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折々の記 2008 @

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】01/08〜        【 02 】01/28〜
【 03 】02/19〜        【 04 】03/06〜
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【 07 】04/22〜        【 08 】04/26〜


【 03 】02/19〜

  02 19 高速道建設に「抜け道」1850キロは審議不要
  02 24 般若心経
  03 03 千両と万両
  03 05 脳内世界はパソコン世界
  03 00 

02 19(火) 高速道建設に「抜け道」1850キロは審議不要

朝日新聞第一面に取り上げられている。 政治のドロヌマである。

   バッファロー(J:)掲載

     高速道建設に「抜け道」1850キロは審議不要 2008年02月19日03時02分

 政府が道路整備中期計画で整備方針を決めた高速道路など「高規格道路」2900キロのうち3分の2にあたる約1850キロは、国土開発幹線自動車道建設会議(国幹会議)の審議を経ず建設できることが分かった。国道として着工するが、高速道路の規格で整備、完成後に高速道路に「格上げ」される路線も450キロ含まれ、一部は着工済みだ。冬柴国土交通相は国幹会議が道路建設の必要性について判断するとしていたが、なし崩し的に造られる恐れがある。

高規格道路の現状と計画
  《図面あり……C:\Users\y-shimo@ai.wakwak.co\Picturesをドラッグし>道路整備計画をポイントし、プレビューを開くと見れます》

 政府には、高速道路や自動車専用道路など高規格道路を1万4000キロ整備する構想があるが、うち2900キロは具体的な整備計画が未定だった。昨年末の道路整備中期計画(08〜17年度)で「採算性に問題がない」として、今後20兆円をかけ、この2900キロを整備する方針が決まった。

 この方針には野党などから「いつの間に造ることを決めたのか」との批判が出ていた。これに対し冬柴国交相は「計画段階」としたうえで、「国幹会議の議論を経て厳しく査定しながら真に必要なものを造っていく」として、野党議員を含めた国幹会議を経ることで客観的に必要性の有無が決まる、と説明していた。

 しかし、国交省などによると、この2900キロのうち1400キロは、一般国道の自動車専用道路(B路線)。高速道路会社が管理する高速道路より最高速度を抑えられている路線が多く、国幹会議の審議は必要ない。

 さらに残りの高速道路(A路線)1500キロのうち約450キロ(事業費2.3兆円)は「高速道路に並行する国道」(A′路線)という位置づけで、国幹会議の審議は不要なことが分かった。

 その根拠は、建設省(現国交省)の審議会が88年に出した答申にある。高速道路の建設計画路線に並行した国道の建設であれば、高速道路の規格で整備することを認めた。将来、高速道計画が正式に決まった場合に、この国道を高速道路に格上げする仕組みだ。

 国交省は、すでにこの手法で約60路線(事業費4.8兆円)の整備を進めている。これまでに2路線が完成しており、高速道路に編入された。

 今回明らかになった450キロは、99年の高速道路整備計画で決まった9342キロには含まれない。こうした手法が広がれば、整備計画の「枠外」の高速道路建設が増える可能性もある。

 冬柴国交相は18日の衆院予算委員会で、A′路線について「建設後に高速道路に繰り入れる必要があれば国幹会議に諮る」と説明した。しかし、松本剛明氏(民主)は「先に造って後で高速道路に編入するのであれば、国幹会議の意味がほとんど無い」と批判した。

    ◇

 〈国幹会議〉 正式名称は「国土開発幹線自動車道建設会議」。高速道路の建設すべき路線や整備方法を審議する、国土交通相の諮問機関。衆院議員6人、参院議員4人、財界・学識経験者10人以内の委員で構成される。民主党議員も委員を務めている。

 高速道路の建設には始点と終点を示した「予定路線」から具体的なルートを示した「基本計画」、事業費などを盛り込んだ路線ごとの「整備計画」があり、国交相は国幹会議の審議を受け、段階的に格上げさせていく。


