04 11(火) 白州次郎 |
旧白洲邸 武相荘 -白洲次郎- 兵庫生まれ。若くしてイギリスに留学、ケンブリッジに学ぶ。 第二次世界大戦にあたって は、参戦当初より日本の敗戦を見抜き鶴川に移住、農業に従事する。戦後、吉田茂首相に 請われてGHQとの折衝にあたるが、GHQ側の印象は「従順ならざる唯一の日本人」。 ... 旧白洲邸 武相荘 -白洲次郎- そんな次郎を夫人・正子は「直情一徹の士(さむらい)」「乱世に生き甲斐を感じる ような野人」と評しています。 ... 次郎は明治三十五年、兵庫県芦屋に生まれました。 大正八年、中学を卒(お)えた次郎はイギリスに渡り、ケンブリッジ大学クレア・ ... Amazon.co.jp:風の男 白洲次郎新潮文庫:本 白州次郎という名前を知ったのはこのタイトルどおり、11年前に日本テレビでやった「 世界超偉人100万人伝説」でビート ... それを白州次郎は 爽やかに口笛を吹きつつ 行った。そう本書は描き出している。 勿論 本当にここまで格好よかったのだろうか ... Amazon.co.jp:白洲次郎 占領を背負った男: 本 吉田茂の講和条約の受諾演説で占領は終わるが、この演説に白州次郎の意思が強く反映 されていることを初めて知った。 白州次郎は我々凡人から見ると嫉妬心もわいてくるよう な人物である。しかし、白州次郎のような「プリンシプル」をもち、いざとなれば「 ... 白洲次郎ー育ちのいい生粋の野蛮人/白洲三百人力 僕が見た白洲次郎を取り上げたテレビ番組は、1つだけである。何かのバラエティー番組 で、「ジーンズの似合う日本人ランキング」を ... 幼なじみの作家今日出海に、「育ち のいい生粋の野蛮人」と評された白洲次郎は、「葬式無用、戒名不要」の言葉を ... 理想の男性像ー白州次郎 日本政府がGHQに振り回される中、白州次郎はケンブリッジ仕込みの英語でGHQと渡り合った。 ... その中で唯一白州次郎は、「戦争に負けたけれども奴隷になったわけではない」と 言って毅然とした態度を貫き通した。 白州次郎は、免職になることなく職務を ... 理想の男性像ージャックマイヨール・白州次郎 同性にだから熱く語りたい! 男性諸氏に送る院長トーク集 アクセス有難うございます。 当ページは、 www.possenssia.com/mens/talk.htm に移転しました。 3秒後に自動的に ジャンプします。ジャンプしない場合は、お手数ですが、上記リンクをクリックして ... 白洲次郎 - Wikipedia 白州次郎 から転送). 移動: ナビゲーション, 検索. 白洲次郎(しらす じろう 明治35 年(1902年)2月17日〜昭和60年(1985年)11月18 ... ここから、白洲次郎の連合国軍 最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を向こうに回した戦いの火ぶたが切って落とされる。 ... 歴史人物講座 偉人の肖像 西郷隆盛 ペリー対佐久間象山 大山捨松 大山 ... 白州次郎は、昭和60年に83歳で没しているが、比較的最近の人である。こんな凄い 日本人がいたことを、私が知ったのは、今年 ... 日本人が歴史上最も自信を喪失し、卑屈 になっていた時期、支配者に対し、日本人の気概を示した人物が白州次郎だった。 ... 白洲次郎 - 関心空間 人名・団体名 白洲次郎 (やむ) 真の骨董の目利きである白州正子のダンナにして、吉田 茂の懐刀。現日本国憲法の草案に深く関わった男。 本物のダンディとはこの人をいう! という感じで、私の究極の理想はこの方かもしれません。 ここでは語り… ... |
●その時:昭和24(1949)年5月25日 ●出来事:白洲次郎が通商産業省を創設する 日本で最初にジーンズをはいたといわれる抜群のファッションセンスを備えた異色の男、白洲次郎。白洲は、戦後GHQ占領下にあって日本の自立の道を探り、ひとり悪戦苦闘を続けた。英国留学を経て実業家として活躍した白洲は、戦争継続に反対していた外交官・吉田茂の知遇を得る。そして戦後、吉田が外相ついで首相に就任すると、並はずれた交渉力を吉田から見込まれてGHQとの折衝を任された。白洲は、日本の国情を無視して政治介入するGHQと、それを従順に受け入れる政府に反発。