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Magical Child 4
誰も知らなかった大脳発達のプログラム
<9 終りははじまり、はじまりは終り>
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〔 1 序文 〕
〔 2 用語解説 〕
〔 3 約束された未来:すばらしき遺 〕
〔 4 マトリックテ変換:既知から未知へ 〕
〔 5 相互作用としての知能 〕
[ 6 ストレスと学習 ]
[ 7 自然を悪魔払いする医術 ]
[ 8 分娩室にて ]
[ 9 終わりははじまり、はじまりは終わり@]
〔 9 終わりははじまり、はじまりは終わりA]
【 9 終りははじまり、はじまりは終り@ 】
[母と子のきずな]
●ウガンダの母と子
ウガンダの小さな赤ん坊は、母親の裸の胸に吊りさげられた帯にいる。赤ん坊たちはおむつはされていなかった。
ジーン・マッケラー夫人は、診療のときおもらしをしている子は一人もいないのを不思議に思って尋ねると、
「あら」「ちょっと藪に行ってさせるだけですよ」と応えた。
「じゃあ、おしっこしたくなる時はどうやってわかるの」と尋ねると、
「あなたは、自分がしたくなるとき、どうやってわかるの?」と応えた。
母親たちは赤ん坊の排尿や排便その他あらゆることを事前に察知し、その子の要求のすべてを予知できている。親子協同出生とカンガルー育児方式の結果、彼女たちにとって至極ありふれたことだったのである。親子のきずなは、素敵なものである。
●出産時の母子相互作用と母乳のきずなづくりの原点
オハイオ州のリザーブ病院のマーシャル・クラウスは、絆づくりがいかに巧妙に本能的な応答としてわれわれの中に遺伝的にプログラムされているかを明らかにした。
母親は出産の時点で、赤ん坊ときずなを結ぶべく遺伝的にプログラムされているし、赤ん坊も母親の応答を期待すべくプログラムされている、と報告している。実際にそれがなければ、赤ん坊は重大なトラブルにまきこまれる。絆づくりには、特定のホルモンさえ関与しているとみられ、母乳で育てることが絆を確立する決定的要因の一つであることは間違いなさそうである。
●ブルーノ・ベルトハイムの無力感・無感情の指摘
赤ん坊は自分の泣き声が注意を集め、周囲の世界から何らかの応答がもたらされる限り、無力感を抱いたりはしないという。
自閉症児は、赤ん坊の時ほとんど泣かないか、泣いても無駄なことをすばやく学習してしまうかのいずれかであることが明らかにされた。
泣くことは他の合図がきかない場合に用いられる苦痛の合図のようである。この最終的な伝達手段が親から何の応答も得られないとすれば、赤ん坊は泣いても世界に何の力も及ばないことを学習して、無感情の中に沈み込んでしまうのである。
●母乳と泣くことと自立
「母乳で育つ子はミルクで育つ子よりよく泣くが、それは生後一年までの間である」と英国のブラートン・ジョーンズは指摘している。それ以降は、母乳の子はミルクの子よりずっと泣かなくなるという。
母乳を与える母親は、ひとりでにきずなが確立しやすく、赤ん坊の健康状態や欲求によく気がつくし、泣き声にもすばやく対応する。生後一年たち最初の自立期が終り、子どもが一人で動き回り自己主張できるようになると、母乳で育った子は、泣けば必ず応答が返ってくることを知っているから、自分の世界の中でパーソナル・パワーに関してある種の概念を発達させる。自立の第一段階が終わる頃には、歩く、のぼる、手を伸ばす、話す、広げるなどの手段も加わり、パーソナル・パワーを持っているという確信がこれらのより成熟した表現手段にまで及ぶようになる。すると、泣くのは緊急事態だけに限られるようになる。
ミルクを与える母親は、母乳を与える母親とは当然異なった態度で子どもと接している。母乳を与える時に得られる親近感が欠けているため、対応が鈍くなるのである。そのような母親はミルクの時間を決めて子どもに注意を向け、そのスケジュールをこわしたがらない。赤ん坊は泣いてもさして効果がないことに気づくようになる。しかし、生後一年たち最初の自立期が終り、子どもが一人で動き回り自己主張できるようになると、泣くことが大きな比率を占め、延々と不満を訴える手段となり、パーソナル・パワーを自分で組み立てるには至らなくなってしまう。
絆がしっかりむすばれていると、微笑んでいて泣かない。母親と正しく絆でむすばれている子は、決して泣かないという。泣くことは、伝達という目的にそぐわない不自然で異常な表現手段であって、単に緊急の苦痛を表わすメカニズムに過ぎない。だから、絆がしっかり結ばれている社会では、子どもはめったに泣かない。ウガンダの子どもたちは穏やかで幸福感に満たされ、鋭敏な上に知的である。彼等は行動の源であるマトリックスを持っている。
●絆の臨界期