中国産冷凍餃子問題【バッファロー(J:)掲載】が大騒ぎとなり、今朝またイージス艦の衝突事件【バッファロー(J:)掲載】があり、国会は大騒ぎで います。 困ったことです。

02 24(日) 般若心経

習字の練習として写経を取り上げた。 心経の写経である。

NHKの「趣味悠々」1月〜2月として…はじめての写経・般若心経を書く…が放映されていた。 この本は1050円で平安堂から手に入れました。 なかなか参考になる。

講師のひろさちやの解説で、最後の『羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶』は意訳として『わかった! わかった! よぉっ〜く、わかりました! 観音さま、有難うございました!』と理解していいのではないか、と話していました。 この解釈には頭が下がります。

この解釈には頭が下がります。
from 「趣味悠々(般若心経を書く)」
 摩訶般若波羅蜜多心経  摩訶般若波羅蜜多心経
 観自在菩薩  観自在菩薩は、
 行深般若波羅蜜多時  深般若波羅蜜多を行ぜられし時、
 照見五蘊皆空  五蘊は皆空なりと照見され、
 度一切苦厄  一切の苦厄を度したまえり。
 舎利子  舎利子よ、
 色不異空 空不異色  色は空に異ならず、空は色に異ならず。
 色即是空 空即是色  色は即ち是れ空、空は即ち是れ色なり。
 受想行識 亦復如是  受・想・行・識も亦復(マタマ)た是くの如し。
 舎利子  舎利子よ、
 是諸法空相  是の諸法は空相にして、
 不生不滅 不垢不浄 不増不減  生ぜず滅せず、垢ならず浄ならず、増ぜず減ずることなし。
 是故空中無色 無受想行識  是の故に空の中に色なく、受・想・行・識もなく、
 無眼耳鼻舌身意  眼・耳・鼻・舌・身・意なく、
 無色声香味触法  色・声・香・味・触・法なし。
 無眼界 乃至無意識界  眼界もなく、および意識界もなし。
 無無明亦 無無明尽  無明もなく、亦無明の尽きることなし。
 乃至無老死 亦無老死尽  および老死もなく、亦老死の尽きることなし。
 無苦集滅道 無智亦無得  苦・集・滅・道もなく、智もなく亦得もなし。
 以無所得故  得る所なきを以ての故に。
 菩提薩?(タ=土偏に垂)
 依般若波羅蜜多故
 菩提薩?(タ)(土偏に垂)は、般若波羅蜜多に依るが故に、
 心無?(ケイ=皿の下に圭)礙
 無?(ケイ)礙故 無有恐怖
 心に(ケイ)礙なし。(ケイ)礙なきが故に、恐怖あることなく、
 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃  一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟す。
 三世諸仏 依般若波羅蜜多故  三世の諸仏も、般若波羅蜜多に依るが故に、
 得阿耨多羅三藐三菩提  阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
 故知般若波羅蜜多  故に知るべし。般若波羅蜜多は、
 是大神呪 是大明呪  是れ大神呪なり、是れ大明呪なり、
 是無上呪 是無等等呪  是れ無上呪なり、是れ無等等呪なり。
 能除一切苦 真実不虚  能く一切の苦を除き、真実にして虚ならず。
 故説般若波羅蜜多呪 即説呪日  故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて日わく、
 羯諦 羯諦 波羅羯諦  羯諦。羯諦。波羅羯諦。
 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶  波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。
 般若心経  般若心経
    願文または回向文(書かなくてもかまいません)
  平成 年 月 日 氏   名敬写  .

e-sogi.com いい葬儀>というHPに般若心経が載っています。 ここでは◆漢訳に続いて◆和訳が載っています。 よく出来た和訳でしたのでここへ転載します。


◆和訳

* 上記玄奘訳(◆漢訳)を元に、仏教や哲学の専門用語をなるだけ使わずに日常語で意訳しました。ただし、玄奘訳で欠けている部分の大筋などを「大本(完全版)」やサンスクリット原本で補いました(青字部分)。また、分かりやすくするため説明を付加しました(緑字部分)