日本の尊厳を守った「自立」に自らを捧げる決意を固めた。しかし、憲法の改正では、GHQが提示した憲法案を飲まされることになる。徹夜の翻訳作業にも立ち会った白洲は、政治とは別の道で日本の自立を模索しはじめた。それは、経済の自立だった。 当時、日本はGHQに指導された統制経済下にあり、貿易も国家管理におかれていた。日本の復興には、自由経済に立脚した輸出振興が必要であると考えた白洲は、昭和24年5月、貿易立国を牽引した通商産業省を立ち上げる。宮澤喜一元首相をはじめ占領期の白洲を知る人々の証言をもとに、貿易立国という戦後日本の自立の道筋をつけた白洲次郎の闘いを描く。 ●番組の内容について ○白洲次郎と白洲正子について 昭和4年に二人は結婚した。白洲正子は、旧姓樺山。骨董や美術の優れた随筆で知られる。 二人のことを、より知りたい方は、旧白洲邸・武相荘(ぶあいそう)のホームページを参照のこと。 ○憲法改正過程について 今回は、さまざまな要素を含む憲法改正の過程を、おもに「白洲手記」と白洲が後年に残した回想(「占領秘話を知り過ぎた男の回想」など)に基づきながら描いた。つまり主人公が残した史料を軸に、適宜、専門文献で補うかたちで番組を構成している。 日本国憲法制定はGHQ主導の所産であるというのが白洲のスタンスである。しかし、番組の中でも強調したが、白洲次郎はなによりもまず平和を希求した人物であり、また、新憲法の「プリンシプル」(戦争放棄など)は大変立派であると述べている。 あくまで制定過程で日本人が主導権が握れなかったことを悔やんでいた。 ○通産省創設と吉田茂について たしかに白洲の背後には常に吉田茂がいた。貿易庁、商工省の解体と通産省の創設は、その意味では「吉田−白洲」ラインによる成果というのが正しい(通産省の正史「通商産業政策史」)。ただし実働部隊として動いたのは、白洲とその腹心である永山時雄であったことは、永山氏自身の証言(一般に入手できる出版物はない)から確証されている。今回の通産省創設は、この永山証言を軸に白洲主導の出来事として描いた。 ○吉田の講和受諾演説原稿を英語から日本語に変えたことについて 文献によっては、アメリカのアチソン国務長官やシーボルト駐日大使によって英語から日本語に変えられたとするものもある。当番組では、白洲自身の回想(「占領秘話を知り過ぎた男の回想」、「講和条約への道」など)や同行した宮澤元総理の証言、その他一部の学者の説にもとづいて、白洲が日本語に変えたものとして描いた。 ○インタビュー出演した宮澤喜一さん 元内閣総理大臣。白洲次郎とは、大蔵大臣秘書官時代の1950年に一緒に渡米して以来、晩年に至るまで親交があった。 ●番組で引用した言葉 ○「我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない」 白洲次郎「占領秘話を知り過ぎた男の回想」、「講和条約への道」、など各書で白洲本人が述べている。 ○白洲が、憲法の日本案を主導していた松本烝治に述べた忠告 (白洲)「GHQの考えている内容は、先生が考えているほど生易しいものではありません。少なくとも天皇の大権については大幅に制限を設けないといけません。」 (松本)「私にはできない。そんなことをすれば、私は殺される。」 白洲次郎「占領秘話を知り過ぎた男の回想」より引用 ○ホイットニーがGHQ憲法草案を見せた時に白洲たちに述べた言葉 「あなたがたがの憲法改正案は、自由と民主主義の観点からとても容認できない。ここに我々が持参した憲法案こそ、日本人が求めているものである」 ラウエル文書「1946年2月13日 最高司令官に代わり外務大臣吉田茂氏に新しい日本国憲法草案を手交した際の出来事の記録」より ○ホイットニーがGHQ憲法草案を見せた時に白洲たちに述べた言葉 「本案は天皇を護る唯一の方法である」 「白洲手記」(外務省所蔵)より引用 ○GHQ憲法草案を見せられた時の白洲たちの様子 「白洲氏は、何か異物にでも腰を下ろしたかのように思わず姿勢を硬くした」 コートニー・ホイットニー著「日本におけるマッカーサー」、ジョン・ダワー著「吉田 茂とその時代」より引用 ○GHQ案に基づいた日本国憲法原案を飲んだ時の白洲の言葉 「今に見ていろという気持ち抑えきれず。