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折々の記 2008 B

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】2006/06/10〜        【 02 】2008/07/01〜
【 03 】2008/07/10〜        【 04 】2008/07/22〜
【 05 】2008/08/03〜        【 06 】2008/08/18〜



【 01 】06/10〜

  06 10 弁天の今昔
  06 11 土浦の爆撃
  06 12 ブログのスタート(1)
  06 13 明日、奥大井へ
  06 16 奥大井の旅(1)
  06 18 奥大井の旅(2)
  06 23 ブログのスタート(2)
  07 07 天竜川の月見草と風越山
  07 09 海陽中等教育学校
  07 12 義仲と木曽馬の里
  07 16 マリンバ・ポニーズ コンサート
  07 20 天竜川決壊…箕輪町…
  08 11 靖国神社参拝

06 10(土) 弁天の今昔

 【今の弁天橋】

まだ吊り橋の頃わたしは弁天橋のふもとで生まれました。 だからあの頃の吊り橋が懐かしいのです。

家名(えな)は松屋というのですが、近所の人たちは「橋番」といっていました。 橋のたもとに六畳間ほどの橋銭を受け取る番小屋が建っていました。 そこから見える風越山は、「ふるさとの山」であり、天竜川は「ふるさとの川」であり、弁天橋は「ふるさとの橋」だったのです。

その頃からすでに70年は過ぎました。 80歳がめのまえです。

これからこのブログに、世の中の変遷やら広がりやら、さまざまな考え方や文化など、折にふれて書きとめようと思います。

写真を貼り付けたいのに、まだわからず戸惑っています。

06 11(日) 土浦の爆撃

きのうは昭和二十年の六月十日、予科練兵舎が爆撃され機能が壊滅した日でした。

わたしは最後の16期生で、まだ満16歳の頃です。 

  http://www.town.ami.ibaraki.jp/kankou/yokaren/yokaren.htm
     <観光・歴史〉予科練記念館>

  http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/yokaren.htm
     <海軍飛行予科練習生>

この【写真】は「旧土浦海軍航空隊本部庁舎」です。

いろいろの思い出はありますが、懐かしがることは何もありません。

戦争に負けてから、生きる、死ぬの意味をよく考えるようになりました。

それに今は、国益という言葉によって今でも武力行使の政策をとる指導者が平然としていることに対して、やりきれない思いにさいなまされています。

わたしは二度とない青春時代を、政治指導者や国政指導者によって失ってしまった者です。 後では指導者の責任を糾弾できないのです。

人を殺してはいけない、それが鉄則です。 六月十日の死傷者は数百名といわれていました。 26人いたわたしの班でも、白川という友達が直撃弾で吹き飛び、ズボンの名札だけが見つかったのみでした。 両親や兄弟の悲しみはとても想像だにできません。

06 12(月) ブログのスタート(1)

 先日テレビで「趣味悠々」の番組にブログの初心者講座がありました。

さっそく nifty のココログで始めようと決めて準備に取りかかった。 簡単にできるというのですが、なかなかそうはいかない。

おととい六月十日、始めることになった。 まだなかなか時間がかかる。

自分のホームページ【0歳教育】が少し窮屈になってきたので、ブログを利用させてもらうことにしました。

天竜川の弁天橋のたもとで育ちましたのでブログの名前を「天竜川」にしました。 “よどみに浮ぶうたかた”など洒落たいいかたは別にして、渇水期の川の流れや洪水の恐ろしい流れは、いまも網膜に焼き付いています。

【画像】は、奥大井の「トロッコ列車」の風景です。 五月三十日の撮影でこの旅は下見のつもりでしたから、ブログには載せていくつもりです。

06 13(火) 明日、奥大井へ

明日は奥大井へ出発。 一泊してくるのでブログへの記録はその後になる。

06 16(金) 奥大井の旅(1)

 静岡の水窪から春野へ行くのに山住峠越えのルートがあり、峠を降りてから気田川の渓谷をくだります。

その途中に明神峡という写真のところを通過しますが、昼なお暗い異様な渓谷がつづきます。

写真は修整してあるから明るくなっていますが、実は川へ降りてシャッターを切りたい…そんな思いがズゥ〜としています。

水窪から春野へ出るコースは 40km位あると思うが、出あう車は往復とも 5台とはなかった。辺鄙なルートといえばこれほどのルートはめったにない。

だがこの明神峡は心にとどまる景色であった。

一泊する予定で出発したのだけれど、井川での天気予報は明日は朝から雨降りということなので、気田川の渓谷沿いの道のことを考えてその日に帰ることにした。

天候にはどうしようもない。(続く)

06 18(日) 奥大井の旅(2)

