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折々の記 2006 @

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】03/09〜        【 02 】03/21〜
【 03 】03/25〜        【 04 】04/08〜
【 05 】04/09〜        【 06 】04/11〜
【 07 】04/28〜        【 08 】00/00〜


【 07 】04/28〜

  04 28 高麗神社旅行計画
  05 06 米子の滝、佐久のバルーン
  05 08 母の歌
  05 09 白州次郎(その三)
  05 13 <旅行記>高麗神社訪問
  05 17 安宅関・勧進帳の話

04 28(金) 高麗神社旅行計画

13日韓郷神社境内で「むつみ会」が行なわれたとき、時間うずめに韓郷神社にかかわる話を少しした。その折に、韓郷の名前の由来は渡来民の産土神社としての名残であろうとの見解を明言した。

すでに「韓郷社社誌」が発行されており、そこには渡来人の産土神社については何も触れなかった。誰しもその思いがあるのだろうが、あまり触れてこなかった。

触れてこなかった訳は、渡来民についての知識がなかったことからである。高麗神社を知ることになり、関係するHPを調べているうちにこのことが明らかになったと考える。

渡来民のもたらした文化は計り知れないほどの影響を与えたに相違ない。それに征服、被征服などの不協和音の話は一切伝わっていない。異文化の融合ということについてはヘレニズム以上の歴史事実なのである。私たちはこの重大な歴史過程を基本的に認識しておかなくてはならない。

ここ数日関係するデータの印刷(「韓郷にかかわる高麗神社と渡来人」)にかかった。A版130頁余になったが、まだ50頁位は印刷しなければならない。

若いときに調べた韓郷に類する名前の神社を神社年鑑で調べなくてはならないと思っている。それと、関東方面のデータ収集の人たちとの意見交換を進めなくてはならない。

こうしたことは韓郷神社の社誌とは直接つながるものではないが、だだ、異文化の融合の証をはっきりと認識していきたいからである。

旅行の日取りは決まっていないが、五月十日前後がいいのではないかと思っている。

05 06(土) 米子の滝、佐久のバルーン

   米子の滝は長年の夢であった。

   連休で孫のいる小諸へいった日の午前中を計画し、
   須坂から地図をみながら車を走らせ、駐車場に到着
   したのは十時半だった。七時に家を出たから三時間
   半かかった。

   案内によると、滝の下はまだ雪が多くて行けないか
   ら分校跡の展望台で見ることになりそう。歩きつけ
   ない山道の登りは年寄りにはきつかった。

   四十五分ほどかかって見晴らしのいい場所に辿りつ
   いた。そこが展望台であった。

滝は予想していたように素晴らしかった。この滝は権現滝(75m)といい、右に方に不動滝(85m)、黒滝(90m)が続いていた。権現滝、不動滝は水量が多かったが、黒滝は少なかった。夏の渇水期には流れも途切れて黒く見えるだけなので、この名前がつけられたようだ。

むかし小学校で歌った『滝』のような音は聞こえてこなかった。秋十月中旬頃の紅葉の頃が見事であると教えられた。ぜひ来てみたい。

   5月3日、佐久のバルーン・フェスティバル
   昨年の5月〜4日を見ると、バルーンはすでに降りて
   いたが、今年はまだ揚がっていた。

   現地の千曲川河川敷へついたのは8時過ぎであっ
   ただろうか。30は数えられた。子供たちを乗せるサ
   ービスのバルーンは去年と同じドラエモンや蛸のほ
   かに三つの合わせて五つ揚げられていた。
   
   昨年同様、おにぎりの朝食は美味しかった。

涼羽は休みなしに活動し、エネルギーがパンパンに満ちていることがわかり、成長ぶりがしのばれて嬉しかった。食事のときには食器をテーブルに運んできて配り、日ごろの様子が目に浮かんだ。今年保育園の年中組にはいり、すっかり慣れ元気よく活動しているそうである。

05 08(月) 母の歌

   14日は母の日です。

   どうして母の日かを調べると、いろいろ出てくる。
   「こよみのページ」を開いて「暦と天文の雑学」へ
   ジャンプすると、「年中行事関連記事」の中に‘母
   の日とカーネーション’が出ています。

