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折々の記 2006 @

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】03/09〜        【 02 】03/21〜
【 03 】03/25〜        【 04 】04/08〜
【 05 】04/09〜        【 06 】04/11〜
【 07 】04/28〜        【 08 】00/00〜


【 03 】03/25〜

  03 25 俊成居所復帰移転開始
  03 27 目に黄色、耳にはマーチ、口にお茶…集中力
  03 29 辰巳会
  04 04 春がきた
  04 05 余命を生きる
  04 07 ガリレオ・お釈迦さま

03 25(土) 俊成居所復帰移転開始

土曜日で休みになって前の住宅へ引越しを始めた。四月上旬までに完了する予定。天気がよかったのでお陰さまだ。けょうは戸棚と冷蔵庫、電子レンジなどの運搬が主である。

03 27(月) 目に黄色、耳にはマーチ、口にお茶…集中力

  http://www.ktv.co.jp/ARUARU/search2/aru40/40_3.html<「集中力アップ術」>

その要点は次のようだ。


@ 目に黄色
  どんな「色」が集中力を高めるのか?
青は網膜よりも手前で焦点を合わせ赤は網膜よりも奥て結ぶ。それに対し黄色は網膜の位置で像を作るので、距離感がつかみ易いのです。つまりそれだけ早く、見ている物に集中できるというわけ。

5人の人に「赤、青、黄、白、黒」の色紙を見てもらい、「α2波」の出方を調べたところ、やはり「黄色」が一番多く出ていたのです。
A 耳にマーチ
  どんな「音楽」が集中力をアップするのかを徹底調査。

磯子中央・脳神経外科病院 土田隆
『音楽でいうテンポ116。このリズムというのは、脳波と共鳴してしまうんですね。そのためにα2波の出現が多くなって集中力が高まるというふうな考え方ができるんです。』

実は、マーチはテンポ116に近い曲が多く、行進曲のため、そのテンポはほぼ変わりません。このテンポを耳にすると脳波が共鳴しα2波がでやすくなるというのです。

ということで集中したい時、例えばこんな曲を聴いてみてください。まず「ボギー大佐」続いては「双頭の鷲の旗の下に」そして、「ワシントン・ポスト」の3曲。

受験勉強など集中したい時、BGMは「マーチ」がお勧めです。

B 口にお茶
  どんな「飲み物」が一番集中できるのか調査。

関西福祉大学 東山明子
『お茶にはテアニンという集中力を高める旨味成分が豊富に含まれています。』

C そして叩顔
  「顔を叩く」だけで集中力がアップし記録が伸びるのでしょうか?

実は、顔を叩く行為は、脳の三叉神経を直接刺激し。α2波を出易くさせてくれるのです。集中力を発揮したいここぞというときに有効です。


へェー、うっそう! ホントゥー?

@ 目に黄色
  ページを開いて詳しい説明を目にしたとき、ウゥーン、なるほど!
  月見草が好きだと通してきたのは自然のなりゆきだった。
  意図的に黄色をみなおしたい。
A 耳にマーチ
  これは初めてだ。まとめておこう。
B 口にお茶
C そして叩顔

そこで、これからマーチの良さそうなものを集めてBGMを流すようにする。

「CD東芝盤」が見つかったので、これを購入する。内容は次の通り。

  集中力を高めるマーチ【東芝盤】 ◎CD1枚全19曲
   01. 旧友
   02. ラデッキー行進曲
   03. ワシントン・ポスト
   04. ボギー大佐
   05. 星粂旗よ永遠なれ
   06. 軍艦行進曲
   07. アメリカン・パトロール
   08. 双頭の鷲の下に
   09. 錨を上げて
   10. 海を越える握手
   11. エル・キャピタン
   12. 士官候補生
   13. ロレーヌ行進曲
   14. シカゴ・トリビューン
   15. シン・レッド・ライン
   16. イタリア軍の帰営
   17. 海の歌
   18. 栄光
   19. 美中の美