ひそかに涙す」 「白洲手記」より引用 ○経済再建に賭ける白洲の決意の言葉 「我々の時代に、戦争をして元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う」 白洲次郎「頬冠をやめろ−占領ボケから立直れ」より引用 ○統制経済を批判する吉田茂の言葉 「彼らが描いた青写真を日本で実験してみようという、野望に満ちたものであるが、敗戦後の人心では権力的な統制は中々難しい」 吉田茂「回想十年」より引用 ○番組の最後に紹介した白洲晩年の言葉 「私は、「戦後」というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて「戦後」は終わったと自己満足してもよかろう」 白洲次郎「プリンシプルのない日本」より引用 ●番組中に登場した資料について ○GHQ本部 現在、第一生命保険相互会社本社ビル。 マッカーサー執務室と貴賓室は、当時の面影そのままに残している。非公開。 ○辰巳栄一氏の証言テープ 青柳恵介氏所蔵のカセットテープを使用した。およそ20年前に収録されたもの。 ○第一神戸中学校時代の白洲写真 兵庫県立神戸高等学校(通称・旧制神戸一中)の卒業アルバムより撮影 ○松本烝治「憲法改正私案」 国立国会図書館 所蔵 ○GHQ憲法草案 国立国会図書館 所蔵 ○イラスト入りの白洲のホイットニー宛手紙(通称:ジープウェーレター) 外務省総務課所蔵 ○「白洲手記」(2月13日以降の憲法改正交渉を白洲が口述筆記させたもの) 外務省総務課所蔵 ○「吉田全権演説草稿」 外務省外交史料館 所蔵 ○白洲次郎の遺言書「葬式無用、戒名不用」 旧白州邸・武相荘 所蔵 ●参考文献 ○「白洲次郎 占領を背負った男」(講談社) ○「風の男 白洲次郎」(新潮文庫) ○「プリンシプルのない日本」(メディア総合研究所) ○「文藝別冊 白洲次郎」(河出書房新社) ○「白洲次郎」(平凡社コロナ・ブックス) ○「白洲次郎の流儀」(新潮社とんぼの本) ○「サライ 2004年新緑特大号」(小学館) ○「骨太な男 永山時雄」(東京法令) ○「日本の歴史24 戦後と高度成長の終焉」(講談社) ○「戦後国家の形成と経済発展」(岩波書店) ○「現代日本経済史」(有斐閣) ○「昭和経済史」(岩波書店) ○「吉田茂 回想十年」(新潮社) ○「日本国憲法成立史」(有斐閣) ○「日本国憲法制定の過程T・U」(有斐閣) ほか |
04 13(木) むつみ会観桜会 |
04 14(金) 海陽学園B…教育ルネサンス |
04 15(土) 白州次郎(その二) |
昭和十一年八月のことである。 横浜からサンフランシスコに向かう大洋丸の甲板で、辰巳栄一は不思議な日本人と知りあいになった。辰巳栄一は帝国陸軍の軍人である。その軍人に向かって軍部の悪口をずけずけと言う。 「軍人は戦争のことだけ考えてりゃいいじゃないか。軍が政治や経済にまで口出するなんていうのはとんでもない話だ」 男は日本人ばなれのした風貌、一メートル八十センチを越す長身、右側の上唇をややつり上げて大きな声で思っていることをまくしたてる。三十四、五歳か。言葉は乱暴だが、目は澄んでいて微塵も悪意が感じられない。彼はその年の二月に起きた皇道派青年将校の暴徒(二・二六事件)にしんから怒っているようであった。辰巳はこの男はただものではないと直感した。男の名は白州次郎といった。 |
04 18(火) 桜は散った |
04 19(水) 黄砂(自然の力に驚嘆) |
北京市への黄砂降下量30万トン超 【北京18日傍示文昭】北京市環境保全局は、16日夜から17日朝にかけて同市に降り注いだ今年最大規模の黄砂は、1平方メートルあたり20グラムで、総量は30万トン以上に上ることを明らかにした。同市は、黄色に染まった道路の砂を水で洗い流すため砂じん清掃車両300台以上を出動させ、幹線道路約500本で除去作業を進めている。 同市の黄砂現象は今年8回目で、大気汚染レベルは最悪の「重度汚染」に達した。気象専門家は「中国北方地域が高温で降水量が少なく、地表がからからに乾いているのが主な要因」と指摘している。 ただ、中国では新疆ウイグル自治区や内モンゴル自治区など北西地域を中心に、国土のほぼ4分の1が砂漠や荒れ地と化すなど環境破壊が進んでおり、こうした中国の砂漠化が黄砂多発の根本原因となっている。 2006/04/19 西日本新聞朝刊 |
04 24(月) 部屋の移動 |