 奥大井へ入ってみると、撮影ピンポイントとしてはこの景観を欠くことはできないだろう。
長島ダムについては次のサイト …

   <http://wwwsoc.nii.ac.jp/jdf/Dambinran/binran/TPage/TPSyosi156.html> 

を見れば判るとおり、「大井川の流域において、いままで全てが発電用のダム建設であったが、初めて治水、利水とした多目的ダム長島ダムが、昭和48年1月の調査立入り以来、30年を経て平成14年3月完成した」とある。

また「あぷと式トロッコ鉄道」は、このダムの補償工事として水没ミニ森林鉄道を約 1.5Km区間を、アプト式とした、ともある。


 接岨トンネルを過ぎていきなりこの「新接岨橋」にかかるのだが、下見の時車窓から左下を見下ろしたときにはほんとにキモが冷えた。肝を冷やすと、ゾムゾムッ…とするあの感覚であった。

なんとか写真をとる場所をさがしたが、今回はその場所を探しだすのは無理であった。MapFannetで見ると「接岨トンネル」の北側に道が載っておるから、その道へゆければ撮影ポイントが見つかるかも知れない。







この写真は橋を渡りきって閑蔵駅入り口の反対側の道を降りていって撮ったものだが、接岨峡はほんとに谷が深くて険しい。そして長い間その谷がずっと続くのである。

この閑蔵駅入り口から井川湖の国道 60号線までのおよそ 5kmは大型車は通行できない。高所恐怖ぎみの人は、この間谷底を見ずに、ひたすら安全運転に心掛けるほうがよい。

この写真は帰りの 6時頃撮ったものであたりは天候のせいもあって既に薄暗かった。

写真は修整したので、明るくて見やすくなっている。右側に見えている立札は下記枠組の内容が書かれていた。
そしてお賽銭箱の前面には‘葵紋’が鮮やかに書かれいた。正面に立つと今流に電球に通電されて、パッと明るくなった。霧まじりの風が山肌を吹き上げていた。

山門から一歩足を踏み入れたとたん、こんな山の峠にどうしてこんな立派なお宮があるんだろうか、そんな素朴な疑問が頭をかすめる。

調べてみると、秋葉様との関係や‘葵紋’の理由もわかってきた。

<続きを見る>

06 23(金) ブログのスタート(2)

前に買ってきた成美堂出版「ブログでてきるホームページ作り」を引っ張り出してきて、少し読みはじめることにした。

今までに見た内容は、画像の取り入れ方、記事データの挿入方法などで、およそは真似てできるようになった。

この本の始めから一頁ずつ終りまで読みすすめようと計画しているのに、なかなかはかどらない。 細かなことまで出ていてとても参考になるけれども……前途ほど遠し。

話は変わるのだが、このごろ陽気がおかしい。 夏を待っていたのに、梅雨のような陽気になってしまって、それにもう夏至も過ぎてしまった……。

07 07(金) 天竜川の月見草と風越山

 テレビに月見草(待宵草)の映像がきれいに出ていたので、午前9時ころ天竜川の堤防へいってみた。花が全開になっておらず、何時がいいのか調べて記録しておきたい。 山は飯田地方でいう故郷の山…風越山である。山の形は喬木村伊久間からみるのが一番いいと思う。

子供の頃には弁天橋のたもとに家があったので、下の川でよく泳いだし川原でもよく遊んだ。 その当時は月見草が好きだなどとは全く想像だにしていなかった。

年を経るにしたがって故郷の川と山は忘れがたいものになってきて、水のうす青の色と月見草の黄色が脳裏からはなれないものになった。


伊久間堤防の内側に「ねじれ草」が何本か咲いていた。写真を撮っていると、小犬を連れて散歩していた人が「始めてみる花」だという。私もそうだったのだが、実は気がつかなかったんですね。 

どうしてねじれ曲がって伸びることになったのだろうか。植物にも訳のわからない不思議なことがいっぱいある。次の説明で腑に落ちましたが…。 それに名前も「ねじばな」でした。

バックに黒布かなにか使えばよかったのに、一本だけでは判りにくかった。そんな訳で調べたものを次へあげておきます。

 捩花 (ねじばな)……この画像は「季節の花 300」から借用したもの……

「 学名Spiranthes(スピランセス)は、ギリシャ語の「speira(螺旋(らせん))+ anthos(花)」が語源。 花穂が螺旋状にねじれるところから名づけられている。

・小さなピンク色の花が20個以上らせん状について咲く。珍しい。なぜねじれるのか?
花がみな一方向に向けば茎が傾くので、花の方で工夫してわざとねじるように花をつけるようになったという説がある。(なるほど♪ かしこいもんですね)
・見たところ、咲いているものは10日ほどで枯れてしまう。 また、芝生の中に咲いていることが多いのでその背丈の低さで見逃してしまいがち。
・別名 「捩摺」(もじずり)。
・「みちのくのしのぶもじずり誰ゆえに  乱れむと思ふ 我ならなくに」
                  古今集 河原左大臣 」
可愛らしい花です。