03 29(水) 辰巳会

今年の辰巳会は昨日今日で無事おえた。
  当番は飯田地区
  場所は三宜亭
  会費15000円 1000円返却

 三宜亭の命名   大平小洲
 命名に係る和歌  月雪の眺めのみかは 咲く花も
               幾代の春に 匂ふ宿かな  作者、上柳外川

林 勇美  奥山照一 丸山佳彦  下平好上 原 隆司  知久健四郎
木林 精  湯沢澄夫
丸山あち子 三村 花 宮島チトシ 奥村ひろ 武藤やすゑ 以上13名

奥村ひろさんの朗吟はやはり素敵なものであった。

●MRI検査  前立腺肥大にかかわる検査

午後2:20、市立病院にて受診。予想外の音であった。

04 04(火) 春がきた

やっと春めいてきた。

今年、こんに春が待ち遠しかったと感じたのは、年寄りになったんだなという思いが頭の中をかけめぐったからである。

春は曙、目が覚めたときの感覚が春がきたことを感ずるのである。温度感覚である。目に映ずるものすべて、山際も土手の草からもそれを感ずる。

年寄りにならずとも感じなければならなかったのに! 表現に感覚を凝らしている文章作家は、身の回りのことを煎じつめて文字表現の方法をとる。

清少納言の筆になる「枕草子」の冒頭

 春は曙。
 やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

 夏は、夜。
 月の頃は、さらなり。
 闇もなほ。螢飛びちがひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨などの降るさへをかし。

 秋は、夕暮。
 夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ、二つなど飛びいそぐさへ、あはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いとちひさくみゆる、いとをかし。日入りはてて、風の音、蟲のねなど、はたいふべきにあらず。

 冬はつとめて。
 雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。晝になりて、ぬるくゆるびもてゆけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。

杜甫の「春望」

 国破山河在、城春草木深。

 感時花濺涙、恨別鳥驚心。

 烽火連三月、家書抵万金。

 白頭掻更短、渾欲不勝簪。

清少納言の“春は曙。やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。”も、

杜甫の“国破山河在、城春草木深”も、

季節の感覚も、天地無常の感覚も、だんだん薄れていく。

04 05(水) 余命を生きる

余生という言葉と、余命という言葉を並べてみたとき、同義語だと思うのだが、語感覚は全く違ってくる。私たちはそれをちゃんと使い分けている。

‘余生を楽しんでください’と言うが‘余命を楽しんでください’とは決して言わないし、‘余命いくばくもなし’とは言うが‘余生いくばくもなし’とは決して言わない。

“命”という言葉は生そのものの実体である生死の“死”に直結した語感なのに、“生”という言葉は生涯の“生”に直結した語感なのである。

余命とは死にいたる時間の短いことを意味している表現で、普通のつかい方では病床にふしている人や手術後の人などの死にいたるまでの命をさしている。

誰も死にいたるのが常道であるとすれば、死を迎えるまでの命を余命といっても一向に構わないはずである。

武士道とは死ぬことと見つけたり」という。免許皆伝はいつ死んでも恥ずかしくない日常生活をしているものでない限り交付されないという。死期がいつ訪れようと従容としてそれを受け止めれる心構えができていなくてはならない。

“余命を生きる”………半年後までの人生だとすれば、“余命(六ヶ月)をどう生きる”ということとなる。

これほど切実に生きざまに直面させられる表現はない。

老いたものにとって、素直に受け入れ、対処しなくてはならない課題である。

04 07(金) ガリレオ・お釈迦さま

けさ早く目が醒め外へ出てみると、北斗七星が西の空に輝いていた。この星座を見るのはしばらく振りのことで、あらためて天空の運行にハッとする。

下条村に勤務していたときに面白い生徒がいて、なにやかやいろいろ先生が注意したあとに、その子は「それでも地球は動く」というのだと言う。

自分がどうあろうと、他人がどうあろうと、「それでも地球は動く」と言うのだそうである。マクロの考え方は人にとって必要なことなんだと思わざるを得なかった。 ガリレオが事実をつかんだ信念の言葉である。

そこでガリレオ・ガリレイを調べてみる。

デジタル大辞泉 ガリレイ【Galileo Galilei】<…ジャパンナレッジによる…>

[(1564〜1642)]イタリアの物理学者・天文学者。振り子の等時性、落体の法則などを発見。自作の望遠鏡で天体を観測し、月の凹凸、木星の四個の衛星、太陽黒点などを発見してコペルニクスの地動説を支持し、教会から異端者として幽閉された。著「天文対話」「新科学対話」など



