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折々の記 2003 @

折々の記:…2003…【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】01/01〜       【 02 】01/11〜
【 03 】01/19〜       【 04 】01/27〜
【 05 】03/01〜       【 06 】03/11〜
【 07 】04/02〜       【 08 】04/10〜


【 07 】04/02〜

  04 02(水) 春雨
  04 04(金) 整理整頓
  04 05(土) 戦争の悲劇に直面せよ ●喜屋武岬
  04 07(月) 高浜虚子記念館 ●高濱虚子記念館入口の句碑
  04 08(火) お釈迦さま

 04 02(水)春雨

四月になってやっと春らしくなってきた。雨があったかい感じなのである。冬が去れば春がやってくる、当たり前なことなのだが、太陽と地球の自転による恵みにささえられて、すべての命は生の営みを続けていることが実感できる。

ただ年をひろうと、エネルギーが弱まり感性もおとろえてくる。弱音をはくわけではなく、それは実感として意識の中に根をはってきている。生涯の相はすばらしいものを備えておったことに気づく。

四月になったが、尺取虫をきめこんで筆を休めている。

 04 04(金)整理整頓

整理整頓とは言うものの、これはむずかしい。頭の中の整理整頓ができていなければ現実のそれはできない。ことに衣類に関しては捨てていいものと保存しておくものとの区別が整理整頓の基準となる。

同様にしてもろもろの本や月刊誌の整理もまたむずかしい。

家の中の品物の配置とか、物置の中の整頓とか、生活場面の構成にかかわってくると、人の判断はさまざまになってくる。

年寄り二人暮しの生活から、息子の家族と一緒になるとすると、てんやわんやの大騒ぎなのである。少しでも生活しやすいように考えてみるのだが、これが大変なのである。

気に入ってくれるかどうかは別にしても、もう何日もかかっている。自分で気に入るようにするまででも、まだまだ何日もかけなければならない。

本の整理も大変なのである。

農事の合間をぬって整理整頓を続けていく予定でいる。

山本周五郎の本の中には、免許皆伝にまつわる考え方がでていた。腕が立つから免許皆伝になるかといえば、そうではないのである。腕前は少し落ちていても免許皆伝になるのがでている。

真剣の立会いでは、いつ死んでもいいような心がまえが出来ていないといけないというのである。整理整頓ができていないものには免許皆伝はとてもではないのである。

免許皆伝とまでいかなくても、人はいつ死んでもいい腹構えが大事になってくる。それを目標にしていきたいものである。

 04 05(土)戦争の悲劇に直面せよ

イラク戦はいつまで続くのだろうか。一般市民までまきぞえにする、と言ってテレビで非難しているが、戦争そのものは軍人だから殺しあってもいいとか婦女子だから殺してはいけないとか、そんなものではない。戦争の本質は生命の破壊であり、物質の破壊である。

戦争の当事者はどちらも判らないのであり、自分の所属しているものに感情的に立脚しやすい。

私が、何の一言もなかったのは、沖縄の喜屋武岬断崖に立ったときである。

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次の写真は沖縄へ行ったときの記録である。

●喜屋武岬

写真はフリーズしたとき消滅。悪しからず。

三日目 3月8日、5時弁当を受け取り部屋で朝食。その後出発してこの岬へ来た。
道が狭くてわかりにくく、苦労した。カーナビがなければここへは到着できない。
碑文は次のとおり。

第六二師団管下部隊は喜屋武複廓陣地において摩文仁の第三二軍司令部向け進攻を続ける米軍に対し最期の迎撃を続けしが善戦空しく昭和二十年六月二十日玉砕せり
昭和二十七年十月地元民は将兵並びに戦闘に協力散華せる住民の遺骨併せて一万柱を奉納し平和の塔と名づけしがこのたび南方同胞援護会の助成を得て新たに塔を建てその遺烈を伝う
 昭和四十四年三月
   財団法人 沖縄遺族連合

遺族会の碑は婦女子のことに触れていないが、それらを含めて広島と同様に「再び戦争はしません」不戦の誓を述べて、後世への警鐘とすべきだった。

●喜屋武岬


 壮絶の一語に尽きるのは、喜屋武岬の断崖であった。

 この断崖から婦女子までもが身を投じ、生きて恥をさらすことなしとしたのである。
 今考えれば何とも言葉とてない。

 南に続く海原は青かった。昔も今もなんのかわりもない。

 戦争は決してしてはならないしあってはならない。

 だれも口をひらこうとしなかった。
 ただただ涙しかない。

 合掌

●喜屋武岬

写真はフリーズしたとき消滅。悪しからず。

立札も草に埋まり、芭蕉の句を彷彿させる。
国定公園も環境庁も、言葉はそのまま標札になってはいるものの、こんなことでいいのだろうか。
テレビに意地ででている小泉さんに見てほしい。
いやいや、マスコミには紹介したくない。

標識
  沖縄戦跡国定公園
  喜屋武岬園地
  環境庁 沖縄県 糸満市

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喜屋武岬断崖に立ったとき、だれがイラク戦を認めるものがいようか。
アメリカがよくないとか、イラクがよくないとか、戦争の姿はそんな議論の問題ではなく一人の人の生命そのものにかかわる認識なのである。