   この写真はそこに載っているものなのだが、あまり
   にも鮮やかで、気品に満ちていたので、コピーして
   転載させていただいたものです。

   実は五月になってからであろうか、オフトーク放送
   で「母の歌」が三曲流されていた。

この「母の歌」は素晴らしいものです。それは次のものです。

   森 昌子  「おかあさん」
   島津亜矢  「感謝状」〜母へのメッセージ〜
   高峰三枝子 「おかあさん」

歌詞はお気に入りの歌Aへ載せておきます。

05 09(火) 白州次郎(その三)

高麗神社と白州次郎についての資料は一応目を通した。

高麗澄雄さん宛に手紙を出したのだが、高麗恵子さんのHPによると 1998 にご両親が亡くなっている。10年前のことになる。

データ「白州次郎・目次」37頁の白州退蔵は、33頁の「白州家三代の物語」からコピーしたものである。このデータはどこからのものか調べてみていたら、次のことがわかった。

http://www.nogami.gr.jp/index.html<九鬼奔流> (水軍九鬼氏と三田・神戸の歴史『九鬼奔流』)

   ここへジャンプして目次を開いてみるとどこを見ていいのか判らない。
   そこで「三田の歴史」を開くと、「基本作品」の中に
   「北摂三田の歴史」がでてくる。

http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandanorekisi/mokuji.html<北摂三田の歴史>

   このページが出たら、「白州退蔵」をクリックすれば
   「白州家三代の物語」が出てくる。

人の意識の中には自覚する自覚しないの区別なく、潜在意識として先祖の気質が積み上げられていくようである。この『性‥さが』というものがその人の 何% の『性』に作用するかは聞いたこともないから判らないが、基本的な部分で大きなエネルギーとして働くことがある。

このことは、年老いて判るものである。

従って「白州次郎」なる人物にあこがれて、彼と同じような生き様を演出しようとしてみても、所詮はまったくのナンセンスなのである。

ただ、ケンブリッジが培っているバックボーンは見習うことが出来る。これは同様に「品格ある日本人」を求めつづけていれば、同じような生き様に近づくことは出来る。

ここにきて“親がいかに大事であるか”痛感させられることになる。

いくら懺悔しようとも覆水盆に返らず、慙愧にたえない思いから遠ざかることはできない。

先祖から子々孫々への宿業は決して無視してはならないことであった。

「白州家三代の物語」に目を通していてつくづく反省させられた。

貴重な収穫として区切りをつけていかなくてはならない。

05 13(土) 高麗神社訪問

高麗神社訪問<11日〜12日>

韓郷神社に係って関心のある人三人と高麗神社を訪ねる旅をした。日高市の高麗神社と渡来民の人たちが船で来たといわれる大磯の高麗(高来)神社が目的ででかけた。

時間の都合で多摩川上流にある吉川英治記念館と川合玉堂美術館を見学し、二日目は同じような理由から白州次郎武相荘も見学した。

日程計画


  高麗神社を訪ねて

 1 日時   平成18年5月11〜12日

 2 参加者  原一也  下平とみ子  下平守  下平好上

 3 概要

 ☆ 11日 出発       07:00
      松川IC
      双葉SA           休息
      八王子      10:00   (\4850)
      吉川英治記念館
      玉堂美術館
      〔昼食〕     12:00〜
      圏央道経由<青梅IC→狭山日高IC>
      高麗神社     01:30
      聖天院      04:00
      圏央道経由<狭山日高IC→日の出IC>
      お宿 『山水』  05:30

   12日 出発       08:30
      八王子バイパス経由
      白州次郎《武相荘》10:00
      129号線南下
      高来神社     11:00
      高麗山公園
      〔昼食〕     12:00〜

      〈大磯駅観光案内所〉《鴫立庵》   旧島崎藤村邸    〈大磯海水浴場〉
       大磯の港     〈照ヶ崎〉   エリザベス・サンダース・ホーム 〈新島襄の碑〉
      《東海道松並木》  〈化粧井戸〉  旧吉田邸

      帰路       03:00
      八王子経由
      両平着      08:00   (\4850)