『ウィキペディア(Wikipedia)』 ガリレオ・ガリレイ<…Web検索による…>

ここに紹介されているガリレオはとても詳しい。彼が宗教裁判で言った言葉「それでも地球は動く」という言葉も紹介されている。

内容は、<業績><生涯><ガリレオ裁判><主著書><参考図書>に分かれており、改めて偉人伝として一読し、到底真似ができないことを知る。彼の業績は三歳までの0歳教育の賜と考えざるを得ない。

続いてコペルニクスを調べてみると次の通りである。

日本大百科全書 コペルニクス【Nicolaus Copernicus】<…ジャパンナレッジによる…>

[1473―1543] ポーランドの聖職者、天文学者。地動説の創設者。ポーランド名Mikoaj Kopernik。トルニの銅卸商の末子に生まれ、10歳で父を失い、兄姉とともに母方の伯父で聖職者のワッツェンローデLucas Waczenrodeに養われた。1491年、聖職を志してクラクフ大学に入学、学芸学科で哲学教授ブルゼウスキーAlbert Brudzewski(1445―97)の数学、天文学の講義を聴き、宇宙観について啓発され、開眼した。そこでは、当時のプトレマイオスの天動説理論と『アルフォンス星表』にまとめられた観測結果との間のずれが指摘された。当時、ユリウス暦を採用していた教会祭礼暦は実際の日付より約10日の遅れがあった。また天動説に基づいて計算された天文航法用の天体位置暦は精密を期しえなかった。前者は宗教上の権威に、後者は航海者の生命にかかわる問題であり、この社会的問題がコペルニクスの天文学への関心を強めさせたに違いない。
 1496年、伯父の援助でルネサンスの本拠地、北イタリアへの遊学が実現し、コペルニクスはボローニャ大学に編入した。ここはヨーロッパ最古の大学であり、伯父の出身校でもあった。彼はギリシア語の学習から始めて、ギリシア哲学、ギリシア天文学へと進んだ。天文学教授ノバラDomenico Maria Novara(1454―1504)は、黄道傾斜を観測してプトレマイオスの宇宙体系に訂正が必要なことをみいだした篤学の人であった。コペルニクスは彼に師事して、97年にアルデバラン星の星食の観測を手伝った。この年、留学中のまま、母国の教団からワーミアの聖堂の評議員に任命され、さらに留学を引き続き認める許可も下りた。1500年にはローマの聖誕祭に兄とともに正式資格で参列し、約1年間滞在し、天文学の講演を行い、月食を観測した。
 1501年コペルニクスはいったん帰国し、改めて留学延期の承認を得、ただちにイタリアに戻ってパドバ大学を訪ねた。ここで神学の研修に励んだのち、03年フェッラーラ大学に転じて神学の学位を得た。ふたたびパドバ大学に戻り医学を学び、06年にはその学位を受けるまでに上達した。
 この大学遍歴の間にコペルニクス宇宙体系、いわゆる地動説の構想を固めたに違いないのであるが、その直接の動機となったといわれる古代ギリシアのアリスタルコスの手記にどこの大学で接したかは明らかでない。
 コペルニクスはおよそ10年間のイタリア留学を終え、1506年ごろ帰国し、伯父の任地ハイスベルクに赴き、秘書兼侍医として管内監督に、出張旅行に同行するなどして仕えた。彼の評判を高めたのは医療の技であり、貧民への施療にも精魂を注ぎ人望を集めた。12年、伯父の他界とともに、フロムボルク(フラウエンブルク)の寺院に着任した。ここで昼間は聖職、医療、税務の任にあたり、夜間は寺院の望星台で、手製の測角器を専用して天体観測に励んだ。目ざすところは地動説の確認にあり、その技術は熟達の域には及ばず、観測精度は十分ではなかったが、天体位置の予測に関しては従来の天動説によるものよりは優れていることに自信をもった。14年、教皇庁の改暦審議会に召請されたが辞退した。その理由として、太陽年の1年の長さが未解決であることなどをあげているが、その実は、地動説がカトリックの教義に照らし異端であることをひそかに配慮したためと思われる。地動説を確信しながらも、これを著述し公刊することは大きな勇気を必要とした。
 1516年、コペルニクスはエルムランド教区会計監査役兼アレンシュタイン寺院評議員に補されて転任したが、26年にふたたび元のフロムボルクに大管区長として帰任することができた。そして17年後にこの地で永眠したのであるが、その臨終の枕辺(まくらべ)に彼の終生の主著『天球の回転について』の第一刷が届いたという。
 コペルニクスが地動説を執筆した期間は20〜30年間に及んだらしい。そしてそれが完稿に近い1530年ごろ、彼は『概要』をまとめた。この『概要』は理論的に書かれた太陽中心説の初めての概説書であり、小部数だけ自費出版され、活動的な天文学者・数学者・聖職者らに配布された。その一部は教皇クレメンス7世およびシェーンベルク僧正にも贈られ、僧正からは主著公刊の激励を受けた。
 コペルニクスが主著出版の決意を固めた直接の動機は、ドイツの若い数学者レティクスの熱意による。『概要』に述べられた新説に感銘したレティクスは、1539年にコペルニクスに弟子入りし、およそ1年間教えを受けた。帰国にあたりその公刊を懇願し、説得に成功して、ニュルンベルクのグーテンベルク活版所での印刷を約して原稿を預かった。ところが帰国してまもなくライプツィヒ大学教授に就任することとなって、あとの世話を友人の神学者オシアンダーに依頼した。この世話人は後顧の憂いを避けるために独自の序文を付した。つまりこの著書を単なる便宜的計算書としたのである。もとより著者コペルニクスの本意ではなかったが、それかあらぬか直接の禁書扱いを免れることができた。
 以上のように天文学で偉大な業績をあげたコペルニクスは、政治・経済面でも敏腕を振るった。1519年末から21年まで、オルスチン城がドイツ騎士団によって包囲された際、城内にとどまってこの城を守った。28年には『貨幣論』を著し、ここでグレシャムに先だって、貨幣の劣悪化が物価騰貴の原因になることを指摘するなど、貨幣改革にも努めるなどした。
[島村福太郎]



