに違いないんだが、安易に考えるとすればこれまた人間を自堕落にしていく。人間の野性的良さを失っていく、そこに注意して改善していく必要がある。
ものの道理に外れずに、すべて一対一を基本原則として考えてみますと、子育てや社会生活の改善すべき方向がいくつもいくつも見えてくるのではないかと思います。
佐久間勉艇長といっても知らない人が多くなった。
明治43年山口県新湊沖。
潜水艇としては国産初の第六号潜水艇の半潜水演習が行なわれ
ていた。午前10時に潜水を開始した第六号潜水艇は、潜行間
もなく艇の故障で海水が艇内へ流れ込み艇長以下14名の乗員
と共に、海底に沈んでしまった。
遺書には天皇陛下の艇を沈めたことと部下を死なせる罪の謝罪
と、潜水艇の今後の発展のためにと沈没の原因や海底に沈んで
からの様子、部下の遺族についてのお願い、上官・先輩・恩師
への告別の言葉がつづられていた。
最後には「ガソソリンニヨウタ12時40分」と書いてあり、
最後まで書き綴っていたことがうかがえる。「ガソソリンニヨ
ウタ」これはガソリンに酔った状況のために「ガソソリン」と
書いたものと思われる。
この遺書は夏目漱石が病床で名文と激賞したという。
佐久間艇長の遺書(全文)
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ 我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ 以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ
希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ
沈没原因
瓦素林潜航ノ際 過度深入セシ為「スルイス・バルブ」ヲ諦メントセシモ 途中「チエン」キレ依ッテ手ニテ之シメタルモ後レ後部ニ満水 約廿五度ノ傾斜ニテ沈降セリ
沈拒後ノ状況
一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤ツカリタル為電灯消エ 悪瓦斯ヲ発生呼吸ニ困難ヲ感ゼリ 十四日午前十
時頃沈没ス 此ノ悪瓦斯ノ下ニ手動ポンプニテ排水ニ力ム
一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ 燈消エ ゲージ見エザレドモ「メンタン
ク」ハ排水終レルモノト認ム 電流ハ全ク使用スル能ハズ 電液ハ溢ルモ少々
海水ハ入ラズ 「クロリン」ガス発生セズ残気ハ五00磅位ナリ 唯々頼ム所ハ
手動ポンプアルノミ 「ツリム」ハ安全ノ為メ ヨビ浮量六00(モーターノト
キハ二00位)トセリ (右十一時四十五分司令塔ノ明リニテ記ス)
溢入ノ水ニ溢サレ乗員大部衣湿フ寒冷ヲ感ズ 余ハ常ニ潜水艇員ハ沈着細心ノ注意ヲ要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ム可カラズ 細心ノ余リ畏縮セザラン事ヲ戒メタリ 世ノ人ハ此ノ失敗ヲ以テ或ハ嘲笑スルモノアラン サレド我レハ前言ノ誤リナキヲ確信ス
一、司令塔ノ深度計ハ五十二ヲ示シ 排水ニ勉メドモ十二時迄ハ底止シテ動カズ 此
ノ辺深度ハ八十尋位ナレバ正シキモノナラン
一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス カカルトキニ困ル故 幸ニ
本艇員ハ皆ヨク其職ヲ尽セリ 満足ニ思フ 我レハ常ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス
サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出シノ中ニアリ(之レ但私事ニ関スル事言フ
必要ナシ田口浅見兄ヨ之レヲ愚父ニ致サレヨ)
公遺言
謹ンデ陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ
左ノ諸君ニ宜敷(順序不順)
一、斎藤大臣 一、島村中將 一、藤井中將 一、名和中將 一、山下少將
一、成田少將 一、(気圧高マリ鼓マクヲ破ラル如キ感アリ) 一、小栗大佐
一、井手大佐 一、松村中佐(純一) 一、松村大佐(龍)
一、松村小佐(菊)(小生ノ兄ナリ) 一、船越大佐 一、成田綱太郎先生
一、生田小金次先生
十二時三十分呼吸非常ニクルシイ
瓦素林ヲブローアウトセシ積リナレドモ ガソソリンニヨウタ
一、中野大佐
十二時四十分ナリ
…………………………………………………………………
佐久間記念館は福井県三方郡JR三方駅から国道で南下数分のところにある。訪問する際には生家(電話=0770-45-1151)と町の教育委員会(電話=0770-45-2222)へ見学希望を伝えて指示して頂くとよい。
参考資料は次のサイト。
http://www.komusyoukai.com/point/teityou/(佐久間記念館)
http://homepage2.nifty.com/gunshin-gunzou/sakuma-p.htm(佐久間勉)
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/navy-rokugo.htm(第六号潜水艇)
http://www.hokuriku.ne.jp/montanyu/index.html(浮上せず第六潜水艇)
http://www.asyura.com/submarine.htm(阿修羅♪世界の感動を呼んだ潜水艇乗組員たち)
http://member.nifty.ne.jp/12kan/sakuma.htm(遺書全文と筆跡)
小諸市でみるものと言えば、やはり小諸城址懐古園だろう。懐古園関係はもちろんであるが、小諸市周辺のパンフレットを手に入れてあるくとよい。
懐古園入り口の南西すぐそばに古城という点滅式の三叉路があり、坂道を下っていく途中に中棚荘がある。島崎藤村ゆかりの宿である。
実際私が、小諸に行って餓え渇いた旅人のように山を望んだ朝から、
あの白雪の残った遠い山々―――浅間、
牙歯のような山続き陰影の多い谷々、………
すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の眼に映った時から………
私の内部には別なものが始まったような気がしました。
(千曲川のスケッチ奥書)
浅科村から千曲川を渡るあたりから浅間山を見ると、わずかに白煙が棚引くおっとりした浅間山とはちがう「牙歯のような山」がくっきり目に飛び込んでくる。
地勢上なのか景観上なのか、藤村の心情を慰めるものが小諸にはあったのだろう。そしてあの「千曲川旅情の歌」が生まれたのだろう。
小諸なる 古城のほとり
雲白く 遊子悲しむ
緑なす ハコベは萌えず
若草も 藉くによしなし
銀の衾の 岡辺
陽に溶けて 淡雪流る
暖かき 光はあれど
野に満つる 香りも知らず
浅くのみ 春はかすみて
麦の色 あずかに青し
旅人の 群はいくつか
畑中の 道を急ぎぬ
暮れゆけば 浅間も見えず
歌かなし 佐久の草笛
千曲川 いざよう波の
岸近く 宿に上りつ
濁り酒 濁れる飲みて
草枕 しばし慰む
この中棚荘の太い柱で組み立てた浴場には、いつも林檎が浮かんでおり、斜面をおおう樹木の間から千曲川が鳥瞰できる。藤村にとっては癒しの湯船に違いなかった。
中棚荘は温泉宿で、長い廊下や斜面を登る石段を通って浴場になる造りである。
この廊下に、
千曲川 いざよう波の
………………………
…………………………
………しばし慰む
の言葉が、色紙大の額にとらわれのない文字で書かれていた。
気持ちのいい温泉宿である。息子からいつも渡されるチケットで入浴し、いろいろと思うのである。
筆字を練習している人たちと、お正月の書初めに書こうと楽しみにしています。
【折々の記へ】