アメリカがよくないとか、イラクがよくないとか、戦争の姿はそんな議論の問題ではなく一人の人の生命そのものにかかわる認識なのである。

だれが反論できようか。自分の生死に直結している。

 04 07(月)高浜虚子記念館

小諸には高浜虚子記念館がある。

小諸市の次のサイトを見ると、簡単な紹介がある。
http://www.city.komoro.nagano.jp/kyoshi/

近代俳句の巨匠 高濱虚子
明治7年、伊予松山に生まれた高濱虚子は中学時代より、郷土の先輩正岡子規に兄事。
京都遊学を経て上京してからは、新派俳句の俊秀として活躍しました。
俳誌「ホトトギス」を舞台とした文芸活動は俳句にとどまらず、写生文、小説と多岐にわたっています。
昭和3年に提唱した「花鳥諷詠」は東洋的な宇宙観に基づくもので、一木一草への愛にささえられています。
昭和29年には文化勲章を受賞。昭和34年4月8日、神奈川県鎌倉市で没しました。

虚子と小諸
虚子が太平洋戦争の戦火を避けて、小諸に疎開したのは昭和19年9月でした。当地小山栄一の援助のもと、厳しく美しい風土に接した虚子の詩精神は新たな躍動を見せ、此処に「小諸時代」という新たな世界を現出しました。四季を通じて豊かに変化する大自然、ときおり噴火する浅間山、遠く蓼科山にかかる柔らかい雲、そして人々の暖かい人情は虚子をどれだけ喜ばせたことでしょう。昭和22年10月、小諸を去るまでの約千日のことでした。

さらに、世界大百科事典CD-ROMで高濱虚子を調べて見ると次のようにでてくる。

高濱虚子
俳人、小説家。本名清。旧姓池内。松山市生れ。伊予尋常中学在学中、同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規を知り師事。三高から二高に転じて中退。上京して碧梧桐とともに子規の周辺にいて俳句運動を助けた。子規の写生を有情の方向で実らせ、絵画的な特色とともに、季題情趣に新しい世界を見せた。松山で創刊された《ホトトギス》を1898年から東京に移して経営、子規の俳句運動の〈場〉を新聞《日本》との両輪にした。《ホトトギス》では文章にも力を注ぎ、写生を生かした文章表現を子規と力を合わせて開拓した。子規没後、子規が否定した連句の復興を考え、夏目漱石、坂本四方太と試みた。漱石とは俳体詩の試みももち、これが小説家漱石を生み出す契機となった。
1905年から漱石の《吾輩は猫である》を《ホトトギス》に連載するとともに、みずからも小説家を志し《風流懺法》(1907)その他の作品を発表した。小説には写生文の手法、態度が活用されており、人間を描く場合でも自然の風物と同じ眼でとらえ、自然主義と対蹠的な文学を形成した。12年からは俳壇に復帰し、守旧派と称して十七字を守り、季題の情緒を守る俳句を説いた。のち、事物の状態を描写することに徹する客観写生を強調、同時に〈花 紅柳緑〉の境地に至りつくことを目ざした。さらに27年から〈花鳥諷詠〉論を提唱,俳句は日本独自の文学で、しかも小説、戯曲とは違う素材、内面をうたう文学であり、天然を写生する文学であると規定、この信条を生涯守った。この間、育成者としても多くの俊秀を育てた。59年、脳困血で死去。
「遠山に日の当りたる枯野かな」

●高濱虚子記念館入口の句碑

小諸市与良町二丁目3番24号(TEL 0267-26-3010)だから、小諸へお出かけの折にはお勧めしたい。

記念館は平成12年3月28日オープンというから小諸市で建設してから、ちょうど3年になる。管理が行届いていて床はピカピカだったので、思わず下履きのままでいいのかお聞きした。

「小諸高濱虚子記念館」というA4の三つ折のパンフレットには、戦時中まる三年お世話をした小山栄一さんに、小諸を去るときお礼に書き残した虚子の代表句十二句が、見事な屏風となって印刷されている。わかりやすい解説ものっている。

「展示作品目録」は作品とあわせて観賞できる有難い案内であり、「虚子の散歩道」には句碑散策をかねた案内がある。

300円の入館料でこれだけ配慮していただくと申し訳なく思う。

記念館の直ぐ上には虚子が小諸で暮らした三年間の家が「虚子庵」として保存されている。今見ると冬は寒かったろうと思う。

記念館へゆく石段の横の句碑(写真掲示)がある。

   柴を負ひ それにしめじの 籠をさげ

当時の小諸の人々と虚子を偲ぶに、さりげなく似合った忘れがたい句であった。

 04 08(火)お釈迦さま

信仰は自由であるというのだが、イスラムの聖戦なる言葉はいかにも宗教戦争の臭いが強いことばである。

仏教徒の戦争、これは日本において僧兵として現われてきたが、国対国としてはまずは少ない。仏教はもともとキリスト教やイスラム教とは根底において異なっていた。

シャカは菩提樹下の悟に象徴されるが、キリストは十字架に象徴され、イスラムはコーランと剣に象徴されている。

シャカはおのれ自身の内部理解を基礎にしているが、キリストもイスラムも神への服従から神の理念を基礎にしている。

ソクラテスにしてもカントにしても哲学者の多くは人間の内部構造理解へのメスの入れ方を課題にしている。

私は仏教により支えられていることが多い。
http://www.ai.wakwak.com/~yoshi-shimo/moto.48.html(日記と随筆4「東洋への憧れ」)

昔はお寺で「あまちゃ」をくれる日だった。田中豊春先生が懐かしい。日本人の情緒の基盤には多分にお釈迦さまの教えがただよっている。

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