07 09(日) 海陽中等教育学校

「教育」という新しいカテゴリーを作りました。

実は今年の四月「海陽中等教育学校」が豊橋で開校になりました。 このことは私の別のホームページに取り上げました。

   <海陽学園…全寮制の私立学校@〜A>

を開けば見ることができます。

再びこのタイトルにしたのは、このタイトルに切り込む或る一つの切り口を開こうとしたからです。

HPを一読すればわかりますが、この全寮制の中高一貫教育はイギリスのイートン校そのものの真似であります。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞     ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


戦後、時の文教政策にしたがって教育制度や内容は、教育改革という名のもとに何回か変えられてきました。その結果はどうなってきたのでしょうか。

もちろん社会生活の変化はありましたが、皆さんご存知のように、校内暴力の増加、学級崩壊、学力の低下などなど、文部省の偉い人たちがいくらゆとり教育の充実で救えるといいましても、学校教育への信頼はもはや崩れていくばかりでございました。

それではそれは、学校の先生方の努力不足だったのでしょうか。いいや、そうではありません。それは先生方の質の低下に原因があったのでしょうか。いいや、そうでもありません。

もともと戦後教育においては、教育の本質がなおざりにされてきたからではないだろうか。

それにもう一つ。生活の変化に伴なう親の心の変化がなおざりにされてきたからではないだろうか。

明治の教育制度が始まったときから、その中核は中江藤樹に始まる忠孝を大切にする儒教を基にした教育でありました(既に江戸時代から儒教がもとになっていたことは間違いないことでしたが)。武士階級の子弟の教育は多くその藩校によるものであり、民衆の教育は多くは寺子屋教育であったことは周知のことでございます。

吉田松陰の松下村塾にしても、高遠藩の進徳館にしても、命を賭しての修行の場であり、そこからは立派な逸材が生まれました。

イギリスのイートンスクールは、既に岩波新書「自由と規律」池田潔著として出版され紹介されてから、半世紀余となります。‘良いことは年を経ても良いこと’その概念は今でも最初に読んだときからの感覚として残っています。‘良習慣は曲げてはいけない’のが基本なんですね。ケンブリッジ大学とオクスフォード大学の出身者は立派な紳士道を身につけていると言われますが、その前段階に、このパブリックスクールがあってこそ成り立っていたのであります。

これからでも遅くはない。半月くらい賭けるつもりなら、ケンブリッジ大学とオクスフォード大学のバックもわかり、高遠の進徳館からどんな人たちが育ったかという理解も深まってくるはずです。

けれども、やはり東洋的な良さに慣れ親しんでいる私たちにとっては、‘儒教を根底にした教育(絆を尊ぶ教育)’の基盤の上に教育制度や内容を築きあげることが良いと考えております。 

「良習慣は堅持する」とか「親子兄弟を大事にする」とか、こうしたことを課題にし教育の本質に迫るため、みんなで知恵をだしあい、意見を交換しあって教育制度とその内容を作り上げていかなくてはならないのです。

もう一つは、親の心の変わりようをしっかり見極めて、子育ての本来の意味と価値をはっきり自分の心に刻み込まなくてはならないことです。

昔はどの家も貧乏でしたし、ほとんどの家では両親とも家で働いていました。子供は親の働く姿を朝夕目にしていました。

食べるものにこうしゃくを言うこともなく、着るものにこうしゃくを言うこともなく(たとえ旨いものを食べたくても、いいものを着たくてもできなかったのは事実なのだが)、それが当たり前のこととして子供の心には理解されていました。後になって親への感謝の気持ちは、すべてをせおって働いていたその親の姿を目にしていたことが根っこにあったからだと思います。

親への感謝の心が育ちにくくなったのは、ただ単に経済生活の変化による現象だけではなく、親自身が子供をどう育てたらいいのか、その養育方針を自分の中に持たなかったからではないのだろうか。

どうしたらいいのだろうか。

卓球の愛ちゃんこと福原愛、フィギュアスケートの荒川静香、ヴァイオリンの天才少女と言われた千住真理子、マッカーサーと対等に渡り合った白州次郎などなど……、子供のときの養育如何によって成長後の生活のありようが決まってくることは極めて明白な事実なのです。