おおよそ、一万円で仕上げようと考えたのだが、15000円余かかってしまった。

経費のまとめは次の通りであった。


      高麗神社を訪ねての旅  会計報告    平成 18/5/11〜12 実施

  品目        代金   品目計  一人当代金

  通行料、燃料         21178   (5294.5)

    八王子     4850
    あきる野    650
    御殿山     250
    沼津      1550
    富士      650
    西富士     200
    松川      3350
    あきる野給油  5078
    諏訪湖SA給油 4600

  見学             8000    (2000)
    吉川英治    2000
    川合玉堂    2000
    白州次郎記念館 4000

  宿泊・食事          31436   (7859)
    昼食      5000
    海川料理山水  26436

  総合計            60614   (15153.5)


       宿代 6000円、交通費 4000円、計 10000円位の概算で見学料や食事代など
       拾わなしに考えていたので一万円を大分超過してご免なさい。

宿はトクーから檜原街道の秋山渓谷にある「海川料理山水」を選んだ。

皐月の山の緑と峡谷の清い流れを目にし、夜は鉱泉の湯につかって気持ちよいカジカの声を耳にして、山あいの静かな宿が満喫できた。

   

   <高麗神社拝殿>
      埼玉県日高市新堀833

    写真は左から
      原  一也
      下平  守
      高麗 澄雄
      下平とみ子
      下平 好上

   

   <長屋門から見た旧白州邸武相荘>
      東京都町田市能ヶ谷町1284

昭和18年農家の家を手に入れて移り住んだ。 英国流にいえばカントリージェントルマンであった。

詳しいことは旅行手引きとして用意したプリントを参考にすればよい。 テレビ放映のため大勢の人が「武相荘」に押しかけていた。

   

   <大磯の高麗山山麓にある高来(高麗)神社>

この大磯の地には高麗という呼び名が幾つもあるというのに、ここの宮司はうちのお宮は渡来系とは関係がないとニベもなく言うそうである。

なにか凝り固まった考え方にぶち当たったような感じである。 偏狭な意識を打ち破って大らかな考え方にたって平和の実現に向かいたいというの大事な折なのに困ったことである。 この社の右から裏山へ登るようになっていて、左は男道で急坂のようであり右は女坂で帰りのなだらかな道であるという。

高麗山公園は海沿いの海抜181mの山頂にあって眺望は素晴らしい。高麗山はこの東にあり海抜165mの樹相豊かなこんもりした山である。

吉川英治の記念館には、手入れの行きとどいた立派な庭園がありました。そこには太い椎の大木があり説明板が建ててありました。

      椎

   草思堂庭園のシンボルともいえるこの
   大樹は「椎」の木で樹齢五〜六百年と
   推定されます。
   吉川英治は、この樹下に毛氈を敷き、
   夫人のたてたお茶で、好日をたのしむ
   こともしばしばでした。

と解説していた。カメラに収めた書斎への石段には看板が建てられていた。

      書 斎

    この書斎は、先代野村氏が明治期に
   建てたもので、芳川英治が書斎として
   使用していました。
    創作に没頭した英治は、三度の食事
   もここでとるほどで、百万読者を熱狂
   させた「新・平家物語」もこの書斎か
   ら生まれました。

聖天院には次の看板が建てられている。

      高麗山聖天院の由来

   今からおよそ千三百年前高句麗滅亡によって我が国に帰化していた
   人民のうち駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国の高句
   麗人一七九九人を元正天皇の霊亀二年(西暦七一六年)武蔵国に移し
   高麗郡が置かれたことが続日本紀にみられる。この高麗の地は郡の
   中心をなし明治二十九年まで高麗郡であった。高麗王若光は高麗郡
   の長として荒野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績を収めた。
   王は没後神に祀られ(現在の高麗神社)たがその侍念僧勝楽は王の冥
   福を祈るため一寺を建立として果たさず天平勝宝三年示寂したので
   その弟子弘仁は聖雲(王の第三子)とともに師の遺志を継ぎ寺を建て
   師の遺骨を納めてその冥福を祈った。その寺が高麗山聖天院勝楽寺
   である。王が祖国から守護仏として持ってきた聖天歓喜仏を本尊と
   したので聖天院の名をもって広く知られている新義真言宗知山派に
   属しかつては門末五十ヶ寺を擁した名刹で当代までに実に五十世法
   燈は絶えることなく継承されている。

