03 22(水) 野球世界一 PSEマーク4月実施は凍結せよ |
野球世界一 がけっぷちからの栄冠 紙吹雪の下で、日本が初代「野球世界一」のトロフィーを手にした。 16カ国・地域で争った「ワールド・ベースボール・クラシック」は予想以上に面白かった。2次リーグでの敗退目前から頂点まで駆け上がった日本が、波乱続きの大会を象徴していた。初の試みとしては成功といっていいだろう。 3月は、本来ならシーズンに向けて調整を重ねる時期にあたる。仕上がりは万全ではなかったろうが、選手たちは気迫にあふれたプレーで大会を盛り上げた。 場外へ飛び出す特大の本塁打や、塀に激突しながらのジャンピング捕球など、大リーガーが初めて本格参加した国際大会の名に恥じないレベルの高さだった。 イチロー選手が引っ張り、途中から開き直ったかのようにまとまり始めた日本のたくましさには感心した。野球ファンにとっては、大リーガーも交えての大会での世界一はまさに「夢がかなった」思いだろう。 準優勝したキューバはさすがだ。韓国の強さに驚いたファンも多かったろう。ドミニカ共和国やベネズエラのパワーにもうならされた。今や大リーグの球宴の4割は米国以外の選手だ。彼らの活躍は当然なのかもしれない。 半面、米国の不振が際立った。本家意識が油断を招いたようだが、首脳陣の及び腰も目についた。球団の発言力が強いから、野手になるべく均等に出場機会を与え、投手の登板順も厳守だ。 松井秀喜選手のように出場を見送った大リーガーも少なくなかった。けがの心配もあったのだろうが、開催時期を夏か秋に移して出やすくすべきだろう。 感心したのは球場の観客席だ。試合ごとに応援する言葉と国旗が入れ替わり、それぞれの国の香りを運んでくれた。 興味深いのはナショナリズムが燃えつつも、ぎりぎりのところで包み込まれていたように見えたことだ。それぞれ母国では応援の過熱ぶりも報じられたが、球場は少し違った。 巨大スクリーンが両チームの応援風景を交互に映す。そこへ笑いや音楽が仕掛けられる。大リーグと同じ演出だが、感情のとげはさりげなく丸められていく。 ナショナリズムを超えて野球に敬意を払うべきだという意識が、グラウンド内外で共有されているのを感じた。 内野の塀は低く、金網はない。ここで見る者は試合への一体感と集中力、理解力を求められる。そうやって野球を育ててきた誇りが米国の球場にはある。 残念なこともあった。 米国戦で日本のタッチアップによる得点が取り消されたのを含め、誤審としか思えない判定が続出した。大リーグの審判との交渉が失敗し、マイナーリーグの審判が担当したのが原因だ。各国の審判を加える案も検討すべきだろう。懸念されたドーピング検査でも違反者が出た。 浮き彫りになった課題こそが、3年後の次回大会を充実させるバネになる。 PSEマーク 4月実施は凍結せよ 「PSEマーク」をご存じだろうか。4月から、これが付いているかどうかで、電気製品の取り扱いが大きく違ってくる。しかし、周知が不十分だったことから、中古品市場などで混乱が起きている。 PSEマークは、漏電などの検査を通った製品にだけ許される「安全性保証」のお墨付きだ。マークがない製品は順次販売禁止にされる。違反には、1年以下の懲役などの罰則まである。 01年4月に施行された電気用品安全法の改正で決まったが、国会ではほとんど審議されないままだった。 新製品は施行と合わせてマークの取得が義務づけられたが、中古品については、販売が禁じられるまで5〜10年の猶予期間が設けられた。この3月末には冷蔵庫などの白物家電を含む259品目が期間切れを迎える。 しかし、中古品の取り扱いは法律の条文では触れられず、これも対象になると経済産業省がホームページで明示したのはこの2月に入ってからだ。 リサイクルと安全の根幹にある制度なのに、「そんな話は聞いていなかった」という業者や消費者が多い。「法律なのだから、従って当然」という官のおごりがあったのではないか。 ここにきて、猶予期間の延長を求める声が中古製品の売買などを取り扱う業者たちの間から急速に広がった。 音楽家たちも反対に立ち上がった。中古楽器には「ビンテージ」と呼ばれるアンプやシンセサイザーなどがあるが、年代物なので高電圧をかける漏電試験が難しく、このままでは取引できなくなる。 「音楽文化発展を阻害させないよう願う」。坂本龍一さんらが呼びかけた反対署名には7万人余が賛同した。 こうした反発の高まりを前にして、経産省は14日に緊急対策を発表した。マークの前提になる検査について、半年間は無料で代行するサービスをするほか、検査機器も貸し出す。またビンテージ楽器は例外扱いにするという。 これで予定通り4月から規制に入る構えだが、何とも泥縄だ。ビンテージ機器のような一部の愛好者向けのものよりも、一般の中古家電にこそ配慮をという中古業者の主張には説得力がある。 私たちも、このまま強行することには問題が大きいと考える。家電製品の事故報告は04年度で千件を超え、漏電事故の防止などの安全確保は欠かせない。だが、これほど多くの人が納得しないままでは制度の定着は望めないだろう。 中古家電は1千億円を超える市場に育っている。マークがないことを理由にその取引が止まれば、大量の中古家電がゴミになる恐れもある。 半年間は検査の代行までしようというのなら、その間はいっそのこと実施を凍結してはどうか。半年のうちに中古家電全体の安全対策を練り直すとともに、業者はもちろんのこと一般消費者への周知にも全力を挙げるべきだ。 |