日本の諺「三つ子の魂百まで」は間違いの無い事実でありましょう。

今なすべきことを二つあげました。

@ 教育の本質を考えること

A 親は子供をどう育てるかを考えること

こうしたことに関心をお持ちの方は、自由気ままに自分の考えを文字にして意見交換をし、考える世界をつくりあげていきましょう。

07 12(水) 義仲と木曽馬の里

上伊那と木曽を結ぶルートは権兵衛峠を越えるしかなかったが、今年の春「権兵衛トンネル」が開通し一躍便利になった。

妻からは一度通ってみたいという希望があり、その準備のため義仲関係のところと開田高原を調べてきた。

この映像は伊那側の入口である。19号線の木曽街道へはアッという間に通ずる。 新しいトンネルはやはり立派にできており気持ちいい。

権兵衛トンネルは4470m、番所 828m、羽渕 97m、姥神 1826mという四つのトンネルで木曽街道へ通じていた。

   http://www.cbr.mlit.go.jp/iikoku/gonbe/gonbe06.html <権兵衛トンネル開通しました!>

を開いたり、

   http://www.nagano-np.co.jp/kikaku/gonbee/index.html <広がる交流〜権兵衛峠開通へ〜 総目次>

から「30分でつながる伊那と木曽」を開くと、いろいろと参考になる記事が出ている。

木曽路へ入って南下すると直ぐ橋を渡って左岸に出るが、やや登り坂になった道が平になって右側に入るY字形の道を入ると、すぐ「木曽義仲館跡」と「旗挙八幡宮」がある。

画像は平家追討の戦勝祈願をした旗揚八幡宮で、左裏に見える大欅は目通し10m余、樹齢1000年余という古木である。




19号線を少し戻って左折すると、「巴ヶ淵(トモエガフチ)」に至る。義仲とともに幼少を過ごし、義仲と生涯をともにした愛妾巴の名にちなんで巴ヶ淵と呼ばれる。

木曽川が山吹山のふもとを迂回して形づくる深い淵に、神秘的な渦を巻くという。

この淵に住む竜神が巴に化身して義仲を守り続けたという伝説が説明板に書かれており、またべつの説明板には、

                    蒼蒼と巴が淵は岩をかみ  黒髪愛しほととぎす啼く

の歌が書かれていた。

<続きを読む>

07 16(日) マリンバ・ポニーズ コンサート

ゆうべ、飯田文化会館ホールで表記のコンサートがあった。

家内は友達と連れ立って聴きに行ってきた。 今朝その様子をパンフレットを見せて話してくれた。

ヤァ〜ッ、凄い!!

 5才‐1人  6才‐3人  8才‐2人  9才‐1人  11才‐1人  12才‐1人  13才‐1人

 * カノン(パッヘルベル)
 * ピアノ協奏曲第21番第2楽章「短くも美しく燃え」(モーツアルト)
 * バレエ音楽「白鳥の湖」から、スペインの踊り(チャイコフスキー)
 * バレエ音楽「くるみ割り人形」から、中国の踊り(チャイコフスキー)
 * ノクターン第20番遺作嬰ハ短調(ショパン)
 * ウィーンはいつもウィーン(シュランメル)  …以上第1部プログラム…

マリンバからやっと顔が出ている可愛らしいこの幼児たちは、元気で歯切れのいい返事としぐさに、家内は圧倒されどうしで、口も利けないほどの驚きだったようだ。

07 20(木) 天竜川決壊…箕輪町…

活発な梅雨前線の影響で、18日からI19日にかけて全国的に強い雨が降り、各地で土砂崩れなどの被害が相次いだ。長野県では15日の降り始めからの総雨量が過去20年で最大を記録 ……これは7月20日、朝日新聞第一面のトップ記事である。

今回の被災地は次の二箇所である。

  岡谷市湊地区の土石流による被害
  箕輪町の天竜川堤防の決壊

この画像は弁天橋で、箕輪町はずっと上流になる。

このページの始めに弁天橋の写真がありますが、これは200mほど下流から撮影したもので、暗かったためか弁天橋ははっきりとは見えません。

上流の堤防は決壊の画像を見た限りでは頑丈にはできていないようだ。 弁天橋付近の堤防は昭和20年の決壊以降、4〜5mはかさ上げし丈夫にはなっています。

問題点……
天竜川上流河川事務所は
天竜川の河原に生えてくるアカシヤを伐採しようとはしない。
それが原因で河川の氾濫になったとき、かれらは
その責を自らは背負わないだろう。 困ったことである。

08 11(金) 靖国神社参拝

自民党総裁選では、靖国神社参拝の是非がいろいろとり沙汰されていますね……。

私は予科練にいました。

広島市長さんと長崎市長さんの「平和宣言」を読んでいて、死者の立場でものごとを考えることが私自身欠けるところがあったと思いました。

靖国神社参拝問題は、個人の考え方とともに外交を進める考え方に関係してなかなか大変なことです。

A級戦犯は靖国神社から除名すべきです。

カメラ

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