 私はこのように聞いています。お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められました。人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、連想、思考という一連の知覚を構成する5つの要素(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」 それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。

 「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体のないものを本当にある物のように思っているのです。体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。体は実体がないというあり方で存在しているのであり、実体がないというあり方が体の真実の姿なのです。これは体だけでなく感覚やイメージ、連想や思考も同じです。(つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません。)
 シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。汚れているとか、清らかであるということもありません。迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。
 このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。目に映る世界から、心の世界まですべてありません。(つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません。)迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。(つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません。)苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。(つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません。)知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。
 このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。
 過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。

 ですから知らないといけません。“智慧の完成”は大いなる真言(呪文)、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除くものであり、偽りがないので確実に効果のあるものなのです。さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りをもたらしたまえ。)

 シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」
 この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。


 以上で“智慧の完成”の真言(真髄)の教えを終わります。


一般的に書写の様式は次のようになっています。


  ………………………………………………… 一行目はあける
  摩訶般若波羅蜜多心経……………………… 二行目に巻頭の経名を書く(内題という)
  観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五…… 三行目から書く経文を本文と呼ぶ…一行17文字ずつ書きます
  蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不
  異色色即是空空即是色受想行識亦復如
  是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
  不増不減是故空中無色無受想行識無眼
  無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死
  亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無
  所得故菩提薩?依般若波羅蜜多故心無
  ?礙無?礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢
  想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故
  得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜
  多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等
  呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜
  多呪即説呪曰
  羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶… 最後の行は18文字 4-4-5-5の字群となるよう間をあける
  般若心経……………………………………… 経名を省略した形でもう一度書く(奥題という)
  ………………………………………………… 一行目はあける
   為…………………………………………… 願いをこめて写経する場合(願文=ガンモン)、為は省いてもよい
    平成 年 月 日       氏 名敬写   


相田みつをの言葉に

   そんかとくか人間のはかり

   うそかまことか仏のはかり


というのがあります。 言葉の範疇は限りがありませんが、損か得かということをいつも考えるよりも、ウソのない生活を願うのが普通の人です。

欲望という言葉にも昇華した希望からはじまって、他人と確執する貪欲な凡欲に到るまで千差万別です。 清貧に甘んじた人々の生活を見るとそこまでは行かないから、せめて最低限の欲望は満たしたいものと思う。 

死にたくないという欲望が生きていく中核になる欲望です。 死なない程度の衣食住生活は求めたいものです。

そうとは言いながら、人の死に出会うと、いつ死んでもいいという心がけが必要なことは否応なく知らされます。

そうすると、生と死の相(スガタ)をしっかり弁えていなくてはなりません。

ここで「般若心経」という観音様のお経のお出ましということになる。

花は紅柳は緑に’‘眼横鼻直’‘道端の草もカニムシも人と同じ命’ということとなり、その意識が無常という死生観の根幹になるのです。

すべての幸福はそこから生まれ、すべての平和もそこから生まれます。

念仏を唱えながらウソを言う人はありませんし、念仏を唱えながら負けん気になる人もいないでしょう。

心経を唱えながらウソを言う人はありませんし、心経を唱えながら負けん気になる人もいないでしょう。

人の生に接し死に接したとき、生と死の相(スガタ)をしっかり弁えなくてはならないのです。

やがてわが身とわかったときに、生死の姿がだんだんはっきりして目の前に現われるのです。

実は、このことは楽しい認識に他なりません。

03 03(月) 千両と万両

部屋に千両(後でわかった)が一輪挿に入れてある。 千両か万両か区別がつかないからどっちでもいいのだが、それでも調べておきたかった。

調べてみてもどうもはっきり分からない。

  
       千両 (Chloranthus)               万両 (Spearflower, Ardisia swartz)