“日本のシンボル”イチローにSo long! 優勝という形で終わった“野球人生最高の日” 勝った瞬間、イチローは二度、三度、右手でガッツポーズを取った。小走りで、内野にできた歓喜の輪に加わる。念願だった王貞治監督の胴上げにも加わると、相好を崩した。 「数字を残しただけの人ではない。こんな人は見たことがない」 そんな監督の重み、イチローはどう感じていただろうか。 その後、キューバの選手と握手。彼らからは記念撮影を求められる程の人気。またイチローはダッグアウトで、スタンドから沸き上がる「イ・チ・ロー」コールの指揮を取るほど上機嫌だった。 セレモニーが終わって、場所をクラブハウスに移す。 105本のシャンパンが並べられたテーブルの横に立った王監督の、 「諸君は、素晴らしい。今日は、とことんやるぞ!」 で、シャンパンファイトがスタート。 直後、真ん中で集中砲火を浴びたのはイチロー。 「お前ら、先輩を敬えよ!」 と絶叫したが、その声、上原浩治らのコールにかき消されてしまう。 自然発生的に、「イチロー」コールが起こっていた。 「本当にふざけた野郎どもだ」 ただ、そう言いつつも、イチローは目を細めていた。 「野球をやって、強くなれたのがうれしい。本当にものすごいプレッシャーでした。でもこんな形で終わるとは思わなかった。野球人生最高の日です」 そのプレッシャーを背負ったイチローを支えたのが、チームメート。彼は、その仲間をたたえることも忘れなかった。 「最初、アメリカに渡って、みんなの動きが変わった。これはちょっとまずいなぁと思ったけど、最大の屈辱があって……。でも素晴らしい仲間と野球ができたことが本当にうれしい。素晴らしいチームでした、キューバも。でも、僕らも、どの世界でもやれるということを、このチームメートたちに盛り上げてもらった。グラウンドでのモチベーション、パッションがすごい。このチームで、メジャーでやりたいぐらいです。それぐらいすごいチームです」 野球人としていい勉強をさせてもらった その後、記者会見場に姿を見せたイチローは、シャンパンの匂いをプンプンさせながら、壇上へ。帽子を逆さにかぶったまま、松坂大輔と並んだ。 イチローは、この大会を総括して言う。 「オリンピックと違って、このWBCが本当の世界一を決める大会だし、僕は、だからこそ参加したわけですけど、まあ結果として、チャンピオンになった。これは、僕の野球人生にとって、最も大きな一日と言っていいと思います。ただ、優勝した瞬間というのは、1カ月ということでしたけど、素晴らしい仲間とプレーできて、素晴らしいチームになって、このチームと今日で別れなくてはいけない寂しさ、喜びと同時に沸いてきました」 あしたからは、マリナーズに合流。この数年、チームとして感じられなかった喜びを複雑にかみ締めていたのかもしれない。 大会を通して、チームを引っ張ったイチローの背中。松坂は常に見つめていた。 「この日本代表のシンボルのような人だった。当然、言葉でみんなを奮い立たせるようなこともありましたけど、ほとんどは背中でチームを引っ張っていたと思うし、あれが本当に、『背中で引っ張るということなんだなぁ』と目の前で見せてもらいました。刺激を受けたのは、僕だけじゃない。みんながイチローさんの背中を見て、刺激を受けた。野球人として、いい勉強をさせてもらいました」 22日、イチローと大塚だけがアメリカに残り、ほかの選手は日本へと旅立つ。 イチローは寂しげな笑みを浮かべた。 「日本のプロ野球の結果が、気になるかもしれないね。これだけ仲間ができると」 3年後を問われれば、力強く言っている。 「そういう選手でいなきゃいけない。声が掛かる選手でありたい」 So long! |
03 24(金) 杜甫と「春望」:「国家の品格」 |
杜甫(712-770)が活躍した頃、中国は唐の玄宗皇帝と楊貴妃の時代。宮廷では詩や芸能がもてはやされ、詩人の祖父を持つ杜甫も若くから読書と詩作に励んだとされています。 その後、官職への登竜門である進士の試験に落ちた杜甫は、失意のまま放浪の旅へ。その先で、のちの大詩人・李白と知り合ったことが大きな発奮となりました。 やがて宮廷で自作の詩が認められるようになった頃、杜甫は既に四十歳過ぎ。ようやく官位を得て、朝廷に出仕できるようになりました。 ところが755年、安禄山の乱が勃発。侵攻をうけた玄宗皇帝は皇位を息子の粛宗に譲り、長安の都を捨てて敗走します。このとき杜甫は新皇帝のもとに駆けつけようとし、敵陣に捕縛。 囚われの身となった杜甫は、戦乱が続く厳しい冬がほっと緩むように春めいてきたある日、許しを得て近くの丘へ出向きました。 そこで杜甫が目にしたのは、戦いに破損した都の悲惨さと、いきいきとした春の緑に輝く山河のあまりにも対照的な眺めであった。 後世に残る名漢詩文はこうして創り出されました。現世の哀惜と人の情けの機微をうたった詩聖、杜甫の代表作「春望」。遠く大らかな風にも似た郷愁が、胸にしんしんと響きます。 |