『ウィキペディア(Wikipedia)』 ニコラウス・コペルニクス<…Web検索による…>

参考までに『ウィキペディア(Wikipedia)』を調べてみた。


●明日はお釈迦様の誕生日

子供の頃4月8日は学校から早く帰ってきて伊久間の法運寺へ行って「あまちゃ」をビンに詰めてもらって飲んだものだった。それが楽しみであった。

小さいお釈迦様の像があって、それに甘茶を竹のひしゃくでかけてぺコンと頭を下げ、お坊様<田中豊春先生>から「あまちゃ」を頂いたものでした。

あの像は「天上天下唯我独尊」の銅で出来ていた像なのか、20センチ足らずの可愛らしいものでした。

子供の心には、そんな「あまちゃ」が嬉しかったのでしょう。今でも鮮明に浮かんでくるのです。

釈迦については大きくなってからいろいろの本を読んで、お釈迦さまの考え方を学ぶことになった。

イスラムについていろいろと本を読んでみたが、中近東を始めとするイスラム教信者の人間理解の原理が理解できないでいる。やっぱり小さい時からの環境によるものなのかと思うが、どうも判らない。

『ウィキペディア(Wikipedia)』 釈迦<…Web検索による…>を開いてみると、

目次 (目次には次の項目で解説があり)

1 生涯
1.1 誕生
1.2 出家
1.3 成道
1.4 教団
1.5 伝道の範囲
1.6 入滅
1.7 入滅後の釈迦の評価
2 釈迦の生涯を伝える文献
3 釈迦の生涯を描いた映画
4 釈迦の生涯を描いたマンガ
5 関連項目
6 参考文献

(更に)

仏教
基本教義
  縁起、四諦、八正道、三法印、四法印、諸行無常、諸法無我 、涅槃寂静、一切皆苦
人物
  釈迦、十大弟子、龍樹
如来・菩薩
  仏の一覧
部派・宗派
  原始仏教、上座部、大乗
地域別仏教
経典
聖地
  八大聖地
ウィキポータル 仏教
(などの項目へジャンプできるように案内している)


Webで検索していると『ウィキペディア(Wikipedia)』の解説が辞書類で調べてみるよりも詳しく出ている。平凡社の「世界大百科事典」が詳しいのだが、CDのため誰でも検索するというわけにはいかない。

春日光洋の誕生日である。



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