・千両は千両(せんりょう)科。 万両、百両、十両は薮柑子(やぶこうじ)科。

・学名
 Ardisia crenata (万両)円鋸歯状のヤブコウジ属
 Chloranthus glaber(千両)無毛の、平滑なセンリョウ属
 Ardisia crispa (百両)縮れた,皺があるヤブコウジ属
 Ardisia japonica (十両)日本のヤブコウジ属
  Ardisia : ヤブコウジ属 Ardisia は、ギリシャ語の「ardis(鎗(やり)先)」が語源。おしべの形がとがっているかららしい。
  Chloranthus : センリョウ属 Chloranthus(クロランサス)はギリシャ語の「chloros(黄緑)+ anthos(花)」が語源。
  crenata : 円鋸歯状の
  glaber : 無毛の、平滑な
  crispa : 縮れた,皺がある
  japonica : 日本の


・万両の花は7〜8月頃に咲き、12月頃から冬にかけて実が赤くなる。 万両のなかには実が白い種類もある。
・万両の実はずーっと長い間残る(冬にできた実が次の冬まで残っていることもある)。
・正月の縁起物に使われる。

・万両と千両の名前の違い。 千両は葉の上の方に実をつけるので 鳥に食べられやすく、万両は葉の下に実をつけるので食べられにくく、その分、実がしっかり残るから・・。 または、万両は垂れ下がり、千両は上向きに つくので、万両の方が重い、千両は軽い、とのことから名づけられたともいわれる。(諸説あります) 百両や十両はそれらに比べ背が低く、実の数も少ないからことから、こう名づけられた、との説があります。

・百両の別名 「唐橘(からたちばな)」。
十両の別名 「薮柑子(やぶこうじ)」。
薮柑子は、薮の中に自生していて、葉の形などが柑子(こうじ)みかんに似ていることから。実は赤い。
百両 → 葉っぱが細長くギザギザがない。 千両、万両より背が低い。
十両 → 百両より背が低い。葉っぱギザギザ
・千両は江戸時代後期までは「仙蓼」の字で表現された。
・12月29日の誕生花(千両の実)
・花言葉は「富、財産」(千両の実)

・「吾が屋前(には)の 花橘の いつしかも 珠(たま)に貫(ぬ)くべく その実成りなむ」
                                 万葉集 大伴家持
「この雪の 消残る(けのこる)時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む」(山橘=十両:薮柑子)
                                万葉集 大伴家持
・似ている実へのリンク 南天 がまずみ ピラカンサス 冬青(そよご)
…………………………………………………………………………………………………………
以上は<季節の花300>に掲載されています。 活花の「千両」の実をみて、「万両」との違いを掴みたかったから調べてみました。

03 05(水) 脳内世界はパソコン世界

脳内活動の世界は時間空間世界の無限な広がりと共に、知識世界の広がりや深さの無限にも対応できる、恐ろしいほどの無限の能力を秘めています。

ちょうどそれは、膨大な情報の伝達を可能にしている光ファイバーに接続しているパソコンに等しい。

今の社会ではパソコンを通してあらゆる情報が収集され、それによる脳内世界の情報の多くが作り出されていきます。政治の動向にはじまり経済、学術、科学、文化、旅行により得られるすべての歴史にいたるまで、そのデータバンクは Web上 にあります。

老年になってもその生活の豊かさには困るようなことはない。 調べたいなと思えば少しの時間で目的のデータに辿りつくことができ、そこで興味をひくような内容があれば、それもすぐその内容にジャンプすることもできます。

今朝の村内放送を聞いていたら、一朝一夕という言葉を「いっちょういちゆう」と言っていました。 こんなときにも《故事・ことわざ・四字熟語》 辞典 を片っ端から学んでおけば困ることはないでしょう。

未知の世界を知りたいと思うのは、青雲の志に相違なく心身ともに元気づけるものであります。

まさにパソコンは、Web上の無限な知識と、脳内世界をむすぶ、懸け橋なのです。



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