03 25(土) 俊成居所復帰移転開始 |
03 27(月) 目に黄色、耳にはマーチ、口にお茶…集中力 |
@ 目に黄色 どんな「色」が集中力を高めるのか?
どんな「音楽」が集中力をアップするのかを徹底調査。 磯子中央・脳神経外科病院 土田隆 『音楽でいうテンポ116。このリズムというのは、脳波と共鳴してしまうんですね。そのためにα2波の出現が多くなって集中力が高まるというふうな考え方ができるんです。』 実は、マーチはテンポ116に近い曲が多く、行進曲のため、そのテンポはほぼ変わりません。このテンポを耳にすると脳波が共鳴しα2波がでやすくなるというのです。 ということで集中したい時、例えばこんな曲を聴いてみてください。まず「ボギー大佐」続いては「双頭の鷲の旗の下に」そして、「ワシントン・ポスト」の3曲。 受験勉強など集中したい時、BGMは「マーチ」がお勧めです。 B 口にお茶 どんな「飲み物」が一番集中できるのか調査。 関西福祉大学 東山明子 『お茶にはテアニンという集中力を高める旨味成分が豊富に含まれています。』 C そして叩顔 「顔を叩く」だけで集中力がアップし記録が伸びるのでしょうか? 実は、顔を叩く行為は、脳の三叉神経を直接刺激し。α2波を出易くさせてくれるのです。集中力を発揮したいここぞというときに有効です。 |
03 29(水) 辰巳会 |
04 04(火) 春がきた |
04 05(水) 余命を生きる |
04 07(金) ガリレオ・お釈迦さま |
デジタル大辞泉 ガリレイ【Galileo Galilei】<…ジャパンナレッジによる…> [(1564〜1642)]イタリアの物理学者・天文学者。振り子の等時性、落体の法則などを発見。自作の望遠鏡で天体を観測し、月の凹凸、木星の四個の衛星、太陽黒点などを発見してコペルニクスの地動説を支持し、教会から異端者として幽閉された。著「天文対話」「新科学対話」など |
日本大百科全書 コペルニクス【Nicolaus Copernicus】<…ジャパンナレッジによる…> [1473―1543] ポーランドの聖職者、天文学者。地動説の創設者。ポーランド名Mikoaj Kopernik。トルニの銅卸商の末子に生まれ、10歳で父を失い、兄姉とともに母方の伯父で聖職者のワッツェンローデLucas Waczenrodeに養われた。1491年、聖職を志してクラクフ大学に入学、学芸学科で哲学教授ブルゼウスキーAlbert Brudzewski(1445―97)の数学、天文学の講義を聴き、宇宙観について啓発され、開眼した。そこでは、当時のプトレマイオスの天動説理論と『アルフォンス星表』にまとめられた観測結果との間のずれが指摘された。当時、ユリウス暦を採用していた教会祭礼暦は実際の日付より約10日の遅れがあった。また天動説に基づいて計算された天文航法用の天体位置暦は精密を期しえなかった。前者は宗教上の権威に、後者は航海者の生命にかかわる問題であり、この社会的問題がコペルニクスの天文学への関心を強めさせたに違いない。 1496年、伯父の援助でルネサンスの本拠地、北イタリアへの遊学が実現し、コペルニクスはボローニャ大学に編入した。ここはヨーロッパ最古の大学であり、伯父の出身校でもあった。彼はギリシア語の学習から始めて、ギリシア哲学、ギリシア天文学へと進んだ。天文学教授ノバラDomenico Maria Novara(1454―1504)は、黄道傾斜を観測してプトレマイオスの宇宙体系に訂正が必要なことをみいだした篤学の人であった。コペルニクスは彼に師事して、97年にアルデバラン星の星食の観測を手伝った。この年、留学中のまま、母国の教団からワーミアの聖堂の評議員に任命され、さらに留学を引き続き認める許可も下りた。1500年にはローマの聖誕祭に兄とともに正式資格で参列し、約1年間滞在し、天文学の講演を行い、月食を観測した。 1501年コペルニクスはいったん帰国し、改めて留学延期の承認を得、ただちにイタリアに戻ってパドバ大学を訪ねた。