出生直後の数時間で絆が確立されるように自然はプログラムしている。その諸準備はずっと以前からなされているが、呼吸を学習すると同じように、絆づくりにも決定的な時期がある。肉体的な損傷ならば、かなり補うことができるが、絆の欠如は償いのしようがない。絆の臨界期は生後数時間で終わる。従って絆づくりの最善の方法は、昔からの自宅出産である。
●新生児は出生直後に顔を認知する
新生児は人間の顔に焦点を合わせ、顔を認知することができる。この顔の認知能力は出生直後の時期に固有なものである。(しかし、酸素欠乏による脳損傷があると、顔の認知は不可能となる)
この生来の脳パターンを完全に活性化させたいのなら、見つめるべき顔がなければならない。そのパターンが作動できる刺激があれば、赤ん坊の目覚めている時間の約8割、その顔に釘づけになるだろう。こうして視覚データを構成する脳のパターンは強化されていく。もし作動もせず、たえまない刺激も与えられないと、その脳機能はすばやく消え失せ、何日間また何週間も現れてこない。
顔の認知は、絆づくりの大事な一側面である。赤ん坊が新しいマトリックスとしての母親に関する知識を構築しなければならない時に、顔の認知は重要な役割を果たす。この顔のパターンの確立は、誕生後のすべての情報を組み立てる座標軸となる。
●マトリックスを確立させる母親の存在
新生児は母親の身体の匂いを知っている。
新生児は母親の声と他人の声の区別ができる。
新しい情報をインプットするためには、既知の情報との類似点があることがよいし、新情報を旧情報と関連づける方法がなければ、脳はその情報処理ができない。
動物の世界では、すこしでも母親から子どもを引き離せば、子どもを戻しても母親は養育を拒むことがおおい。
高等動物の母親はすべて、生まれたての子どもの身体を入念に舐めまわす。それも軽く一度きりというわけではない。長時間徹底的に舐めまわすことによって、子どもの感覚器官を活性化します。
●感覚器官を活性化する身体的刺激(網様体活性化の臨界期は出生直後にある)
●体じゅう愛撫し活性化させる
胎内にいるときは、胎脂で羊水から保護されているから、出生時の赤ん坊の身体の感覚器官、とくに皮膚にある無数の末端神経は眠った状態にある。第二マトリックスに移行した生命体は、くまなく広がった神経器官の活性化が要求される。その唯一の方法は皮膚の刺激しかない。
皮膚刺激は、中脳の網様体を活性化することとなる。身体の感覚情報は、網様体を経て、情報の種類やそれを専門とする脳の部位にしたがって、脳のさまざまな部分に振り分けられているようである。
●猫の実験
生まれたばかりの小猫をたえまなくなめまわす中で、母猫がとくに念入りに肛門をなめまわす。この箇所を覆い、刺激が与えられないようにすると、小猫は恒常的なひどい機能障害になってしまう。
既知と未知のマトリックス変換のスムーズな変換は、母親の言葉がけ・顔と目・皮膚刺激・愛が必須条件となる。
とすれば、その成功は自分出産しかない。
●ストレスを和らげるベビー・マッサージ
出生が完全に行なわれるため、赤ちゃん自身ACTHホルモンと副腎ステロイド・ホルモンを胎内に用意してストレス対応の準備をするが、出生後このストレスをできる限り早く弛緩させてやらないといけない。そのために愛撫が必要となる。
人間の母親は新生児をたえずやさしくマッサージで刺激を与えながら育てるよう遺伝的にプログラムされている。
母乳で解決できる絆づくりの五つの条件
@ 抱擁 A 愛しい微笑
B 皮膚の刺激 C 愛しい語りかけ
D 温かい視線
●カンガルー方式子育て
ウガンダの母親たちはたえず赤ん坊をマッサージしている。母親は日常の仕事をはじめるにあたって、赤ん坊を胸にたらした吊り帯に入れて歩くので、赤ん坊はたえず身体に刺激をうけることになる。
したがって身体の感覚器官と網様体の活性化は非常に急速で完璧であるといえる。<心・脳・体>の情報処理と筋肉反応を調和させる感覚器官と網様体の機能が完全であれば、知能の発達は順風満帆で進行する。
このことは、絆づくりに必要な、前項五つの重要な条件を満たすことで、母親は自動的に残りのすべてを満たしているからであリ、
赤ん坊は古いマトリックスと新しいマトリックスの間に充分な類似点を見出だしていることになり、
その時、新しい情報の同化が可能となって、脳は、調整に不可欠な、完全に機能する網様体のメカニズムを獲得し、
赤ん坊は既知の世界に戻り、自分の新体験を既知の世界で確認してリラックス[弛緩=ストレス(緊張)に対する作用]するため、短時間のうちに副腎ステロイドの生産が完全に止まってしまうからである。
このようにして、赤ん坊は、鋭敏だが落ち着いた学習状態(すべてのものを受け入れる状態)を維持するのである。
[自然のプロセスを台なしにする病院出産]
●薬品の害悪
薬品、とりわけ麻酔は胎児を子宮から出そうとする、身体の協応的な運動をことのほか遅らせ、分娩自体を長引かせ堪え難いものにする。(麻酔は平均45秒で胎盤を通って胎児にまで伝わる)