また町田市の指定史跡として町田市教育委員会は次の看板を立てている。

   町田市指定史跡
   白州次郎・正子旧宅
      所在地 町田市能ヶ谷町一二八三番外
      指定年月日 二〇〇二年十一月十四日

    戦後の新憲法制定に深く関わり、東北電力
   会長としても活躍された白州次郎と、美術評
   論家・随筆家として読売文学賞二回受賞、町
   田市名誉市民第一号の白州正子のご夫妻が、
   能ヶ谷のこの地に農家を買い取り移住された
   のは、昭和十七年(一九四二年)であった。
    寄せ棟造りで東側妻面兜造りの重厚な茅葺
   屋根の母屋と、カキ、シラカシ、などを配し
   た広い庭のたたずまいは、多摩地域の養蚕農
   家の面影をいまに伝える貴重な文化遺産であ
   る。整形四間取の間取や材料・構造から見て
   十九世紀以降のもので、明治初期の建築と推
   定できる。養蚕農家として明治・大正・昭和
   と使われてきた「家・屋敷」が原型に近いか
   たちで今日に残されたのは、古い民家などに
   限りない価値を見出した、白州ご夫妻の独特
   なライフ・スタイルの賜(たまもの)であろ
   う。
    冠せられた「武相荘(ぶあいそう)」とい
   う愛称も、古い農家に具わる“静謐な美”に
   寄せるご夫妻の、慎み深い敬称と読みとれる。

05 17(水) 安宅関・勧進帳の話

去る15日は北部竜東神職総代連合部会総会が豊丘で行なわれた。講演には毛涯章平の話を聞くことになった。

話の中核は義経主従と富樫康家の勧進帳のやり取り場面での武士の思いやりを取り上げたもの。人の中核になっているもの、即ち…孔孟の説く恕がこの勧進帳にはあちこちにちりばめられているという。

昭和二十二年に教科書として編纂されたが、差し押さえられて陽の目を見なかったという。毛涯先生はノートに書きとめておき後になって子供たちに劇として勧進帳を上演させたという。歌ですすめている脚本だそうで、練習の指導をしているうちに覚えてしまったという。

この歌を流れにした脚本の存在如何はさがす由もないけれど、よく記憶していたものと感心した。

歌舞伎十八番 勧進帳

   http://www.st.rim.or.jp/~success/kanjincho_yositune.html

のHPに出ている。

言葉をよくよく噛みしめて考えてみるに、富樫と弁慶の話の中身には、人の持つべき心掛けが詳しく述べられており、天地自然のまことに照らしての道理をよくわきまえた話の中身、どれ一つ取り上げてみても、人として堅持すべき心が脈々として息づいている。

このことを毛涯先生はわかりやすく話されたのであった。

毛涯先生のノート以外にはないというのだが、ちょっと調べただけでは見つからなかった。書いた人があるのだからいつかをわかってほしいと思う。小松市へ質問を投げかけておいてみよう。

(’6/05/17 小松市へ問合せ郵送)
(’6/05/  小松市からの返信)


RE:弁慶物語についての質問  2006/05/18 10:31

メール有難うございます。小松市役所広報課です。
ご質問の経緯についてですが、申し訳ありませんが、色々な部署に問い合わせしましたが、分かりませんでした。
もう一つの、「子供歌舞伎」を分けてほしいというのは、中学生の勧進帳の上演のビデオが欲しいという解釈でよろしかったでしょうか。

RE:RE:RE:弁慶物語について  2006/05/22 11:45

早速、勧進帳の台本を郵送します。
この台本は毎年小松市で行なわれる全国子供歌舞伎フェスティバルで子供たちが上演する勧進帳の台本です。
小松市では中学生も持ち回りで勧進帳を毎年上演しているのですが、こちらも同じ内容です。


勧進帳の台本を送ってもらうことが出来ました。

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