ここで神学の研修に励んだのち、03年フェッラーラ大学に転じて神学の学位を得た。ふたたびパドバ大学に戻り医学を学び、06年にはその学位を受けるまでに上達した。 この大学遍歴の間にコペルニクス宇宙体系、いわゆる地動説の構想を固めたに違いないのであるが、その直接の動機となったといわれる古代ギリシアのアリスタルコスの手記にどこの大学で接したかは明らかでない。 コペルニクスはおよそ10年間のイタリア留学を終え、1506年ごろ帰国し、伯父の任地ハイスベルクに赴き、秘書兼侍医として管内監督に、出張旅行に同行するなどして仕えた。彼の評判を高めたのは医療の技であり、貧民への施療にも精魂を注ぎ人望を集めた。12年、伯父の他界とともに、フロムボルク(フラウエンブルク)の寺院に着任した。ここで昼間は聖職、医療、税務の任にあたり、夜間は寺院の望星台で、手製の測角器を専用して天体観測に励んだ。目ざすところは地動説の確認にあり、その技術は熟達の域には及ばず、観測精度は十分ではなかったが、天体位置の予測に関しては従来の天動説によるものよりは優れていることに自信をもった。14年、教皇庁の改暦審議会に召請されたが辞退した。その理由として、太陽年の1年の長さが未解決であることなどをあげているが、その実は、地動説がカトリックの教義に照らし異端であることをひそかに配慮したためと思われる。地動説を確信しながらも、これを著述し公刊することは大きな勇気を必要とした。 1516年、コペルニクスはエルムランド教区会計監査役兼アレンシュタイン寺院評議員に補されて転任したが、26年にふたたび元のフロムボルクに大管区長として帰任することができた。そして17年後にこの地で永眠したのであるが、その臨終の枕辺(まくらべ)に彼の終生の主著『天球の回転について』の第一刷が届いたという。 コペルニクスが地動説を執筆した期間は20〜30年間に及んだらしい。そしてそれが完稿に近い1530年ごろ、彼は『概要』をまとめた。この『概要』は理論的に書かれた太陽中心説の初めての概説書であり、小部数だけ自費出版され、活動的な天文学者・数学者・聖職者らに配布された。その一部は教皇クレメンス7世およびシェーンベルク僧正にも贈られ、僧正からは主著公刊の激励を受けた。 コペルニクスが主著出版の決意を固めた直接の動機は、ドイツの若い数学者レティクスの熱意による。『概要』に述べられた新説に感銘したレティクスは、1539年にコペルニクスに弟子入りし、およそ1年間教えを受けた。帰国にあたりその公刊を懇願し、説得に成功して、ニュルンベルクのグーテンベルク活版所での印刷を約して原稿を預かった。ところが帰国してまもなくライプツィヒ大学教授に就任することとなって、あとの世話を友人の神学者オシアンダーに依頼した。この世話人は後顧の憂いを避けるために独自の序文を付した。つまりこの著書を単なる便宜的計算書としたのである。もとより著者コペルニクスの本意ではなかったが、それかあらぬか直接の禁書扱いを免れることができた。 以上のように天文学で偉大な業績をあげたコペルニクスは、政治・経済面でも敏腕を振るった。1519年末から21年まで、オルスチン城がドイツ騎士団によって包囲された際、城内にとどまってこの城を守った。28年には『貨幣論』を著し、ここでグレシャムに先だって、貨幣の劣悪化が物価騰貴の原因になることを指摘するなど、貨幣改革にも努めるなどした。 [島村福太郎] |
目次 (目次には次の項目で解説があり) 1 生涯 1.1 誕生 1.2 出家 1.3 成道 1.4 教団 1.5 伝道の範囲 1.6 入滅 1.7 入滅後の釈迦の評価 2 釈迦の生涯を伝える文献 3 釈迦の生涯を描いた映画 4 釈迦の生涯を描いたマンガ 5 関連項目 6 参考文献 (更に) 仏教 基本教義 縁起、四諦、八正道、三法印、四法印、諸行無常、諸法無我 、涅槃寂静、一切皆苦 人物 釈迦、十大弟子、龍樹 如来・菩薩 仏の一覧 部派・宗派 原始仏教、上座部、大乗 地域別仏教 経典 聖地 八大聖地 ウィキポータル 仏教 (などの項目へジャンプできるように案内している) |