恐怖や不安が母親に生まれ、苦痛が迅速かつ確実に襲ってくる。不安同様、苦痛は更なる薬物処理を要求する。
胎児の身体は陣痛の波と出産に対する適応にそなえて、大量の副腎ステロイドを分泌しはじめていても、陣痛はやってこない。
胎児の身体からは、さらにホルモンが分泌され続ける。ストレスの上にストレスが積み重なる。
ストレス/リラックスという予期された自然のサイクルは訪れない。これが長時間続けば、母親も胎児も疲れ果てる。
日本の場合、今は次のようなことを聞く。
産科医の日時の都合によって、お産の時期が調節されるので、ある病院の場合医師の出張の日や夜中の出産はほとんどない。
この場合の薬品は、赤ん坊の生命の意思を無視した、医者中心の人工的陣痛促進剤その他の薬品が使われるのであろう。
看護婦さんからいろいろの情報をきけば、実態がはっきりする。
●特有の手術台
本来人生最初の素敵なドラマが展開する場所であるのに反して、いろいろな手術のメスが準備された、白いカーテンに取り囲まれた、しかもあられもない姿を強いられる手術台が、素敵なドラマが展開する場所として準備される。
筋肉をうまく連動させる望みは完全に打ち切られる。
安心できる協力者、父親や助産婦さんなどは、手も出せない。
●手術や器具
薬品使用による結果として陣痛が長引く場合、会陰切開手術が行なわれる。
薬品使用による結果として陣痛が長引く場合、鉗子や吸出機器が使用される。
こうしてさまざまな併発症が引き起こされる。
自然出産の場合、ほとんどこうした器具の使用は必要ないものである。
●生まれた赤ん坊の姿
半麻酔状態や過剰ストレスに疲れきった赤ん坊は、たとえ時間がたっぷり与えられたとしても、当然、自分で呼吸できないのが普通である。数多くのまだ使われていない新しい筋肉の協応が混乱をきたし、うまく働かない。赤ん坊の身体はただ反応するだけである。同調的な相互作用はとっくにすべて破壊されている。酸素欠乏に対する身体的恐怖が続いた末に、母親から無理に出された赤ん坊は、マスクをつけた医者やブンブンうなる機械にとりまかれた、騒々しい、目もくらむような照明が灯された舞台に登場するのである。
蛍光灯が出す雑音だけでも負担であるが、蛍光灯そのものが幼児に及ぼす害に比べれば、雑音などものの数ではない。蛍光灯が幼児にとって有害であることは、照明の世界的権威者であるジョン・オットーが明言してはばからない。
吸入器が無理やり口や鼻にねじこまれ、痛いほどまぶしい光のもとでまぶたがひっくり返され、計り知れない痛みを引き起こす薬品が開いた瞳に落とされる。赤ん坊はかかとをつかまれて逆さまに吊され、背中をたたかれる。さもなくば人工呼吸器にかけられる。酸素が欠乏したこのきわどい時期に、へそのおが切られてしまう。そして会陰切開手術で汚れた血を洗いおとされ(その血を見た親はしばらくの間ショックから立ち直れない)、冷たく固い秤で体重を測定され(体重なんぞ計る必要は毛頭もない)、おくるみでくるまれて、恐怖と苦痛に泣き叫びながら乳児室のベットに送りこまれる。運の悪い子は意識のほとんどない仮死状態で、ベビー・ベットよりさらにひどい保育器にすばやく入れられる。
なぜすべてがこれほどまでにすばやく処理されるかといえば、切開され、傷ついて血を流し、麻酔をかけられて、打ちひしがれた母親に注意が集中しているからである。彼女を楽にしてやることが緊急の問題なのだ。こうして、麻酔をかけられなかった場合にしても、この習慣は定着してしまうのである。
赤ん坊が出生時に実際に学習するのは、本来、学習プロセスがどのようなものかを体験することだった。赤ん坊は、柔らかで温かく、暗くて静かな上に、完全に自分を養ってくれる世界から、過剰な刺激にさらされる厳しい世界へと移ったのである。ところが、病院出産の赤ん坊は、肉体的に虐待され、さまざまな形で暴行を加えられて肉体的苦痛や屈辱をうけるのである。
ところが、出生後の肉体的苦痛や屈辱はまだ克服できる可能性があるのに、赤ん坊は悲しいことに、一番手をかけてもらわなければならない母親から引き離されてしまうのである。
●出産後の母親
出産後の母親は、もうろうとした意識の中で、何もかも間違っていると感じているに違いない。大地を揺るがすような、すばらしい、神聖な、宇宙の神秘、とおぼしきものが起こるはずだったのに、そうはならなかったことになる。
赤ん坊に会いたいと思っても、それは全くできない。自然は、既知へ戻れるようプログラムし、あらゆる手立てを尽くして新生児の未知への冒険を成功させるべく偉大な学習をさせようとしてきたというのに、である。
病院出産がいかに自然に逆らっているか知らなければならない。
命の尊厳を最も大切にすべきチャンスだというのに・・・。
新しい生命に対する病院出産の残酷さは、誇張してもし過ぎることはない。
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